第16話 冬闇の中で ― これからの先へ ―
15時半。
外は白い息がはっきり見えるほど冷え込んでいた。
雪杜は制服に袖を通し、鏡の前で肩を上下させる。
息を吸って、吐いて、胸のつかえを押し下げた。
「雪杜、大丈夫か?」
俊明がそっと声をかける。
雪杜は小さく頷く。
「……うん……」
御珠も制服姿で立っていた。
吐く息が白くほどける中、御珠の背筋だけが真っ直ぐだった。
「じゃあ、行くか」
三人は葬儀場へ向かった。
控室には、晴臣の姉である和江の姿もあった。
落ち着いた黒の和装で、胸元をそっと押さえる仕草が年長者らしい。
葬儀屋が流れと合図を説明する間、誰も口を挟まなかった。
17時。
祭壇の前に並ぶ。
俊明、雪杜、御珠、和江、修一――冬の明かりが、影を薄く伸ばしていた。
参列者がひとり、またひとりと焼香へ向かう。
足音と衣擦れが静かに重なり、会場の奥へ消えていく。
その中に、澪と咲良の姿が見えた。
「……っ……」
雪杜は息を止め、指先に力を込める。
咲良は雪杜を見つけると、目尻を赤くして唇を結んだ。
澪が先に焼香を済ませる。
背を伸ばし、迷いのない所作で手を合わせた。
咲良も続く。
肩が小さく震え、息を吸うたびに喉が鳴る。
焼香を終えると、二人は雪杜の前にそっと歩み寄った。
「……雪杜くん」
「……澪さん……咲良……」
「雪杜……っ……」
咲良は思わず手を伸ばしかける。
その腕を、澪がそっと押さえた。
「……咲良。ここは我慢しなさい」
「……うん……」
澪は雪杜の前で静かに頭を下げる。
「雪杜くん。
おじいさまは……立派な方でした。
心から、お悔やみ申し上げます」
「……ありがとうございます……」
咲良が言葉を探す。
唇が震え、声がうまく出ない。
「雪杜……
私……何も……できないけど……」
「……来てくれて……ありがとう……」
雪杜がそう言うと、咲良は一度だけ強く瞬きをした。
澪が低い声で添える。
「一人で抱え込まないで。
咲良も……私たちも……
いつでもそばにいるから」
「……はい……」
御珠は黙ったまま二人を見つめていた。
視線は冷静なのに、奥で深く沈んでいる。
澪が御珠へ向き直る。
「御珠ちゃん……
今だけはお悔やみを述べておくわ」
「……ありがたく受け取っておこう」
「……御珠……」
雪杜が御珠を見つめる。
御珠は何も言わず、雪杜の横に立ったままだった。
澪は軽く息を吸い、咲良へ視線を向けた。
「……それじゃあ……
私たちはそろそろ失礼するわ」
咲良は目元を袖でぬぐい、弱い笑みを作る。
「……雪杜……
また……学校で……」
「……うん……」
「……無理しないでね……」
「……うん……ありがとう……」
澪と咲良は静かに会場を後にした。
二人の背が人の列に紛れると、雪杜はぽつりと呟く。
「……咲良……泣いてた……」
「……うむ……」
「……僕のために……」
「咲良は……そなたを想うておる」
「……うん……うん……」
雪杜は頷きながら、息を吸い直す。
胸の奥が熱くなって、言葉がそれ以上出なかった。
通夜は続く。
読経が始まり、低く落ち着いた声が会場を満たしていく。
次いで弔辞。
晴臣の友人が前に出る。
「晴臣さんとは……長い付き合いでした……」
言葉が届くたび、雪杜は喉の奥を押さえるように唾を飲む。
頷いて、頭を下げて、それを繰り返した。
俊明の喪主挨拶が終わると、再び焼香。
参列者はそれぞれ短い言葉を残し、帰ってゆく。
雪杜は何度も頭を下げた。
気付けば頬が冷たく、指先がかじかんでいる。
通夜が終わる。
「お疲れ様でした。
明日は10時から葬式となります」
葬儀屋が告げた。
外に出ると、白い息がふっと広がる。
式場の灯りが遠ざかるにつれ、胸の内側がゆっくり冷えていった。
父の車で家へ戻る。
家に着き、雪杜はソファへ体を沈めた。
御珠も隣に座り、雪杜の呼吸を見守る。
「……疲れた……」
「……うむ……」
「……でも……
咲良が来てくれて……嬉しかった……」
「……うむ」
「……明日は……葬式……
それが終わったら……」
「……父上と……話をするのじゃな」
「……うん……」
雪杜は目を伏せ、膝の上で指を絡める。
御珠は静かに言葉を重ねた。
「……雪杜。
妾がおる」
「……うん……」
「何があっても……
妾は……そなたのそばにおる」
「……ありがとう……御珠……」
二人は寝る前に仏間へ向かった。
晴臣の遺骨の前で座り、手を合わせる。
冬の夜は深く沈み、長い一日がようやく終わりを告げた。
―――
四日目。
窓の外は、朝だというのに薄い灰色の光だ。
昼と夜の境目がぼやけたまま広がり、冬の冷たさが胸の奥まで染み込んでくる。
雪杜はほとんど眠れないまま布団を抜け出す。
頭が重いのに、時間だけが容赦なく前へ押してくる。
