第14話 冬闇の中で ― 壊れた家族の影 ―
※この物語では、雪国の一部地域で行われる「前火葬」(通夜より先に火葬を行う形式)を採用しています。
―――
仏間で晴臣の顔を拝み、ひと通り手を合わせ終えたあと。
修一が「積もる話もあるだろ」と静かに人払いをして、襖をそっと閉めた。
残されたのは、俊明と雪杜、そして御珠だけ。
冬の光が障子越しに淡く差し込み、畳の上に三人の影が横たわっていた。
言葉が途切れたまま、短い時間が過ぎる。
俊明がぽつりと口を開いた。
「……確かに変わったな」
雪杜はわずかに顔を上げる。
「え……?」
俊明は視線を落とし、ゆっくり言葉を選ぶように続けた。
「親父から聞いてたよ。
お前には黙っていたが、たまに電話で様子を聞いていた」
「え!」
予想していなかった事実に、雪杜の目が大きく開く。
「一人の女の子がお前を救ったってな」
俊明の視線が御珠へ向けられる。
「聞けば孤児だというじゃないか。
施設から虐待されて逃げだしたところを、お前と出会ったって。
居候してるんだろ?」
(おじいちゃん!そんな説明してたの!?)
御珠は微動だにせず、背筋を崩さない。
俊明はその前に膝をつき、深く頭を下げた。
「改めて……ありがとう。
俺は……息子を守ることができなかった。
逃げることしか出来なかったダメな父親だ……」
御珠は言いかけて、そっと視線を伏せる。
「……」
俊明は痛みがにじむ声で続けた。
「……お前の母さんのことだが」
雪杜の肩が小さく震える。
「……母さんは……?」
「……離婚したよ。
母さんはあの日から家に帰ってきていない。
実家にも様子を見に行ったんだが……いなかった。
どこでどうしているか……もう俺にも分からないんだ」
短い言葉なのに、雪杜の胸へ重く沈んだ。
どこかで覚悟していたこと、それでも聞きたくなかった現実。
「そっか……母さん……」
壊れる前の母の手の温かさが、不意に浮かんで涙が滲む。
(僕のせいだ。僕が壊したんだ……)
御珠がそっと首を振る。
「雪杜よ……
そう自分を責めるでない」
俊明もゆっくりと雪杜を見る。
「……あの日、何が起きたかは……お前が一番分かっているはずだ。
母さんは壊れていた。
お前を責めるつもりはない。
あれは……誰にも止められなかった」
雪杜は視線を落とし、呼吸の仕方を忘れたように黙り込む。
俊明は握った拳を震わせながら言葉を絞り出した。
「俺は……守れなかった。
妻も、息子も、誰も救えなかった。
夫としても、男としても……完全に負けたんだよ」
俊明の肩がわずかに落ちる。
その姿は、雪杜が知る父よりもずっと小さく見えた。
長い時間を背負ってきた男が、ようやく痛みを言葉にしている――
そんな静かな崩れ方だった。
「あいつは……泣きながら俺に言ったよ。
“自分が母親でなくなってしまいそうだった”って……」
俊明の声が揺れる。
「そのことを知った時……俺はもう“家族の形”を維持できる自信がなくなった。
お前のそばにいる資格なんてないって……そう思ってしまったんだ」
雪杜は膝の上で手を握りしめる。
「……それで僕を預けたの?」
「……ああ。
逃げたんだよ。弱かったんだ。
本当は……お前が怖かったんじゃない。
“父親としての自分”が壊れるのが怖かったんだ」
雪杜の拳が強く締まる。
歯を食いしばる音が、冬の冷気に微かに溶けた。
「親父に全部を任せてしまったのも……。
“不甲斐ない自分を見られたくなかった”だけだ」
言葉が尽き、部屋の音が目立ち始める。
障子の隙間から差す白い光が、三人の影を静かに歪めた。
雪杜は小さく息を吸う。
「……僕も……母さんのことがつらかった。
でも……おじいちゃんがいたから」
俊明はゆっくりと晴臣の遺影へ視線を向ける。
「……あの人は強かった。
俺が投げ出したものを、何も言わずに全部引き受けて……
雪杜を育ててくれた」
その言葉と共に、仏間にしんとした静けさが満ちる。
俊明は覚悟を決めるように息をのんだ。
「……それと、もう一つ……話しておかないといけないことがある」
雪杜は目を上げる。
「?」
「……俺は……再婚してる。
新しい妻がいて、もうすぐ二歳になる子供もいる」
言葉が止まり、秒針の音がやけに大きく響く。
「……僕がお兄ちゃんに……」
「……お前を捨てたわけじゃない。
でも……あの頃の俺は……誰かにすがらないと立っていられなかった」
俊明は力なく言い切った。
「不義理な父親だと罵ってもいいんだぞ」
「……できないよ」
「……なぜだ」
雪杜は震える指先を見つめ、搾り出すように言った。
「僕も……一人じゃ無理だったから。
御珠がいなかったら……今ここにいなかった」
御珠がそっと雪杜の指先に触れる。
触れただけなのに、その温もりは言葉よりも静かに背中を支えた。
「だから……父さんのこと……
罵る資格なんて、僕にはない」
俊明は息を呑み、口を閉じた。
後悔と安堵と痛みが、喉の奥で絡まっている。
