第13話 まだ見えない騒ぎの朝
◆ 夜明け前、ざわめきに起こされる
肩を、そっと揺すられる感覚があった。
まだ部屋の中は深い闇で、カーテンの隙間からも、ほとんど光は差し込んでいない。
夜明け前――もう少し眠っていてもいい時間帯だ。
「……ママ」
耳元で、小さな声がした。
「ママ、起きて……」
その声音が、ただの寝ぼけやトイレの合図ではないことくらい、すぐに分かった。
「……ユウト?」
声を出すと、自分の声が思っていたよりも掠れているのにも気づく。
寝ぼけた頭を振りながら、私はゆっくりと上半身を起こした。
暗闇に目を慣らしていくと、ベッドの横で立っているユウトの輪郭がぼんやり見えた。
「どうしたの?」
「なんか、きょうの“ざわざわ”、いつもと違う」
暗闇の中で、その目だけが少し大きく見える。
「いつもと?」
「うん。……もっと、がしゃんがしゃんっていう感じ。遠くで、いっぱい何かがぶつかってるみたいで」
言葉を探すように、ユウトは手を胸の前で握ったり開いたりしている。
そのときだった。
――耳の奥に、波が一枚ぶつかったような感覚が走る。
遠くのほうから、何かが押し寄せてくる。
それは、窓の外の風の音ではなく、この家の壁をぜんぶすり抜けてきたような、妙なざわめきだった。
「……また、これ」
私は無意識に、耳を押さえた。
押さえたところで、止まるわけじゃない。天耳通は、「外の耳」をふさいでも止まらない。
寝室の静けさの向こう側で、別の世界が一つ広がっていく。
――誰かの叫び声。
――何かを怒鳴る声。
――金属同士がぶつかり合う硬い音。
――どこかで何かが崩れるような、鈍い衝撃音。
いくつもの音が、ばらばらに届いてくる。
だけど、どれもはっきりとはしない。
叫び声は、言葉になる前に途切れてしまうし、怒鳴り声は、肝心の「何を言っているのか」の部分が、すっと薄くなる。
まるで、誰かが意図的に「最後の一文字だけ」を消しているみたいに。
「……街のほう、かな」
私は、布団の中で膝を抱えながら呟いた。
ここは、城壁の外の野営地のさらに奥、魔道具テントの中の家――マイホームの寝室だ。
普通なら、街の中の騒ぎが、こんなふうに直接耳に届く距離じゃない。
「ママにも、聞こえる?」
「うん。……なんとなく、だけど」
目を閉じると、距離感が、少しだけ掴める。
これは、すぐ外の野営地じゃない。
もっと向こう、あの石の城壁の向こう側――アロヴィナの街の中。
ただ、そこから先は、ぼんやりと霧がかかったみたいに曖昧だった。
「前のロックボアのときと、似てる?」
ユウトが、ベッドの端に腰かけながら尋ねる。
「……“静かじゃない”って意味では、似てるかも。でも、前のときみたいに、ここまで迫ってきてる感じじゃないかな」
あのときは、もっと、足元から地面ごと揺さぶられるような怖さだった。
今は、それよりも遠く、でも無視できない距離で何かが起きている、そんな感覚だ。
「ユウトは、どう感じる?」
「こわい。こわいんだけど……前みたいに“こっちに来る!”って感じじゃない」
ユウトは、自分の胸のあたりに手を当てる。
「遠くで、大きい“黒いの”が暴れてる感じ。でも、そのまわりに、いっぱい“白っぽいの”もいて、押さえようとしてる」
「白っぽいの?」
「うん。……たぶん、がんばってる人たち。そっちのほうが多い」
黒と白。
ユウトの「ざわざわ」は、いつもそんな色で世界を見ている。
私は、耳の奥でまだ続いているざわめきに、意識を向けてみた。
――金属が鳴る音。
――何かが叫ぶ声。
――祈りの言葉のような、抑えた響き。
それらが、全部いっしょくたに混ざり合っている。
聞こうとすればするほど、肝心なところが水に沈むみたいに遠ざかるのが分かった。
(……前に、“能力台帳表示”で見た説明)
頭の中に、半透明の板と、そこに浮かんだ文字がよみがえる。
天耳通:離れた場所の声や音を、必要なとき、必要な分だけ聞き取る。ただし、すべてを聞かせるつもりはない。
