第15話 冬闇の中で ― 託された願い ―
仏間。
薄暗い灯りの中で、線香の煙が細く揺れていた。
外の風は止み、家の中だけ時間が凍ったように静まり返っている。
雪杜は晴臣の前に正座し、動かない顔を見つめていた。
御珠も隣で背筋を伸ばし、膝の上に手をそろえる。
言葉が出ないまま、長い時間が過ぎた。
「……おじいちゃん……」
雪杜が小さく呟く。
晴臣の顔は穏やかで、まるで眠っているようだった。
「……もっと、話せばよかった……」
喉の奥が熱くなり、雪杜は息を飲み込む。
視界が滲むのをこらえようとして、瞼が重くなった。
「もっと……いろんなこと……聞きたかった……」
「……うむ」
御珠の声は落ち着いているのに、語尾だけがわずかに揺れた。
「おじいちゃんが……いなくなったら……
僕、どうすればいいのか……」
「……雪杜」
御珠は迷いなく雪杜の手をそっと握る。
掌の温もりに、雪杜の呼吸が浅く乱れた。
「晴臣は……そなたを案じておった。
最期まで……そなたのことを……」
「……っ……」
「妾が……風呂場へ急げと言った時……
……晴臣の魂が、妾を呼んだのじゃ」
「……呼んだ……?」
「言葉ではない。
ただ……強い想いが妾に触れた。
“雪杜を頼む”と……そう受け取ったのじゃ」
「……おじいちゃん……」
御珠の言葉が落ちるたび、胸の奥で固まっていたものがほどけていく。
雪杜は唇を噛んだまま、肩を小さく震わせた。
「晴臣は……最期まで、そなたを想うておった。
それだけは……間違いないのじゃ」
雪杜は声を殺そうとして、うまくできなかった。
息が詰まり、喉が鳴る。
御珠は何も言わず、その背へそっと手を添えた。
やがて、雪杜は鼻をすすり、呼吸を整えようとする。
線香の香りが、胸の奥をゆっくり満たしていった。
「……御珠は……おじいちゃんのこと……
どう思ってた……?」
「……よい男じゃった」
「え……?」
「強く……優しく……
そなたを守ることに、一切の迷いがなかった」
御珠は晴臣の遺影へ目を向ける。
「妾が……人の世に降りた時……
最初に出会うた“まともな大人”じゃった」
雪杜は言葉を失う。
喉の奥に残っていた息が、そこで止まった。
「晴臣は……妾のことを神と知りながら……
決して畏れず、敬いすぎず……
ただ、雪杜と共におる者として接しておった」
「……そうなんだ……」
「晴臣は……そなたを誰よりも愛しておった。
それは……妾にもよく分かる」
「……うん……」
「じゃから……妾は誓うたのじゃ。
晴臣の願いを……必ず果たすと」
雪杜がゆっくりと顔を上げる。
「……御珠……」
「雪杜よ。
そなたは独りではない。
妾が……ずっとそばにおる」
「……ありがとう……」
線香の香りの中で、二人はしばらく黙って煙を眺めていた。
「……御珠」
「なんじゃ」
「……なんか他にもおじいちゃんと話したことある?」
御珠は少しだけ目を細め、思い出を探るように息を整えた。
「晴臣とはよく一緒に茶を飲んでおったからの。
……よく妾に人の世のことを教えてくれたのう」
「え……?」
「『神様は人のことを知らんじゃろうから』と言うて……
いろんな話をしてくれた」
御珠は遠くを見るように目を細める。
「人は……どうして泣くのか。
どうして笑うのか。
どうして……誰かを愛するのか……」
雪杜は胸に手を置き、その言葉を飲み込む。
「晴臣は……『人間は弱いからこそ、誰かを求める』と言うておった。
『神様みたいに強くないから、支え合って生きる』……と」
「……おじいちゃん……」
「妾は……その言葉が……すぐには分からなんだ。
神は孤独でも、永遠でも、強くおれるからのう」
御珠の視線が雪杜へ向く。
「じゃが……今は分かる」
「……?」
「人は……弱いからこそ、美しい。
限りがあるからこそ、一瞬が尊い」
御珠は雪杜の手を握り直し、指先を包み込む。
「晴臣は……妾にそれを教えてくれた。
そなたと共におることで……妾も学んだのじゃ」
「……御珠……」
