第17話 冬闇の中で ― 隠された未来 ―
朝。
外には薄い冬の光が差し込んでいたが、家の中には昨夜の名残が残っていた。
俊明は玄関近くで荷物をまとめていた。
その背中には、これから雪杜と別れる重さがにじむ。
「……父さん……もう行くの……?」
「まだだ。
先に役所で手続きを済ませてくる」
そこへ修一が訪れた。
コートについた雪を払う仕草が、朝の冷えを連れてくる。
「俊明、おはよう」
「おはよう。いろいろとありがとう、修一」
「いいんだ。とっとと役所に行って、手続きを済ませよう」
「ああ。雪杜、行ってくる」
「……うん……」
俊明と修一が出ていき、家の中は静かになった。
雪杜と御珠は仏間へ移動し、晴臣の遺骨の前に座る。
線香が細い煙を描き、音の少ない時間が続いた。
「……おじいちゃん……
父さん、きょう帰るんだって……」
「……うむ」
御珠の声は揺れず、淡々としていた。
「……これから……
僕と御珠で……この家で……」
「……そうじゃな」
雪杜は手元を見つめたまま、ぽつりと続ける。
「……不安だけど……
御珠がいるから……頑張れる……」
「……妾も……そなたがおるから……」
二人はそっと手を繋いだ。
冬の冷えの中で、掌の温もりだけが確かだった。
――数時間後。
玄関の戸が開き、俊明と修一が戻ってきた。
「ただいま」
「……おかえり……」
「手続き、全部済ませてきたぞ」
俊明は紙の束をどさっと机の上に置いた。
その拍子に、一枚の紙が滑り出しかける。
雪杜は、端に見えた文字に目を留めた。
戸籍謄本――そう書かれている。
なんとなく、手を伸ばしてしまった。
「……へぇ。戸籍謄本って。
どんなことが書いてるの?」
興味というより、確かめたかった。
その自然すぎる動きに、俊明も修一も反応が遅れる。
「あっ!」
「ダメだっ!」
「?」
雪杜はきょとんと目を瞬かせた。
紙の上の文字が、否応なく視界へ飛び込んでくる。
晴臣の名前。
そして――
** 天野 俊明 **
** 天野 御珠 **
「……え……?
御珠……?」
誰も息をしなくなった。
ストーブの爆ぜる音が、部屋の隅でパチっと鳴った。
俊明と修一は、しまったという顔を隠せなかった。
「なんで御珠の名前が……」
振り返ると、御珠は部屋の入口で固まり、瞳が大きく揺れていた。
「……!」
雪杜は震える手で、もう一度戸籍謄本を見つめる。
「……これ……どういうこと……?」
俊明は言葉を探すように口を動かす。
「……っ……」
修一も表情を曇らせた。
「……雪杜くん……」
雪杜の視線がゆっくり文字をなぞる。
「御珠が……
おじいちゃんの……養女……?」
御珠は唇を結んだまま、静かに立っていた。
「…………」
「……え……?
いつ……?」
「……雪杜くん……
すまん……俺たちは……知ってた……」
「……知ってた……?」
修一が続ける。
「晴臣さんから……証人になってくれと頼まれてな。
ただ、雪杜くんには黙っていてくれと……」
「……っ……」
雪杜は御珠へ視線を向けた。
「御珠……
これ……本当なの……?」
「……うむ」
「……いつ……?」
「……五月の始めじゃ」
「……そんな……
もう半年以上前……?」
「……すまぬ。
黙っておった」
「……なんで……
なんで黙ってたの……?」
御珠はすぐには返さなかった。
言葉が出ない時間が、雪杜の胸をきつく締めた。
「僕……知らなかった……
御珠が……家族になってたなんて……」
俊明が口を開く。
「……雪杜。
これは……親父と御珠ちゃんの……
お前を守るための選択だったんだ」
「……守る……?」
修一が補う。
「御珠ちゃんの身元が曖昧だと……
いずれ君に負担がかかる。晴臣さん自身にもだ。
だから晴臣さんは……
御珠ちゃんを養子にして……
形を整えようとしたんだ」
雪杜の目が熱くなる。
「……おじいちゃん……
そんなこと……考えてくれてたの……」
「……ああ」
「そんな……
なんで……僕に言ってくれなかったの……?」
俊明と修一は顔を見合わせ、答えを探す表情をした。
その間に、御珠が一歩前へ出る。
「……それは妾から話す。
座るのじゃ」
御珠は俊明と修一へ視線を向け、黙って促した。
