第3話 商業ギルドの扉の向こう
朝、目を開けて最初に見えたのは、見慣れた天井だった。
昨日までと違うのは、その天井の向こうに広がっている空が、日本ではなく、アロイス王国だということだけ。
(それにしても……やっぱり落ち着く)
枕元の目覚まし時計も、壁のカレンダーも、リビングに置きっぱなしの雑誌も、全部、前の世界のまま。
窓の外の景色だけが、異世界の森に変わっている。
キッチンからは、コーヒーの香りがしてきた。
「おはよう」
リビングに出ると、ユタカがマグカップを二つテーブルに置いたところだった。
「おはよう。早いね」
「ちょっと緊張しててね。今日、商業ギルドに行くって決めたから」
彼は苦笑いしながら、自分のカップを持ち上げた。
「リカの分、さっき入れたよ」
「ありがとう」
ネットスーパーで買ったコーヒー。
パッケージの日本語が、こんなにも心強く感じる日が来るとは思わなかった。
◆ 行く前の“予習”
パンとスクランブルエッグの簡単な朝食を済ませたあと、テーブルの上に昨日のポーチを並べた。
「改めて確認しようか。名前、出身地、仕事の設定」
「うん。ギルドで聞かれたときに、答えがバラバラだったら怪しまれるしね」
サナが、パンをかじりながら頷く。
「じゃあ、もう一回整理するね」
私は指を折って数えた。
「家族の名前は、平伊家。私は平伊リカ。年齢四十五。ジャパンって村の出身で、職業は“家のこと全般をやっていた妻”」
「俺が平伊ユタカ、四十三。ジャパン村で、商人たちの帳簿を扱う事務をしていた」
「私は平伊サナ、二十歳。雑貨屋の手伝い。お店番と、ちょっとした仕入れのお手伝い」
「……平伊ユウト。十三。学校に通ってた、でいいの?」
「うん、“学生”ってことで」
ここまでが、ギルドに伝える“表の顔”。
本当のことは、その下にしまい込む。
「出身地のジャパンについて聞かれたら?」
サナが言う。
「アロイスの端っこのほうにある、小さな村。王都から遠くて、名前も地図もあんまり出てこない場所。……で押し切る」
「それで、“そんな村知らない”って言われたら?」
「“辺境だからです”って、真顔で言う」
私は自分で言って自分で笑ってしまった。
「うそは付いてるんだけど、“この国の外から来ました”って言うよりは、まだ現実的かな、って」
「まあ、完全な作り話より、“ありそうだけど確認しようがない”くらいが一番バレにくいよな」
ユタカが頷く。
「あと、大事なのは……」
私はユウトを見る。
「今日は“絶対出さない日”にしようか」
「……うん」
「怖くなっても、“出したらもっと怖いことになる”って覚えておいてね。お母さんとお父さんが、前に立つから」
「分かった」
ユウトは少し不安そうだったけれど、ちゃんと頷いてくれた。
「よし。じゃあ、行こうか」
私はポーチを腰に結びながら、小さく息を吐いた。
◆ 再び、城門をくぐる
野営地から少し歩き、アロヴィナの城壁が見えてくると、昨日と同じように、門の前には人の列ができていた。
荷車を引く商人、旅装の人たち、冒険者らしい一団。
「人、多いね……」
「朝はこんなものなんだろうな」
ユタカが前後の様子を窺う。
昨日通ったからか、門番の兵士は私たちの顔を覚えていたようだ。
「お前たちは昨日の家族だな。今日も街に用か?」
「はい。商業ギルドに。身分をちゃんと登録しておきたくて」
「それはいい心がけだ」
兵士は、少しだけ口元を緩めた。
「身分を預ける場所を持っておいたほうが、いざというとき、守れる範囲も広がるからな。……中へどうぞ」
「ありがとうございます」
あっさりと通してもらえたことに、胸の中で小さく安堵する。
(“怪しい旅人”から、“ちゃんと登録しに来た旅人”に、少しだけ扱いが変わったのかもしれない)
そんなことを考えながら、私たちは石畳の道を進んだ。
◆ 商業ギルドの中へ
やがて、昨日も見かけた重厚な建物が見えてきた。
冒険者ギルドの向かい側。
石造りで、装飾は控えめだけれど、扉や窓枠に細かい彫り物が施されている。
(これが、商業ギルド)
入口の上には、天秤と帳簿をかたどった紋章。
扉を押して中に入ると、外の喧噪が少し遠のいた。
広いホールには、簡素な長椅子が並び、壁際にはいくつかの窓口がある。
窓口の奥では、書類を束ねた人たちが慌ただしく動いていた。
インクと紙の匂い。木と金属の混じった音。
(役所みたいな雰囲気だな……)
私は、どこか懐かしい気持ちでホールを見渡した。
「“初めての方はこちら”って書いてあるね」
サナが指さした先に、小さな札が掲げられた窓口があった。
そこに座っていたのは、三十代くらいの女性だった。
きっちりとまとめた髪、落ち着いた色の服。
目が合うと、にこりと笑ってくれる。
