第13話 冬闇の中で ― 静かに崩れる時間 ―
期末テストも終わり、二学期の終わりがゆっくりと近づいていた夜。
放射冷却で空気は刺すように冷たく、家全体が静けさに包まれている。
雪杜は居間のこたつに潜り込み、スマホの光をぼんやり見つめていた。
【咲良と雪杜の個別チャット】
咲良:クリスマスどうする?
雪杜:去年みたいにみんなで集まる?
咲良:二人だけがいいな……
雪杜は小さく息を漏らす。
「うーん」
その声に、こたつ布団の向こうで丸くなっていた御珠が顔を上げた。
「なんじゃ。クリスマスか」
「うん。咲良が二人だけがいいって」
(これ、また二人と交互にデートするやつだ)
こたつの熱が布団の内側にこもり、頬がほどける。
贅沢な悩みに見えるやり取りが、チャットの画面に続いていた。
雪杜はふとスマホを伏せ、壁の時計へ視線を上げる。
針の位置を確かめた瞬間、胸の奥に小さな違和感が芽生えた。
「おじいちゃん。きょうお風呂長いな」
「うむ。かれこれ三十分にはなるかの」
御珠の声がそこでふっと途切れる。
影が胸をかすめるように、神気がわずかに震えた。
風も音もない。
それでも、強い“願い”だけが御珠の胸を掠めた。
「……晴臣。そなた……」
「どうしたの御珠?」
御珠は視線を外し、すぐ雪杜を見据える。
「いかん、雪杜!急げ!晴臣が危ない!」
「え!?どういうこと!?」
「問答無用じゃ!早く!」
御珠の声は切迫していた。
雪杜の体が反射のように動き、廊下を駆け抜ける。
風呂場の前で足を止め、声を張り上げた。
「おじいちゃん!?
おじいちゃん!」
返事はない。
胸の奥がきつく締め付けられる。
「返事して!おじいちゃん!」
勢いよくドアを開けた瞬間、視界が揺れた。
浴槽に沈むように、晴臣の肩が湯に傾いている。
「おじいちゃん!!?」
雪杜は迷わず湯へ手を伸ばし、体を引き寄せた。
まだ温かいのに――反応がない。
「ねえ!起きて!おじいちゃん!!」
(ヒートショック……!?
そんな……)
御珠が後ろから風呂場を覗く。
その表情はいつもの軽さを完全に失い、硬い石のように動かなかった。
「御珠!神様なんでしょ!?
おじいちゃんを助けてよ!!
お願いだから!!」
「……すまぬ」
「え……」
御珠は拳を握り締め、震えを押し殺すように言う。
「手遅れじゃ。
晴臣はもう……」
「そんな……!
神様なら!なんとかできるんじゃ……!」
「……雪杜よ」
御珠は静かに、しかし言葉を噛みしめるように続ける。
「妾が力を振るえば……死はねじ曲がる。
だが……その瞬間、雪杜の世界は壊れるのじゃ……」
「っ……ぐ……」
雪杜は晴臣の肩を掴んだまま、膝が落ちそうになる。
涙がこぼれ、声が震えた。
「そんな……なんで……
なんでだよ……」
御珠はそっと視線を落とす。
「……雪杜。救急車を」
「……うん」
震える手でスマホを取り出し、119へかける。
「もしもし……救急車を……
祖父が、風呂で……倒れて……
呼吸が……ないんです……」
『落ち着いて住所を教えてください』
言われた通りに答えながら、雪杜は必死に晴臣の体を引き上げようとする。
だが、重くて動かない。
御珠が支えに入る。
二人でやっとの思いで脱衣所まで運び出した。
『救急車が向かっています。今から心臓マッサージを……』
「は、はい……」
押しても押しても、晴臣の胸は応えなかった。
(まだ温かいのに……
なんで……なんで応えてくれないの……?)
御珠は横で黙って見守っていた。
言葉が出せない。
出してしまえば、何かが壊れそうだった。
「おじいちゃん……
ごめん……ごめんなさい……
僕が……もっと早く気づいてれば……」
やがてサイレンが家の前で止まる。
「修一おじさんにも連絡しないと……」
雪杜は震える指で番号を探し、通話ボタンを押す。
『おう、雪杜くんか?どうした。こんな時間に』
「おじさん……おじいちゃんが……
風呂で倒れて……救急車呼んだんです……」
『なんだと!?今すぐ行く!
