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家族と始める異世界の暮らし  作者: 翠川
第1章 アロヴィナでの日常

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第11話 静かな翌日、揺れはじめるもの

 

 ◆ 朝、金色の話


 目を覚ますと、窓の向こうには、城壁の外側の草地が、いつもどおり静かに広がっていた。


 ――と言っても、「いつもの」と言えるほど、この世界に来て日は経っていない。

 それでも、街の喧噪より、この家の朝の空気のほうが落ち着くのは確かだった。


 食卓には、昨夜のうちにネットスーパーで頼んでおいたパンとスープ。

 家族全員が席につき、ひととおり「いただきます」を終えたころ、私は皿を重ねながら口を開いた。


「ねえ、サナ」


「うん?」


「昨日、市場で出してたあの光、覚えてる? ロックボアの近くで……怪我人を治したときの」


 言いながら、自分の胸の奥が、ほんの少しだけきゅっとなる。


「最初に森で指を治したときと、色が違ってた気がするんだけど」


 サナは少しだけ考えるように目を伏せ、それからうなずいた。


「うん、私も思った。森のときのは、ただ“ふわっと明るい”って感じだったけど……昨日のは、はっきり金色だった」


「やっぱり、そうなんだ」


 私の中だけの見間違いではなかったらしい。


 隣でパンをかじっていたユウトが、ちょっとだけ顔を上げた。


「きんいろ……きれいだった。こわかったけど……助かってよかった」


「そうだね」


 私はユウトの頭を軽く撫でてから、サナに視線を戻した。


「光の色が変わったのって、自分ではどう思う?」


「たぶんだけど……」


 サナはカップを両手で包み込むように持ちながら、ぽつりと続けた。


「教会で女神さまに祈ってから、魔法の感じが少し変わった気がするの。前より、ちゃんと“力が乗ってる”みたいな。だから……そのせいかも」


「そう……」


 教会での祈りが、何かのきっかけになった。

 そう考えるのは、たしかに自然だ。


「そっか。じゃあ、昨日みたいに大きな怪我でも助かったのは、女神さまとサナのおかげだね」


「……そう言われると、ちょっとむずがゆいけど」


 サナは、困ったような、それでも少し誇らしそうな笑みを浮かべた。


「でも、あの人たちが助かったなら、よかった」


「うん」


 私はそこで一度、深く息を吐いた。


「だからこそ、これからも“どう使うか”は、ちゃんと考えないとね」


「それは、ほんとにそうだと思う」


 サナがまっすぐこちらを見てうなずく。

 その横で、ユタカが静かにコーヒーを飲みながら、こちらの会話に耳を傾けていた。


「今日はどうする?」


 ユタカがカップを置き、話題を切り替える。


「昨日、怪我人多かったみたいだし……軟膏、十個分くらい作っておいたから、薬屋さんに卸しに行きたいなって思ってる」


「十個も?」


「昨日の夜と、さっきまでで。材料はまだあるから、大丈夫」


「頼もしいね」


 私は思わず微笑んだ。


「じゃあ午前中は街へ行って、まず薬屋さんに寄ろうか。そのあと市場で買い物して、軽くお昼を食べて……時間が合いそうなら、教会にも寄って、昨日のお礼を言いに行こう」


「うん、賛成」


「ぼくも行く」


