第18話 冬闇の中で ― 会えぬ人を抱く夜 ―
外へ出ると、俊明と修一が庭先で待っていた。
「……父さん……修一おじさん……」
俊明は雪杜の顔を見るなり、そっと息を吸った。
「……雪杜……」
「……ありがとう……
御珠のこと……守ってくれて……」
俊明は言葉を詰まらせる。
「……お前たちの間に何があるのかは知らないが……
自分で考えて、選んだ道なら……
俺は……それを否定しない」
雪杜は胸の奥が温かくなるのを覚えた。
俊明は御珠へ向き直る。
「御珠ちゃんも……ありがとう。
雪杜のそばにいてくれて……
本当に……助かってる」
「……うむ」
「俺は……立派な父親じゃない。
けど……お前が幸せであれば……
それでいい」
「……うん……」
「これからも……頼んだぞ、御珠ちゃん」
御珠は真っすぐに頷いた。
「……任されよう」
俊明は車に乗り込み、発車の準備をする。
「……元気でな」
「……父さんも……」
車がゆっくりと走り去っていく。
雪杜はしばらくその背を見送り、静かに息をついた。
御珠が隣に立つ。
「……雪杜」
「……うん……大丈夫……」
そこへ修一が声をかける。
「……雪杜くん。
俺も今日はこれで帰るよ。
ちょくちょく様子を見にくるから」
「……はい……
これからよろしくお願いします……」
「何かあったらすぐ連絡しろよ」
「……はい……」
修一は言いづらそうに、しかし真剣に言った。
「その……君たちが好き合ってるのは見れば分かる。
ただ二人きりになったからと言って、ハメを外しすぎるのはよくない。
それだけが心配だよ」
御珠はあっさり告げた。
「案ずることはない。妾に子どもはできぬ」
「えっ!?」
「えっ!?」
場の体温が落ちた。
御珠はわずかに視線を落とし、押しつぶされた記憶を掘り返すような声で言いかけた。
「妾は……昔……」
そこで言葉を止める。
視線だけが地面へ流れ、唇が噛まれた。
(御珠、また何かやろうとしてる……
最近演技上手になったよね)
雪杜はそう心の中で突っ込みながら、表情には出さず、御珠の横に立っていた。
その一方で――
修一の顔がピクリと動いた。
施設。
虐待。
保護の必要性。
頭の中で、散らばった断片が一本に繋がる。
(……まさか……
こんな小さな子が、そんな……)
胸の奥が潰れるように痛み、表情がゆっくり歪む。
「……そうか……
そう……だったのか……」
修一は袖で目元を拭う。
「……つらかったな……
そんな思いをした子が……雪杜くんを支えてくれていたなんて……
だからこそなのか……」
彼は深く息をつき、言葉を落とした。
「……分かった。
雪杜くん。御珠ちゃんを……しっかり癒してあげてくれ」
「うん……」
「……それじゃ、おじさんは帰るよ。
あとは……若い二人で」
修一は車へ向かい、エンジンをかけた。
一度だけ手を振り、ゆっくりと道路へ出ていく。
テールランプの赤が遠ざかり、冬の光に溶けていった。
静けさが戻る。
「よかったの?教えちゃって?」
「なに。ああでも言わぬと安心せんじゃろ」
「……確かにそうだけど……
これからどんな顔しておじさんに会えばいいんだ……」
二人は家の中へ戻る。
居間へ戻る途中、雪杜はふと御珠の横顔を盗み見た。
自分がまるで昔ひどい目に遭ったように語っていた、あの完璧な演技。
「……御珠。もしかしてさ」
「なんじゃ」
雪杜は声を落とした。
「僕が“これからいっぱい人が来るよ”って言ってもいなくならなかったのって、さっきみたいに疑われるのが面倒だから?」
御珠は肩をすくめ、当然だと言わんばかりに答えた。
「そうじゃ。
修一は事情をすでに知っておった。
その者の前で妾が姿を消せば、かえって不自然であろ?」
「……そっか……そういうことだったのか」
(神様だからなのか、一般社会の立ち回りが異様に上手いんだよな……)
御珠は胸を張り、どこか誇らしげだった。
「妾は雪杜の平穏を守るためなら、多少の演技ぐらい造作もないわ」
「……ねぇ御珠。
まだ隠してることない?」
「む……たぶんない」
「たぶん?」
御珠は考えるそぶりを見せ、何気なく言葉を落とした。
「そうじゃな……
そなたの最近のお気に入り動画を把握しておるとか。
夜中にこそこそ何かしておるのを実は見ておるとか」
「わーーーっ!!
なんでそうなるのさ!?
それは隠してていいやつ!!」
「聞いたのはそなたじゃ」
(……もうアレできないじゃん……!!)
