第22話 世界を騙す者達 ― 予兆 ―
三が日の天野家は、家そのものが深い雪に沈んだように静かだった。
喪に服しているという理由だけではない。
歩き出す準備を、心の奥でまだ誰も整えられずにいた。
居間では、雪杜と御珠がこたつへ半ば溶けるように身を寄せている。
テレビの音は控えめで、湯気がゆっくりと立ちのぼり、時間の流れを示していた。
「……雪杜、みかん取ってくれぬか」
こたつの向こうから、御珠が眠たげに声を落とす。
「自分で取れるでしょ……」
返しながらも、雪杜の声はどこか緩い。
「喪中じゃ。甘やかされたい心持ちなのじゃ」
「……はいはい」
そんな他愛ないやり取りが、家全体の静けさを壊さないまま保っていた。
―――
三が日が明けた一月四日。
玄関に立った咲良の顔には、連日の神社仕事の疲れが薄く残っていた。
冷たい空気を吸い込みながらも、どこか安心した色が目に浮かんでいる。
「やっと来れた……一緒に宿題しよ」
「うん、座って。こたつあったかいよ」
御珠もちらりと顔を上げ、いつもの調子で咲良を迎える。
「咲良、そなたもみかんを食すか?」
三人はこたつを囲み、教科書やノートをばらりと広げる。
咲良はペンを握ったまま眠りに落ちそうになり、御珠が毛布をそっとかけ、雪杜がつづきを優しくフォローしていった。
「……なんか……安心する……」
小さな呟きが、こたつの熱に溶けた。
その横で、御珠のまぶたもゆっくりと落ちていく。
(む……妾も眠い)
冬の午後の柔らかさが、三人を静かに包み込み、久しぶりに“平和”と呼べる時間が居間へ戻ってきていた。
―――
その後の日々は、新しい生活へ向けての小さな積み重ねだった。
雪杜は料理の練習を重ね、御珠は包丁の持ち方をようやく覚える。
その他の家事も二人で試しながらやり方を決め、買い物にも慣れていく。
晴臣の不在は変わらず胸にあるのに、その重さが少しずつ、優しい形で生活の中へ馴染んでいく。
御珠が皿を割って落ち込む日もあれば、雪杜が煮込みを焦がしてふたりで苦笑する日もあった。
それでも二人暮らしは、少しずつ“当たり前”になっていった。
気づけば、冬休みの終わりがそっと近づいていた。
―――
始業式の前夜。
冬の夜がゆっくり沈む天野家では、こたつの熱が部屋の中心で灯っていた。
外では風もなく、雪が静かに舞っている。
「……明日から三学期、始まるね~」
雪杜がこたつへ体を預け、気の抜けた声を落とした。
「うむ。妾たちの日常も、また動き出すのじゃ」
向かいで湯飲みを手にする御珠の声は穏やかで、その言葉には“もう揺らがないでほしい”という願いが滲んでいた。
その矢先、こたつの上に置かれたスマホが、かすかに震えた。
液晶の光が、部屋の隅まで細く差し込む。
雪杜は気だるげに手を伸ばし、画面を確認する。
駆:お前らに悪い噂たってるぞ
雪杜:噂?
駆:これ
貼られていたスクショに映る文字列を、雪杜の目が追った。
『離れは嘘。しかも二人だけで暮らしてる』
指先がぴたりと止まる。
「え……なんでバレ……」
声が漏れた瞬間、御珠が湯飲みを静かに傾けたまま雪杜の顔色を読む。
「……何じゃ?」
「……駆から」
短く返し、雪杜は続けてメッセージを開く。
駆:広めたの、お前のとこの親戚筋の子どもっぽいぞ
駆:父親が葬式に参加してて『あの子ら、これからどうするんだろうな』って話を聞いたって
喉がひきつるように鳴った。
胸の奥で何かがざわめく。
(……そんなところから……)
御珠は言葉を引っ込め、視線を落とす。
否定でも安堵でもない。
ただ事実を受け止めていた。
駆:今のところ、憶測ばっかりだ
駆:でも三学期始まったら、一気に広がると思う
駆:気をつけろよ
雪杜:教えてくれてありがとう
メッセージの光が、二人の顔を淡く照らす。
こたつの熱より、画面の白さが指先に冷たく残った。
「……どうしようか」
ゆっくり息を吐きながら雪杜が言う。
御珠は、ふっとまぶたを閉じた。
わずかに揺れる藍の髪が、部屋の静けさを深める。
「……なるようにしかならぬじゃろ」
「……うん」
言葉はそれだけだった。
けれど、二人には十分だった。
――これはもう始まってしまった。
止める手段は、どこにも残っていない。
スマホの光が静かに落ち、画面が暗転する。
その瞬間、窓の外で雪の白さが、ひっそりと世界を照らしていた。
何も言わず、ただ降り続けている。
―――
同じ夜。
春原家の二階、咲良の部屋は暖房の熱でほんのり温かかった。
布団の上に転がされたスマホが、突然小さく震える。
液晶の光が天井を照らし、咲良は眠気をこすりながら画面をのぞき込んだ。
莉子:ねえ……雪杜くんと御珠ちゃん、変な噂広まってるよ
莉子:これスクショ
通知の文字列を見た瞬間、胸がひゅっと冷える。
(えっ……これって……)
広がる噂の文面には、見慣れた名前と、見慣れない悪意が並んでいた。
一度息をのみ、咲良は雪杜とのトーク画面へ指を滑らせる。
迷いが指先を止める。
それでも、打つ。
咲良:離れ設定が嘘なのと、二人で暮らしてる噂、出回ってるよ
雪杜:うん
雪杜:駆に教えてもらった
想像よりも落ち着いた返事が、逆に胸へ重く沈んだ。
咲良:どうするの?
