第8話 薬がひとつ役に立った日
◆ 朝、小さな成果と、見えない恩
朝、テーブルにパンの匂いが広がる。
「お父さん、膝どう?」
バターを塗りながら、サナがさりげなく聞いた。
「ああ、だいぶいいよ」
ユタカはズボンの布越しに膝を軽く叩いた。
「痛みも、ほとんど残ってない。昨日の軟膏のおかげかな」
「それならよかった」
サナの肩から、ほんの少し力が抜ける。
この街に来てから、大ごとになりかけた場面はいくつかあった。
森での転移も、ゴブリンの騒ぎも、もっと悪い方向に転んでいてもおかしくなかったのに、なんだかんだで大怪我はしていない。
あの「女神の水」に触れたときの感覚と、胸の奥のあの気配を思い出す。
(もしかしたら、本当に少しは守ってくれているのかもしれない)
「……でもさ」
サナがパンをちぎりながら言った。
「自分で作った軟膏、ちゃんとした薬師さんに一回見てもらったほうがよくない? 材料は合ってても、変なクセが出てたら困るし」
「それはそうね」
私は頷いた。
「レオンさんとミレイユさんなら、変に構えずに見てくれそうだし」
「じゃあ今日の予定、決まりだね」
サナは指を折っていく。
「午前中に薬屋さん行って、軟膏を見てもらう。ついでに、もっといい作り方がないか聞く」
「それと……」
私はマグカップを両手で包んだ。
「最近、なんだかんだで守ってもらってる気もするし、“今日も無事でした”って言いに、教会にも寄りたいな」
「女神さまに?」
「うん。あの水に触れたときのこと、まだはっきり覚えてるから」
「いいと思う」
サナが素直に頷く。
「午後は?」
「お父さんが帰ってきてから様子見だね。薬草をもう少し採るか、家でゆっくりするか」
「賛成」
ユタカがパンを飲み込み、椅子から立ち上がる。
「午前中はギルドでいつもの書類仕事。昼には戻るよ」
「いってらっしゃい」
「いってきます」
玄関の扉が閉まる音を聞きながら、私はテーブルの上の小瓶を見た。
昨日、初めて作った軟膏。
今日は、それが“外の世界”にひとつ出ていく。
◆ 薬屋で、初めて「見せる」薬
市場の通りを抜けると、乾いた草と土の匂いが混じる一角がある。
木の看板に、薬草と瓶の絵。
レオンとミレイユの店だ。
「緊張する?」
「ちょっとだけ」
サナは、エプロンのポケットに入れた小瓶を指でつまんだ。
扉を開けると、いつもの草の匂いが迎えてくれる。
「いらっしゃい」
奥から、レオンとミレイユが揃って顔を出した。
「いらっしゃい。また来てくれたのね」
「こんにちは」
私たちは軽く頭を下げる。
「今日は、どうしたの?」
ミレイユが穏やかに尋ねた。
「えっと……」
サナが、ポケットから小瓶をそっと取り出す。
「この前教えてもらったコバの葉とリューナ根で、軟膏を作ってみたんです。ちゃんと薬になってるか見てほしくて」
「まあ」
ミレイユの目が丸くなる。
「見せてくれる?」
「はい」
レオンが瓶の蓋をあけて、中身を指先ですくった。
色、匂い、硬さ。
表情が、職人のものになる。
「……ふむ」
「どう?」
ミレイユが横から覗き込む。
「材料は、教えた通りだね。配合は少し濃いけど、そのぶん効き目はよくなりそうだ」
「安全面は?」
「問題ないよ。雑なところもないし、火加減も悪くない」
レオンはサナに向き直る。
「初めてにしては、とてもよくできてる」
「ほっ……」
サナの肩から、目に見えない何かが抜けた。
「どうしてこの硬さにしようと思ったの?」
「えっと……」
サナは少し考えてから言う。
「歩きながらでも塗りやすいくらいの硬さがいいなって。でも、冷えすぎると固まっちゃうから、油を少し多めにして……頭の中で“これくらい”って線が浮かんで」
「感覚でそこにたどり着けるのは、なかなかだよ」
レオンが口元を緩める。
「ねえサナちゃん、この前も思ったけど、本当に薬に向いてるわね」
ミレイユも頷いた。
「そ、そんなにですか?」
「ええ。覚えるのが早いし、怖がらずに聞き返せるところがいいのよ」
前にここへ来たときよりも、ふたりの声が少し近く感じられた。
そのとき――
店の外から、ドン、と何かが転ぶ音がした。
「いたっ!」
子どもの声。
「ちょっと見てくるわね」
ミレイユが店先へ走る。
私たちも後を追った。
店の前で、小さな男の子が膝を押さえて座り込んでいた。
石につまずいたらしい。
「大丈夫?」
「いてて……」
膝から、少し血がにじんでいる。