――すべてを聞かせるつもりはない。
今、その一文が、ひどく真面目な顔でこちらを見ている気がした。
「……ねえ、ユウト」
「なに?」
「もし、本当に私たちが行かなきゃいけないことなら、きっともっとはっきり聞こえるようになってるんじゃないかなって、ちょっと思った」
言いながら、自分でもそれが、都合のいい解釈なのかどうか分からない。
「逆に、ここまでぼかされてるのは、“聞きに来ないで”“見に行かないで”ってことなんじゃないかなって」
「……たしかに、そんな感じする」
ユウトは、少しだけ息を吐いた。
「さっきまでは、“見ちゃだめ、見ちゃだめ”って言われてるみたいだった。今もまだざわざわしてるけど……“こっち振り向かなくていいから”って」
「だったら、今はここでじっとしてるのが正解、かな」
「うん」
それでも、胸のざわつきが消えるわけじゃない。
街のどこかで、誰かが叫んでいる。
誰かが、何かと戦っている。
そのことを知ってしまえば、「自分たちも行くべきなんじゃないか」と思うのは、自然なことなのかもしれない。
でも――。
私たちには、守らなきゃいけないものが、ここにある。
廊下の向こうの自分の部屋では、ユタカもサナも、まだ静かに眠っているはずだ。
「ユウト。もしまた、さっきよりざわざわが強くなったり、“こっちに来る”って感じがしたら、すぐ起こして」
「うん」
「今は、とりあえず……もう少しだけ横になろう。どうせ、ちゃんとは眠れないだろうけど」
苦笑いしながら布団に潜り直す。
天耳通は、すぐには切れてくれなかった。
それでも、時間が経つにつれて、さっきより少しだけ、音の輪郭が遠くなっていく。
街の向こうで、何かが荒れて、何かが抑え込まれている。
そんな「全体のかたち」だけが、ぼんやりと残っていた。
私は目を閉じたまま、枕の上で小さく息を吐いた。
(……どうか、こっちには来ませんように)
それは、誰に向けた祈りだったのか、自分でもよく分からなかった。
◆ 朝の食卓と、“見に行かない”決断
結局、そのあと深く眠ることはできないまま、朝になった。
カーテンの隙間から差し込む光は、いつもどおり淡い。
キッチンの窓から見えるのも、いつもどおりの森と、テントの外の明るさだ。
だけど、胸のあたりには、夜のざわめきが薄く貼りついたままだった。
「顔色、あまりよくないね」
パンを焼きながら、ユタカが私のほうを見た。
「まあね。明け方に、ちょっと起こされちゃって」
「ごめん……」
テーブルの向こうで、ユウトが申し訳なさそうにうつむく。
「謝ることじゃないよ」
私は、コーヒーの入ったカップをテーブルに置きながら首を振った。
「ユウトが起こしてくれなかったら、たぶんもっと落ち着かない朝になってたと思う」
「……なにかあった?」
スープをかき混ぜていたサナが、顔を上げる。
「ママもユウトも、ちょっと“寝不足”って顔してるけど」
「うん。明け方にね、ちょっと変な気配があって」
私は、パンをちぎりながら、明け方のことをできるだけ簡単な言葉で説明した。
「街のどこかで、大きいことが起きてるんだろうなってくらいには、ざわざわしてた。叫び声とか、怒鳴り声とか、金属のぶつかる音とか……」
「ロックボアが暴れたときと、似た感じ?」
「うん。でも、あのときみたいに“ここまで突っ込んで来る”感じじゃなかった。もっと遠くで起きてる騒ぎを、こっちが少し離れて聞いてる、っていう感じかな」
ユウトが、スープの表面を見ながら、小さく付け加える。
「こっちに向かってくる感じじゃなくて……遠くで大きい何かが暴れてて、そのまわりでいっぱい誰かが止めてる、みたいな」
「なるほどね……」
サナは、スプーンをくるくる回しながら考え込む。
「前に、市場の人が言ってたじゃない。荷物検査が厳しくなったとか、“変な荷物持ち込むやつがいるからだ”とか」
「うん、言ってた」
