第14話 街と、これからの話
◆ 朝のテーブルと、これからの心配
朝の光が、キッチンの窓からまっすぐ差し込んでいた。
昨日は、一日じっと野営地で過ごした。
遠くの騒ぎは、天耳通越しに“片づけの音”だけを少し残して、そのうち完全に聞こえなくなった。
今朝の耳は、久しぶりに静かだ。
聞こえてくるのは、フライパンの油がはねる音と、電気ポットの湯気が立ち上る音だけ。
「今日は、街に出ようかと思ってるんだけど」
テーブルにパンを並べながら、私はみんなの顔を見回した。
「薬屋さんにも、しばらく顔を出してなかったでしょ。教会にも寄りたいし、市場で買いたいものもあるし」
「賛成。薬草の本も返さなきゃだしね」
サナが、カップを両手で包みながらうなずく。
「さすがに、いつまでも“事件のあとだから”って引きこもってもいられないし」
「ぼくも行く」
ユウトが、手を挙げた。
「薬屋さんと教会、すき」
「うん。今日はいっしょに行こうね」
私は笑ってから、ユタカに目を向けた。
「ユタカは?」
「俺は、今日は一日ギルドかな」
コーヒーを一口飲んでから、彼は肩をすくめる。
「事件絡みの書類に加えて、通常の仕事も本格的に溜まってきててね。朝から夕方まで、帳簿とにらめっこする日になりそう」
「そういう日もあるよね」
「その代わり、帰りはまっすぐ戻るよ。今日は“残業なし”の方向で」
その言い方が少しおどけていて、サナがふっと笑った。
「ねえ」
パンをちぎっている手を止めて、私は少しだけ言葉を選ぶ。
「最近、ユウトの勉強、どうしようかな、って思うことが増えてきてて」
「……勉強、って?」
ユウトが、スープの上でスプーンを止める。
「うん。こっちの世界の文字や数のこと」
「別に、“このノートを全部やらなきゃダメ”とか、そういう話じゃないんだけどね」
私は、ユウトの表情を怖がらせないようにしながら続けた。
「この前、“能力台帳表示”を見たときも思ったけど……この世界で、これから先も生きていくなら、こっちのやり方の読み書きとか、お金の数え方とか、覚えておいたほうが安心かなって」
日本での学校の勉強は、それなりにやっていた。
でも、この世界の“普通”は、また少し違う。
「この国の子どもたちって、どんなふうに勉強してるんだろうね」
サナが、興味深そうに首をかしげる。
「前に、教会の近くで小さい子たちが集団で歩いてるの見たことあるけど……あれ、学校かなあって思った」
「ああ、あったね」
私はその光景を思い出す。
「もし、こっちにも“学校”みたいな場所があるなら、どういうところなのかだけでも知っておきたいなって」
「そうだね」
ユタカが、少しだけ真面目な顔になった。
「今日はギルドに一日いるし、そのあたりも聞いてみるよ。この街の子どもたちが、どんなふうに字や計算を覚えてるのか」
「お願いしていい?」
「もちろん」
彼は笑ってうなずく。
「“十三歳の子がいるんだけど”って言えば、だいたい察してくれると思う」
「……ぼくのこと?」
「そうだよ」
私は、ユウトの頭を軽く撫でた。
「だからって、いきなり“明日から毎日学校行きなさい”って話にはしないから安心してね」
「う、うん」
「もし、“行ってもいいかな”って場所が見つかったら、そのときにみんなで考えよう」
そう言うと、ユウトは少しだけほっとしたように頷いた。
――それでも、「学校」という言葉が出た瞬間、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
日本で、ユウトのことで悩んでいた頃のことが、どうしても浮かぶ。
サナとの成長の差が気になって、病院へ行った。
そこで「発達のことで気にかけたほうがいい」と言われたとき、正直、私はほっとしてしまった。
