第9話 魔物が駆け抜けた日
◆ 朝のざわめき
その朝は、特別なことのない朝のはずだった。
いつものテーブル、いつものパン。
ただ一つだけ違ったのは――ユウトが、パンをちぎる手を止めたことだ。
「……なんか、きょう、ざわざわする」
「ざわざわ?」
私はマグカップを持ったまま首をかしげる。
「街のほう?」
「うん。まだ遠いけど……あんまり、いい感じじゃない」
本人も説明しづらそうに眉を寄せる。
私は、窓の外に視線を投げた。
見た目はいつも通りの青空だ。
「今日は市場にちょっと寄るだけだし、早めに戻ろうか」
「賛成」
サナが即答する。
「お父さんは?」
「午前中はギルド。午後は家で帳簿をやろうかな」
ユタカは、パンを食べ終えながら言った。
「何かあっても、ギルドにいたほうが状況は把握しやすいだろうしね」
「じゃあ、私たちは昼前に市場に行って、さっと買って帰る。無茶はしない」
「頼んだよ」
いつも通りのやりとり。
それでも、胸の奥のどこかで、ちいさな石がコロリと転がったような気配があった。
◆ 路地裏の、見えない荷物
城壁の門を抜けるころには、ユウトの手の力が少し強くなっていた。
「やっぱり、街のなかのほうがザワザワする?」
「うん。とくに、あっち」
ユウトが、脇道のほうを顎で示す。
市場の少し外れ、建物が押し合うように立っている細い路地。
人が多く通る道ではない。
「こっちは行かないほうがいい感じ?」
「行きたくない」
はっきり言われてしまった。
「じゃあ、こっちはやめようか」
私は、何気ないふりをして方向を変える。
けれど、気にならないわけがない。
人通りの少ないほうに、わざわざ強い「イヤな感じ」があるのは、ろくなことじゃない。
(……少しだけ)
私は足を止め、意識の耳をそっと伸ばした。
路地の奥から、男たちの声。
「早く運べ。見回りが来る前だ」
「こんなでかいの、本当に門を抜けたのかよ……」
「だから布をかぶせろって言ってんだ。“教会に見つかったら終わりだ”って、何回言わせる」
鉄がきしむ音。
鎖の鳴る音。
低く唸る、獣の声。
「……」
私は、そっと天耳通を引っ込めた。
「お母さん?」
「ううん。ちょっと、静かにしとこうかなって思っただけ」
サナとユウトには、細かくは話さない。
「物騒な荷物を運んでるみたいだから、近づかないでおこうね」とだけ伝える。
この街に来てまだ日が浅い私たちが、
いきなり路地裏の取引に首を突っ込んでうまく立ち回れる自信はない。
(教会に見つかったら終わり、ね)
その言葉だけ、胸の中にしまっておいた。
◆ 魔物、飛び出す
市場のほうは、いつも通りだった。
パン屋のおじさんが声を張り上げ、
野菜の山が並び、
子どもたちの笑い声が飛び交う。
「さっさと買って、さっさと帰ろう」
サナが笑いながら言う。
私たちはいつものようにパンと野菜を選び、商人と簡単なやりとりを交わす。
ほんの数分だけ、さっきの路地のことを忘れそうになる。
――そのときだ。
胸の奥で、何かが跳ねた。
(……イヤな音)
天耳通が、勝手に開く。
「おい、押さえろ!」
「鎖が――!」
怒鳴り声。
鉄の鎖が弾ける音。
獣の咆哮。
すぐあとに、現実の空気が震えた。
路地のほうから、人々の悲鳴が一気に押し寄せる。
次の瞬間、屋台と屋台のあいだから、巨大な影が飛び出してきた。
「なに、あれ……」
サナが息を呑む。
太い脚、土色の毛並み、岩のような背中。
猪をそのまま二回り大きくして、角をつけたような魔物だった。
口から白い息を吐き出し、鼻先から蒸気を上げている。
ロックボア、と誰かが叫んだ。
魔物は、驚いた人の群れに向かって突っ込もうとする。
「サナ、ユウト!」
私は反射的にふたりの腕をつかんだ。
「こっち!」
人の流れと逆方向、建物の壁際まで引き寄せる。
「ここから動かないこと。走ってくるものがいたら、すぐ教えて」
「う、うん!」
「ユウト、“向かってくるイヤな感じ”があったら、絶対すぐ言って」
「分かった……!」
ふたりの顔を確認してから、私は一歩前に出た。
広場は、あっという間に半分空になっていた。
残っているのは、荷車と倒れた露店と、逃げ遅れた人たち。
ロックボアが、屋台を角で弾き飛ばす。
木の板が割れ、果物が宙を飛ぶ。
「どけ!」
鎧姿の兵士が剣を抜き、冒険者らしい男たちが武器を構える。
けれど、勢いのついた突進を止めるのは簡単じゃない。
(あそこで暴れられたら、怪我人が出る)
当たり前のことが、胸の真ん中に刺さる。
そのとき――人の間をかき分けて、見慣れた姿が駆け込んできた。
「ユタカ!」
思わず声が出る。
「リカ、そこから動くな!」