二人きりにしてほしい――その意志が、言葉より先に伝わる。
俊明と修一は短く頷き、そっと席を外す。
「……俺たちは……少し外にいる」
「ゆっくり話してくれ」
戸が閉まり、居間に静けさが戻った。
雪杜と御珠だけが残された。
―――
居間には、冬の光が淡く差し込んでいた。
御珠はゆっくりと雪杜の前へ座る。
横顔には、決めた硬さが宿っている。
「……あれは……五月の始め。
そなたが咲良とデートに出かけた朝……
晴臣が……妾に一枚の書類を差し出した」
雪杜は息をのむ。
御珠の言葉が、胸に深く落ちていく。
「『養子にならんか』……と」
「……え……」
御珠は懐かしむように、そしてどこか誇らしげに晴臣の名を口にした。
「晴臣は言うた。
『神様、このままじゃ身元が曖昧すぎる』……と」
雪杜は拳を握りしめる。
「『雪杜のためにも、ちゃんとした形にしておきたい』……と」
「……おじいちゃん……」
御珠は小さく頷く。
「晴臣は……妾が神であることを知っておった。
じゃが……だからこそ……
人の世で生きるには『制度の盾』が必要じゃと」
「……盾……?」
「妾が曖昧であるほど……
疑いや負担が……そなたへ向く」
胸の奥がぎゅっと締まった。
「晴臣は……そなたを守るために……
妾を養子にすることで……
妾に『居場所』を与えてくれた」
「……そうだったんだ……」
御珠は視線を落とし、静かに続けた。
「妾も……そなたを守るため……
その申し出を受けた」
淡々と語る声。
それでも、その裏の熱は隠しきれない。
「……なんで……
僕に言ってくれなかったの……?」
御珠はほんの少し、顎を引いた。
「……妾が……晴臣に頼んだのじゃ。
『雪杜には黙っていてくれ』……と」
「……え……?」
御珠はまっすぐに雪杜を見る。
「理由は……そなたが……希望を見出してしまうからじゃ」
「……希望……?」
「妾に戸籍があることを知れば……
そなたは“妾と結婚できる”と……
未来を選び始めてしまう」
雪杜は息を飲んだ。
「その選択は……
咲良の未来を揺らす」
「……っ……」
「妾は……澪と誓うたのじゃ。
十八になるまで、咲良の選択を邪魔しない……と」
「御珠……澪さんとそんな約束を……」
「そなたが妾との婚姻を早々に決意してしまえば、咲良の未来は閉ざされる」
御珠はそっと雪杜の手を握った。
「じゃから……
妾は『希望』を伏せることを選んだ」
「……御珠……」
「すまぬ……黙っておって……」
雪杜は戸籍の文字を見つめ、涙をこぼす。
「僕、御珠と結婚できるの?」
「……そうなるの」
言葉が途切れた。
そして、雪杜は震える声で言った。
「……嬉しい……
御珠と……家族に……」
御珠の喉が小さく震える。
「……雪杜……」
雪杜は顔を上げ、言葉を続けた。
「……でも……
御珠が黙ってた理由……
いまなら分かるよ……」
「……?」
「僕が五月にこのことを知ったら……
きっと……御珠と結婚するって……
すぐに決めてたと思う」
御珠は静かに頷いた。
「……うむ……」
「それって……
咲良の未来を潰すってことだよね……」
「……そうじゃ」
雪杜は握った手に力を込めた。
「……咲良と過ごす時間の中で……
咲良のことも……大切だって思うようになった」
御珠の目が揺れる。
「……そなた」
「僕……御珠のこと……大好きだよ」
「……妾も……そなたを……」
「でも……咲良のことも……守りたいんだ……」
御珠はゆっくりと頷いた。
「……分かっておる」
「だから……
十八歳まで待つよ……」
雪杜は御珠の手を包み込む。
「御珠が……僕のために……
咲良のために……
黙っててくれたこと……
ありがとう……」
御珠の瞳に涙が滲む。
「……そなたは……
本当に……優しいのじゃな……」
御珠はそっと続けた。
「妾は……そなたに戸籍を明かさぬことで……
咲良の未来を守ろうとした……」
「……御珠こそ……」
「じゃが……それは同時に……
妾のためでもあったのじゃ」
「……え……?」
御珠の声は、少し震えていた。
「もしそなたが早々に決意すれば……咲良は傷つく。
じゃから妾は……
隠すことでどちらも選ばせぬ時間を作った……」
「……御珠……」
