第6話 ジャージがほどける朝(挿絵あり)
※この話には挿絵があります(御珠のジャージ姿)
玄関に差し込む冬の朝日は弱く、まだ家の中に残るぬくもりを薄く照らすだけだった。
鏡の前で雪杜は、ジャージの裾をそっと引っ張りながら自分の姿を確かめていた。
「……今日は体育があるから、ジャージで登校していいって先生言ってたし……
これで大丈夫、だよね……」
まだ少し眠たげな声。けれど鏡越しの目は、ほんの少しだけ期待の色が混じっている。
そこへ、廊下の奥から足音がして――
巫女服の白と紅が揺れながら御珠が姿を見せた。
「では行くぞ、雪杜」
完全に“いつもの格好”で言うので、雪杜は慌てて振り返る。
「あ、御珠!今日は体育があるから……その……運動できる格好の方が……」
御珠はきょとんと目を細めた。
「む……運動の服……とな?」
雪杜は少しためらいながら、自分のジャージの胸元を指差した。
「こういうやつ。これ着ないと、体育させてもらえないんだよ」
「おう。そなたらがたまに着ておる運動の服じゃな。
妾、いつも石田に運動させてもらえなかったのはそういう理由じゃったか」
納得したように腕を組んだあと、御珠は雪杜のジャージをじっと観察する。
目の奥で“分析モード”に入ってるのが分かる。
そして――静かに指先へ藍の光を集めた。
「ふむ……わかった。こういう時は――」
雪杜の心臓がぎゅっと跳ねた。
(あ、来る……)
紅の布がほどけ、光となって宙に散った。
その一瞬だけ、御珠の白い肌が朝の光に露わになる。
「っ……!!」
雪杜は、一瞬たりとも見逃すまいと目を見開いた。
御珠はそんな視線にまったく気づかないまま、光が収まったあと――
白と赤のジャージ姿で堂々と立っていた。
「どうじゃ雪杜。これでそなたと同じじゃろう?」
雪杜は耳まで真っ赤にしながら、必死に冷静な声を装う。
「う、うん……似合ってる……すごく……」
視線は落としたまま、ちらちらと御珠の姿を追ってしまう。
頭の中で“もったいない”という言葉がぐるぐる回る。
(……やば……いつになったら気づくんだろう。
言ったら絶対、もう僕の前で着替えなくなるし……
それは……なんか……なんかもったいない!)
すると御珠がふいに首を傾げ、じっと彼を覗き込んだ。
「そなた、妾が着替えるとき目が血走っておらんかの?」
「そ、そんなことないよ!」
「妾が気づいておらんとでも?」
「!!」
御珠はほんの少しだけ視線をそらし、頬をわずかに染めながら言った。
「……そ、そなたの顔を見れば分かるわ……」
そして急に胸を張り直し、
「さ……さーびすじゃさーびす!」
と開き直ったかのように宣言する。
「いつの世も男は女子の裸が好きじゃろう?