「リカさん、サナちゃんも、いいかな?」
背後からレオンの声がした。
「さっきの軟膏、少しだけ試してみても?」
「うちで作ったものですけど、それでもよければ……」
私はサナを見る。
「……やってみたい」
サナが小さく頷いた。
「じゃあ、少しだけね」
「ありがとう。無理はさせないよ」
サナは男の子の前にしゃがんだ。
「ちょっと触ってもいい?」
「うん……」
膝をそっと見せてもらい、軟膏を指先ですくう。
「しみたらすぐ言ってね」
そっと塗る。
「……あれ」
男の子が目を瞬かせた。
「しみない」
「よかった」
しばらくすると、血が止まり、赤くなっていたところが少し落ち着いていく。
「温かい感じする」
「それ、効いてる証拠だよ」
ミレイユが優しく笑う。
「今日はあんまり走り回らないで、家に帰ったら、もう一度洗ってから、布を当てておくといいわね」
「はーい」
男の子は立ち上がり、軽く頭を下げて走っていった。
「……ちゃんと、薬になってましたね」
私は小さく息を吐いた。
「うん、文句ない出来だ」
レオンが、去っていく背中と膝とを眺めながら言った。
「効き目は、店で出してる軟膏より、少しだけ強いな。強すぎると扱いづらいけど、これはその手前って感じだ」
「それって、いいんですか?」
「悪くないよ」
ミレイユが横から口を挟む。
「そのぶん“塗りすぎ注意”って一言つけたいくらいね。効き目がいい薬は、使いどころを少し選んだほうがいいの」
「なるほど……」
サナは真剣に頷いた。
「もし、この街にしばらく滞在するなら」
レオンが、少しだけ照れたように続ける。
「材料を持ってきてくれれば、一緒にこの軟膏を作って、うちの店で売ることもできるかもしれない」
「えっ」
「そのときは、瓶に書くのは“うちの店の名前”になるけど、中身を知っている人として、サナちゃんに手伝ってもらえたら嬉しい」
「それは……」
サナは一瞬、言葉を失った。
「すぐに決めなくていいよ。旅の人は、いつ街を離れるか分からないからね」
レオンは、さらりと言う。
「だからこそ、今いっしょに過ごせる時間の中で、できることを一緒にやれたらいいなって」
「……はい」
サナは、少し顔を赤くして頷いた。
「ねえ、ユウトくん」
ミレイユが、ふと問いかける。
「ここ、こわくない?」
「うん。落ち着きます」
「落ち着く?」
「うん。いやな感じ、ぜんぜんしない」
「あら、それは嬉しいわね」
ミレイユが、目尻を下げて笑った。
(この店には、やっぱり黒い影は少なそうね)
私は心の中でそう呟いた。
◆ 教会で、波紋の理由を知る
薬屋を出て、その足で教会へ向かった。
広場の噴水で、水しぶきがきらきらしている。
「ちょっとだけ寄っていこうか」
「うん」
噴水のそばに立った瞬間、水面がふわりと揺れた。
風は、吹いていない。
(まただ)
この街に来てから、何度か感じるようになった。
私たちが近づくときだけ、水面がほんの少し違う揺れ方をする。
「お母さん?」
「ううん、なんでもない」
サナに笑ってみせる。
「中、入ろう」
礼拝堂は、今日も静かだった。
いつもの席に座り、短く手を組む。
(今日も、大きな怪我もなく一日を過ごせています)
(娘の薬がひとつ、誰かの膝を守りました)
(それが、もし少しでもあなたのおかげなら、ありがとうございます)
心の中で、それだけ伝える。
祈りを終えて立ち上がると、少し離れたところから声がした。
「リーネ、さっきの話なんだが」
低い男の声。
たぶん、もう一人の神官だ。
「はい、何でしょう?」
リーネの声も聞こえる。
(あ、まずい)
聞くつもりはなかったのに、耳が勝手に拾ってしまう。
天耳通の、扱いづらいところだ。
「例のご家族のことだが……本当に、そんなに違うのか?」
男の神官が尋ねる。
「違います」
リーネが、はっきりと言った。
「平伊さんたちが祈りに来られたときだけ、聖水の波紋が変わるんです」
「波紋が?」
「はい。女神さまの水盤を見ていると……普通は、祈りのあいだ静かに揺れているだけなんですけど」
リーネは、少し言葉を選ぶように続けた。
「この街の人たちが祈るときと違って、平伊さんたちのときだけ、水面の揺れが“寄せて返す波”みたいになるんです」
「……どういう意味だと思う?」
男の神官が問う。
「私には、“女神さまのほうから手を伸ばしている”ように見えます」