 ユウトが手を挙げる。


「じゃあ、今日は三人で薬屋と教会。ユタカは?」


「午前中はギルドで書類。昨日のこともあるし、顔を出しておいたほうがいい」


 ユタカは、少しだけ申し訳なさそうに笑った。


「午後は、できるだけ早く切り上げるつもりだよ」


「分かった。じゃあ、門の手前までは一緒ね」


 こうして、事件の翌日の一日が、静かに始まった。




 ◆ 教会の前と、「黒い人」


 野営地から街までは、もうずいぶん歩き慣れた道になってきた。


「今日は昨日より、兵士さん多いかも」


 城門が見えてきたところで、サナが小声で言う。


 たしかに、門の前には、きのうより多い鎧姿が見えた。

 荷馬車の荷台を確認する目も、いつもより厳しい。


「昨日の件のあとだからね……しばらくは、こんな感じかも」


 私も、心の中でうなずくしかなかった。


 門番とのやり取りは、もう慣れたものだった。

 ユタカが静かに挨拶し、「街の中で仕事と買い物をする」と告げれば、それ以上詮索されることもない。


 門をくぐって少し行くと、教会へと続く通りが見えてくる。


「さっきの話もあるし……人が少なそうなら、そのまま教会に寄ってもいいけど」


 そう言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。


 教会の前には、いつもより多くの人が集まっていたからだ。


 祈りを捧げる人。

 聖堂の出入り口で、何かを話している人。

「昨日は無事で……」という断片的な声も聞こえる。


(みんな、昨日のことがあって来ているんだろうな……)


 そう考えたとき、横でユウトが、教会のほうをじっと見つめたまま、私の袖を引いた。


「ママ……」


「どうしたの?」


「なんか……あそこ、黒い人がいる」


「黒い人?」


 私は無意識に、教会の入り口付近を目で追った。

 それらしい格好の人はいない。ただ、じっとこちらをうかがうような視線の気配だけが、遠くのほうで引っかかる。


「昨日の……?」


 と口に出しそうになって、やめた。


 この街には、私たちの知らない事情がいくらでもある。

 それを、こちらからわざわざ踏みに行く必要はない。


「……そうだね。今は人も多いし、教会はあとにしようか」


 私は、あえて軽い声で言った。


「先に薬屋さんと市場に行こう。お昼を食べてから、もう一度様子を見に来ればいいよ」


「うん」


 ユウトはまだ少し落ち着かない顔のまま、私の手を握り直した。

 その温度を感じながら、私は教会を背にして、商業区のほうへと足を向けた。




 ◆ 薬屋での、初めての稼ぎ


 薬屋に入ると、乾いた薬草と油の匂いが、落ち着いた空気と一緒に迎えてくれた。


「いらっしゃい。……ああ、平伊さんたち」


 カウンターの向こうで、レオンが顔を上げて、にこりと笑った。

 その声に気づいたのか、奥からは彼の妻・ミランダも顔を出す。


「昨日は大変でしたね」


 ミランダがそう言って、カウンターのこちら側まで出てきた。


「いえ、そちらも、お怪我をされた方が多かったのでは?」


 私が尋ねると、ミランダは少し肩をすくめた。


「ええ、そこそこね。あの騒ぎのあと、ここにも何人か来まして。全部が全部、うちの薬でどうにかできる怪我じゃないですけど……幸い、命に関わる方はいませんでした。それだけでも女神さまに感謝です」