雪杜:なるようにしかならないかと……
雪杜:ひとまず学校には行くよ
返ってきた言葉は、淡い霧のようで、掴みどころがない。
それでも、何かが崩れかけている兆しは伝わってくる。
咲良:気をつけてね
咲良:私もそばにいるから
雪杜:ありがとう
短い“ありがとう”が胸に落ちた瞬間、
咲良はスマホをそっと抱きしめた。
その温もりが、今の自分にできる唯一の行動のように思えた。
(せっかくおじいちゃんのことも少しづつのみ込んできてたのに……
……守りたい。
でも、私にできることって……)
布団の中で、小さな吐息が落ちる。
夜は深まり続けるのに、思考だけが静かに揺れ続けていた。
―――
朝の冷えが、校門の前に溜まっていた。
冬休み明けのはずなのに、そこにあるざわめきはどこか湿り気を帯びている。
咲良は、雪杜の隣に並んだ。
御珠は、その一歩後ろで足並みを合わせて歩く。
三人の距離は近いはずなのに、周囲の視線がその輪郭を勝手に切り取っていった。
歩みを進めるほど、耳にひそやかな声が流れてくる。
「……あの子たち?」
「昨日のチャット、見た?」
「離れは嘘で同じ屋根の下で暮らしてるらしいよ」
咲良は視線を強く前へ固定する。
雪杜も、周囲に反応する代わりに小さく息を整える。
御珠は表情を動かさず、足音を乱さず、ただ群れの中を進んでいく。
体育館で始業式が始まった。
天井から落ちる冷たい照明の中で、校長の声だけが響いている。
しかし、その内容を覚えている者はほとんどいなかった。
(……早く、終われ)
雪杜は整列したまま心の中で吐き出す。
咲良は、周囲の視線の揺れを見ないように意識を縛る。
(……見ない。聞かない)
御珠はただ一点を見つめ、静かに耐えていた。
(……まだじゃ。今は、まだ)
照明が反射する床の光が、時間の流れを示していた。
やがて形式的な拍手が場を揺らし、式は解散となる。
深呼吸にも似た、安堵とも疲労ともつかない“なんとか終えた”感覚が三人の胸に落ちた。
―――
放課後の廊下には、まだ始業式のざわめきが残っていた。
それでも教室はゆっくり静まり、ホームルームの時間が終わろうとしている。
「それじゃきょうはこれで終わりになります」
高橋先生の締めの声に、生徒たちは一斉に椅子を鳴らす。
その音が落ち着きかけた頃、先生が教壇の前でふと足を止めた。
「天野くん、御珠さん。
ちょっと職員室まで……」
声は柔らかい。
それでも“避けようのない何か”が混じっているのは、誰の耳にも伝わった。
「はい……」
「はい……」
二人は立ち上がる。
周囲が気まずそうに視線をそらす中、教室を静かに出ていった。
―――
職員室の扉を開けると、教室とは違う種類の静けさがあった。
資料の紙の匂いと、まだ温かいコーヒーの香りが混ざっている。
それが落ち着きを生むはずなのに、胸の奥は重いままだ。
高橋は座るよう促し、それから二人を見つめた。
「……心配していたことが、起こってしまいましたね」
その一言が落ちると、言葉が途切れた。
机に置かれたペンの音さえ、やけに目立つ。
「学校として、できることはします。
噂の拡散も、注意します」
言い切りながらも、その声には迷いが滲む。
言葉を探すように、高橋は短く息をついた。
「ただ……正直に言います。
未成年の男女が、二人だけで暮らすのは……限界があります」
雪杜の指が、膝の上で強く握りしめられる。
噂の問題ではなく、“社会の眼”そのものが突きつけられている――そんな思いだけが胸に残った。
「世間は、事情より想像で動きます。
それが、現実です」
御珠はゆっくりと頭を下げた。
声を荒げることもなく、ただ事実として受け止めている。
雪杜も、苦しげに息を吸う。
「……はい」
「……承知しております」
高橋の表情は責めるものではなく、どうにもならない現実を共有する人のものだった。
「ご家族とも、改めて相談しましょう。
今日は……それだけを伝えたかったです」
言葉が終わると同時に、室内の冷えが増したように思えた。
二人はゆっくり立ち上がり、扉の方へ歩き出す。
背中へ落ちる無言は、噂よりも重かった。
―――
夕方の天野家は、昼の光を残しながらも、どこか張りつめていた。
三人はこたつを囲む。
けれど、その距離はいつもよりわずかに硬い。
「……先生、なんて言ってた?」
咲良が口を開く。