そなたも例外ではなかろう」
胸を張って得意げにしているその表情が、雪杜には逆に致命的だった。
「ち……ちなみにいつから……」
「なに。ここにきて二日目の晩には気づいておったわ。
寝巻に着替える際のそなたの様子がおかしかったからの」
(そ……そんなに前から……)
雪杜の顔が真っ赤に固まったまま、御珠はくるりと身を翻す。
「で……では行くぞ雪杜!今日の体育……そなたの活躍、妾が見届ける!」
御珠も強がってはいたものの羞恥で声が震えていた。
「ま、待ってよ……!」
いまだ混乱から抜け出せない雪杜を見て、御珠は不思議そうに首を傾げた。
「なんじゃ。まだ固まっておるのか。
これからもさーびすしてやるから安心せい!」
「み、見ないから!もう見ないからやめて!」
「ぬはは。隠さずともよい。
そなたの性癖などとっくにバレておる。
『すまほ』を見せてくれたではないか」
「もう!御珠のバカバカバカバカ!」
雪杜は顔から湯気が出そうなほど真っ赤になりながら、御珠をポカポカと叩く。
御珠は逃げるように玄関を飛び出し、嬉しそうに笑っていた。
そんな調子で、ふたりは朝の冷たい空気へ飛び出していった。
ドタバタと賑やかで、やけに温かい朝だった。
───
昇降口の扉を開けると、まだ外の冷気が少しだけ残っていて、床のタイルがうっすら白く光っていた。
すでに何人かの女子が靴箱の前でしゃがみ込み、履き替えをしている。
その視線が、ふいにそろって一点へ吸い寄せられた。
御珠のジャージ姿だった。
「……え、御珠ちゃん今日ジャージ!?」
「かわよ……似合いすぎじゃない!?なにそれ……」
女子たちの声は揃って驚きと興奮を混ぜていて、御珠はぱちぱちと瞬きを返した。
「む?ジャージとは、そんなに珍しいのか?」
いつもの無自覚さで問う声が、逆にかわいさを加速させている。
そこへ、ぱたぱたと小さな足音。
咲良が両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、目を輝かせて駆け寄ってきた。
「御珠ちゃん……ジャージ……めっちゃかわいい……!!」
御珠の頬が一気に紅に染まる。
視線をそらしたまま、胸のあたりを押さえて声をこぼした。
「……そ、そうか……?
そんなに褒められると……む、胸が……あつい……」
耳まで真っ赤で、むしろ困っているのか嬉しいのか分からない表情だ。
その横で、雪杜は靴を履き替えながら、どこか落ち着かない様子で指先をもぞもぞと動かしていた。
女子たちの視線が御珠に集まるたびに、胸がそわそわと騒ぎ出す。
嬉しいのか、恥ずかしいのか、自分でも分からない感情に押されて、声が小さくなった。
「咲良……そんなに大騒ぎすると、御珠が困るよ……」
「え、だってほんとにかわいいんだもん!」
横から別の女子も身を乗り出す。
「似合いすぎ!写真撮りたいレベル!」
褒められ続ける御珠は、照れているのに妙に誇らしげでもあった。
「うむ……照れるの」
咲良は、ふと雪杜の袖を指先でつまんだ。
目を合わせると、ほんの少しだけ声のトーンが柔らかくなる。
「雪杜くんのジャージも似合ってるよ。
男の子っぽくて……いい感じ」
「えっ……あ、ありがとう……」
普段よりわざとらしく固い声で返すあたり、動揺が丸わかりだった。
その瞬間、御珠がむすっとした顔で雪杜の反対側へ滑り込む。
距離が一気にゼロになる。
「そなた、雪杜を照れさせるな。
それは妾の役目じゃ」
「えぇぇ……?
やきもち……かわいい……(小声)」
咲良が苦笑しながら呟いたとき、元気な声が昇降口に飛び込んできた。
「おーい天野ー!」
颯太だ。
冬でも全力。声だけで場の空気を押しあげるタイプ。
「お、今日ジャージじゃん!
体育めっちゃ楽しみだな!」
「そ、そうだね……」
まだ“友達距離”に慣れていない雪杜は、どこか所在なげに返す。
けれど颯太は気にせず、当然のように続けた。
「今日一緒のチームな?」
「あ……うん……!」
その返事は、さっきより少しだけ明るい。
咲良はその微かな変化を見逃さなかったらしく、ほっと笑みをこぼした。
御珠もまた、雪杜を横目で見つめ、小さく息をゆらした。
(……そなた、うれしそうじゃな)
(うん……ちょっと、ね)
ふたりの小声は、昇降口のざわめきに紛れそうで紛れない。
御珠はその答えに、ほんの少しだけ強く微笑んだ。
「……なら、よい」
朝日が差し込み、床に淡い光が揺れる。
靴を履き替える音、制服の擦れる音、友達同士の笑い声。
その真ん中で、四人――そして周りの女子たちの小さな賑やかさが、ゆっくりと“今日の日常”の形を作り始めていた。
―――
昇降口から教室へ入ると、すでに空気がざわついていた。
冬の朝だというのに、クラス中がふわふわと浮き立っている。
理由は――一瞬で分かった。
「御珠ちゃん!ほんとにジャージだ……かわいい……」
「色白すぎない?なんか、光ってるし……?」
ひそひそ声どころか、半分は普通の音量で褒めまくっている。
御珠はそのたびに目をそらし、頬をじわりと赤くしていた。
「む……そ、そなたら……妾をからかっておるのか……?」
「からかってないってば!」
女子が慌てて手を振る。
そのすぐ後ろから、咲良がくすっと笑って顔を出した。
「御珠ちゃん、めちゃくちゃ似合ってるよ!