「それは……咲良のためでもあり……
澪との約束を反故にせぬための、妾のためでもあったのじゃ……」
言ったあとで、御珠の肩がわずかに跳ねた。
自分でも気づかぬうちに“余計な一言”が漏れたような反応だった。
雪杜はすぐに食いつく。
「反故にするとどうなるの?」
御珠は明らかに焦りが滲み、視線をすぐに伏せた。
喉が小さく動き、返す言葉を探しているのが分かる。
「……すまぬ……
い、今のは……その……言うつもりはなかったのじゃ……
こればかりは……例え雪杜であっても……言えぬ……」
僅かに震えた声は、隠したかった真実に手が触れてしまった証のようだった。
雪杜は、あの日の御珠の涙を思い出した。
(そっか……夏祭りの日に消えたくないって……)
御珠は答えず、目を伏せた。
その仕草が、すべてを肯定している。
「妾は……神でありながら……
こんなにも……臆病で……」
雪杜は御珠を抱きしめる。
「……ありがとう……御珠……」
「……?」
「御珠が……臆病でいてくれて……
良かった……」
雪杜は、震える声のまま御珠を抱きしめる腕に力を込めた。
「御珠が……怖がってくれたから……
咲良を傷つけなくて済んだ……」
その言葉は、御珠の弱さを責めるものではなく──
弱さゆえの優しさを肯定する響きだった。
「……御珠も……消えずに……済んだ」
「……雪杜!?そなた……」
御珠は驚いたように目を瞬かせる。
「……いいよ。もう隠さなくて」
御珠は小さく息を震わせた。
「……っぐ……そうじゃ……
咲良が泣くと妾は消えねばならぬ。
澪を説得するにはこうするより他なかったのじゃ」
雪杜は優しく微笑んだ。
「ずっと隠してて辛かったよね。
約束も、戸籍も……」
その言葉は、御珠の胸の奥に長く押し込めていた痛みに、そっと触れる手のようだった。
誰にも明かせなかった弱さ──それを雪杜が“弱さのまま”受け止めてくれた。
「……そうじゃ。
辛かったのじゃ」
声の端が震え、御珠はそこで堪えきれなくなった。
「妾、弱い神なのじゃ……」
目元がにじみ、涙が一粒、こぼれ落ちる。
自分でも抑えきれないほど、胸の奥の結び目がほどけていった。
雪杜は驚かず、責めもせず、その頬をそっと指先で拭った。
触れた温もりが、“泣いていい”と静かに告げている。
「いいよ。甘えて。
僕も咲良を泣かせるようなことはしたくない」
「……雪杜……
そなた……優しすぎるのじゃ……」
御珠は縋るように抱き返した。
しばらく二人は、言葉もなく寄り添った。
やがて雪杜が顔を上げる。
「……御珠」
「……なんじゃ」
「十八歳まで……
一緒に待とう……」
「……うむ」
「その間……
僕も……咲良も……
考える時間を持つ……」
「……うむ」
「そして……
十八歳になったら……
ちゃんと……答えを出す……」
「……それまで……
妾は……そなたのそばにおる」
雪杜は御珠の手を握り返した。
その温もりが、迷いを抱えたまま進む二人の先を照らしていた。
御珠は静かに心の中で呟く。
(……咲良よ。これでそなたの道は閉ざされずに済んだ。
雪杜が十八まで“選ばぬ”と決めたのは……そなたが隣におったからじゃ)
(妾が押し通せば、そなたの未来は奪われておった。
じゃが……雪杜の心は、確かにそなたにも傾いておる……
これは……そなたが“彼女”として積み重ねた時が、実を結んだ証じゃ)
(……十八まで待つ。
その間、咲良よ……そなたも雪杜も、自らの答えを形にするがよい)
(妾は……雪杜のそばで見届ける。
神ではなく……ひとりの女として、静かに……)
二人はゆっくり抱き合い、そっと離れた。
雪杜は改めて戸籍謄本を見つめる。
「天野 御珠……か……」
「……うむ」
「なんか……
不思議な感じ……」
「……?」
「御珠が……
本当に……家族になったんだなって……」
雪杜は御珠の手を握り、仏間の方へ目を向けた。
「……おじいちゃん……
ありがとう……
御珠を……守ってくれて……」
御珠も遺影を静かに見つめる。
「……晴臣。
そなたの願い……
妾が……必ず……」
二人は並んで手を合わせた。
線香の煙が静かに揺れる。
「……父さんたちの所へ行こう」
「……うむ」