「いらっしゃいませ。ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「初めてこの街に来た家族でして……。商業ギルドに、身分を登録したいのですが」
ユタカが、一歩前に出て答えた。
「身分登録ですね。かしこまりました。ご家族で?」
「はい。妻と、娘と、息子です」
「では、こちらにお掛けください」
案内された長椅子に腰を下ろすと、女性は何枚かの紙と、ペンのようなものを持ってきた。
(……読める)
紙に書かれた文字が、自然に頭に入ってくる。
この世界の言葉だけでなく、文字までも“知っている感覚”があることに、改めてぞっとする。
「こちらが登録票になります。代表者の方のお名前と生年、出身地、ご職業。あとはご家族のお名前を、それぞれご記入ください」
「分かりました」
ユタカがペンを受け取る。
少し躊躇したあと、紙の一番上に、ゆっくりと文字を書き始めた。
平伊ユタカ。
横から覗き込むと、見慣れない文字の形をしているのに、“これはユタカと読む”と自然に分かる。
(不思議……でも、今は助かる)
次に、出身地の欄に「ジャパン村」と記入する。
「ジャパン村、ですか?」
受付の女性が、軽く首を傾げた。
「はい。アロイス王国の……かなり外れのほうにある、小さな村でして。地図にもほとんど載らないような場所です」
ユタカは、あらかじめ決めていた台詞を、落ち着いた声で口にした。
「なるほど、辺境ですね。失礼しました。わたくしの勉強不足です」
女性はあっさりと引き下がった。
(……思ったより、あっさり)
胸の中で、緊張が少しだけほどける。
「ご職業の欄には、“商業事務”と書かせていただきます。前の村で、商人ギルドの方々のお手伝いをしておりました」
「商人ギルドでのお仕事経験がおありなのですね?」
「はい。帳簿の管理や、簡単な計算、取引記録の整理などを」
女性の目が、少しだけ真剣になる。
「でしたら、ぜひお力をお借りしたいところですね……。アロヴィナ支部は、商人さんも多くて、いつも書類が山積みでして」
彼女は冗談めかして笑った。
「こちらにご家族のお名前もお願いします」
ユタカは、私たちのほうを見る。
「妻、平伊リカ。四十五。……同じくジャパン村出身で、家のこと全般を」
そう言いながら、リカと書き込んでくれる。
次に、サナ、ユウト――。
紙の上に、私たちの名前が、この世界の文字で並んでいく。
(ここで、初めて、“この世界に家族として名前を残した”んだ)
その事実が、じわじわと胸に広がった。
◆ 簡単な“試し”と、ギルドの名簿
「ありがとうございます。内容を確認いたしますね」
受付の女性が紙を手に取り、目を通していく。
「……よろしければ、代表者の方に、簡単な試験を受けていただけますか?」
「試験、ですか?」
ユタカが少しだけ身を固くする。
「といっても、難しいものではありません。数字にお強いとおっしゃっていましたので、計算や簡単な読み書きがどの程度できるか、拝見したいだけです」
「なるほど……。それでしたら、喜んで」
ユタカは、すぐに表情を和らげた。
(さすが、ユタカ)
こういう場面で、無駄に反発したりしないところが、本当に助かる。
受付の女性は、奥から薄い帳簿の束を持ってきた。
「こちら、最近の取引の記録なのですが……。合計の欄がいくつか空いていまして。こちらを埋めていただけますか?」
「分かりました」
ユタカは、ペンを持つと、紙をめくりながら数字を追っていく。
桁の多い数字も、迷うことなく足していく様子に、私は密かに感心した。
(前の世界でも、こうやって村のお店を支えてたんだよね)
サナも横から覗き込んで、「お父さん、かっこいい」と小声でつぶやく。
しばらくして、ユタカはペンを置いた。
「こちらで、すべて埋めました」
「拝見しますね」
受付の女性は、一つひとつの合計を、自分でも暗算で確認しているようだった。
やがて、満足そうに頷く。
「素晴らしいですね。計算も早く、字も読みやすいです」
「ありがとうございます」
「これなら、正式に“商業ギルド登録商人”としてお迎えできます。最初は“書類仕事”が中心になるかもしれませんが、よろしいですか?」
「もちろんです。むしろ得意分野ですので」
ユタカの声には、本当にほっとした色が混じっていた。
(よかった……)
胸の奥の緊張が、少しずつほどけていく。
「では――こちらに、もう一度だけ、名前を書いていただけますか?」
受付の女性が、別の紙を差し出した。
厚手の紙の中央には、丸い模様が薄く印刷されている。
「ギルドの正式な名簿用の紙です。ここに書いたお名前が、そのままギルドの記録になります」
「分かりました」
ユタカは、再びペンを持ち、中央に「平伊ユタカ」と書いた。
その瞬間、紙の模様が、かすかに光った。
「……?」