巫女服からのジャージってギャップがずるい!」
「確かに……なんか小柄で可愛いし……絵になる……」
さらに褒め言葉が重なり、御珠はしゅん、と肩をすくめた。
「そ、そんなに見るでない……」
雪杜は苦笑しながらそっと袖を触り、小声で言った。
「御珠、かわいいって言われたら素直に喜んでいいんだよ……?」
「……そなたが言うなら……うむ……」
小さくうなずくその仕草がまた可愛いのだから、空気が甘くなるのも仕方ない。
周囲が“はいはいもう伴侶ね”という目になるのも……まぁ、昨日の一件のせいだろう。
ただ、委員長だけはギラリと鋭く睨んでいた。
嫉妬なのか、警戒なのかは誰にも分からない。
そんな空気を切り裂くように、勢いのいい声が廊下から飛び込んできた。
「天野ー!!今日一緒に組むヤツら連れてきた!!」
颯太が元気よく走り込み、その後ろに男子二人が続く。
「今日、混合チームでバスケだってよ!」
「天野、パス回すから頼むな!」
一気に囲まれ、雪杜は戸惑いながらも答える。
「ぼ、僕でよければ……!」
「“よければ”じゃねーよ!やる気出してけ!」
颯太が笑って背中を軽く叩く。
その瞬間、雪杜は胸の奥がぽっと温かくなるのを感じた。
(……こんなふうに男子に混ざれた日……あったっけ……)
咲良はそのやり取りを少し下がった位置から見て、胸の奥がふわりと温まる。
(……よかった……ちゃんと普通に笑えてる……)
教室に、始業前のざわめきが戻る。
冬の光に照らされて、空気だけがほんの少し軽くなった。
───
「はい、午前の授業はここまで」
石田がプリントを持ち上げ、教室全体がざわっと揺れる。
「午後は体育だからジャージのやつはそのままな。
着替えたい人は昼休みにしとけよー」
「やったー!体育!」
「えー疲れるじゃん……」
元気な声と文句の声が入り混じり、昼休みはあっという間に過ぎていった。
体育館に入ると、冬の冷たい床がぎしぎしと音を立てる。
天井から差す白い光が、子どもたちの影を長く伸ばしていた。
「よし!全員集合してるな!
全員並べー!点呼とるぞー!」
石田の声が体育館に響き、クラスの足音がばらばらと動く。
元気な雰囲気がそのまま熱に変わっていく。
「天野!こっち並べ!」
「う、うん!」
颯太の手招きに、雪杜は男子列へ駆けていく。
その動きを、咲良が女子列から声をかけながら見守る。
「御珠ちゃん、女子列はこっち!」
「む……そなたらの理に従うのじゃな……!」
御珠は不満そうに言いながらも女子列へ歩き、並ぶ前にふと立ち止まる。
遠くの男子列にいる雪杜を見つめ、そっと微笑んだ。
(……そなた、今日は本当に……楽しそうじゃな……)
その静かな表情に気づいた咲良は、胸の奥が少しだけあたたかくなる。
(……うん……雪杜くん……やっと普通の場所にいられるんだね)
冬の冷たい体育館の空気が、クラス全体の足音でゆっくりと温まっていった。
「はいはいー!並べー!四列ー!」
石田の声が反響し、子どもたちはざざっと一斉に動き出す。
「はい、準備運動いくぞー!腕回してー、いち、にっ!」
その声に合わせて、体育館に小さな円運動の波が広がる。
颯太がにやりとして雪杜の肩を小突く。
「天野、こういうの得意?」
「う、うん……普通……かな……」
「じゃあ大丈夫だな!体育は気合いだ!」
(そういうもの……?)