“普通”を無理に当たり前にしなくていい。そう思えたからだ。
こだわりが強くて、癇癪で泣き叫ぶこともあった。夜泣きもひどかった。
睡眠はいつも細切れで、ユタカも仕事があるのに、夜のドライブに付き合ってくれた。
小学校の入学時には、発達のことも含めて相談した。
「こちらから見てすぐ分かるほどではありません。ですので、まずは通常学級から始めてよいと思います。ただ、つらい場面が出るなら、支え方は考えておいたほうがいいでしょう」
そんなふうに言われ、私たちは話し合って、まずは通常学級で始めることにした。
一年生の担任の先生は、とてもよく見てくれていた。ユウトも毎日、学校へ行けていた。
けれど二年生になって、担任が変わってから、空気が変わった。
教室の中で「我慢する側」に押し込まれていくのを、私は止められなかった。
だから私たちは、支援学級へ移ることを決めた。
あれは正しい選択だったと思う。けれど――ユウトの中に残ったものまで、消せたわけじゃない。
今でも、ふとした拍子に、あの頃の話をぽつぽつとし始めることがある。
きっとそれもあって、学校となると身構えるのだろう。
「じゃあ、今日の予定は決まりだね」
私は、パンの皿をテーブルの中央に寄せる。
「ユタカはギルド。私たちは街で用事を済ませて、帰りにちょっと薬草を採っていこう」
「採取、楽しみ」
サナの隣で、ユウトが小さく笑った。
ユタカが立ち上がり、例のリングを手にして言った。
「そういえば、これ一個だけだと不便だな」
次の瞬間、ユタカの視線が宙で止まる。
「……画面が出た。“拠点キーを配布しますか?”って」
私は手を止めて、ユタカを見る。
「配布……って、増えるってこと?」
「たぶん。『家族全員に配る』みたいな選択肢がある」
胸の奥が、ほんの少しざわつく。便利そうだ。でも、便利そうなほど怖い。
「……やるなら、みんなで確認してからにしよう」
「そうだな。新しいのが出るだけだと思うけど、嫌な感じがしたらすぐ止める。いいか?」
ユタカは深呼吸して、子どもたちに目を向けて言った。
「うん」サナがうなずき、ユウトも小さく頷いた。
「じゃあ……“家族全員に配布”で」
ユタカが空中をなぞった瞬間、手のひらに軽い金属音が続けて落ちた。
色の違うリングが、私とサナとユウトの分――三つ、増えていた。
私には赤、サナにはピンク、ユウトには水色。
そしてユタカが持っていたリングは、青に変わっていた。
みんな、ポーチと同じ色だ。
「……増えたね」
「こっちは色が変わった。まぁこれで、誰が先に出ても困らないが、ほんとに不思議だな」
私は自分のリングを握りしめ、ひんやりした重みを確かめた。
便利さは、同時に怖さも連れてくる。だからこそ、私たちは小さな確認を積み重ねるしかない。
事件の夜のざわめきから、まだ日が浅い。
それでも、こうやって“日常に戻るための今日”を組み立てていくことが、きっと大事なのだと思った。
◆ 薬屋と教会、市場の一日
城門をくぐるころには、日差しはすっかり朝の色になっていた。
門番たちの表情は、少しだけ疲れが残っているようにも見える。
でも、門の前に並ぶ荷馬車はいつもどおりで、人々の声も確かに“日常の音”だった。
「昨日の朝の雰囲気より、ずっと普通に見えるね」
サナが小声で言う。
「うん。門番さんの目つきはちょっと厳しいけど……それはまあ、最近色々あったからだろうし」
門番とのやり取りも、前ほど身構えずにできた。
簡単な質問に答え、今日は買い物と用事を済ませるだけだと告げると、門番は軽くうなずいて通してくれた。
まず向かったのは、薬屋だ。
扉を開けると、いつもの薬草と油の混ざった匂いが、落ち着いた空気と一緒に迎えてくれた。
「いらっしゃい……おや、平伊さんたち」
カウンターの向こうで、レオンが顔を上げる。