「また、誰かがそういう危ないものを持ち込んで、夜のうちに暴れたのかも。ロックボアの仲間、ってわけじゃないだろうけど」
完全に的外れとは言い切れない。
「たしかに、それくらいは想像できるね」
私はうなずいた。
「ただ、詳しいことは何も分からない。天耳通も、肝心なところを全部ぼかしてくるし」
「ぼかす?」
「そう。人の名前とか、場所を特定できそうな単語とか、聞こえそうで聞こえないの。前に“能力台帳表示”で見たとおり、“全部は聞かせないつもり”って言われてる感じ」
「……それって、ある意味、女神さまが“そこまで首を突っ込む必要はない”って言ってるのかもね」
サナが、少しだけ真面目な顔で言った。
「もし本当に、私たちが駆けつけなきゃいけない状況だったら、逆にもっとはっきり聞こえるようにしてくる気がする」
「わたしも、なんとなくそう思う」
スープを口に運びながら、ぼそっと続ける。
「ユウトも、“こっちに来る感じじゃない”って言ってるし」
「うん。こっちは、テントのなかも家のなかも、ぜんぜん“黒くない”。怖いのは、ぜんぶ向こう側」
ユウトは、自分の胸のあたりを軽く押さえた。
「……だとしたら」
ユタカが、コーヒーを一口飲み、カップを置いた。
「俺たちが今やるべきなのは、“いつもどおりに過ごす”ことだと思う」
「ギルドは?」
「行くよ。もし街が本当に危ない状況なら、ギルドから避難や協力の話が来るはずだ。何も来てないってことは、“騒ぎはあったけど、今はこっちに手伝いは求められてない”ってことだと思っていい」
それは、現場の人間としての実感でもあるのだろう。
「何かあれば、あっちからうちを頼ってくる。そのときは、その範囲で手伝えばいい。……でも、自分たちからわざわざ騒ぎに飛び込んでいく理由は、今のところない」
「わたしも、それでいいと思う」
サナがうなずく。
「もし、街の人たちが助けを求めてきたら、そのときはそのとき。でも、“見に行きたいから見に行く”は違うよね」
「うん」
私も、胸の中で同じ言葉をなぞった。
「というわけで、今日の方針」
パンを口に運びながら、私は指を一本立てる。
「ユタカは、いつもどおり午前中ギルド。何かあったら、ちゃんと連絡をもらうこと。……私とサナとユウトは、今日は街には行かない。野営地から外にも出ないで、家とテント周りで過ごす」
「了解」
「はーい」
「……わかった」
三人ぶんの返事が重なった。
世界のどこかで、何かが起きている。
その全部に、私たちが直接関わる必要はない。
そんな当たり前を、今朝は“方針”として決め直す必要があった。
◆ 野営地で聞く、昨夜の街
ユタカがギルドに向かったあと、私は一度、テントを外側から見て回った。
城壁の外の野営地は、いつもどおりだった。
早い時間の出発組が、荷馬車の荷を確認している。
焚き火の跡を片づける人、馬の世話をする人。
遠くで鳥が鳴き、森のほうからは木々のざわめきが聞こえる。
――そして、城門のほうからは、人々の話し声が、かすかに混じって届いてくる。
「聞いたか? 夜中に魔物が出たって話」
「城下の倉庫のあたりだろ。魔獣だってよ。……誰かが隠し持ってたって噂だ」
「またかよ……。前のロックボアの件で懲りてないのか」
あくまで噂話。
それでも、明け方のざわめきが「ただの気のせい」ではなかったことは、はっきり分かる。
私は意識して耳を澄ませてみた。
天耳通は、普段より少しだけ敏感に働いている。
声の方向や距離が、いつもよりくっきりと分かった。
ただし。
「……名前の部分が、聞こえない」
荷をくくり直しながら話している商人たちの会話は、断片的に拾える。
昨夜、街の一角で魔獣が暴れたこと。
騎士団と兵士隊、それに冒険者たちが駆けつけたこと。
教会からも、光の魔法を使う人たちが出てきていたこと。
何人か怪我人は出たが、街全体が炎に包まれるような事態にはならなかったこと。