「……雪杜。起きるのじゃ」
御珠が柔らかい声で呼ぶ。
「……うん……」
制服に着替えて鏡を見る。
青白く、泣き腫らした自分がそこにいた。
(……僕……こんな顔してるんだ……)
階段を降りると、俊明がすでにテーブルの前に座っている。
「……おはよう」
「……おはよう……」
修一もほどなく到着した。
冬の冷気を背中に引き連れたまま、優しい声をかけてくる。
「雪杜くん、朝飯は食えたか?」
「……あんまり……」
「無理しなくていいからな」
「……はい……」
葬儀場へ移動する。
葬式は近親者のみで行われた。
親戚、近所の人、晴臣の古い知人――冬の曇天の下、集う人影が細く伸びている。
読経が始まると、抑揚のない声が遠く冷たく響いた。
雪杜の瞼は重く、何度も落ちかける。
(……これで……
本当に……おわり……)
焼香。
白い煙の向こうに、晴臣の写真が変わらない優しさで佇んでいた。
葬式が終わると、続けて初七日の法要が行われる。
時間が重なり、儀式が淡々と積み重なっていった。
その後、式場に隣接する墓地へ移動し、納骨。
本来は四十九日に納めるはずだが、その頃には墓地は雪に閉ざされる。
喪主である俊明の判断で、今日のうちに収めることになった。
骨をひとつひとつ墓の下へ収める。
雪杜は無心でその動きを追っていた。
(……おじいちゃん……
ここで眠るんだ……)
風が冷たく、頬の感覚が薄れていく。
それでも手順は止まらない。
一連の動作が終わると、白い息がふっと漏れた。
式場内の食堂に、仕出しの精進料理が整然と並べられる。
さっきまでの張りつめた時間とは違う、静かな生活の匂いが戻ってきていた。
「……いただきます」
俊明が箸を合わせる。
雪杜も箸を取るが、思うように進まない。
「雪杜、無理しなくていいからな。
一口でいい。食べないと体がもたないぞ」
「……うん……」
御珠は雪杜の横に座り、ただ静かに寄り添っていた。
(……そなたは、よく耐えておる)
昼食が終わると、親戚たちは徐々に席を立ち始めた。
「それじゃあ……」
「また来るからね……」
境界線のような優しい声が、次々と届く。
親戚たちを見送り、雪杜たちも帰り支度を始める。
外に出ると冬の冷気が頬を打ち、雪杜は思わず肩をすくめた。
「俊明、雪杜くん。
俺も帰るよ。
また明日、様子を見に来る」
「ありがとう、修一」
「……ありがとうございます……」
修一とも別れ、三人は駐車場へ向かった。
車に乗り込むと、窓の外に曇った冬空が低く垂れ込めている。
家に着く頃には、わずかに日が傾き始めていた。
玄関に入ると、室内の温もりがふっと肺へ落ちていく。
家には、雪杜と御珠、そして俊明だけが残った。
「雪杜……」
俊明はリビングへ向かう前に、一度深く息を吸う。
覚悟を決めるための、静かな動作だった。
「……これからの話をしよう」
「……うん……」
三人はゆっくりとリビングへ移動していった。
―――
三人はリビングへ移動し、向かい合って座った。
ストーブがかすかに唸る。
その音さえ邪魔に思えるほど、口が重かった。
俊明が何度か息を整え、ようやく口を開く。
「……雪杜。
これからのこと……話さないといけない」
「……うん……」
声に力が入らない。
雪杜は膝の上で指を固く組み、ほどけないように押さえた。
「……お前を……新しい家に連れていくことは……できない」
短い言葉なのに、胸の奥へ沈んでいく。
「……」
「新しい家族がいる。
お前を……そこに入れることは……
お前にとっても……向こうにとっても……
良くない」
「……分かってる……」
俊明の眉が痛むように寄る。
「……すまない」
「……いいよ……
僕も……父さんのところに行きたいわけじゃ……ないから……」
「……っ……」
俊明は顔を歪め、視線を落とす。
「……そうか……」
言葉が尽き、しばらく誰も動かなかった。
「……だが……
お前を……ここに一人で置いていくわけにもいかない」
「……」
俊明は深く息を吸い直す。
「修一と相談した。
法的には……俺が後見人のまま。
実際の監護は……修一が引き受けてくれる」
「……修一おじさんが……?」
「ああ。
修一は……週に何度かここに来て、お前の様子を見てくれる。
学校のことも、生活のことも……全部」
雪杜は胸に広がるものを整理できないまま、小さく頷いた。
「……そうなんだ……」
「生活費は……俺が毎月送る。
親父の貯金もある。
お前が高校を卒業するまでは……十分やっていける」
「……うん……」
「御珠ちゃんも……一緒にいてくれるんだろ?」
「……うむ」
御珠の短い返答には、揺れない芯があった。
「……なら……大丈夫だ」
俊明は何度も頷くように言う。
「雪杜。
お前は……この家で暮らせ。
親父の家は……お前の家だ」