「じゃから……晴臣には感謝しておる。
妾を……人の世へ導いてくれたことを」
雪杜は唇を結び、頬を伝うものを拭う。
息を吸うたび、胸がひりついた。
「……おじいちゃん……
本当に……いい人だったんだね……」
「……うむ」
二人はそっと手を合わせ、線香の煙に顔を向ける。
ゆらゆらと揺れる煙が、晴臣の息づかいの残り香のようだった。
「……御珠」
「なんじゃ」
「……僕……これから……
どうなるんだろう……」
御珠のまつげがわずかに揺れる。
「父さんは……遠くに新しい家族がいる。
僕を引き取るなんて……無理だよね……」
「……雪杜よ」
「修一おじさんが引き取ってくれるのかな……
それとも……施設とか……」
「雪杜」
御珠は静かながら強い声で遮った。
「そなたは……この家におる」
「え……?」
「晴臣の家は……そなたの家じゃ。
ここから動く必要などない」
雪杜は視線を落とし、かすかに震える声をこぼす。
「でも……僕、まだ中学生だし……
一人で暮らすなんて……」
「独りではない」
御珠は雪杜の目を真っ直ぐ見る。
その光には、神としての確信と、少女としてのやわらかさが同時に宿っていた。
「妾がおる」
「……御珠……」
「修一も、咲良も、皆がそなたを支える。
そなたは……決して独りにはならぬ」
「……本当に……?」
「うむ。約束じゃ」
御珠はそっと雪杜の頭へ手を置いた。
指先のやさしさが、冷えきった夜に小さな火を灯す。
「妾は……晴臣に誓うた。
そなたを守ると。
その誓いを……妾は決して破らぬ」
「……っ……」
雪杜は堪えきれず御珠に抱きつく。
「御珠……っ……
ありがとう……っ……」
御珠は雪杜の背を静かに抱きしめ返す。
その目は揺れる線香の煙の向こうで、晴臣の遺影に向けられていた。
(……晴臣。
そなたの願い……妾が必ず……)
(……いや。
妾の願いでもある)
(雪杜を……守りたい。
それが……妾の選んだ道じゃ)
二人はしばらくそのまま互いの存在を確かめていた。
やがて、雪杜が顔を上げ、小さく息をつく。
「……寝ずの番か……
まだまだ時間あるね……」
「うむ」
「おじいちゃんの隣に……ずっと……」
「……うむ。
共に晴臣を見送ろうぞ」
雪杜は新しい線香に火をつける。
細い煙が立ちのぼり、冬夜の静けさを再び満たした。
―――
朝9時。
薄い雪明かりが差し込む頃、葬儀屋のスタッフが静かな足取りで家に到着した。
玄関には張りつめた気配が満ち、冬の冷気がまだ鋭かった。
修一も駆けつけ、上着の雪を払って中へ入る。
「雪杜くん、俊明。おはよう」
「ああ。おはよう」
「……おはようございます……」
葬儀屋が淡々と告げる。
「それでは、納棺をさせていただきます」
仏間に親戚たちが集まり、外の冷気が押し返されるように、部屋がわずかに暖まっていった。
スタッフが晴臣の体を慎重に起こし、白布を整えながら棺へと納めていく。
一つひとつの所作が、儀式の重みを帯びている。
「ご遺族の方、お別れの品を納めてください」
親戚たちが思い出の品を手に取り、静かに棺へ入れていく。
雪杜は立ち上がると、自分の部屋へ向かった。
しばらくして戻ってきた手には、小さな写真が握られている。
晴臣と雪杜と御珠――三人で並んで撮った写真だった。
御珠がスマホを購入した時、記念に撮ったものを印刷して大切に取っておいたのだ。
「……おじいちゃん……
これ……持っていって……」
雪杜は、震える手でそっと写真を棺に入れた。
御珠も棺を見つめ、ゆっくりと立ち上がる。
(……妾は……何を……そうじゃ)
考え込むように瞬きをし、御珠は台所へ向かった。
戻ってきた御珠の手には、小さな茶葉の包みがある。
「……晴臣。そなたが淹れてくれた茶の葉じゃ。
妾は……その温かさを忘れぬ」
彼女はそれを丁寧に棺へ置いた。
(……御珠……)
「それでは、棺を閉めさせていただきます」
蓋がゆっくりと降りる。
晴臣の顔が、静かに視界から消えた。
「……っ……」