「こんにちは」
「昨日ぶり……ではないか。三日ぶりぐらいかな?」
「そのくらいですね」
私が笑うと、奥からミランダも顔を出した。
「この前の軟膏、よく出ましたよ」
「あら、本当?」
「ええ。ここ数日、怪我人が続きましてね。夜の騒ぎのあおりもあったんでしょう」
ミランダは、少しだけ肩をすくめる。
「全部が全部、薬でどうにかできる怪我じゃないですけど……ひどくなる前に塗っておいたほうがいい、って人も多くて」
「役に立ったなら、よかったです」
サナが、胸の前で手をぎゅっと握った。
「今日は、材料の相談もしたくて」
「いいよ。前みたいに、こっちの在庫を見ながら決めようか」
レオンが笑い、奥の棚を指さす。
サナは目を輝かせて、その後ろをついていった。
私は、その背中を見送りながら、肩の力が少し抜けていくのを感じていた。
街で騒ぎがあったあとでも、ここでは、薬草と瓶と帳簿の世界が、いつもどおり続いている。
薬屋を出たあとは、教会へ向かった。
石段を上って中に入ると、ひんやりとした空気と、水の気配が迎えてくれる。
女神像は、いつもと変わらない静かな表情で、こちらを見下ろしていた。
並んで祈りを済ませたあと、振り向いたところで、リーネが近づいてきた。
「平伊さん。いらしてくださって、ありがとうございます」
「こんにちは。……この前の夜は、大変でしたね」
「ええ。ですが、おかげさまで、今は落ち着いています」
リーネは、女神像に一度視線を向けてから、柔らかく続けた。
「怪我をされた方もおられますが、みなさん命は助かりました。騎士団や兵士隊、それに冒険者の方々が、夜通し頑張ってくださって」
「教会も?」
「少しだけ。光の魔法を使える神官や巫女が、交代で手当てに回りました」
リーネの声には、疲れの影はあっても、重苦しさはあまりない。
きっと、もう「今は日常に戻すべき」と、教会の中でも決めたのだろう。
「サナさん」
「はい」
「前にお貸しした本、読み終わったものはありますか?」
「あ、はい。これと、これと……」
サナは持ってきた本を差し出し、新しく二冊を受け取る。
「裏庭の薬草も、また時間のあるときに見に来てください。季節が変わると、出てくる草も変わりますから」
「ありがとうございます。今度、ぜひ」
教会を出たころには、心の奥に残っていた“昨夜のざわざわ”は、だいぶ薄くなっていた。
そのあとは、市場でいつものように買い物をした。
丸いパンをいくつか。
乾燥した豆と、保存の効きそうな野菜。
少しだけ良い肉も奮発して、今夜のスープの具にすることにした。
「一昨日の夜、見たか?」
「何を?」
「城下の倉庫街だよ。魔獣が暴れたって話だ。騎士団が出てきて、えらい騒ぎだったらしい」
すれ違う人たちの会話が、耳の隅をかすめていく。
「でも、街の外まで出てこなかったんでしょ?」
「ああ。そこは、あいつらの仕事だ。俺たちは、店開けてるしかないさ」
そんなやり取りも、今はもう“噂話”のトーンだった。
街のどこかで誰かが戦って、そのおかげで、今日も市場は開いている。
そのことを考えると、買い物袋の重みが、いつもより少しありがたく感じられた。
◆ 城壁のそばで、馬車を見上げる
市場での用事を済ませてから、私たちは城門を抜け、城壁の外へ出た。
「薬草、どのあたりで採る?」
「門からあまり離れないほうがいいね」
私は、城壁のすぐ外側を見回す。
石の壁のすぐそばは、踏み固められた土と、ところどころに生えた短い草だけ。
少し離れると、低い茂みや草地が広がり、その先は森へとつながっていく。
「このへんだったら、見通しもいいし、衛兵さんの目も届きやすいから、危ないものが出てきたらすぐ分かるよ」
「じゃあ、この辺りで」
サナは、肩にかけたカバンから小さな布袋を取り出した。