そこまでは、聞こえる。
けれど、肝心の「誰が」「どこで」「何をしていたのか」に触れる単語だけが、きれいに抜け落ちていた。
『〇〇家の倉庫から――』
という声が聞こえた気がした瞬間、その部分だけ、水の中に沈められたみたいにぼやけた。
『貴族の××が――』
と続きそうになったところで、風がふわっと音をさらっていく。
まるで、紙の一部だけを破り取ったみたいに、会話の真ん中だけが欠けていた。
(……ここまで徹底してやられると、逆に笑えてくるなあ)
私は、苦笑いしかけてから、首を横に振った。
「ママ、どう?」
テントの入口から顔を出したユウトが、心配そうにこちらを見る。
「危ない感じは?」
「うーん。……“昨夜は大変だった”って話は、やっぱり本当みたい」
私は、彼の頭をぽんと撫でる。
「でも、今のところ“こっちまで来てる”感じはしないな。ざわざわは、さっきよりもだいぶ弱くなってる」
「ぼくも。朝より、ずっとまし」
ユウトは、胸に当てていた手を離した。
「まだ遠くのほうで“黒いの”がちょっと動いてるけど……さっき言ってた“白いやつら”が、そのまま押さえ続けてる感じ。こっちには、流れてこないって感じ」
「じゃあ、なおさら私たちはここで大人しくしてるのが正解だね」
「うん」
テントに戻ると、サナがリビングのテーブルに薬草を広げていた。
「ただいま」
「おかえり。外、どうだった?」
「噂話くらいは聞こえたよ。やっぱり、街のほうで魔獣が暴れたっぽい」
「やっぱりかー」
サナは、乾いた葉を指先で砕きながら息を吐いた。
「こっちはこっちで、できることやっておこうか。……軟膏、今日中に何個か作っておく。明日以降、また必要になるかもしれないし」
「お願い」
私は、キッチンのほうへ向かいながら答えた。
「私は食材の在庫を確認しとくね。街に出ない日が続いても困らないように」
「ネットスーパーもあるしね」
「そう。だけど、こっちの世界のものもちゃんと使いたいから」
そうやって、私たちは「いつもの作業」に散っていった。
天耳通は、ときどき外のざわめきを差し込んでくる。
遠くで、誰かが大声で笑ったり、何かを悔しそうに叫んだりしている。
でもその合間に、サナの乳鉢を擦る音や、ユウトが机で絵を描いている鉛筆の音が混じることで、世界の重心はちゃんとこの家に引き戻されていた。
(世界は勝手に大騒ぎして、勝手に落ち着くこともある)
そんな当たり前のことを、今日は少しだけ強く思い知らされた。
◆ ギルドの一室 ― 夜明けのあと
――俺の名は、セリューン・グレイ。
アロヴィナ商業ギルドの副ギルド長だ。昨夜は、さすがに早寝とはいかなかった。
「まったく、勘弁してほしいな」
朝の光が差し込む執務室で、俺は机の上の紙束に目を通しながら、ひとりごとのように呟いた。
夜半。
街の一角で魔獣が暴れた、という報せが飛び込んできたのは、ランプの火が心細くなってきたころだ。
兵士隊、騎士団、冒険者ギルド、教会。
そこに“倉庫絡み”の話が混ざった時点で、商業ギルドも無関係ではいられない。物の出入りが絡めば、最後に泥をかぶるのは大抵こちらだ。
「保管してあった魔獣が“暴走した”……ね」
報告書の文面をなぞるように読み上げる。
「ずいぶん都合よく、檻だの鎖だのが壊れるもんだ」
「都合よく、なあ」
扉をノックもせずに入ってきた声に顔を上げると、エルヴェが立っていた。
「よく眠れたか?」
「おかげさまで。そっちは?」
「こっちも、まあ、そこそこな」
エルヴェは椅子を引き寄せて腰掛けると、手にしていた紙束を机の上に滑らせた。
「“たまたま保管していた魔獣が暴走した”ってことにしたい連中の顔が、ありありと目に浮かぶぜ」
「領主にとって都合の悪い連中ほど、そういう“偶然”に頼りたがる」
俺は肩をすくめた。
夜中の騒ぎは、どうにか城下の一角で食い止められた。
兵士隊だけじゃなく、領主付きの騎士団も一部出たという。