「……うん……」
俊明は拳をぎゅっと握りしめる。
「……俺は……
父親として……何もしてやれなかった」
その言葉は、喉の奥で引っかかるように途切れた。
「お前が小さい頃……
母さんが壊れていくのを……ただ見ていることしかできなかった。
そして……逃げた」
「……」
「親父に……全部を押し付けて……
俺は……新しい人生を始めた」
俊明は雪杜を見据える。
「それでも……
お前のことは……ずっと……気になっていた。
親父から……電話で様子を聞くたびに……
胸が痛かった」
雪杜は視線を外せないまま、喉の奥で息を飲んだ。
「お前が……御珠ちゃんに救われたって聞いた時……
俺は……安心したんだ」
「……え……?」
「お前には……誰かがそばにいる。
俺がいなくても……
お前は……一人じゃないんだって」
俊明の声が揺れる。
「……情けないよな。
父親が……息子を守れなくて……
他人に……任せて……
それで安心してるなんて……」
「……父さん……」
俊明は視線を落として続けた。
「雪杜。
俺は……お前を育てられない。
向き合う自信がない。
だが……責任を捨てたいわけじゃない」
「……」
「金だけになってしまうが……
せめて……お前の人生が困らないようにしたい」
「……うん。
それだけで十分だよ」
「……」
「僕たちは……一緒には生きられない。
でも……父さんのことは嫌いじゃない」
「……っ……」
俊明は一度目を閉じ、息を長く吐いた。
「……ありがとう……」
言葉が落ち着いた頃、雪杜が口を開く。
「……僕も……言いたいことがある」
「……?」
「お父さんは……逃げたって言うけど……
僕は……それを責められない」
俊明が息をのむ。
「だって……僕も……
母さんのことから……逃げたかった」
雪杜は俯き、小さく震える声で続けた。
「母さんが壊れていくのを見るのが……
怖かった。
僕のせいだって……分かってたから……」
「……雪杜……」
「おじいちゃんが……引き取ってくれた時……
僕……ほっとしたんだ。
母さんから……離れられるって……」
雪杜は膝の上の指を握り直す。
爪が食い込み、痛みで意識をつなぎとめた。
「……ひどいよね……
母さんを……見捨てたんだ……」
「……そんなことはない」
「……え……?」
俊明は迷いなく首を振る。
「お前は……子供だった。
守られる側だったんだ。
お前が……逃げたくなるのは……当然だ」
俊明はそっと雪杜の肩へ手を置いた。
「悪いのは……俺だ。
お前を……母さんを……
守れなかった……俺だ」
「……っ……」
雪杜は堰を切ったように泣き出した。
「僕……っ……
母さんに……っ……
会いたい……っ……」
声がほどけて、止められなかった。
俊明の目にも涙が滲む。
「……すまん……
母さんの……居場所は……もう俺も知らないんだ……」
「……っ……そっか……っ……」
御珠が雪杜の隣へ寄り、背に手を添える。
言葉はなく、掌の温もりだけが残った。
やがて雪杜の呼吸が落ち着いてくる。
「……雪杜」
「……?」
「俺は……父親失格だ。
それは……分かってる」
「……」
「だが……
お前が……どうか幸せであってくれますように……
それだけは……願ってる」
「……うん……」
「何かあったら……連絡してくれ。
俺にできることがあれば……何でもする」
「……ありがとう……」
俊明は小さく息を吸い、立ち上がった。
「……明日の朝……戻る」
「……うん……」
「……元気でいろ」
「……父さんも……」
俊明は階段を上がっていき、足音がゆっくり遠ざかる。
リビングには雪杜と御珠が残った。
棚の上に置かれた、お土産の金ピカ木彫り熊が、妙に目に入る。
「……おじいちゃん……
僕……これで……よかったのかな……」
「……よい」
「……え……?」
御珠は迷いなく言葉を続けた。
「そなたと父上は……
互いに傷つきすぎた。
もう……一つ屋根の下で暮らすことはできぬ」
「……うん……」
「じゃが……
憎しみではない。
距離を置くことでしか……
手放せぬものがあるだけじゃ」
雪杜の目が揺れる。
「それは……
悲しいことではあるが……
間違ったことではない」
御珠はそっと雪杜の手を握った。
「雪杜よ。
そなたは……これから……
この家で……妾と共に生きる」
「……うん……」
「修一も、咲良も、皆がそなたを支える。
そなたは……独りではない」
「……御珠……」
「妾が……ずっとそばにおる」
雪杜は御珠へ抱きつき、その胸元に顔を埋めた。
「……ありがとう……御珠……
僕……頑張るから……」
「……うむ」
御珠は雪杜をしっかりと抱きしめた。
(……晴臣。
そなたの願い……
妾が……必ず……)
二人はしばらく離れなかった。
金色の木彫り熊が、静かに笑っているようだった。