「はぁ……」
雪杜は頭を抱えたが、横の御珠はまるで悪びれず、いつも通りの歩幅で先を行く。
くだらないことで騒いでいた声も、仏間へ近づくにつれて小さくなっていった。
家の奥へ進むほど、背筋が自然と伸びていく。
居間を抜け、雪杜と御珠は仏間へ入った。
柔らかな冬の日差しが差し込み、部屋全体を淡い金色に染めている。
「……おじいちゃん……
これから……
僕と御珠で……この家を守っていくから……」
御珠は遺影に向かって静かに呟く。
「……晴臣。
そなたの願い……
妾が……必ず……」
二人は並んで手を合わせる。
晴臣の遺影は、変わらぬ優しさで二人を見守っていた。
冬の日差しが静かに二人の背を照らす。
雪杜と御珠の新しい生活が――
静かに、確かに、始まろうとしていた。
―――
冬の空気は冷たいはずなのに、布団の中だけはふわりと温かく、家の静けさがいっそう際立っていた。
二人は並んで横になり、薄暗い天井を見上げていた。
雪杜は、すぐ隣にいる御珠の気配をそっと感じ取りながら、視線をわずかにそらしてその横顔を盗み見た。
「静だね」
「そうじゃな」
その答えは短いのに、どこか胸に響く。
「いつもと同じはずなのに」
「うむ」
同じ家、同じ部屋。
けれど“いつも”から晴臣だけが抜け落ち、ぽっかり空いた場所が夜を広げていた。
雪杜はその穴を自覚した途端、胸の奥が勝手にざわつく。
急逝からの慌ただしい日々――父との再会、母の行方、火葬、通夜、納骨、これからのこと、御珠の戸籍の発覚。
止まらなかった時間が一気に押し寄せ、視界が滲んだ。
「……御珠……」
堪えきれずに名を呼ぶ。
声が震えていた。
御珠はその揺れを見逃さない。
そっと雪杜の背に手を回し、小さく抱き寄せる。
「よい。やっとすべてが片付いた。
気兼ねなく泣くがよい」
その声音は柔らかさよりも“許し”の色が濃かった。
「御珠……」
雪杜は御珠の胸に顔を埋めた。
その瞬間、張りつめていた何かがぷつりと切れる。
声が漏れた。
押し殺していた涙ではなく、こらえきれなくなった叫びに近い息の震えだった。
「……っ……う……っ……」
葬儀も、来客も、気を張って耐えていたすべてが終わった今になって――
“もうおじいちゃんには会えない”という現実だけが静かに残り、胸の奥へ一気に押し寄せてくる。
雪杜の体が小刻みに震え、布団がその震えごと揺れる。
「っ……おじい……ぢゃん……っ……!
もう……あ……え、な……」
雪杜は声を上げて泣いた。
これほど大きな声で泣いたのは、いつ以来だっただろう。
御珠はその背をそっと抱き寄せ、震えが静まるまで、ただ優しく撫で続けた。
やがて、何分か経った頃。
ようやく涙が落ち着き、雪杜はぐしゃぐしゃで鼻水まみれの顔を上げた。
「ありがとう御珠……
御珠がいなかったら僕……」
「うむ……妾はここにおるぞ」
温かい呼吸が耳元に触れ、その言葉が胸の奥に染み込む。
御珠は雪杜の頬へそっと手を添えた。
その指先は、触れた相手を壊さぬように慎重で――けれど確かな意志を宿していた。
「雪杜よ……」
呼ばれた瞬間、距離が自然と縮まる。
御珠がゆっくりと顔を寄せ、ためらいのない口づけを落とした。
「ん……」
柔らかな感触が重なり、時間がそっと止まる。
唇の温度だけで互いの存在を確かめ合い、ほどなく離れると、雪杜の瞳にはまだ涙の光が残っていた。
「御珠……呪いが逆流するんじゃ……」
息が触れるほど近い距離で問うと、御珠は静かな目で応じる。
「なに。いまの妾は慈悲の心で溢れておる。
妾の心が濁らぬ限り、呪いは動かぬ。
いまは……そなたを癒すことだけを想うておる」
御珠は小さく笑みを浮かべ、雪杜の頬を親指でそっとなぞる。
「どうじゃ?癒されたかの?」
「……うん」
その返事に、御珠は目線を逸らした。
普段よりもわずかに頬が赤く染まり、言葉より先に照れが滲む。
「……今宵はクリスマスなのでの。
こういうことも……よいじゃろ」
神の面影よりも、人としての温度が少しだけ勝った声音だった。
「……うん。
御珠の唇……鼻水の味がした」
「……ば、馬鹿者!
それはそなたの鼻水じゃ!
せっかくの口づけが台無しではないか!」
怒っているようで、完全には怒りきれていない声。
その震えは、照れと安堵が混じったものだった。
この日、二人は二年ぶりに口づけを交わすことができた。
冬の夜に、小さな温もりが灯った瞬間だった。