どこの病院に運ばれる!?』
「まだ……分かんないです……」
『分かったら教えてくれ。
すぐ行くからな!』
「はい……」
玄関のチャイムが鳴り、救急隊員が駆け込んでくる。
「救急隊です!」
「は、はい!こっちです!」
雪杜が震える声で呼ぶと、隊員たちが素早く入り、晴臣の状態を確認し、次々と処置を進めていく。
「お孫さんですね。すぐ病院へ運びます。
危険ですので、付き添いは一名のみでお願いします」
隊員の説明は落ち着いた声だった。
御珠は雪杜を見た。
その瞳には迷いも不満もなく、受け止める色が残っている。
「……行け。妾は後から向かう」
その静かな言葉で、雪杜の胸がきゅっと締まる。
「御珠……」
「よい。そなたがそばにおるほうが、晴臣も安心できよう」
隊員が晴臣を寝台へ移し、救急車へ運び込む。
「乗ってください。急ぎます」
雪杜はうなずき、晴臣の横へ乗り込んだ。
足が震えているのに、乗り場までの距離が異様に遠く感じる。
ドアが閉まる直前、御珠がわずかに身をかがめて雪杜を見つめた。
「妾もすぐ行く。心配するな、雪杜」
「……うん……!」
救急車のドアが閉じ、サイレンが遠ざかっていく。
御珠はその赤い光を見送っていた。
ふと見上げた空に、白い月がぎらりと滲む。
雲ひとつない放射冷却の夜――熱を奪われた空気は刃のように澄み、息を吸うたび胸の奥まで冷たさが走った。
どれほど世界が凍えても、月だけが異様なほど冴え渡っていた。
(……雪杜。先に行け。妾もすぐ追う)
御珠は震える息をひとつ整え、暗がりへ駆け出す。
月光が、彼女の影を細く長く伸ばしていった。
―――
病院に着くと、待合室の明かりがやけに白かった。
雪杜は座ることすらできず、立ったまま両手を握りしめている。
廊下のざわめきが、妙に遠く聞こえた。
「雪杜……座るのじゃ」
「御珠?いつの間に……」
振り返ると、御珠が息を弾ませながら立っていた。
髪に、夜風の冷たさがまだ残っている。
「いまは気にするでない……座るのじゃ」
「……無理だよ」
御珠は返事を責めず、ただ雪杜の肩へそっと手を添えた。
その手が、ようやく追いついた実在を証明するようだった。
ちょうどその時、廊下の向こうから修一が駆け込んできた。
「雪杜くん!大丈夫か!」
「修一おじさん……」
「晴臣さんは!?」
「まだ……処置中で……」
三人は扉を見つめ、動かない時間に飲み込まれていった。
やがて、医師が扉の向こうから姿を見せた。
「ご家族の方ですね」
「はい……」
「……残念ですが」
その言葉で世界が揺らいだ。
「そんな……」
膝から力が抜けそうになり、修一が肩を支える。
「しっかりするんだ、雪杜くん」
「恐らくヒートショックによる心停止です。
発見時にはすでに……
ご冥福をお祈りします」
扉が静かに閉じる。
雪杜はその場に崩れ、声を震わせた。
「嘘だ……
嘘だよ……」
御珠が隣にしゃがむ。
ただそばにいる――それ以外、何もできなかった。
(僕が……
僕がもっと早く……)
雪杜は苦悶の表情を浮かべ、涙をこらえる。
「雪杜……」
御珠はそっと雪杜の手を握った。
(晴臣……
そなたが遺した“願い”……
妾が必ず……)
―――
冬の冷え込みより冷たい無言が、廊下に落ちた。
修一がそっと雪杜の肩へ手を置いた。
その手の温かさだけが、現実へ引き戻す支えになっている。
「大丈夫だ。
君はひとりじゃない。
手続きも、これからのことも、全部大人がやる。
雪杜くんは……悲しんでいいんだぞ」
「……っ……」
その言葉が、胸の奥の堤防を破った。
雪杜は床へ崩れ落ち、声が喉の奥でちぎれる。
「おじいちゃん……っ……
おじいちゃん……っ!」
涙は止まらず、声がかすれても溢れ続けた。
御珠は傍らにしゃがみ、声を出さずに寄り添う。
修一も背に手を添え、小さく頷いた。
どれほどの時間が過ぎたのか、わからない。
病院の蛍光灯の白さは、変わらずそこにあった。
やがて修一が静かに立ち上がる。
掌に落ちた雪杜の涙をそっと拭い、二人へ言葉を向けた。
「……雪杜くん、御珠ちゃん。少し待ってろ。
俺が連絡を済ませてくる」
「……うん……」
「……うむ」
修一は少し離れた場所で、すぐに電話をかけ始める。
雪杜の父へ、そして葬儀屋へ。
抑えた声が廊下に響き、事務的な言葉が次々と重ねられていった。
御珠は雪杜の横に戻り、静かに座る。
その瞳には、晴臣の死をまだ受け止めきれない影が揺れていた。
「……御珠……」
