第24話 世界を騙す者達 ― 帰結 ―
職員室の扉が閉まると、四人の前には長い廊下がまっすぐ伸びていた。
騒がしさの残る校舎のどこか遠くで、遅れてチャイムが響く。
「おじさん。本当にごめんなさい」
雪杜の声は、さっきまでの張りつめた余韻を引きずったまま震えていた。
「迷惑をかけて……すまぬ」
御珠も小さく頭を下げる。
修一は二人を見渡し、柔らかいが芯のある声で返した。
「いいんだ。俊明からも頼まれてるしな。
俺も二人を見守りたいんだ」
その言葉に、雪杜は胸の奥が熱くなる。
「おじさん……」
修一はそこで視線を横へ移した。
咲良の方へ。
「君は……
春原さんのところの……
よく一緒に海に来てた子だね」
咲良は背筋を伸ばし、深く息を吸い、名乗る。
「はい……春原 咲良です。
……雪杜の、彼女やってます……」
一瞬、誰も息をしなかった。
「……彼女?」
修一の声は低い。
驚きはあるが、拒む色はない。
そして、ゆっくりと雪杜へ視線を戻す。
「こ……これには深い訳が……」
雪杜が慌てて言いかけたところで、
「……だろうな」
修一は軽く息を吐き、肩の力を抜いた。
「まったく……
若いってのは、忙しいな」
咲良が思わず目を丸くする。
御珠も、ほんの一瞬だけ表情をゆるめた。
修一は続ける。
「安心しろ。否定する気はない」
その一言で、三人の肩からこわばりが少し抜けた。
「今日のところは……
全員、帰ろう」
四人はゆっくりと歩き出す。
足音が並び、影が並び、進む速度も揃う。
廊下の窓から差し込む光は、事件の前と何も変わらない。
まぶしくて、冬らしくて、いつもの朝の光だ。
――なのに、世界はもう同じ形ではなかった。
戻れない場所があること。
前へ進むしかないこと。
四人とも、そのことを確かに理解していた。
その無言は、重さではなく覚悟だった。
―――
昼前の天野家は、外の騒ぎとは対照的に、ひどく静かだった。
玄関の扉が閉まる音が、水面に落ちる小石みたいに小さく響く。
「……とりあえず、入ろうか」
雪杜の声は、疲れと安堵が入り混じっていた。
「うん……」
咲良もそのまま雪杜の後に続く。
「……昼時じゃな」
御珠の声は淡々としているが、どこかほっとした色があった。
三人は居間へ入った。
こたつは朝と同じ形でそこにある。
世界の騒ぎから切り離された島みたいに見えた。
「お腹、空いてない?
なんか作るよ」
「……あ、私やる。
気を紛らわせたいし」
「では妾は、座っておる」
咲良が立ち、雪杜も後に続く。
台所には、いつもの暮らしの匂いが戻りつつあった。
しばらくして、湯気を立てる昼食が並ぶ。
味噌汁の香りと湯気のやわらかさ、箸の音。
手元のことばかりが増えていき、部屋の張りがゆっくりほどけていく。
「……普通だね」
咲良は、自分の声が震えていないことにほっとした。
「うん。
だから、助かる」
「……世界が騒がしくとも、腹は減るものじゃ」
三人は箸を取り、少しずつ肩から力が抜けていく。
食後、再びこたつに沈んだ。
雪杜がスマホを開く。
「……大荒れだな」
画面には、うねるように更新され続ける文字列。
【篠見中学校情報板】
《今日の件、ガチでヤバい》
《先生に連行されたって》
《あれも嘘なんじゃね?》
《お父さん?きてたっぽいよ》
《御珠が孤児ってマジ?》
《子供できないって聞こえた》
《それってどういう意味だよ》
《じゃあ天野は何してんの?》
《慰めてたとか?》
《抱き合ってたのは本当》
《一生一緒って言ってた》
《意味わからん》
《情報多すぎ》
《整理できん》
咲良は目を細め、遠くを見るように呟く。
「……見ない方がいいって分かってるのに」
御珠は腕を組む。
「見るから、終わるのじゃ」
そこへ、三人のスマホが同時に鳴った。
【元・天野ファミリーチャット】
駆:教室、めっちゃ静か
駆:誰も例の話しない
駆:ショックが大きすぎた
颯太:先生、雑談禁止令みたいなの出した
颯太:逆に怖い
咲良:迷惑かけちゃってごめん
雪杜は、かすかに息を吐く。
「……効いてる、みたいだ」
「……よかった、のかな」
「よい悪いではない。
終わっただけじゃ」
再び通知。
颯太:てか外国は嘘だったのか
雪杜:ごめんね……
雪杜:身体のことは最重要機密だったから……
颯太:そりゃそうか
莉子:……そっか
莉子:無理しないでね
御珠:うむ
雪杜は眉を寄せた。
「みんなにまた新しい嘘つくことになるのか……」
御珠は静かに言う。
「そう気に病むでない。子が成せぬのは本当じゃし、半年前まで戸籍もなかったでの。孤児なのも本当じゃ。
あながち……嘘でもあるまい」
「え?戸籍?