雪杜は内心でつぶやきつつも、ほんの少しだけ頬が緩んだ。
一方、女子列では――
「御珠ちゃん、腕回すの固くない?」
「これでよいのか……? む……腕がほぐれる感じじゃな……」
「御珠ちゃんかわいい……」
「その動きほんと小動物……」
「なぜ褒められるのじゃ……?」
女子たちの声は即答で重なる。
「「「かわいいから……」」」
御珠は一瞬固まり、耳まで真っ赤になった。
「はい次ー!男女混合で6チーム作るぞー!
名前呼ばれたやつは動けー!」
石田の声に合わせて名簿が進み、雪杜・颯太・男子2名・女子1名が同じチームに呼ばれる。
「おー、いいじゃん!戦力そろってんじゃね?」
「雪杜、ドリブルできる?」
「たぶん少しなら……」
「じゃあ最初パス回すわ!」
そうやって自然に受け入れられていく温度が、雪杜の胸をじんわりと温めた。
一方そのころ御珠は――
「御珠ちゃんはこっちのチームだってー!」
「む……妾は雪杜のチームがよかったのじゃが……」
「ダメダメ。先生が“二人一緒だと暴走するから離しとけー”って」
「……暴?走?」
女子たちが苦笑しつつ説明する。
「なんか“天野のそばだとテンション変になる”って言ってた」
「て、てんしょん……?
……むむむむ……よくわからぬが、雪杜の前では……妾、どうしても張り切ってしまうでな……
晴臣を呼び出されてはたまらん……仕方ない……」
渋々歩きながらも、御珠は三歩ごとに雪杜を振り返る。
完全に未練たらたらだ。
「御珠ちゃん、心配しなくても……また後で合流するよ」
「そなたは優しいの……」
咲良の言葉に、御珠は小さく息を吐いた。
───
石田が大きな声で号令をかける。
「よし!1チーム目ボール持ってこーい!
じゃぁジャンプボールいくぞ!」
颯太が拳を軽くぶつけてくる。
「天野、行くぞ!」
「う、うん……!」
胸の奥に、これまで味わったことのない“普通”の感覚が広がる。
(……僕、今……“普通の体育”をやろうとしてる……
みんなと一緒に……当たり前みたいに……)
コートの外では、御珠と咲良が並んで見ていた。
御珠の胸の奥がふわりとざわつく。
(……そなたが笑っているのを見ると……胸がくすぐったい……
でも、何故じゃろう……ほんの少しだけ……寂しい……)
その隣で、咲良が声をかけた。
「御珠ちゃん」
「なんじゃ」
「雪杜くんね……男子の中に混ざれて、ほんとにうれしいんだと思う」
「……わかっておる……妾も理解しておるのじゃ……
ただ……胸がざわつくのも事実じゃ……」
咲良は小さく笑った。
「……ふふ。男の子にも嫉妬しちゃうんだね」
「うむ……嫉妬とはちと違うような。
雪杜が妾から離れていってしまうようで怖いのじゃ。
……それでも、そなたらと笑っておる雪杜を見るのは……嫌いではない。
妾は雪杜の一生を背負う者。
雪杜が前へ進むなら……妾も共に歩こう」
その言葉は、意外なほど静かで、深かった。
咲良は横顔を見つめながら、胸の奥でそっと思う。
(……強くて、優しい……
本気で恋してる子の顔だ……)
体育館の冷たい空気に、クラス全体の足音が重なり、少しずつ温度が上がっていくようだった。