雪杜は息を飲み、指先に力を込めた。
俊明がそっと肩に手を置く。
「……雪杜……」
「……うん……」
釘を打つ音が、仏間に響く。
現実を刻むように固く、重い音だった。
「このまま出棺します」
親戚たちが棺の前で手を合わせ、頭を下げていく。
雪杜も御珠も静かに祈りを捧げた。
棺が霊柩車へ運ばれていく。
俊明は運転手と短く言葉を交わし、同伴で乗り込んだ。
「雪杜くん、御珠ちゃん、俺の車で火葬場まで行こう」
「……お願いします……」
「……うむ」
修一の車に乗り込む。
霊柩車のクラクションが、一際長く鳴った。
それを合図に、車はゆっくり動き出す。
冬の道を押し分けるように進むその後ろを、修一の車が静かに追った。
雪杜は窓の外を見つめる。
見慣れた景色が淡く流れていく。
(……これで、おじいちゃん……最後なんだ……)
御珠が隣で静かに座っている。
横顔は揺れないのに、目の下に深い影が落ちているように見えた。
(……御珠も……辛いのかな……)
火葬場に到着した。
「こちらへどうぞ」
告別室に案内され、最後のお別れが始まる。
棺の窓が開けられ、晴臣の穏やかな顔が再び現れた。
「……おじいちゃん……
ありがとう……
僕……頑張るから……」
言い終える前に喉が詰まり、雪杜は息を吸い直す。
俊明も静かに目頭を押さえた。
「親父……
俺は……ろくな息子じゃなかったけど……
雪杜を……よく育ててくれた……
ありがとう……」
修一もゆっくりと手を合わせる。
「晴臣さん……
お疲れ様でした……」
御珠は目を閉じ、胸に手を添えた。
(……晴臣。
そなたは……立派な男じゃった。
妾は……そなたの願いを……必ず……)
「それでは……」
棺が炉の中へ運ばれていく。
雪杜の足が小さく震えた。
「……っ……」
扉が閉まる金属音が、長く尾を引いた。
「お骨上げは一時間後になります。
待合室でお待ちください」
待合室へ移動すると、ストーブの音がやけに大きく響く。
時間が、白い壁に積もっていくようだった。
窓の外には、薄い雪が舞っている。
「……雪杜。飲むか」
俊明が買ってきたジュースを差し出す。
甘いはずの液体は、舌にほとんど味を残さなかった。
「これからのこと。ちゃんと話し合わないとだな」
「……うん」
(……雪杜の未来。
妾も……避けては通れぬのじゃな……)
「今日は……まだ通夜もあるから……
明日の葬式が終わってから……な」
「……分かった……」
俊明は優しく雪杜の頭に手を置く。
「……お前は、強い子だな」
「……そんなこと……ない……」
「いや……強いよ。
俺よりずっと……」
「……父さん……」
―――
一時間後。
お骨上げが始まった。
雪杜は震える手で箸を取り、白く細い骨を拾い上げる。
(……おじいちゃん……
これが……おじいちゃん……)
胸の奥が熱くなり、雪杜は唇を噛む。
御珠も静かに箸を持ち、丁寧に骨を拾っていく。
(……晴臣……
そなたは……妾に多くを教えてくれた……
ありがとう……)
骨壺にすべてを納めると、雪杜はそっとそれを胸に抱いた。
掌に伝わる重さは確かにあるのに、容れ物自体は驚くほど小さい。
(……こんなに小さく……
……重い……
でも……温かい……)
修一の車で家へ戻る道すがらも、雪杜は骨壺を膝から離さなかった。
御珠はその横顔を静かに見守り、揺れるたびにそっと体の向きを合わせる。
家に着き、仏間へ骨壺を安置する。
「それでは、我々は通夜の準備に向かいます。
16時になったら会場に来てください」
葬儀屋は一礼して去っていった。
俊明は雪杜を見つめ、眉を寄せる。
「雪杜、少しでも休んでおけ。
顔色がよくないぞ」
「……うん……」
自室へ戻ると、御珠が後ろに静かに続いた。
布団に横たわる雪杜の頬はまだ冷たかった。
「……雪杜」
「……うん……」
「少し……眠るのじゃ」
「……眠れないよ……」
「……なら……妾がそばにおる」
「……ありがとう……御珠……」
冬の時間が、ただゆっくりと流れていった。