「この前、教会の本で見た薬草が、この近くにも生えてるはずなの。葉っぱの形と匂いで見分けるタイプ」
「ぼくも手伝う」
「じゃあ、ユウトには、“似てるけど違う草”も一緒に見てもらおうか。間違えると大変だからね」
そんな話をしながら、私たちは腰をかがめて草むらに目を凝らした。
太陽は少し高くなり、土の匂いと青い草の匂いが強くなる。
風が吹くたびに、城壁の上の旗が小さくはためいた。
「これかな?」
ユウトが摘みかけた草を、サナが近くに寄って匂いを嗅ぐ。
「ううん、それは似てるけど違う。葉っぱの縁が、こっちのほうが丸いでしょ? 欲しいのは、もう少し尖ってるほう」
「ほんとだ」
「匂いも、こっちはちょっとツンとするけど、欲しいほうはもう少し甘い匂いがするよ」
「むずかしい……」
「でも、ユウトは匂いで覚えるの得意だから、慣れたらきっと早いよ」
サナの言葉に、ユウトが少しだけ胸を張る。
そんなやり取りを見ながら、私は城門のほうに目をやった。
そのときだった。
「……あれ」
城門へ続く道の先から、ひときわ立派な馬車が姿を現した。
濃い色に塗られた車体に、金色の装飾。
側面には見慣れない紋章が描かれている。
そのまわりを、きちんと揃った鎧姿の護衛の一団が固めていた。
街の衛兵たちよりも、華やかな装備。
剣や槍を携えた騎士たちが、きっちりと隊列を組んで馬車を囲んでいる。
「すご……」
サナも、思わず立ち上がってそちらを見た。
「やっぱり、ああいうのが“貴族さまの馬車”ってやつなのかな」
「かもしれないね」
私は、草を払った手を太ももでぬぐいながら、そっと耳に意識を向けた。
天耳通なら、少し離れた会話も、だいたいの音も拾える。
馬のいななき。
車輪が石畳を転がる音。
鎧がこすれる金属の音。
――本来なら、そういうものが一斉に耳に入ってきてもおかしくない。
なのに。
「……おかしいな」
私の口から、自然に言葉がこぼれた。
「どうしたの?」
「音が、あんまり聞こえない」
たしかに、遠くで何かが動いている気配はある。
でも、はっきりした音として届いてくるのは、馬の蹄が地面を叩く低いリズムだけだった。
鎧の擦れる音も、護衛たちの話し声も、馬車の中から聞こえるはずの物音や声も――
全部、何重にも布をかけられたみたいに、ぼやけている。
意図して聞こうとした瞬間、音の輪郭がスッと遠ざかるのが分かった。
(……また、これ)
前にも感じた、“最後の一文字だけ消される”感覚。
今度は、最初からほとんどの文字に墨を塗られているような感じだった。
「ユウトは?」
私は、隣に立ったユウトに視線を向ける。
「あの馬車、どう見える?」
「……こわい」
ユウトは、胸のあたりにぎゅっと手を当てた。
「まわり、すっごく“黒い”のが濃い。でも、その外側に、しろっぽいのがべったり貼りついてる」
「しろっぽい?」
「たぶん、“近づくな”って押してるやつ。こっちに広がらないように、ぎゅって止めてる感じ」
遠くで揺れる旗と、規則正しく動く騎士たちの列。
その向こうに、私たちには見えない、別の色が渦巻いているのだろう。
「……女神さまも、天耳通も、あれは“聞かせたくない”みたいだね」
思わず出た私の言葉に、サナが少し顔をしかめた。
「関わらないほうがいい人たち、ってこと?」
「少なくとも、“今は”ね」
私は、馬車から視線を外した。
「向こうからこっちに絡んでこない限り、私たちから近づく必要はないと思う」
「うん。……見てるだけでも、なんかお腹のあたり冷たくなる感じするし」
サナが、腕をさすりながら言う。
「じゃあ、薬草だけさっさと採って、帰ろうか。今日の用事はもう十分こなしたし」
「はーい」
私は、城門のほうに背を向けてしゃがみ込み、残っていた草を数本だけ素早く摘んだ。