「……すまん……本当に……」
雪杜は俯き、膝の上で拳を強く握りしめ続ける。
御珠は隣で静かに座り、その手へそっと自分の手を添えた。
雪杜の体温と震えが、掌越しに確かに伝わってきた。
―――
昼過ぎ。
冬の光が傾き始める頃、玄関のインターホンがひっきりなしに鳴っていた。
戸が開くたび、寒気を連れた風が入り込み、人の気配が家の中へどっと流れ込む。
「ご愁傷様です」
「突然のことで……」
修一が慣れた調子で丁寧に応対し、俊明も横に立って一人ひとりに頭を下げていく。
居間の隅では、雪杜が小さく背を丸めて座っていた。
親戚の顔は視界に入るのに、言葉の端が頭の中でほどけていく。
返事をしようとして、舌が動く前に喉が固まった。
御珠がそっと隣に腰を下ろす。
彼女は周囲のざわめきから少し離れた位置にいるように、姿勢を崩さなかった。
「……雪杜」
「……うん……」
近くにいた年配の親族が声をかけてくる。
「雪杜くん、大きくなったねえ」
続けて別の親族が、心配そうに言葉を添える。
「大変だったね。しっかりしなきゃね」
「……はい……」
その返事を口から出した瞬間、肩の力が抜ける。
握っていた指先に、じっとりと汗がにじんだ。
やがて、黒いスーツ姿の葬儀屋の担当者が玄関に現れる。
「ご遺族の方、お打ち合わせを」
修一がすぐに立ち上がり、俊明を振り返る。
「俊明、こっちで」
「ああ」
雪杜も無意識に立ち上がった。
「……僕も……」
修一は振り返り、優しいがどこか厳しい声音で言う。
「雪杜くんは無理しなくていい。
俺たちでやるから」
「……でも……」
俊明が少しだけ目を細め、真っ直ぐに雪杜を見つめた。
「雪杜。
お前は……おじいちゃんの隣にいてやれ」
「…………」
言葉にならず、喉の奥で息が詰まる。
雪杜は小さくうなずいた。
修一と俊明、そして葬儀屋の担当者は別室へ移動していく。
残された部屋が、急に広く思えた。
雪杜は仏間へ戻る。
晴臣の顔を見つめた瞬間、胃の奥がきゅっと縮んだ。
(……おじいちゃん……
僕、何もできない……)
御珠が何も言わず隣に座る。
手を伸ばすでも、慰めの言葉を置くでもなく、そこにいる。
「……雪杜よ。
そなたは何もできなくてよいのじゃ」
「……え……?」
「今はまだ子供じゃ……ただ、晴臣と共におればよい。
それは……そなたにしかできぬことじゃ」
「……御珠……」
雪杜は唇を噛み、息をひとつ飲み込んだ。
視界が滲みそうになって、目を伏せる。
台所の方から、親戚たちの話し声が重なって聞こえてくる。
「明日は朝から納棺だって」
「火葬は昼前か……」
「通夜は夕方からね」
少し声を潜めた囁きが続いた。
「雪杜くん、これからどうするんだろう」
「お父さんが引き取るのかしら」
「でも新しい家族がいるって……」
その言葉は、壁越しでも生々しい。
胸の内側を撫でられたみたいに、冷たいものが走った。
「……僕、これからどうなるんだろう……」
御珠がそっと雪杜の手を握る。
「……雪杜。妾がおる」
そして声には出さず、唇が静かに動いた。
(……人は弱い。
ゆえに別れも、未来も、かくも痛い……
だが雪杜よ。そなたは独りではない)
「……御珠……」
雪杜は握られた手をほどけないまま、じっと前を見つめる。
線香の煙が細く揺れていた。
ほどなくして襖が開き、修一と俊明が戻ってくる。
「雪杜。明日の流れを説明するぞ」
「……うん……」
「朝9時に納棺。
そのまま出棺して火葬場へ。
火葬が終わったら、夕方から通夜だ」
「……うん……」
俊明が椅子に腰を下ろし、雪杜を見つめる。
「……学校にも連絡しておいた。
二人とも、しばらくは休んでいい」
「……わかった……」
「雪杜。
無理はしなくていい。
分からないことがあったら、俺たちに聞いてくれ」
「……うん……」
俊明がそっと肩へ手を置いた。
「……お前は、よくやってるよ」
「……っ……」
雪杜は返事を探したが、喉の奥で音が折れた。
うなずく代わりに、肩が小さく震える。
夜になり、親戚たちが帰っていく。
風が吹き込むたび、家がひとまわり広くなったように思えた。
「じゃあ、俺も一回帰るから。
明日の朝また来るよ」
「ああ。何から何まですまん。ありがとう、修一」
「雪杜くん、頑張って」
「……はい……」
修一が帰り、玄関の音がそっと閉じる。
家には雪杜と御珠、そして俊明が残された。
俊明が静かに言った。
「……雪杜。
通夜が終わるまでは線香を絶やさないようにしないといけない。
お前が先に寝ずの番をするんだ。
12時になったら俺を起こしてくれ。
俺は……二階の部屋で先に休む」
「……うん……」
俊明は階段を上がる前に手すりを握り、ほんの一瞬だけ呼吸を乱す。
それでも何も言わず、二階へ上がっていった。
足音が遠ざかる。
仏間には雪杜と御珠が残る。
線香の煙が細く揺れ、冬の冷気に淡い香りを溶かした。
外の風の音が、やけに遠く思えた。




