そこにあるのは
クレアは浴槽の中で膝を抱えていた。
湯はとっくに冷めているのに、震えが止まらない。
思考の渦は止まることを知らず、彼女の精神を削り続けていく。
何もかも、あの姉のせいだ。
彼女は濡れたまま浴槽を出ると、身体も拭かずに部屋を彷徨い始めた。
雫が床にポタポタと落ちる音さえ、不快なノイズに聞こえる。
『なんでって……楽しいからに決まってるじゃん?』
脳裏にこびりついた姉の声。血に塗れたあの笑顔。
「出てくるな!」
叫びと共に、机の上にあったコップを壁に投げつける。
ガシャン! と乾いた音が弾け、破片が床に散らばった。
その無数の欠片のすべてに、歪んだ自分の顔が映り込んでいる。
片付ける気力など湧くはずもなく、その場にへたり込み、濡れた髪を掻きむしる。
「どうして、どうして、どうして……ッ」
口をついて出るのは、行き場のない呪詛だけ。
コンコン、とドアを叩く音が現実を引き戻す。
「クレアちゃん? 大丈夫?」
アイサだ。仲の良い友人。
授業も食事も共にする、何でも相談できる相手。
けれど今は、その「善意」が何よりも疎ましい。
誰も彼も嫌いだ。私の領域に入ってくるな。
「最近授業に来てないから心配で……体調でも悪い? 何か必要なものがあれば私が――」
「良いから! 大丈夫だから!」
「え、でも音が……」
「お願いだから私を一人にしてよ!!」
ドンッ!
私は壁を拳で殴りつけた。
「……ごめんね」
怯えたような声と共に、足音が遠ざかっていく。
彼女がどんな顔をしたかなんて知らない。
知りたくもない。
私自身のことも分からない。
何がしたいのか。どうすればいいのか。
姉さえいなければ。あいつさえ消えれば。
そうすれば私は幸せになれる。自由になれる。
私の人生に要らないのは、あの姉だけなのに。
気がつけば私はナイフを握りしめ、枕を滅多刺しにしていた。
白い羽毛が雪のように舞い散り、私を包み込む。
こんなことをしたって何も解決しない。
気持ち良くなんかならない。
姉は消えない。
思考が焼き切れ、私は羽毛の海に倒れ込んだ。
何も考えていないのに、涙だけが溢れてくる。
気持ちが悪い。私の心は空っぽなのに。
「……なんでそんなに気が狂ってんだよ。恋人とでも別れたか?」
懐かしい声で目が覚めた。
意識を失っていたのか。
気がつけばベッドの上に寝かされ、服も着せられている。握っていたはずのナイフも消えていた。
声の主を見る。
楽しい思い出と悲しい思い出、その両方を呼び覚ます男。
「どうして貴方がいるのよ。ベルフ」
彼は勝手に私の新しいコップで水を飲みながら、肩をすくめた。
「アイサがお前はおかしいって泣きついてきたんだよ。だから様子を見に来てやっただけだ」
「『来てやった』? ……貴方の頭の中はおとぎ話のお花畑ね。終わった関係の女がピンチになって、それを助けてヨリを戻す。そんな馬鹿なシナリオでも描いてるの?」
「どうしたんだよ。そんなに棘を出して」
彼はベッドの縁に腰を下ろす。
「心配だから来ただけだろ」
「要らないわ。もう二度と私に近づかないで。……それに、どうやって入ったの」
「鍵がかかってなかった。不用心だからボディガードが必要かと思ってな」
「そんなくだらない冗談、聞きたくない。私は貴方が嫌いだし、私の視界に貴方を映したくないの」
私は彼を睨みつけた。
「……分かった。俺は退場するよ」
彼は深くため息をつき、立ち上がった。
だが、扉の前で足を止める。
「なぁ、あれは誤解なんだよ」
「何が?」
「いつでも待ってるから」
「待つだけ無駄よ。私はもう貴方のことなんて考えてない。言ったはずよ、『さようなら』って」
「じゃあまた、『よろしく』って言うよ」
この男は、私を苛立たせる天才だ。
こいつも消えろ。要らない。
私の人生に、「光」を見せる人間なんて要らない。
私は衝動的に彼に飛びかかり、その首を絞めた。
「これ以上ふざけたこと言ったら殺すから……ッ!」
怒りを込め、爪を立てる。
彼は抵抗しなかった。
ただ降参するように両手を上げるだけだ。
私が手を離すと、彼の首筋からは一筋の血が流れていた。
彼は何も言わず、悲しげな目をして部屋を出て行った。
静まり返る部屋。
そこに残されたのは、舞い散った羽毛と私だけ。
ああ、やっぱり。
そこにあるのは、空っぽの虚無だけだ。
ベルフワインは女子寮を出ると、夜風に当たりながら男性寮へと向かった。
道中、脇道に逸れて安酒を買い込む。
一人で飲むには多すぎる量だ。
目指す部屋の前に着くと、乱暴にノックをした。
中から出てきたのは、最近知り合ったばかりの男、アルフだった。
「一杯どうだ? 付き合ってくれよ」
「……いいぞ。つまみがあるか探してみる」
部屋に入れてもらうと、アルフは適当な乾物とグラスを二つ持ってきた。
「どうしたんだ、その首の傷」
アルフが俺の首筋を見て眉をひそめる。
「これか? これは……まぁ、俺の自業自得だな」
「……ほどほどにしておけよ。女の勘と爪は鋭い」
「違いない」
俺はグラスに琥珀色の酒をなみなみと注ぎ、片方をアルフに押し付けた。
「先に飲めよ。何か言いたいことがあるんだろ?」
「馬鹿言え。俺は酒がなくたって何でも言えるさ」
俺は自分のグラスを煽った。
注がれた酒を、あるいは行き場のない未練を、喉の奥へと流し込む。
グラスの底は、すぐに空っぽになった。
「……俺はただ、あんたと話したかっただけだ」




