第15章 【幕間】ざわめきの残り香
◆ アロヴィナ城での会議 ― セリューン
――俺は、セリューン・グレイ。
アロヴィナ商業ギルドの副ギルド長だ。
今日は、サザビス侯爵の「話し合い」の場に足を運んでいた。
窓は高い位置にしかなく、重苦しい部屋だった。
壁には古い絵と、見栄えのいい剣や槍。
厚いカーテンに、やけに立派な椅子が並んでいた。
長机を挟んで、向かい側にはこの街の領主――サザビス侯爵。
その斜め向かいには、隣街からやってきたラングロード伯爵が座っている。
そのほかの顔ぶれは、ロックボア騒ぎの翌朝に集まったときとほぼ同じだ。
領主側の書記官、バルザス。
兵士隊との連絡役、ベルトランド。
冒険者ギルドからの使者、エルヴェ。
そして、ラングロード伯爵の背後には、痩せぎすの書記官――メルケル。
全員、椅子に腰を下ろしているが、くつろいでいる者は一人もいない。
「では、始めましょう」
穏やかな声で口火を切ったのは、サザビス侯爵だった。
見た目だけなら、どこにでもいそうな少し疲れた中年貴族だが、この部屋で最初に口を開くのは、いつだって彼だ。
「バルザス。まずは事実の整理から頼む」
「はっ」
バルザスが立ち上がり、手元の書類を広げた。
淡々とした声で、これまでの経緯が読み上げられていく。
――市場でのロックボア暴走事件。
――倉庫街での魔獣騒ぎ。
――いずれも、保管場所の名義はラングロード家。
――管理は下請けの商会が担っていたが、鍵と契約の最終署名は貴族側。
その一文一文が、ゆっくりと、この部屋の空気を重くしていく。
「以上が、現時点で確認されている事実です」
バルザスが座ると、今度はサザビス侯爵が視線をラングロード伯爵へと向けた。
「ラングロード卿。まずは、ご意見を伺いましょう」
ラングロード伯爵は、わずかに口元だけで笑った。
年の頃は、サザビス侯爵より少し上に見える。
たっぷりと布を使った衣服に、指にはいくつもの指輪。
そのすべてが、「自分はここで一番金と土地を持っている」とでも言いたげだった。
「意見も何も、侯爵。先ほどの書記官殿の読み上げにもあったとおり、倉庫の管理は、わたしのところに任された商会の責務です」
声だけは柔らかい。だが、その下に皮肉がひそんでいるのが分かる。
「名義が我が家であるのは事実ですが、具体的な中身まで逐一確認しろとおっしゃるのは、いささか酷ではありませんかな」
メルケルが、すかさず補足する。
「記録の上でも、倉庫の中身や出入りの帳簿は、例の商会が一手に管理しております。契約書にも、そのように」
「しかし」
そこで口を開いたのは、ベルトランドだった。
いつもどおりの丁寧な口調だが、その目は笑っていない。
「兵士隊の調査では、その商会の者が、最近になって急に金回りがよくなっているという話も出ております。
倉庫の鍵の出入りも、記録と実際が合わない部分が多く……“偶然”として片づけるには、少々無理があるかと」
「ほう」
ラングロード伯爵の視線が、わずかに細くなる。
「それは、我が家の監督責任を問うおつもりですかな?」
「責任の所在を明らかにするのは、この場にいる全員の仕事です」
と答えたのは、サザビス侯爵だった。
声の調子は変わらない。だが、言葉の芯が少しだけ硬くなる。
「この街で魔獣が暴れれば、被害を受けるのは市井の者たちです。
倉庫街であろうと、市場であろうと、命の重さに違いはありません」
エルヴェが、机の端に肘をつきながら口をはさむ。
「冒険者のほうにも、面白くない噂がちらほら来てる。
最近、妙に羽振りのいい商人連中がいてな。荷の中身を聞いても濁す。
倉庫街の一角から“夜にだけ”荷が動くとか……あんまり健全じゃない匂いだ」
「風聞を、この場に持ち込まれても困りますな」
メルケルが、眉をひそめる。
「噂話が、命の数に変わることもある」
今度は、俺が口を開いた。
「商業ギルドとしては、これ以上、街の信用を毀損するわけには参りません。
危険物の保管に関する責任があいまいなままでは、取引そのものが揺らぐ」
ラングロード伯爵が、こちらに視線を向ける。
「では、どうしろと?」
「簡単な話です」
俺は、机の上の紙を指で軽く叩いた。
「危険物――とくに魔獣やそれに近いものを扱う場合、名義だけ貴族で、実務は商会任せ、という形はやめるべきでしょう。
名義の持ち主にも、倉庫の中身と管理体制に対する一定の責任を負っていただく」
「…………」
「鍵の管理、出入りの記録の提出、検査の受け入れ。