ユタカは振り返りもせず叫び、ロックボアのほうへ駆けていった。
◆ ユタカの魔法
ユタカが、ぐっと息を飲み、片手を地面に向けて突き出した。
空気が、ピンと張り詰めた。
(……やるしかない)
このところ、風呂場でこっそり水を動かしてみる程度の「まねごと」しかしていない。
あのときみたいに、うまくいく保証なんてない。それでも、何もしないよりはましだ。
「――《ウォータ・ライン》!」
彼の足元から、水が細い筋になって走り出す。
思っていたよりずっと心もとない量で、途中で途切れそうになりながら、それでも石畳の上を、音もなく滑りながらロックボアの足元へ伸びていく。
巨大な魔物が、一歩踏み出した。
ぬるり、と滑る音。
前脚がずるりと流れ、体勢を崩した。
「今だ!」
誰かが叫ぶ。
ロックボアの体が横倒しになりかけたところで、ユタカが反射的に、もう一度地面に手をかざした。
「《アース・リフト》!」
足元の石畳が、どん、と盛り上がるイメージを思い描いた――はずが、彼の想像よりもずっと低い段差にしかならなかった。
それでも、すでにバランスを崩していたロックボアには十分だったらしく、鈍い衝突音とともに、正面からぶつかって動きを止められた。
そこへ、兵士の剣が走る。
冒険者の槍が深く突き刺さる。
ロックボアが、くぐもった声を上げて倒れ込んだ。
耳の奥で、周囲のざわめきが一瞬だけ遠のいた。
(……思っていたとおりじゃなかったけど、それでもちゃんと役に立った)
魔物の足を止められたことへの安堵と、うまくいってしまったことへの気恥ずかしさと、ほんの少しの誇らしさが、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざっていた。
静寂。
そのすぐあとで、遅れて歓声が押し寄せる。
「すげえ……」
「あの人、ギルドの魔法使いか?」
「水と土をあそこまで……」
ざわめきの中、ユタカは息を整えながら周りを見渡した。
私と目が合う。
ほんの一瞬だけ、迷いのようなものがよぎって――
すぐに、「今はそれどころじゃない」という顔に変わった。
「まだ怪我人がいる!」
誰かの声で、私もはっとする。
倒れた屋台の下敷きになった人、足をひねって動けない人。
息はあるけれど、顔色の悪い人もいる。
「お母さん……」
袖をつままれる感触。
「私、何かできるかな」
サナの目が、迷いと不安とで揺れていた。
◆ サナのヒール
「無理はしない」
私は、サナの肩に手を置く。
「でも、やりたいなら、行こう」
「……うん」
サナが、小さく頷いた。
倒れている男の人のそばに膝をつく。
足に深い切り傷があり、血がまだにじんでいた。
「ちょっと、触ってもいいですか」
「お、おう……」
男の人も、動揺しているのか素直に頷いた。
サナは傷口の周りにそっと手をかざす。
「治って、ください」
それだけ、小さくつぶやいた。
指先から、柔らかい光があふれた。
夕方の光を溶かしたみたいな、薄い金色。
それが傷口に吸い込まれていく。
血が止まり、ぱっくり開いていた皮膚が、ゆっくり、でもはっきりと閉じていく。
「……え」
男の人が、自分の足を見つめる。
「痛みは?」
「さっきより……ずっと楽だ。ほとんど……ない」
サナが、ほっと息を吐いた。
その顔には、自分でも驚いているような影があった。
周りの人たちの視線が、一斉にこちらに向く。
「今の……回復魔法か?」
「教会の巫女さん?」
「いえ……旅の途中で、少しだけ魔法を教わっただけです」
サナは、慣れない嘘をなんとかひねり出した。
私のほうがヒヤヒヤする。
「他にも怪我をしている方は?」
とっさに、私は話題をそらした。
「ここにもいる!」
「こっちの人も足を……!」
次々と人が集まってくる。
「サナ、全部治そうとしなくていい。歩けない人を優先して」
「分かった」
サナは、ひとりひとりのところに膝をつき、
手を当て、
光らせる。
自分の力を“セーブする”という発想は、まだない。
ただ、「この人が歩けるようになれば」とだけ願って魔法を使う。
切り傷は、ほとんど跡が分からないところまで塞がる。
ひどい打撲も、顔色がだいぶ戻っていく。
「すごい……」
「こんなに早く……」
誰かがうわさのようにささやく。
私は、サナの肩をそっと支えた。
「疲れたらすぐ言うのよ」
「うん……ちょっと、ふらふらする」
「じゃあ、あと一人まで」
「分かった」
最後の一人に手を伸ばしながら、サナは小さく息を吸った。
◆ 教会の目
そのときだった。
「怪我人の方は、こちらへ!」
教会の印をつけた服の人たちが、広場の端から駆け込んでくる。
先頭に、見覚えのある金髪の巫女――リーネ。