思わず身を乗り出しそうになったが、受付の女性は特に驚く様子もなく、自然に紙を引き取った。
「問題ありません。では、登録を進めますね」
(……今の、何)
魔法、なのだろうか。
名前を書いたことを証明するための、何か。
(深く考えすぎないほうがいいか)
少なくとも、怪しまれた様子はない。
息を整えながら、私はその場に座り続けた。
◆ 商業ギルドの“顔”を得る
しばらく待つと、受付の女性が戻ってきた。
手には、手のひらに収まるくらいの、小さな金属の板。
「お待たせいたしました。こちらが、商業ギルド登録証になります」
銀色の板には、“天秤と帳簿”の紋章と、ユタカの名前が刻まれていた。
「こちらはまだ“下位等級”ですが、取引を重ねて信用を積んでいただくことで、等級が上がり、できる範囲も広がっていきます」
「下位等級でも、どのようなことができますか?」
「ギルドを通した簡単な取引、倉庫管理の手伝い、書類仕事などですね。まずは、こちらの街での生活の基盤づくりにお役立てください」
彼女は、ふっと笑った。
「ちなみに、ご家族は“同行家族”として名簿に記録してあります。代表者の方が正式登録されていれば、ご家族も基本的には“身元の分かる人”として扱われますので、ご安心ください」
「ありがとうございます。それは本当に助かります」
ユタカは、登録証を大事そうに受け取った。
「登録証は、常に携帯しておいてくださいね。万が一、街でトラブルに巻き込まれたときも、“ギルド登録者”というだけで、守られる範囲が広がることがありますので」
「分かりました」
そこまで聞いて、私はようやく、小さく息を吐いた。
(これで、“何者でもない怪しい家族”から、“ひとまず商業ギルドに所属している家族”になれたんだ)
紙切れ一枚と金属の板。
それだけの違いなのに、心の重さはずいぶん違う。
◆ 仕事の“入口”
「最後に、一つだけ相談してもよろしいでしょうか」
ユタカが、少し遠慮がちに口を開いた。
「何でしょう?」
「もし可能であれば、こちらで書類のお手伝いをするようなお仕事を、少しずつ受けさせていただけないかと」
受付の女性は、少し目を丸くしたあと、納得したように笑った。
「それは、こちらとしても大変助かります。ちょうど、最近人手が足りなくて……」
奥から別の書類を持ってきて、ユタカの前に置く。
「まずは簡単なお仕事からお願いしたいのですが――こちら、過去数日の支払い記録です。重複や抜けがないか、確認していただけますか?」
「今すぐ、ですか?」
「はい。ここでできる範囲で大丈夫です。お試しを兼ねて、という形で」
「分かりました」
ユタカは頷き、紙の束に目を通し始めた。
列に並んでいる人たちの邪魔にならないよう、私たちは少し端のほうに移動する。
「お父さん、楽しそうだね」
「緊張してるけど、たぶん“好きな仕事”だね、あれは」
サナが小声で笑う。
しばらくして、ユタカが席を立った。
「一通り確認しました。ここが重複していて、ここが抜けていました」
彼は冷静に、幾つかの箇所を指さして説明する。
受付の女性は、その説明に何度も頷いた。
「本当に助かります。もしご迷惑でなければ、今後も時間のあるときに、お手伝いいただけませんか?」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
ユタカは、頭を下げた。
その表情には、緊張と同じくらいの“嬉しさ”があった。
◆ 帰り道と、小さな安心
ギルドを出ると、外は少し暗くなり始めていた。
「お父さん、すごかった」
サナが、素直に言う。
「ありがとう。でも、まだ“入口”だよ。これから、ちゃんと信用を積んでいかないと」
「それでも、一歩進んだことには変わりないでしょ」
私は、ユタカの横顔を見ながら言った。
「ここで“何者か”になれる場所ができたってことは、大きいよ」
「……そうだな」
ユタカは、少し照れくさそうに頷いた。
「ユウトは、どうだった?」
「……こわかったけど、何も出さなかった」
ユウトは、腰のポーチを握りしめながら言う。
「えらかったね」
私はその頭を撫でる。
「今日は、“出さない日”完走だね」
「うん」
そのやりとりを見て、サナも笑った。
「じゃあ、今日のご褒美は、お母さんのネットスーパーで何かおやつを頼んでもらおうか」
「賛成」
「賛成」
即答が二つ返ってきて、思わず笑いがこぼれた。
「はいはい。じゃあ、テントに戻ってからね」
笑いながら、私は心の中で、そっと呟いた。
(――ここで、暮らしていけますように)
返事の代わりに、胸の奥で、水面に小石を落としたような、静かな波紋が広がった気がした。
それが“誰の”答えなのかは、まだ分からない。
けれど、少なくとも今は、その温かさを信じてみてもいいかもしれない――そう思った。