そのあたりを“義務”として文書に残しておけば、今回のような抜け穴は、いくらか塞げる」
ラングロード伯爵は、しばらく黙っていた。
その横顔を見ながら、俺は内心で肩をすくめる。
――ここで「はい」と素直にうなずく人間なら、そもそもこんな会議には呼ばれていない。
「侯爵」
伯爵は、サザビス侯爵のほうを見た。
「あなたは、その案を妥当とお考えですかな?」
「街の安全と、取引の安定を守るための案としては、妥当だと考えます」
サザビス侯爵は、淡々と答えた。
「もちろん、すべてを一度に変えろとは言いません。
しかし、今回の件を“倉庫管理の不備”だけで片づけてしまえば、次はもっと大きな事故となって帰ってくるでしょう」
「……ふむ」
ラングロード伯爵は、椅子の背にもたれかかり、天井を一度だけ見上げた。
「よろしい。
今回に限り――いえ、今後“しばらくの間”は、その方針に従いましょう」
「感謝いたします」
バルザスが、すかさず答え、何かを帳面に書きつける。
会議は、少しずつ「形」を整え始めていた。
原因は倉庫管理の不備。
今後は体制を改善し、責任の所在を明確にする。
――表向きには、それでいい。
だが、それで全部が終わるとは、俺も、この場にいる誰も思っていない。
エルヴェが、机の下で足を組み替える気配がした。
ベルトランドは、何か言いたげな目をしながらも、口を閉ざしている。
街の外では、今日も市場が開いている。
パンが焼かれ、野菜が売られ、子どもたちが走り回る。
そのすぐ裏側で、こうして数字と責任と顔が、静かに擦れ合っている。
それもまた、この街の「日常」の一部だということを、俺はよく知っている。
◆ 会議のあと ― セリューン
会議が終わると、まず侯爵と伯爵が部屋を出ていった。
サザビス侯爵とラングロード伯爵。そのあとにメルケル。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
部屋に残ったのは、バルザス、ベルトランド、エルヴェ、それから俺だけだ。
「はあ……」
最初にため息をついたのは、エルヴェだった。
「まあ、あの場で連中をぶった切れって言われても無理な話だがな」
「公式の記録上は、先ほどの内容でまとめるほかありません」
バルザスが手元の書類を整えながら言う。
「“倉庫管理の不備”。
ただし、今後の危険物保管については、新しい規定を加筆しておきましょう」
「兵士隊としても、あの倉庫の周辺はしばらく見張りを続けます」
ベルトランドが、静かな声で続ける。
「商人や荷の出入りも、以前より細かく記録するよう命じました。
……あとは、どこまで“上”が本気で締め付けるつもりなのか、ですね」
俺は、机の端にもたれかかりながら、窓の外をちらりと見た。
夕日の色が、少しずつ部屋の中に伸びてきている。
「正直言えばな」
俺は、三人に向かってきっぱりと言った。
「うちとしては、ラングロード家そのものをどうこうしたいわけじゃないんだ」
「ほう?」
エルヴェが片眉を上げる。
「商業ギルドにとって大事なのは、街の市場が“安全で、儲かる場所”であり続けることだ。
今回の件で、街の評判が落ちるのがいちばん困る」
「だからこその、新しい規定、ですか」
「ああ。
危ない荷を扱う連中には、相応の縛りをかける。
その代わり、ちゃんと守ってもらえれば、この街で商売を続けることは歓迎する――そういう形にな。」
エルヴェが、ふっと笑う。
「相変わらず、ギルドらしい物の言い方だな。
“儲け話のためなら、規則もちゃんと使う”ってやつか」
「当たり前だ」
俺も笑い返す。
「ただし――」
そこまで言って、俺はほんの少しだけ声を落とした。
「巻き込まなくていい相手まで、この騒ぎに引きずり込む気はない」
「平伊さんたちのことですか」
ベルトランドが、小さく名を出した。
「そうだ」
俺はうなずく。
「異国出身の旅人。
優秀な事務員と、その家族。
街に害をなしたわけでもなく、むしろロックボアのときには助けてくれた連中だ」
バルザスが、少しだけ目を細める。
「教育の相談を受けたのは、あなたでしたね」
「ああ。
子ども二人を、商業ギルドの学校に通わせたいと言ってきた。
貴族との接し方や計算を学びたい、ともな」
「……それはまた、貴族側からすれば複雑な話ですね」
エルヴェが肩をすくめる。
「“旅人上がりの子どもが、いつの間にか貴族と同じテーブルで話せるようになる”ってのは、好まない連中も多い」
「だからこそ、俺たちがちゃんと守ってやる必要がある」
そう言うと、三人とも黙った。