「本当に」


 私も自然とうなずいていた。


 サナが、背負ってきたかばんから、小さな瓶をそっと取り出す。


「あの、昨日みたいなこともあったので……軟膏を少し、作ってきました」


「おお、十個も?」


 レオンの目が、わずかに見開かれる。


「中身は前と同じ配合です。たぶん、打撲とか切り傷にはそこそこ役に立つはず」


「前回のも、よく効くって評判だったよ」


 レオンは手慣れた様子で一本を開け、においと質感を確認する。


「うん、いいね。じゃあ、前に話したとおりでどうかな。店での売値は一本銅貨四枚。サナちゃんには一本につき銅貨二枚」


「はい。それで大丈夫です」


 サナが少し緊張した声でうなずく。


 レオンは帳面にさらさらと何かを書き込み、それから小さな袋を取り出した。

 サナがそっと手を差し出すと、その上に丸い銀貨が二枚、ちりんと音を立てて置かれた。


「十個分で銀貨が二つ。ここでの“初めての稼ぎ”だね」


 サナは一瞬きょとんとしてから、腰の小さなポーチを開けて、銀貨を大事そうにしまう。


 それを見ているだけで、私の指先にも、その冷たい重みが伝わってくる気がした。


 それは、数字にすればささやかな額なのかもしれない。

 でも、この世界で娘が自分の手で作ったもので得たお金だと思うと、その重みは「銀貨二枚」という数字以上のものに思えた。


「ありがとうございます。本当に助かります」


「助かるのはこっちだよ。昨日みたいなことがあるとね、いくらあっても足りないから」


 レオンは笑いながら、カウンターの奥へ瓶を運んでいった。

 ミランダは、その背中を見送りながら私たちに向き直る。


「また材料が必要になったら、遠慮なく言ってくださいね。薬草の買い取りもしますし、裏庭の畑を見に来てもらってもいいですし」


「そのときはお世話になります」


 私は頭を下げた。


 店を出るとき、ユウトがぽつりと言った。


「ここ、好き。におい、落ち着く」


「そう? 薬草の匂い、けっこう強いと思うけど」


「うん。だから、なんか安心する」


 そう言って、私の手に自分の手を重ねてくる。

 私はその手を握り返しながら、三人で薬屋を後にした。




 ◆ 市場と昼食、そして再び教会へ


 薬屋を出たあと、私たちは市場でいくつか買い物をした。


 パン屋では、丸いパンをいくつか。

 干し肉と、保存が効きそうな豆。

 ついでに、野営地の家でも扱いやすそうな野菜を少し。


「昨日のせいで、今日は少し静かだね」


 サナが周囲を見回しながら言う。


「たぶん、みんなまだ疲れてるんだと思うよ」


 売り子の声には、いつもの元気さがなかった。

 それでも、店はちゃんと開いていて、人々も普通に買い物をしている。


 大きな事件があっても、日常の歯車は止まらない。

 それが、なんとなく心強くもあり、少しだけ切なくもあった。


 市場の端で、簡単なスープとパンの昼食をとる。

 ユウトは、スープをすすりながら、時折、通りを行き交う人々をじっと見ていた。


「さっきの“黒い人”、まだいる?」


 私は小声で尋ねる。


 ユウトは少しだけ考えてから、首を横に振った。


「ううん。いない。さっきほど、あんまりざわざわしない」


「そう……」


 私は、小さく息を吐いた。


「じゃあ、食べ終わったら、もう一度教会に寄ってみようか」


「うん」


 スープを飲み干し、パンを食べ終えたころには、私の中の緊張も、少しだけほどけていた。




 ◆ 祈りとリーネ、女神の水


 さっきよりも、教会の前は落ち着いていた。

 人の出入りはあるものの、午前中のような人だかりではない。


「行こっか」


 私は二人に声をかけ、石段を上る。


 中は、ひんやりとした空気に包まれていた。

 水をかたどった女神像が、静かにこちらを見下ろしている。


 私たちは並んで立ち、それぞれ手を組んだ。


 ――昨日、大きな怪我や、命を落とす人が出なかったこと。

 ――サナの魔法で助かった人たちが、この先も元気でいられるように。

 ――そして、自分たちの力の使い方が、間違ったほうへ転ばないように。


 心の中で言葉を並べていくと、少しずつ、胸の奥のざわめきが静まっていく。


 隣では、サナも目を閉じていた。

 きっと同じように、昨日怪我をした人たちのことを思っているのだろう。


 ユウトは、そっと私の袖をつまんだまま、短く祈りを終えたようだった。


 ふと、水盤のほうから、かすかな音がしたような気がした。

 水面が、ほんの少しだけ丸く揺れたようにも見える。


(……気のせい、かな)