「なんじゃ」
「……これから……いっぱい人が来るけど……
大丈夫?」
御珠は少し目を伏せた。
伏せたまつげの下に、覚悟と、わずかな痛みが滲む。
「……よい」
「え……?」
(……おそらく隠しきれぬじゃろ。
ならば……そなたのそばにおる)
雪杜は眉を寄せ、弱い声で続ける。
「……無理しなくていいんだよ?」
「無理ではない。
妾は……そなたのそばにおりたいのじゃ」
「……御珠……」
御珠は短く息を吸い、小さく呟いた。
「それに……
……晴臣が遺したもの……
妾も、受け取らねばならぬ」
「……?」
御珠は答えず、ただ雪杜の手をそっと握った。
その手は僅かに震えている。
ほどなくして修一が戻る。
「雪杜くん。お父さんにも連絡した。
明日の朝には着くそうだ」
「……うん……」
「葬儀屋さんも手配した。
朝になったら、おじいちゃんを家に連れて帰ろう」
「……はい……」
修一は雪杜の表情を確かめ、柔らかく続けた。
「今夜は……ここで待つしかない。
少しでも横になったほうがいい」
「……おじさんは……?」
「俺は大丈夫だ。
雪杜くんが心配なんだよ」
彼は御珠へも目を向けた。
「御珠ちゃんも……辛かったな。
晴臣さんには本当にお世話になったもんな」
「……うむ」
「これからのことは、俺たち大人が考える。
二人とも……今は休んでくれ」
「……ありがとうございます……」
雪杜は待合室の長椅子に横になった。
だが眠れるはずもない。
閉じた目の裏には、温かいまま動かなくなった晴臣の姿が浮かぶ。
(……僕が……もっと早く……)
御珠が隣に腰を下ろす。
何も言わず、雪杜の呼吸に合わせて座っていた。
「……御珠……」
「……雪杜。そなたは悪くない」
雪杜は目を閉じたまま、こぼれた涙を頬に流した。
夜は凍りついたまま動かない。
雪杜だけが、その場に置き去りにされたようだった。
――やがて、窓の外が白む。
冬の朝が来た。
「雪杜くん……起きてるか?」
「……はい……」
「葬儀屋さんが来た。
これから……おじいちゃんを連れて帰るぞ」
「……はい……」
体は重いのに、時間だけが勝手に進んでいく。
葬儀屋の面々が晴臣を静かに運び出す。
その体は白布で包まれ、ゆっくりと寝台車へ収められた。
雪杜は立ち尽くし、遠ざかる足音を見送った。
御珠も横で、冷えた廊下に溶けるように凛と立ち続けている。
「……じゃあ、行こう」
修一のそのひと言を合図に、三人は病院を後にした。
寝台車が静かに発進し、雪杜と御珠、修一はタクシーへ乗り込む。
車列はゆっくりと動き出し、見慣れた街並みの中へ吸い込まれていった。
(……おじいちゃん……
帰るよ……)
家に着くと、葬儀屋が仏間の準備を進め始めた。
慌ただしく動く人々の中で、雪杜は立ち尽くす。
御珠も静かに隣へ寄り添った。
「雪杜くん、御珠ちゃん。
少し休んでたほうがいい」
「……はい……」
「……うむ」
居間に座っても、思考はどこにも向かない。
ただ、秒針の進みだけが耳に残った。
「……雪杜くん。お父さんが着いた」
「……え……?」
玄関の方で車のエンジンが止まり、ドアが開く。
修一が迎えに出る。
「俊明。久しいな」
「……修一。ありがとう」
その声は疲れていた。
だが長い距離を越えてここへ来た決意は、確かな響きを持っている。
足音が近づく。
雪杜は立ち上がり、御珠も隣でそっと姿勢を正した。
父が居間に顔を出す。
別れたあの日から、季節がいくつも巡っていた。
俊明はしばらく言葉を探し、冷たい息をひとつ吸い込む。
「……雪杜。大きくなったな」
「……父さん。久しぶり……」
二人のあいだに、言葉にできない年月が横たわる。
その後で――俊明の視線が御珠へ移った。
「……君が、御珠ちゃんか」
「え?御珠のこと知ってるの?」
「ああ。このことは後で話そう」
御珠は口を閉ざし、静かに相手を見る。
俊明は深く頭を下げた。
「ありがとう。雪杜を救ってくれて」
「……礼には及ばぬ」
修一が促すように言った。
「……俊明。まずは晴臣さんに……」
「……ああ」
俊明は仏間へ向かい、祭壇の前で膝をつく。
その背中は、雪の重みをひとりで背負っているように見えた。
「……親父……」
震えた声で手を合わせる。
雪杜も隣でそっと手を合わせ、御珠も同じように静かに祈った。
言葉が消える。
雪が降る前触れのように、深い静けさが家を満たした。
そして――
台所から聞こえる湯の沸く音が、家の時間をわずかに動かしていた。