反対する者はいなかった。
「商業ギルドの学校は、“街で生きていく術”を教える場所だ。
平伊さんたちが、この街の“日常”側に根を下ろしてくれるなら、それはうちにとっても悪い話じゃない」
「なるほど」
バルザスが、静かにうなずいた。
「その意味でも、今回の騒ぎの責任は、あくまで倉庫の管理者と、その背後にいる者たちに絞るべきでしょう。
街の日常に必要な人々を、むやみに不安にさせる必要はありません」
「そういうことだ」
俺は、机の上の書類を一つにまとめた。
「さあ、俺たちの仕事は“表向きの話”をきれいに整えることだけじゃない。
その裏で、本当に危ない芽がどこから伸びているのか、見極めることだ」
「そっちは、俺たちに任せろ」
エルヴェが、ニヤリと笑って立ち上がる。
「酒場での噂話を拾うのは、兵士でも商人でもなく、冒険者の仕事だからな」
「情報の扱いには、どうかご注意を」
ベルトランドが苦笑する。
「必要以上に広める前に、こちらにも回してください」
「分かってるって」
エルヴェとベルトランドが軽口を交わすのを聞きながら、俺はひとつ大きく息を吐いた。
――街の表側では、今日もパンが焼かれ、薬が売られ、教会では祈りが捧げられている。
その裏側で、俺たちは数字と噂と顔を見比べながら、どこまでを“日常”に戻し、どこからを“異常”として追い詰めるかを決めている。
大人の仕事というのは、つくづく、面倒なところにばかり手を伸ばさなければならないものだ。
◆ 教会の一日 ― リーネ
――私は、リーネ。
アロヴィナ教会の、小さな教会で働く巫女です。
朝の祈りの鐘が鳴るころ、聖堂にはまだ、ひんやりとした空気が残っている。
水をかたどった女神さまの像の足元には、今日も変わらず水が満ちている。
「おはようございます、女神さま」
小さくそう言ってから、私は掃除道具を手に取った。
床を掃き、椅子を拭き、蝋燭の残り具合を確かめる。
いつもと同じ朝のはずなのに、ここ数日は、胸の奥が少しそわそわしていた。
扉が開く音がした。
「失礼します……」
最初に入ってきたのは、小さな男の子の手を引いた母親だった。
いつも祈りに来る人だが、今日は少し、顔色が悪い。
「おはようございます」
「おはようございます、リーネさん……」
母親は、座席に腰を下ろす前に、少しだけ周囲を見回した。
他に人はいないと分かると、ほっとしたように息をつく。
「その……」
「はい?」
「学校へ行く道は、安全でしょうか」
私は、一瞬だけ言葉に詰まった。
「倉庫街で魔獣が出たって……みんな言ってて。
うちの子、教会の学校へ通わせてますけど……途中で何かあったらと思うと」
「……そう、ですね」
私は、母親と子どもを見つめた。
子どものほうは、何が話題になっているのか分かっていない顔で、ぼんやりと女神像を見上げている。
「衛兵さんたちが、街の見回りを強化していると聞いています。
教会の近くも、しばらくは巡回を増やしてくださるそうです。」
「そうなんですか……」
「ええ。
ですから、どうか、いつもどおりお祈りをして、いつもどおり学校へ行かせてあげてください」
母親は、少し迷うように目を伏せていたが、やがて小さくうなずいた。
「……はい。ありがとうございます」
祈りの言葉を口にする二人の背中を見ながら、私は胸の中に浮かんだ不安を、そっと奥へ押し込んだ。
午前のあいだにも、何人かの人が教会を訪れた。
怪我の相談。
店の売上の愚痴。
そして、ぽつりぽつりと、
「倉庫のほうは、もう大丈夫なんでしょうか」
「領主さまと、隣街の偉い人が話し合いをしているらしいですよ」
という断片が混ざる。
街は、表向きには動いている。
市場は開いているし、子どもたちも走っている。
それでも、人々の心には、まだ薄いざわめきが残っている。
女神さまの前で首を垂れる人々の肩に、知らず、余計な力が入っている。
それが、ここからでも伝わってくるのだ。
◆ 教会の方針 ― リーネと上位神官
「街の空気は、どうですか」
昼を少し過ぎたころ、上位神官さまが、私にそう尋ねた。
「以前よりは、落ち着いてきていると思います。
ただ……心配ごとを口にする人は、まだ多いです」
「そうですか」
年配の神官は、静かにうなずいた。
「我々としては、あくまで“普段どおり”を貫くほかありません。
教会は、政治の渦中にある場ではなく、人々が息をつける場所でなければならない」
「はい」
「貴族同士の話し合いも、倉庫の責任の所在も……我々の手の届かないところで決まっていきます。