御珠ちゃん戸籍できたの?」
「そうじゃ。晴臣の養子になったのじゃ」
「えーーーーーー!
ここにも爆弾が!」
「さ……咲良。これはその……」
「じゃあ……
御珠ちゃんって、雪杜の……
叔母さん?」
「法の上では、そうなるの」
「同級生なのに!?」
「人の世は、ややこしいのじゃ」
咲良はしばらく黙ったあと、ぽつりと口を開く。
「……じゃあさ。
もしかして……
雪杜と、結婚できるの……?」
誰も息をしなかった。
「……そう、じゃな」
咲良の顔から血の気が引く。
「案ずるでない。
雪杜は、十八になるまで選ばぬと決めておる」
「……え?」
咲良は雪杜へ目を向ける。
「うん……
十八歳になるまでは……決めないことにしたよ」
「……そうなの?」
「うん……その、咲良のことも大事だから……」
御珠が噛みつくように叫ぶ。
「はっきり言わぬか!
昨日の男らしさはどこへ行ったのじゃ!」
「分かった」
雪杜は姿勢を正し、顔を赤くしながら言う。
「咲良のこと、好きだから。
選べないから」
「ずるいのは分かってる。
でも……十八歳まで、待ってほしい」
咲良は息をのみ、小さく震える声で聞き返す。
「雪杜……
いま、好きって……」
雪杜はこくりとうなずいた。
咲良の目から、ぽろりと涙が落ちる。
「……うれしい」
御珠が微笑む。
「よかったの、咲良。
そなたが、逃げずに向き合ったことが伝わったのじゃ」
「……うん。
ちゃんと、届いたんだね」
御珠はこたつの熱に身を預けながら続ける。
「うむ。何はともあれ明日よの」
「うん。これからだね」
「うん。三人で、乗り越えよう」
三人の肩からこわばりが抜け、言葉の角が丸くなっていく。
「ねぇ。明日から学校でも御珠ちゃんに普通に接していいんだよね?」
「……うむ。
隠れるつもりはない。
雪杜も守ると言うたしの」
「……守るよ」
(素敵……)
(かっこいいのじゃ……)
「御珠は口調どうするの?おせいそでいくの?
きょうの寸劇では“のじゃ”で威厳たっぷりだったけど」
「……どちらにしようかのぅ」
どうやら、それは彼女の気分に委ねられるようだった。
時間がゆっくりと進む。
スマホを見るたび、世界の荒れ具合が更新される。
グループチャットからは、ひとまず混乱は収まりつつあると報告が上がっていた。
やがて、時計の針が放課後を告げる。
「……そろそろ、放課後の時間かな。
私は帰るね」
「うん」
「気をつけて帰るのじゃ」
咲良は立ち上がり、振り返る。
「……雪杜、好きって言ってくれてありがとう。
私、いまとっても幸せだよ」
「……て、照れるのじゃ」
「そなた……何を真似しておるのじゃ」
三人は、小さく笑った。
この家の中だけ、今日という日が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
―――
仏間には、照明の柔らかな灯りが漂っていた。
窓の向こうには、静まり返った冬の闇が広がっている。
御珠は遺影の前に膝をつき、静かに手を合わせる。
灯りに照らされた晴臣の微笑みは、どこか温かく、今日一日の嵐を受け止めてくれるようだった。
「……晴臣よ」
声は遺影に落とされるというより、胸の奥から漏れ出す独白そのものだった。
「そなたは、きょうこの日が来ることを見越しておったのじゃな」
ゆっくり、まぶたが閉じられる。
「妾に戸籍がなければ、この手は使えなんだ」
淡々と語るその声には、痛みも、誇張もない。
ただ、真実だけが置かれていく。
「存在が曖昧なままでは、探られた時に、真実は噂へと堕ちてしまう」
御珠は遺影を見つめた。
その瞳に宿る影は、今日一日で背負ったすべてのものだった。
「戸籍という後ろ盾があるからこそ、妾は“孤児”と、堂々と名乗ることができた」
それは感情ではなく、論理だった。
だが、その論理が御珠の心を救ったのも事実だった。
「……晴臣……感謝する」
ほんのわずかに頭を下げる。
その仕草は人間らしくて、でも神らしかった。
言葉が途切れる。
仏間の灯りだけが、静かに揺れていた。
そこへ――遠くから雪杜の声が飛ぶ。
「御珠~。お風呂空いたよー」
御珠の肩が、ふっとゆるむ。
「いま行くのじゃー」
返事は、いつもの調子。
さっきまでの影を感じさせない。
立ち上がる前に、御珠は遺影をもう一度見た。
晴臣は写真の中で静かに微笑んでいる。
……ほんの少しだけ、今日の御珠を誇らしげに見ているようにさえ思えた。
御珠は小さく息を吸い、仏間を後にした。
その背中は、“神”としての静けさと、“家族”としてのぬくもりを、確かに両方抱えていた。