「女神さまの御名のもとに――」
祈りの言葉を口にしかけたリーネが、ふと動きを止めた。
視線の先には、サナ。
彼女の手から、まだ光の名残が揺れていた。
「……」
リーネの目が、ほんのわずかに見開かれる。
すぐには近づいてこない。
ただ、周囲の怪我人を見回し、呼吸を整えた。
「すでに手当てを受けた方も、ひとりずつ状態を見ます。こちらへ」
リーネたちは、サナが治療した人も含めて、怪我人の様子を確認していく。
サナのそばを通り過ぎるとき、
リーネはほんの一瞬だけ、静かに会釈をした。
「今日は……ありがとうございました」
それだけ。
その足元の水桶の水面が、サナのほうを向いたまま、小さく揺れていた。
◆ 家族会議
その日の夜、マイホームのリビングには、いつもより少し重い空気が漂っていた。
「……疲れた」
サナがソファに沈み込む。
「そりゃそうだよ。あれだけ使えばね」
私は、湯気の立つカップをテーブルに並べた。
ユタカは、椅子の背にもたれながら息を吐く。
「ギルドのほうでも、今日は大騒ぎだったよ」
「お疲れさま」
「ありがとう」
ユタカは苦笑した。
「俺が魔法を使ったことも、しっかり見られた。しばらくは“水と土が使えるギルド員”って扱いになるだろうな」
「それは、それで悪くないけど」
「非常時に声がかかるだろうね」
サナがマグカップを両手で包みながら言う。
「今日みたいなときに動けるなら、それ自体は……いいことだと思う」
「問題は、僕だと思う」
ユウトがクッションを抱えたまま顔を上げた。
「ざわざわ、ずっとしてて、すごく疲れた」
「よくがんばったね」
私は、ユウトの頭を撫でた。
「でも、ああいう“イヤな感じ”があったら、教えてくれるのは本当に助かるよ」
「うん……。きょうは、行く前からちょっと分かってた」
「これからも、その感覚は大事にしよう」
私は、全員の顔を順番に見た。
「で、サナ」
「うん」
サナは、少し顔をしかめる。
「……私、あんなに治せるとは思ってなかった」
「だよね」
「ちょっとした切り傷とか、打ち身くらいかなって思ってたんだけど……ほとんど元通りまで戻っちゃった」
それが、本人には一番の衝撃だったのだろう。
「今日のヒールは、“全力”だったと思う?」
「分かんない。でも、“もっと出せる”って感覚はある」
サナが、少し怖そうに言った。
「今のままだと、自分でも制御できてない気がする。どこまでやれるのか、ちゃんと知っておきたい」
「そうね」
私は頷いた。
「次の休みの日にでも、家の中で、小さな傷を使って試してみよう。あくまで安全な範囲でね」
「うん」
「今日のこと自体は、間違いだったとは思ってないよ」
私はゆっくりと言葉を選んだ。
「あの場で何もしないでいたら、それこそ眠れなかったと思う。助けられるのに助けなかった、って」
「……うん」
サナの表情が、少しだけ軽くなる。
「ただ、“いつでも全部治します”って顔で歩くのは危ないからね」
「それはさすがに分かってる」
「教会の人たちにも、完全に顔を覚えられたと思う」
ユタカが、少しだけ真面目な声になった。
「ギルドも教会も、うちはこれから“覚えやすい家族”になる」
「静かに生きたいのにね」
つい、口からこぼれる。
「静かに生きたい家族が、静かにしていられない街に来ちゃったのかも」
サナが、冗談めかして笑った。
「ま、でも。逃げるつもりはないんでしょ?」
「今のところはね」
私は笑い返す。
「危なすぎるところには踏み込まない。でも、今日みたいに“見過ごせない”ことがあったら、そのときはまた考える」
「それでいいと思う」
ユタカが頷いた。
「全部隠し通すのは、たぶん無理だ」
◆ 水の波紋
みんなが部屋に戻ったあと、私は一人、ベッドに腰を下ろした。
目を閉じると、胸の奥で水の気配が動く。
(今日は、魔物をこっそり街に入れた誰かがいて)
(そのせいで、たくさんの人が怖い思いをしました)
(その中で、私たちは“隠す”より“助ける”ほうを選びました)
(教会やギルドに目をつけられても、きっと同じことをしたと思います)
そこまで伝えて、息を吐く。
返事は、やっぱりない。
ただ、水面にそっと石を落としたときのような、小さな波紋だけが、胸の奥で広がった。
責めるでも、褒めるでもなく。
「見ていたよ」とだけ告げるような、静かな揺れ。
(……それなら、とりあえずは、いいかな)
私は布団にもぐり込んだ。
今日は、アロヴィナが初めて「私たちの力」をはっきり目撃した日。
同時に、私たち自身が自分の力を少しだけ理解した日。
そんなふうに、心のどこかでラベルを貼りながら、私は目を閉じた。