 そう思いながら、私は軽く一礼し、顔を上げた。


「平伊さん?」


 振り向くと、見慣れた巫女服の姿が立っていた。

 リーネだ。


「昨日は……本当にお疲れさまでした」


 柔らかな声が、静かな聖堂に溶ける。


「お怪我は、ありませんでしたか?」


「ええ。私たちは大丈夫です。そちらこそ」


 私は頭を下げた。


「そちらも、大きな怪我人や、亡くなられた方はいなかったって聞きました。本当に、よかった」


「はい。女神さまのおかげです」


 リーネは、女神像へ視線を向ける。


「それと……昨日、市場でのサナさんの光、見ていました」


 横で、サナが少し肩をすくめた。


「とても、きれいな光でした。あれほどはっきりした光は、そう多くはありません」


「……そう、なんですね」


 私は、少し迷いながら口を開いた。


「最初に森で、サナが自分の指を治したときがあって。そのときの光は、もっとぼんやりした“淡い光”って感じだったんです」


「でも昨日は、はっきり金色で」


 サナが、小さく付け加える。


「たぶん、教会で女神さまに祈ってから……魔法の感じが少し変わった気がしてて。前より、ちゃんと“力が乗ってる”みたいな。そのせいかも、って思ってます」


 リーネは、ふんわりと微笑んだ。


「教会でお祈りを重ねた方の中には、魔法の届き方が変わる方もおられます。きっと、女神さまとのご縁が、少し強くなったのだと思いますよ」


「ご縁……」


 サナはその言葉を、小さくなぞるように呟いた。


「ただ――」


 リーネは、そこで一度言葉を区切る。


「それは、“使わなければならない”という意味ではありません。必要なときに、必要な分だけ。……それで十分です」


 その言い方は、押しつけがましくなく、むしろこちらを気遣うような響きだった。


「それと、サナさん」


「はい」


「前にも少しお話しましたが、薬の勉強も続けたいとおっしゃっていましたよね」


「はい。薬師として、ちゃんとできるようになりたいので」


「でしたら、教会の薬草の本を、何冊かお貸ししましょう。裏庭にも薬草がありますから、今度、時間のあるときに一緒に見て回りませんか」


 サナの顔が、ぱっと明るくなる。


「いいんですか?」


「もちろんです。女神さまの恵みを無駄にしないためにも、薬草を扱える人が増えるのは、教会にとっても喜ばしいことですから」


 リーネは、一度奥へ下がり、数冊の本を抱えて戻ってきた。

 表紙には、見慣れない植物の絵と文字が並んでいる。


「重くないですか?」


「大丈夫です。ありがとうございます」


 サナが、本を胸に抱えるように受け取る。


「それから、こちらも」


 リーネは、小さな瓶を三本、差し出した。

 透き通った水が、光を受けてわずかにきらめいている。


「女神さまの水です。怪我を一瞬で治すようなものではありませんが、疲れを癒やし、体と心を整えてくれます。少しずつ、必要なときに飲んでください」


「そんな、いただいてばかりで……」


「昨日のこともありますし、教会としてのお礼も兼ねています」


 リーネは、そう言って頭を下げた。


 ありがたい話なのに、胸のどこかが少しだけそわそわする。

 見守られている、というより、“見られている”ような感覚もあって。


 それでも、その中に、悪意や打算は感じられなかった。


「ありがとうございます。大事に使わせてもらいます」


 私はそう答え、小さく会釈をした。




 ◆ ギルドでの話 ― セリューンとユタカ


 そのころ、商業ギルドの一室では、別の会話が交わされていた。


 ――俺は、セリューン・グレイ。

 アロヴィナ商業ギルドの副ギルド長。現場で汗をかくほうの役回りだ。


「昨日は、本当に助かりました」


 向かい合う男――平伊ユタカは、いつもの落ち着いた表情で椅子に座っていた。


「いえ。目の前でああいうことが起きた以上、動かないわけにはいきませんでしたから」


 言葉遣いは丁寧だが、どこか、この国の人間とは違う“染まりきっていない”雰囲気がある。

 それが彼の出身ゆえだというのは、採用のときに少しだけ聞いていた。


「まずは、正式にお礼を言わせてください。あの突進を止められたのは、間違いなくあなたの魔法のおかげです」


