2度目の召命
たかが片腕がないというだけで、俺は『無能』の烙印を押されていた。かつては学院で退学論議すら持ち上がっていたらしい。
だが、そんな雑音はどうでもよかった。
分かっていた。いずれ全員黙るだろうと。
「アルフー!」
背後から名を呼ばれ、足を止める。
振り返ると、そこには初老の男性──この学院の学長が、まるで森の妖精のように軽やかに弾みながら駆け寄ってくるところだった。
「これがないと駄目だろう」
彼が小さな手で差し出したのは、古びた黄金の方位磁針だった。
「まったく、ワシに預けっぱなしにしおって。危うく渡し損ねるところだったぞ」
「ありがとう。これがないと、道に迷うところだった」
俺が苦笑して受け取ると、学長はふと真顔になり、バツが悪そうに上目遣いでこちらを見つめた。
「……行くのか」
その短い問いに、俺は方位磁針を強く握りしめる。
「行かなくちゃいけない。俺は、俺の運命に従う」
彼は深く息を吸い込み、自分自身を納得させるように、ゆっくりと、重みのある言葉を紡いだ。
「忘れるな、アルフレッド。運命は変えられる」
一拍置いて、彼は俺の目を射抜く。
「だが──拒むことはできないのだ」
***
足の疲れが少し感じ始める頃に、ようやく懐かしい場所に辿り着いた。今でも、この薄暗い部屋を見ると思い出してしまう。
主を失った木の机にどれだけ埃が積もろうとも、あの日々の記憶だけは決して風化しない。
俺はかつて自分の指定席だった木の椅子に腰を下ろした。
扉から最も遠い、日当たりの悪い場所。
そこへ座ると、嫌でも自分の身体が大きくなったことを実感させられる。
やはり、歳月には何物も勝てないらしい。
かつては俺がどれだけ暴れても軋みもしなかった頑丈な椅子が、今では体重を預けただけで、キィキィと苦しげな悲鳴を上げている。
ふっ、と立ち上がろうとしたその刹那だった。
ついに寿命が尽きたのか、四本の脚すべてが砕け、椅子が崩れ落ちた。
「……」
舞い上がる埃。
思わず目を閉じそうになるのを、俺は必死にこらえた。
椅子の座面、その裏側に隠されていた「黒い何か」が露わになったからだ。
ヒビ割れた座枠を剥がすと、そこには一冊の黒い本が隠されていた。
その全貌を目にした瞬間、俺の思考は停止する。
──貴方は、ここまで見通していたというのですか。
本の表紙には貴方のサイン。そして、今日の日付。
さらには、世界の運命が決まった『あの日』の日付が記されていたのだから。
あの日、幼かった俺は『同志』と呼ばれる信徒たちからさえも、蛇蝎のごとく嫌われていた。
理由は単純だ。俺が隻腕であり、唯一残された右腕には、悪魔の焼印のような不気味な黒い痣が刻まれていたからだ。
隻腕であることは、この魔法社会において致命的な欠陥を意味する。
魔法の基本型は、片手に杖を、もう片方の手に魔導書を構えることにあるからだ。魔力の乏しい者が使う魔道具に頼るなど、魔法使いの誇りが許さない。
周囲の視線は氷のように冷たかった。
両親もいない。
魔法の才能以前に、五体満足ですらない未熟な子供。
力仕事も任せられず、以前手伝ったパン屋では、俺が焼いたパンを食べた客が運悪く亡くなった。「寿命だ」と店主は庇ってくれたが、周囲は「悪魔の呪いだ」と噂した。
俺は自分の両親を知らない。だから、皆が俺の痣を見て「悪魔の子」と罵るのを否定できなかった。
剣も十分に振れず、弓も引けず、魔法も使えない。
盾を構えるのがやっとの兵士など、誰も雇いはしない。
だが、貴方だけは違った。
貴方はそんな俺を拾い上げ、養い続けてくれた。この世界に奇跡を起こし、平和の教えを説き続けた、唯一無二の御方。
俺は貴方に忠誠を誓った。
どれほど周囲と衝突しようとも、どれほど自分が無力で、他人を傷つけるだけの存在だとしても、貴方だけは俺を受け入れ続けてくれたからだ。
あの日も、俺は日の当たらない部屋の隅で、腐りかけた葡萄酒の匂いが染み付いた机に突っ伏していた。耳を塞いでいないと、心が壊れそうだったからだ。
「お前は出来損ないだ。また盗みを働いたそうだな。あの方の顔に泥を塗る気か?」
「死んだ方がいい。お前さえいなければ、我々はもっと信用され、世界を救えるのに」
「何もできない死に損ないめ」
罵詈雑言が降り注ぐ中、不意に、世界の音が消えた。
耳を強く塞ぎすぎたせいかと思った。だが、違った。
恐る恐る顔を上げると、そこには後光のような光を纏い、扉を開けて入ってきた貴方が立っていた。
静寂の中、彼は静かに、けれど誰の耳にも届く声で言った。
「私は明日、死ぬだろう」
誰も言葉を発せなかった。
「裏切りに遭い、帝国で磔にされる。そして、この世界は来たる終焉によって崩壊する」
一人の勇敢な信徒が、震える声で尋ねた。
「では逃げましょう。私たちが必ずお守りします」
しかし、彼はゆっくりと首を振った。
いつもなら浮かべているはずの慈愛に満ちた微笑みは、そこにはなかった。
「私はこの世界から去らねばならない。だが、最後に彼に伝えておくべきことがある」
皆が固唾を飲んで、次の言葉を待った。
誰を選ぶのか。誰に後を託すのか。
彼はゆっくりと、曲げていた人差し指を虚空へとかざし──そして、真っ直ぐに突きつけた。
その指の先には、部屋の隅で震え、虚な目をした俺がいた。
「この世界の運命を変えなさい」
それが、俺に与えられた召命だった。