騎士団と兵士隊、それに冒険者たちが前に出て、教会の光が後ろから支えたと聞いている。
死んだ者も、重傷者も出た。
けれど、街全体が炎に包まれるような事態にはならなかった。
「幸いだったのは、あいつらを叩き起こす必要がなかったことだな」
「あいつら?」
「平伊の一家さ」
俺は、窓の外に目をやった。
城壁の向こう、森の手前の野営地。
そのさらに奥に、あの妙に落ち着いた家族のいるテントがある。
「夜中の時点で“街全体が危ない”って話になってたら、たぶん教会経由でこっちにも話が回ってきてたろうけどな」
「さすがに、“テントの外まで魔獣が来る”ような状況になったら、こっちから頭を下げに行く」
エルヴェも窓の外をちらりと見る。
「でも、昨夜の範囲なら、騎士団と冒険者と教会で片をつけるべき話だ。旅人一家を、わざわざ渦に放り込む義理はない」
「同感だ」
俺は、机の上の紙を軽く叩いた。
「こっちとしては、“まっとうな稼ぎをしてくれて、非常時には手を貸してくれるかもしれない旅人一家”でいてくれれば、それでいい」
「うちの都合で引きずり込むのは、最後の手札に取っておきたいところだな」
「そういうことだ」
報告書には、倉庫の持ち主の名も、手配された者たちの名も書かれている。
政治だの貴族だのといった話は、俺たち現場の人間にとって、あまり気分のいいものじゃない。
だが、その尻拭いまで「旅の家族」に押しつけるつもりは、まったくなかった。
「とりあえず今日のうちに、“夜中に騒ぎがあったが、今は落ち着いている”くらいのことは伝えておいたほうがいいだろうな」
「だな。詳しい話は、そのうち噂で耳に入る」
エルヴェは椅子から立ち上がる。
「じゃあ、こっちはこっちで“怪しい荷”の出所を、もう少し追ってみる。お互い、巻き込みすぎないようにな」
「ああ。頼む」
一人になった部屋で、俺はもう一度窓の外を見た。
昨夜のざわめきは、今はもうない。
代わりに、いつもの市場の喧騒が戻りつつあった。
その向こうの野営地で、あの家族が、いつもどおりの朝を迎えている光景を勝手に思い浮かべながら、俺は溜息をひとつ落とした。
◆ 静けさが戻った夜に
その日の夕方。
日が傾き始めたころには、外のざわめきも、ほとんど普段どおりになっていた。
天耳通が拾ってくるのも、商人の値切り交渉や、子どもの笑い声、どこかの店の夫婦喧嘩じみた言い合いばかりだ。
昼間、ユタカはギルドから一言だけ教えてくれた。
「昨夜、街の一角で魔獣が暴れたそうだ。兵士隊だけじゃなく、領主付きの騎士団も一部出たらしい。冒険者と教会も動いて、今はもう落ち着いているそうだよ」
詳しいことは、聞いていない。
聞いたところで、私たちにできることが増えるわけでもない。
「こっちはこっちで、今日もちゃんとご飯作ったしね」
夕食の後片づけを終え、ソファに腰を下ろしながら呟く。
サナは、借りてきた薬草の本を膝に置いてページをめくっている。
ユタカは、明日のギルドの予定を簡単に確認していた。
ユウトは、私の隣であくびをしている。
「きょうは、もう、“ざわざわ”ほとんどしない」
「そう?」
「朝は怖かったけど、今は……なんか、“遠くのほうで小さい片づけしてる”くらい」
ユウトは、自分の胸を軽くコンコンと叩いた。
「“こっちは、もう大丈夫だから、寝てていいよ”って感じ」
「じゃあ、素直に寝ようか」
私は笑って、彼の頭を撫でる。
世界のどこかで、誰かが戦って、誰かが守っている。
その陰で、こうして普通に夕飯を食べて、普通に布団に潜り込めるなら、それもちゃんとした平和の形なんだと思いたかった。
全部を自分たちで背負わなくてもいい。
全部を見なくても、生きていける。
そんな当たり前のことを、天耳通がわざわざ示してくれた一日だった。
その夜、布団に入って目を閉じたとき、耳の奥はひどく静かだった。
静かで、少しだけ寂しくて――でも、確かに安心できる静けさだった。