「……ありがとうございます」


 ユタカは、少しだけ居心地悪そうに目を伏せた。


「それで、今後の話なんですが」


 俺は、机の上の書類を指先で軽く叩く。


「あなたの肩書きは、これまでどおり『商業ギルド所属の事務員』です。日々の仕事も、帳簿や計算が中心。そこは変えません」


「はい」


「ただし、内部の記録として、非常時協力要員――魔法の扱える者のリストに、あなたの名前を加えたい」


 ユタカが、少し驚いたように顔を上げる。


「それは、しょっちゅう前線に出てもらう、という意味ではありません。家族もおられますしね。あくまで、“どうしても手が足りないときに頼るかもしれない一人”として」


「……そういうことでしたら」


 ユタカは、胸の前で手を組むようにして、小さくうなずいた。


「無理はさせません。こちらとしても、優秀な事務員を潰す気はありませんから」


 冗談めかして笑うと、ようやく彼の表情も少し和らぐ。


「それと、確認なんですが」


 俺は、採用時のメモに目を落とした。


「生まれは“アース”という遠い国で、そのあと辺境の村ジャパンに移り住んだ……という話でしたね」


「はい。今は“ジャパンから来た”と名乗っていますが、生まれ自体はアロイスの外です」


「なるほど」


 俺は、昨日書いた報告書の「異国出身」という一文を、心の中でなぞり直す。


 ――辺境の村から来た旅人であり、異国生まれでもある。

 どちらも、嘘ではない。


「魔物の出どころについては、こちらと兵士隊、それから冒険者ギルドで探ります。あなたを捜査に巻き込むつもりはありません」


「それは……助かります」


 ユタカは、はっきりとした安堵の色を見せた。


「ただ、もし何か思い出したことがあれば、そのときに教えてください。その程度で十分です」


「分かりました。そのときは必ず」


 そう言って頭を下げる彼を見て、俺は改めて思う。


 ――この男を、妙な渦に巻き込みたくはない。


 昨日、あの場で見せた魔法は、間違いなく一級品だ。

 だが、それ以上に、彼の帳簿と計算に対する真面目さは、この街にとって貴重なものだと思えた。




 ◆ 夕暮れのギルド ― セリューンとエルヴェ


 その日の夕方。

 窓の外が赤く染まり始めたころ、冒険者ギルドからの使いがやってきた。


「入れ」


 ドアをノックして入ってきたのは、エルヴェだ。


「調査のほうは?」


「まだ“匂う”程度だがな」


 エルヴェは肩をすくめ、数枚の紙を机の上に並べた。


「最近、やけに羽振りのいい商人が何人かいる。あと、荷車の出入りが妙に多い一団も。直接“魔物”とは書いてねえが、気にはなる」


「名前は?」


「ここに」


 俺は紙に走り書きされた名前を目で追う。

 まだ“白か黒か”を決められるほどの情報ではない。


「慎重に頼む。正面から兵士隊に投げると、政治の匂いが強くなりすぎる」


「分かってるさ。あくまで“酒場で耳に入った話”を拾うくらいにしとく」


 エルヴェは、そう言って笑ったあと、ふと思い出したように付け加えた。


「そういえば今日、市場で例の旅人の家族を見たぞ。娘さんが薬屋で、店主と薬の話をしてた」


「薬屋か」


 俺の頭に、昼間のユタカの顔が浮かぶ。


「ああいう、まっとうな稼ぎをしてくれる連中には、できるだけ平穏なままでいてもらいたいな」


「同感だな」


 エルヴェは、窓の外に視線をやってから言った。


「こっちの勝手な都合で、変に振り回すのはごめんだ」


「だからこそ、巻き込みすぎないようにしよう。うちにとっては、“まっとうな協力者”でいてもらうのが一番だ」


 俺はそう言って、紙束を整えた。


 窓の向こうでは、アロヴィナの市場が、いつもの喧騒を取り戻しつつあった。

 その賑わいの裏で、静かに糸をたぐるように、いくつかの思惑が動き始めている。


 その波紋の中心に――あの旅人の家族が、あまり近づきすぎませんように。


 そんなことを、心のどこかで祈りながら、俺は机の上のランプに火を灯した。



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