それを無理に変えようとすれば、教会そのものが揺らぐ」
言葉は穏やかだが、その中に、長い年月の達観と、それでも役目を守ろうとする意志が混ざっているように聞こえた。
「ただし」
年配の神官は、私を見た。
「怪我をした人や、不安を抱えた人が扉を叩いたら、できる限り受け入れなさい。
女神さまの前で、話を聞いてもらうだけで救われる者もいます」
「分かりました」
私は頭を下げた。
貴族の名前が、会話の端々に出てくる。
サザビス家、ラングロード家、倉庫、会議。
けれど、私はあえて深くは尋ねなかった。
知れば、きっと心が落ち着かなくなる。
知ったところで、私一人にできることは限られている。
それならば――この教会の中でできることに、意識を向けたほうがいい。
この街全体が、少しずつ落ち着きを取り戻していくように。
そのための祈りと、薬草と、水、それに言葉。
そう自分に言い聞かせながら、私は聖堂の扉を開けた。
午後の光が、女神像の足元の水をきらりと照らした。
◆ 祈りと、平伊家のこと ― リーネ
夕方、祈りの鐘を鳴らしたあと、聖堂の中は少し静かになった。
人の出入りが一段落したこの時間が、私はいちばん好きだ。
女神さまの像の前に立ち、両手を胸の前で組む。
「女神さま」
声に出すと、胸のざわめきが、ほんの少しだけ形を持った。
「この街が、少しずつでも落ち着きを取り戻せますように。
恐れや怒りが、誰かを傷つける方向にばかり向きませんように」
頭の中に、朝から聞いたさまざまな声が浮かぶ。
子どもを心配する母親。
店の先行きを案じる商人。
魔獣の噂に怯える老人。
そして――森の外れの野営地に暮らす、旅人の家族。
あの家族のことを考えるとき、私はいつも少しだけ複雑な気持ちになる。
サナさんの光は、たしかに特別だ。女神の水は、その光に強く反応する。
書き物の上では、それは「有望なヒーラー候補」として記さなければならないのかもしれない。
けれど、私自身は――彼女を「看板」のように掲げたいわけではない。
「女神さま」
そっと目を閉じる。
「サナさんの光が、変な意味で利用されませんように。
平伊さんたちが、この街の“普通の生活の一部”としていられますように」
教会は、彼らを縛る鎖であってはならない。
できれば、ただ、戻ってこられる場所のひとつでありたい。
「女神さまが、必要以上のものを、
あの家族に背負わせませんように」
そう祈ったとき、水盤から、ほんのかすかな音がしたような気がした。
水面が、小さく丸く揺れる。
それが、何を意味するのかは分からない。
それでも――「見ている」という返事のように、私には思えた。
「……ありがとうございます」
小さくつぶやき、私は一礼した。
世界の大きな流れを変えることは、私にはきっとできない。
でも、この街の片隅で祈りを聞き、薬草を手入れし、サナさんに本を貸すくらいのことなら、私にもできる。
それが、この街のざわつきの中で、自分に許された役目なのだと――そう信じたいと思った。
◆ 揺れる馬車の中で ― ラングロード伯爵
ラングロード伯爵は、馬車の扉が閉まる音を背中で聞きながら、ようやく小さく息を吐いた。
重たい会議室の空気と、領主サザビス侯の視線が、まだ肩に乗っているような気がする。
「倉庫管理の不備、か」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
都合のいい言葉だ、と伯爵は思う。
あの場では、それ以上の言葉も、これ以下の言葉も出しようがなかった。
名義は自分の家。
実務は商会。
鍵の管理も、記録も、すべて「任せていた」と言えば、それなりに形はつく。
今日のところは――それで済んだ。
街を巻き込むような大ごとにはならなかった。
領地の面子も、取引の筋も、少し手を入れれば、まだどうにか立て直せる範囲だ。
そう考えれば、悪くない落としどころなのだろう。
それでも、喉の奥に残るざらつきは消えない。
サザビスの言葉。
商業ギルドの男の視線。
兵士と冒険者たちの、暗に疑いを含んだ報告。
――だが、本当に厄介なのは、あの会議室の中の連中ではない。
伯爵は、揺れる馬車の中でそっと目を閉じた。
思い浮かべるのは、もっと遠くにいる「別の誰か」の顔だ。
この街でも、この領地でもないところから伸びてくる、細い糸のことだ。
馬車の車輪が、石畳を一定のリズムで叩いている。
その音に身を預けながら、ラングロード伯爵は、奥歯に残るざらつきだけを、静かに噛みしめていた。