声は落ち着いているのに、指先だけが小さく震えていた。
「未成年の男女が、二人だけで暮らすのは無理だって」
雪杜の返事が静かに落ちる。
その言葉が現実を突きつけ、部屋の重さが増した。
言葉が途切れる。
その中で、御珠が湯飲みをそっと置き、ぽつりと呟く。
「……こうなった以上、隠し通すのは不可能じゃ」
咲良は息を呑む。
「……じゃあ、どうするの?」
御珠は二人をゆっくりと見渡した。
その瞳に、逃げないと決めた色が宿っている。
「すべてを、話す」
「……すべてを?」
「……それって……こないだおじさんに話した」
雪杜の声がわずかに強張る。
「そうじゃ。妾が孤児で虐待を受けていたと話す」
「ダメだよ!そんなことしたら御珠が変な目で見られちゃう!」
声が一気に跳ねる。
咲良も驚いて目を丸くした。
「孤児?虐待?」
「おじさんに余計な心配されないように、御珠が昔酷い目にあって子供が産めない体になったって説明したんだ」
「え!?そんなこと話したの!?」
御珠は小さくうなずいた。
「うむ。賭けではあったが……修一は納得しておった」
咲良は勢いよく身を乗り出す。
「でもおじさん一人と皆に話すのじゃわけが違うよ!!
そんなことしたら御珠ちゃんが――」
「頼む。これしか……雪杜の未来を壊さずに、そばにいる方法がないのじゃ」
御珠の声は揺れない。
それが逆につらかった。
「そんな……」
言葉が尽きる。
こたつの熱が、三人の呼吸をつないでいた。
「現実的な話をすると、借りに鎮火できても、御珠と引き離されるのは確実だと思う。」
雪杜の言葉は冷静だが、その奥の焦りは隠せない。
「それだけは嫌じゃ。妾、雪杜のそばにいとう……」
「僕も同じだよ。御珠と引き離されるなんてごめんだ」
静かな、けれど胸の奥まで届く告白だった。
また言葉が切れる。
こたつの上に置かれたノートの白紙が、三人の選択を待っている。
雪杜はゆっくりと息を吸った。
「決めたよ。皆に話そう」
咲良が顔を上げる。
「雪杜……」
御珠も瞳を揺らしていた。
「そなた……」
「御珠は僕が守る」
その瞬間、御珠のまつげが小さく震える。
「妾は何を言われても平気じゃ……
いままで通り、学校では距離を置いてくれればよい」
「御珠が傷つくのを黙って見ていられるわけないじゃないか!」
突然の大声に、咲良も御珠も息を呑む。
聞いたことのない強さだった。
「だから……僕も一緒に変な目で見られる」
雪杜は、咲良の方へ振り返る。
その目には、もう引かないと書いてある。
「咲良」
「……うん」
「僕は、いままで通り、咲良の彼氏として過ごす」
咲良の喉が鳴り、言葉が出ない。
「その上で……
御珠とも、学校で距離を置かない。
隣に立つ」
「僕が……全部引き受ける」
咲良の唇がかすかに震えた。
「それって……」
「いいんだ、咲良。
そして、これは咲良の覚悟も問われる話だよ。
きっと咲良にも酷い噂が飛ぶと思う」
雪杜は、かつて咲良が言った言葉をそっと拾い上げる。
「いつか言ったよね。
絶対あきらめないって」
「今度は僕からお願いするよ。
咲良……それでも僕の彼女になってくれますか?」
咲良の瞳が大きく開き、光が揺れる。
「……ふふ。
何言ってるの。私はとっくに雪杜の彼女だよ」
「ありがとう……咲良……」
御珠は口元を押さえ、こらえるように声を漏らす。
「そなたら……妾のために……
すまぬ……すまぬ……妾が不甲斐ないばかりに……」
雪杜は首を振った。
「いいんだ。いままでうまくいってたのが奇跡だったんだよ。
離れとか、外国人とか、遅かれ早かれバレると思ってたんだ」
「だったら、逆に仕掛ける。
真実に、ほんのちょっとの嘘を交えて僕たちの関係を認めさせる」
雪杜はノートを押し出す。
白紙が、戦略図みたいに見えた。
「台本を作ろう。
皆が信じる台本を。
最高のタイミングで暴露するんだ」
咲良の瞳がぎらりと燃えた。
「やろう。燃えるじゃない!」
御珠も深くうなずく。
「分かったのじゃ」
三人はこたつの上にノートを広げ、ペンを握る。
湯気の向こうで、三つの影が寄り添う。
未来を奪い返すための筋書きを、いま書き始めた。
小一時間後。
ペン先が止まる。
「……これを、明日」
「皆の前で」
「……うむ」
誰も言わない。
けれど三人とも理解していた。
――これは、世界を黙らせるための“脚本”だと。




