前哨戦
昨日はなんやかんやで飲み過ぎてしまったらしい。
こめかみの奥で鈍い頭痛が脈打っている。
床から這い上がると、窓の外はすでに太陽が高く昇っていた。
テーブルの下を覗くと、ベルフが未だに死体のように転がっている。
起こすのも忍びないので毛布をかけてやり、自分には昨夜の残り香を誤魔化すために香水を振りかけ、部屋を出た。
喉が焼けるように渇いている。
部屋で水を飲めば済む話なのに、なぜ外へ出てしまったのか……これも酒のせいで判断力が鈍っている証拠だ。
昨夜、突然ベルフが酒瓶を抱えて部屋に押しかけてきた。「飲まないか?」と誘われ、断る理由もなければタダ酒だという打算もあり、快く受け入れた。
腐る手前の燻製肉をつまみに、彼とは本当にくだらない話をした。
ふと思い出す。彼の首には真新しい傷があった。
正面に二つ、左右に四つずつ。人間の爪痕だ。首を絞める形でつけられたものに違いない。
痴話喧嘩か、それとも……。
ま、他人の情事に首を突っ込んでもろくなことはない。
幸いなことに、俺も彼も絶賛停学中だ。遅刻の心配はいらない。もっとも、進級の心配は必要だが。
俺はふらつく足で食堂へ向かった。
朝食も抜いて昼過ぎだ。
この時間なら人も少ないだろう。
食堂に入ると、真っ先に目につく人物がいた。
知り合いだからという理由もあるが、椅子からふわふわと漂う大きな尻尾が目立ちすぎている。
俺は料理とドリンクをトレーに載せ、彼女――ネアの隣に座った。
「やけに食うんだな」
「ひゃっ?!」
リスのように頬張っていた彼女が飛び上がる。口の端にパン屑がついていた。
「そんなに焦ってどうした?」
指先で屑を取ってやると、彼女は恥ずかしそうにモゴモゴと答えた。
「人が来る前に……食べちゃいたかったの」
「そいつは残念だったな。俺がいなければ完全犯罪だったのに」
「本当だよー。食べる姿って、なんかさー」
彼女は人差し指をくるくると宙に遊ばせた。
「気を許してるみたいで、こう! 無防備だからねー。あんまり見せたくないの」
「なら、俺は別の席で食うとするか」
俺が立ち上がろうとすると、彼女は慌てて俺の袖を掴んだ。
「え?! あ、もうアルフならいいよ。隣座って」
「……悪いな」
俺は座り直す。
「……酒臭い」
ネアが鼻をヒクつかせた。
「鼻が良いな。バレないように香水を振ってきたはずなんだが」
「獣人の鼻を舐めないで。……飲んだの?」
「ああ。友達とな」
「友達って……どういう?」
「どういうって……男友達だが?」
「なんだ。女遊びするようなタイプじゃないんだ」
「まさか。俺は根っからの真面目人間だぞ」
「停学中のくせに?」
「げっ、何でそれを」
「停学になった生徒なんて、すぐに噂になるからねー」
彼女はニヤリと笑った。
「俺が停学になったのは……そう、アイドル修行のためだ」
「からかってるでしょ。刺すよ?」
彼女の爪がサメの背びれのように俺に迫る。
「冗談だ。もうアイドルは諦めるよ。向いてないみたいだからな」
「もう、馬鹿」
彼女はそっぽを向いてしまった。
「そう言えば、ネアは授業に出なくていいのか?」
「私は基本、遅い時間か朝イチの講義しか取ってないから」
「生活リズム大丈夫か?」
「お酒臭くてこの時間にご飯食べてる人に言われたくない」
「……ぐうの音も出ないな」
少し沈黙が流れる。
俺は意を決して切り出した。
「なぁ、今度俺とダンジョン行かないか?」
「……新手のナンパ?」
「かもな」
笑って答えると、彼女は少し考える素振りを見せた。
「うーん……別に行く必要がないんだよねー。顔に傷とかつきたくないし」
「その後、俺とデートしよう。食事は俺が奢る」
「やっぱり新手のナンパじゃん」
「代わりに、ネアの魔法が見たいんだ」
「私の? それならこの前見せたじゃん」
「いや、他の魔法だ。例えば――『風』とか」
その瞬間、彼女の表情が凍りついた。
「……私がフェンリルの子孫だからってこと?」
「ああ。どんな魔法を使うのか興味があってな」
「最低」
彼女は冷たく言い放つと、席を立った。
「言ったよね。私、他の属性は得意じゃないし、そもそも魔法が苦手だって」
彼女の瞳に怒りと、微かな怯えが混じる。
やってしまったか。地雷を踏み抜いたらしい。
「そういうことなら私、別にいいから」
彼女はトレーを持って歩き出した。
風魔法を見せるのが嫌いなのか、あるいは血筋を試されるのが不快なのか。
完全に俺の失策だ。
「待ってくれ!」
俺は慌てて彼女の右手を掴んだ。
「なに?」
「今のは……恥ずかしくて言った冗談だ。本当はただ、ネアとデートがしたかっただけだ」
「今更そんなこと言っても遅いと思うけど?」
「……」
大ピンチだ。
このままでは嫌われて終わりだ。一生フェンリルに顔向けできないどころか、末代まで呪われかねない。
「もう私、行くから」
彼女は俺の手を振り払い、足早に去っていった。
やってしまった。
引き止める材料が何もない。
俺は一人寂しく冷めたランチを詰め込み、食堂を後にした。
俺の馬鹿野郎。なんであんなに焦ったんだ。
イライラしながら足元の石ころを蹴り飛ばすと、前方の誰かの革靴にコツンと当たった。
「……何か悪いことでもあったのかね?」
視線を上げると、そこには白髭を蓄え、片眼鏡をかけた老紳士が立っていた。
威厳と品格が服を着て歩いているような男だ。
「……いや、別に」
「そうか。なら教えてくれたまえ。『シレミウス・ニドルフ』はどちらに?」
俺の目つきが変わる。
酔いが一瞬で醒めた。
なぜなら、その名は――。
「……おそらく、学長室にいるかと」
俺は警戒心を隠しつつ、慎重に答えた。