馬車と騎士団は、そのあいだに城門をくぐり、街の中へと消えていった。
何かを連れてきたのか。
何かの決着をつけに来たのか。
今の私たちに分かるのは、「あれは、こちらから見に行くべきものではない」ということだけだった。
◆ 夜のリビングと、「学校」の話
「ただいま」
夕方、テントの玄関からマイホームの玄関へ入ると、リビングのほうから紙をめくる音が聞こえてきた。
キッチンで荷物を広げていると、ユタカがリビングの奥から顔を出す。
「おかえり。街はどうだった?」
「いつもどおり、って言っていいかな。薬屋さんも教会も、市場も普通に開いてたし」
「門の前は、ちょっと厳しそうだったけどね」
サナが、薬草の袋を掲げる。
「でも、こっちはこっちで、薬草しっかり採れたよ」
「それは何より」
ユタカは軽く笑ってから、手元の紙を指で揃えた。
「こっちのほうも、いろいろ聞いてきたよ。“学校”の話」
「お」
私は、テーブルにパンを並べながら、椅子に腰を下ろす。
「教えて」
「まず、この街の平民の子どもたちだけど」
ユタカはメモを一枚、テーブルに置いた。簡単な年齢と場所の名前が並んでいる。
「だいたい五歳くらいから十歳くらいまでは、教会がやってる学校に通うことが多いらしい。そこで、読み書きの基礎とか、祈りの言葉とか、簡単な数の扱いを教わるんだって」
「教会学校、みたいなもの?」
「そうそう。うちはもう年齢的には過ぎちゃってるけどね」
「まあ、今さら五歳児に混ざるわけにもいかないしね……」
サナが苦笑する。
「で、そのあと。十歳くらいからの子向けに、商業ギルドがやってる“学校”がある」
ユタカは、紙の別の行を指さした。
「商人の子どもとか、商売に興味のある子が多い。そこで教わるのは、貴族やお偉いさんへの接し方、言葉遣い、それから計算や帳簿のつけ方、契約の基礎なんか」
「まさにギルドっぽい内容だね」
「うん」
ユタカは頷き、少しだけ声を落とした。
「一応“十歳から五年間”っていう形になってるけど、それは“全部の内容をきちんと学ぶと、だいたい五年かかる”って目安らしい」
「じゃあ、五年きっちり通わなきゃいけないわけじゃないんだ?」
「うん。三年くらいで全部覚えて卒業する子もいるし、大人になってからちょっとだけ通う人もいるって」
「大人も?」
サナが目を丸くする。
「商会の見習いの人が、“貴族相手の挨拶だけ集中して習いに来る”とかね。そういうのもありだってさ」
「お金は……?」
私が、つい現実的なところを聞いてしまう。
「そこが面白いところでね」
ユタカは、口元だけで笑った。
「授業料は、ほとんど取らない。代わりに、通っているあいだ、ギルドの下働きをするんだって。荷物運びとか、帳簿の写しとか、ちょっとした雑用とか」
「働いた分だけ、学べるってこと?」
「そう。働くことが授業料代わり。だから、お金のない家でも通えるし、逆にギルドとしても“将来働いてくれそうな人材”を早いうちから見られる」
「よくできてる……」
私は思わず感心した。
「で、卒業した子は、そのままこの街の商業ギルドで働くことも多い。枠がなければ、隣町のギルドや商会を紹介してもらえるから、仕事に困ることも少ないみたい」
「ちゃんと“ここで学べば、次につながる”って仕組みになってるんだね」
「うん。通い方はかなり自由らしいよ」
「そんなに自由なんだ」
そこで、一瞬の沈黙が落ちた。
私もサナも、自然とユウトのほうを見る。
「……ぼくの話?」
ユウトは、スプーンを握ったまま、少し緊張した顔でこちらを見返した。
「うん。ユウトも、いずれは何かしら“こっちの世界のやり方”でできることを持っておいたほうがいいかなって思って」
私は、言葉を選びながら続ける。