リーネの声は、ほんの少しだけ熱を帯びていた。
「危険だとか、拒むような気配ではなくて……むしろ、“気にかけておいでだ”という感じです」
「なるほど」
男の神官が、小さく唸る。
「だからといって、すぐに何かを決めつけるわけにはいかんが」
「ええ。私も、ただ“そう感じる”だけです」
リーネが静かに返す。
「ただ――もし女神さまが、あのご家族を通して何かをなさるおつもりなら、そのときに備えて、私はせめて“見守る側”でいたいと思うんです」
「危険視ではなく、観察と支援、ということだな」
「はい。何かを押しつけるのではなく、必要になったときに手を差し伸べられるように」
「分かった。その考えなら、私も賛成だ」
そこまで聞いて、私はそっと“耳を閉じる”ような気持ちで意識を戻した。
「お母さん?」
サナが首を傾げる。
「顔、ちょっと真面目だった」
「うん、ちょっとね」
私は笑った。
「あとで話すよ」
礼拝堂を出ると、さっきよりも噴水の水が静かに見えた。
◆ 帰り道、「見られている」ということ
家への帰り道。
城壁の内側を、のんびり歩く。
「さっき、教会でね」
私は、さっきの会話を簡単に話した。
「耳に入っちゃったんだけど……リーネさんたち、うちが祈るときだけ、水盤の波紋が違うって言ってたみたい」
「違うって、どう違うの?」
「女神さまのほうから手を伸ばしてるみたいだって」
ざっくりと、でも嘘にならない範囲で。
「危険視って感じではなかったよ。“気にかけておいでだ”って」
「祝福されてる、的な?」
サナが首をひねる。
「それとも、“観察されてる”的な?」
「たぶん、両方混ざってると思う」
私は正直に言った。
「でも、リーネさんの感じだと、“怖いから監視しなきゃ”って方向じゃなかった」
「少なくとも今は、ね」
ユタカの言葉に、私は頷く。
「教会に敵対するつもりはないけど、“特別だからここにいてください”って形で縛られるのは避けたいな」
「それは全力で同意」
サナが即答した。
「じゃあ、どうする?」
「今まで通り。それ以上でも、それ以下でもない」
私は言葉を選ぶ。
「礼儀はちゃんと守る。困ったら相談もする。でも、こちらから“特別な何か”を売り込んだりはしない」
「見守られてるのはありがたいけど、見世物になるのは御免、って感じ?」
「そう。それが一番しっくりくる」
「僕は……」
ユウトが、少しだけ考えてから言った。
「白いところは、白いままでいてほしい」
その言い方に、私は笑ってしまった。
「うん。そうなってくれるように、こっちも気をつけよう」
◆ 夜、薬と波紋を少しだけ思う
夜。夕飯とお風呂が済んで、リビングに三人座る。
ユタカはすでに自室で横になっていた。
膝の様子を見るかぎり、明日にはほとんど気にならなくなっていそうだ。
「今日、一番ドキドキしたのは?」
ソファに座ったまま、私は聞いてみた。
「私は、やっぱり膝の子かな」
サナが答える。
「自分の作った軟膏を、いきなり知らない子に塗るの、けっこう勇気いった」
「でもちゃんと効いてた」
「うん。それがすごく嬉しかった」
サナは、少し照れくさそうに笑った。
「レオンさんとミレイユさん、ほんとにいい人だね」
「うん。あの人たちと一緒に薬を作れるかもしれない、って考えられるのは、ちょっと誇っていいと思う」
「……ふふ」
サナの頬が、ほんのり赤くなった。
「お母さんは?」
「私は、教会かな」
私は、マグカップの残りを一口飲む。
「波紋の話を聞いて、ああ、やっぱり女神さまのほうからも何かしら反応してたんだなって」
「こっちが一方的に見てたんじゃなくて?」
「そう。向こうも、少しは見てた感じ」
ユウトは、クッションに顎を乗せながら言った。
「今日、薬屋さんも教会も、やっぱり大丈夫だった」
「大丈夫?」
「うん。いやな感じ、しなかった」
「それが一番だね」
私は笑った。
「じゃあ、今日はここまで」
それぞれの部屋に戻り、布団に入る。
目を閉じると、胸の奥で水の気配がした。
(今日は、サナの薬がひとつ誰かの膝を守りました)
(教会の人たちが、それに気づき始めました)
(それでも、私は“普通に生きたい”と思っています)
短く、そこまで伝える。
返事は、いつものようにない。
ただ、水面に小さな波紋がひとつ広がるような感覚だけがあった。
アロヴィナでの八日目は、
サナの薬が初めて「外で」効いた日として、静かに終わっていった。