「別に、“絶対にギルドで働きなさい”って話じゃないよ。でも、この世界の読み書きとか計算とか、貴族さまへの接し方みたいな、こっち独自のマナーは、どっちにしろ損にはならないと思う。知らないままだと、失礼が命取りになる場面もあるかもしれないしね」
ユウトは小さく頷き、視線を落として、少し考えるように黙った。
「……正直、学校って聞くと身構える。人が多いところ、疲れるし」
「だよね」
私は、あっさりと頷いた。
「大きい声とか、知らない人とか、たくさんいる場所は、それだけで疲れるよね」
「うん」
「だから絶対毎日通おうっていう話にはしないよ。大丈夫」
そう言うと、ユタカが頷いて続けた。
「そもそもあそこは“毎日通わなきゃだめ”って仕組みじゃないらしいよ。必要なとこだけ、都合のいい日に行けばいいって聞いた」
ユウトの肩が、ほんの少しだけ下がるのが分かった。
「……じゃあ、“そういう場所がある”って知っておいて、行ってもいいと思える日だけ、少しずつ通ってみるのはどう? それで合わなかったら、いったん距離を置いてもいい」
「……やめてもいいの?」
「もちろん。通うことだけが目的になっちゃうのは違うと思うしね」
ユウトはまっすぐ私を見た。
「でも、ママは……行ったほうがいいと思ってる?」
真正面からの問いに、私は一度だけ息を吸い込む。
「……“行って学ぶ価値がある場所ではないかと感じてる”って言ったほうが近いかな」
「価値……」
「うん。計算とか本の読み方だけじゃなくて、この国の人たちが“当たり前”にしている挨拶の仕方とか、貴族さまへの言葉遣いとか」
「そのあたり、わたしたち、けっこう怪しいからね」
サナが笑いながら割り込んできた。
「この前ギルドの人と話したときも、“あ、今の言い方、こっちの世界じゃ失礼だったかも”ってあとから気づくこと何回かあったし」
「私も、薬屋さんや教会の人たちと話してると、“あ、この言い回し覚えておいたほうがいいな”って思うこと多いから」
サナはスプーンを両手で支えながら続けた。
「だから、貴族への接し方とか、商人さんたちのマナーとか、ちゃんと教わるのは、わたしにとっても多分プラスだと思う」
「……サナねえちゃんも、行く?」
「うん」
サナは迷いなくうなずいた。
「ユウト一人で行かせるの、ちょっと心配だしね。わたしも一緒に行く。授業の内容も、多分わたしに向いてると思うし」
「薬師やりたいなら、商人さんとの付き合い方は絶対必要だからね」
私も同意する。
「貴族さま相手ってなると、わたしたちだけじゃ分からないことも多いだろうから、ちゃんと教えてもらえる場があるのはありがたいよね」
「……二人なら、少しは大丈夫かも」
ユウトが、ぽつりと言った。
「でも……きつい日は、行かなくていい?」
「いいよ」
私は即答した。
「たとえば、最初は週に一回だけでもいいし、具合が悪い日は休めばいい。実際に行ってみて、怖くない先生だったらそれでよし。怖くて無理だって思ったら、その先生の日は休む、とかね」
私はそこで、少しだけ笑う。
「無理を続けるのが一番よくないから。続け方は、行ってみながら一緒に探そう」
ユウトは少しのあいだ黙ってから、ゆっくりとうなずいた。
「……じゃあ、一回だけ、試してみる」
「うん」
胸の奥の緊張が、少しだけほどける。
「試してみて、“ここは自分の場所じゃない”って思ったら、そのときはまた別の道を探せばいい。逆に、“このくらいなら大丈夫”って思えたら、それはそれでひとつ新しい居場所になるから」
「わたしも、実際に行ってみないと分からないこと、多いと思うしね」
サナが、笑いながら付け加えた。
「貴族さまの前でどうしゃべるかなんて、本で読んだだけじゃ身につかないし」
「じゃあ決まりだね」
ユタカが、手元のメモを軽く叩いた。
「明日、ギルドの人に“子ども二人を、試しに通わせたい”って相談してみるよ。週に何回くらいから始められるかとか、どの時間帯が空いてるかとか、そういう現実的なとこも」
「お願い」
「ぼくも、がんばってみる」
ユウトの小さな決意が、リビングに静かに広がった。
この世界に来てから、“学校”という言葉を、ようやくちゃんと自分ごととして口にできた気がした。
怖さも、心配も、なくなったわけじゃない。
それでも、“ここでの生活を増やすための一歩”を、やっと踏み出そうとしている。
そんなふうに思えた。
◆ 商業ギルドの午後 ― セリューンと馬車
――俺は、セリューン・グレイ。
アロヴィナ商業ギルドの副ギルド長。机の上の書類と、窓の外の景色を、同じくらいの頻度で眺める仕事だ。
午後の光が傾き始めたころ、窓の外を見て、思わず舌打ちしそうになった。
「あれは……」
石畳の上を進んでくるのは、見覚えのある紋章を掲げた馬車だった。
濃い色に塗られた車体に、金色の装飾。
その周りを、やたらきれいな鎧を着た騎士たちが固めている。
「隣街のラングロード家ですね」
背後から声がして振り向くと、兵士隊の連絡役であるベルトランドが立っていた。
「やっぱりか」
「はい。今回の倉庫の所有者として名前の出てきた連中です」
ベルトランドは、短くため息をつく。
「“事件についての協議のために”という名目で呼ばれたそうですが」
「協議ねえ」
俺は、鼻で笑った。
「“うちは何も知らなかった”“倉庫番が勝手にやった”って台詞が、今からもう聞こえてくるようだ」
「そのあたりは、領主と騎士団の仕事ですから」
「分かってる」
窓の外を見下ろすと、馬車はそのまま城のほうへ向かっていく。
昼間、市場筋から上がってきた噂話と、夜中の報告書の文面が頭の中で重なった。
――倉庫街の一角から、魔獣が出現。
――保管されていた個体が“偶然”檻を破った、という公式説明。
その倉庫の持ち主の名前を見たとき、俺は紙を丸めたくなった。
「平伊さんたちは?」
ふと、そんな言葉が口をついて出る。
「今日もギルドに?」
「ええ。帳簿の整理を手伝ってくれていると、こちらの書記から聞きましたよ」
「……そうか」
俺は、少しだけ表情を緩めた。
“学校の話をしているらしい”と、書記から聞いた。
あいつらは、“こっち側の日常”を増やす方向に進んでいるわけだ。
「だったらなおさら、あんな連中の顔は見せたくないな」
窓の向こう、馬車の後ろ姿が城の角に消えていく。
「ラングロード家だの何だのって連中と、同じ空気を吸わせるには、まだ早すぎる」
「あなたらしいご意見ですね」
ベルトランドが、苦笑しながら肩をすくめる。
「こちらとしては、彼らを“巻き込まない”ようにするだけでも、仕事が増えますが」
「そんなのは、こっちの都合だ」
俺は、机の上の書類を軽く叩いた。
「街の日常を守るのが仕事なら、“普通の旅人一家”を普通のままにしておくのも、その一部だろう」
「普通の、ですか」
「少なくとも、政治だの貴族だのの都合から見ればな」
ベルトランドは、少しだけ目を細めて笑った。
「では、“そちら側”は我々が何とかしましょう。魔獣の出どころも、倉庫の中身も、貴族の言い訳も」
「頼む」
俺は椅子にもたれかかり、深く息を吐いた。
窓の外では、日常の喧騒が続いている。
市場は開き、商人は声を張り、子どもたちは走り回る。
その裏で、いくつかの思惑と責任を整理していくのが、大人たちの仕事だ。
その輪の少し外側で、城壁の外の野営地の家の中で、今日決まったばかりの新しい“日常”の話をしている家族がいる。
――できれば、そのまま、まともな日常の側にとどまっていてほしいものだ。
そんなことを心のどこかで願いながら、俺は机の上のペンを取り上げた。




