第12話 幸せな刻の中で
机を囲んで8人が座ると、空き部室にはちょうどいい緊張と賑やかさが混ざった熱が流れた。
莉子がプリントの束を抱え、全員へ手際よく配っていく。
「じゃあ今日は“数学→英語→理科”の順ね。
時間割はこれの通りに進めます」
駆が素直に感心したような声を漏らす。
「さすがマネージャー……」
華蓮は頬杖をつきながら笑う。
「今日もガチだなー莉子」
颯太も苦笑しつつ頷いた。
「成績上位組ってすげー……」
雪杜が優しい声で言葉を添える。
「分からないところあったら言ってね。みんなでやろう」
その瞬間、御珠が勢いよく手を挙げた。
「はい雪杜、ここが分からんのじゃ!」
「え、あ……うん、見るね……」
莉子は心の中でツッコミを入れる。
(早い……絶対まだ読んでない……)
咲良もこっそり同意する。
(御珠ちゃん、絶対わざと……)
雪杜は御珠の問題用紙をのぞき込み、丁寧に説明を始めた。
「ここはね、公式を当てはめるだけなんだ。
x と y が――」
御珠はじーっと雪杜の顔を見つめ続ける。
「ふむふむ……」
(何を言っているかはよく分からぬが……
雪杜の声は心地よいのじゃ……)
それを見た華蓮がズバッと突く。
「おい、お前絶対聞いてねぇだろ」
「きっ、聞いておるわ!! 妾は真面目なのじゃ!」
「えっと……じゃあここ解いてみる?」
「えっ!?い、いまか!?
まだ心の準備が……いや、問題の準備が……!」
莉子が優しくも容赦なく追い込む。
「御珠ちゃん、可愛いけど勉強からは逃げられないよ」
颯太が応援とも煽りともつかない声を出す。
「おバカ同盟がんばれー」
華蓮が即座にキレる。
「お前もあんま変わんねーだろ!」
「俺はそこそこの成績ですぅー」
「くそ!」
少し離れた席では、駆と史が並んでこっそり会話していた。
(記録使いますか?)
史が控えめに囁き、駆が慌てる。
(え……一回きりだったのでは……)
(彼氏は別です)
咲良がすかさず割ってくる。
「はーいそこ、ずるしなーい」
史は微笑みながら首を傾げた。
「な、なんのことでしょうか」
―――
小休憩に入ると、咲良が勢いよく話し始めた。
「昨日ね、陽向のおむつ替えしたんだけど――」
華蓮が苦笑しながら受ける。
「始まった“ママ報告”」
颯太も呆れ顔だ。
「もう完全に母親の顔じゃん……」
莉子は興味津々で頷く。
「陽向くん見にいきたい」
駆が茶々を入れる。
「大きくなっても同じこと言ってられるかな?」
雪杜は焦りながら、手にしていたペンをそっと置いた。
「いやでもおむつ話は一旦……ね?」
咲良はほっぺを膨らませる。
「むぅ……」
―――
小休憩も終わり、雪杜が御珠の答案をのぞき込む。
「あ、ここは符号ミスしてるだけだよ。直せばできてる」
御珠はしばらく用紙を見つめ――
そのまま不意に雪杜へ体ごと向き直った。
「……雪杜、できぬ。教えてほしいのじゃ……
手……取っても、よいか……?」
教室の熱が止まる。
「えっ!?手!?いや、手はとらなくても……!」
咲良が机を揺らすほどの勢いで心の中で叫ぶ。
(めっちゃ甘えてる……!)
華蓮は冷静に切り込む。
「お前、雪杜に構ってもらうためにわざとミスってね?」
「し、失敬な!!妾は真剣なのじゃ!」
莉子が御珠の答案をのぞきながら、小首をかしげる。
「答案の○印がハートっぽい形なの何?」
「!?!?!?」
御珠の肩が跳ねあがり、机が小さく震えた。
勉強会は笑いとツッコミに包まれたまま進んでいく。
夕日が差し込み、机の影が長く伸びていた。
―――
夕方のスーパーは、晩ご飯の買い物客でほどよく賑わっていた。
自動ドアが開くと同時に、雪杜・御珠・晴臣の三人が店内へ入っていく。
買い物かごを受け取りながら、雪杜がメモを確認した。
「えっと……まず、今日の晩ご飯は味噌汁と肉じゃが…でいいよね」
晴臣はゆっくり頷き、笑う。
「なんでもええぞ。腹に溜まるものならのう」
御珠はというと、まっすぐ惣菜コーナーへ引き寄せられていた。
揚げ油と醤油の匂いに足が止まる。
「妾は……あれが食べたいのじゃ!」
ぴたっと立ち止まり、ガラスケースの前に張りつく。
「お惣菜か……」
雪杜が苦笑すると、御珠は揚げたてに目を輝かせた。
「夕餉にしてもよいじゃろ?揚げたてじゃぞ!」
晴臣はその様子を見て、柔らかく肩を揺らす。
「まぁ、楽じゃしええじゃろ」
雪杜はメモを手に取り直し、通路へ向かう。
「じゃあ、あと野菜と豆腐……御珠、カート押せる?」
「まかせるのじゃ!」
自信満々にカートを押した御珠は、予想通り勢い余って棚にゴンとぶつけた。
金属音が鳴り、近くの店員がちらりと振り向く。
「む!?こやつ……言うことを聞かぬ……!」
「いや御珠が強く押しすぎ……」
晴臣がのんびりと笑う。
「ふぉっふぉっ、怪力は隠せんのう」
三人の笑い声が、通路のすみへ小さく散った。
―――
紙おむつ売り場に差しかかったときだった。
「……あれ?雪杜?」
咲良の声が飛び、雪杜は振り返った。
そこには、カートを押す咲良と、澪の腕に抱かれた陽向。
その後ろには、気まずそうに歩く父の姿があった。
「偶然すぎるー!買い物?」
「う、うん。晩ご飯の……」
澪が静かに会釈し、その視線を一瞬、御珠へ移す。
「……御珠ちゃん、こんばんは」
御珠も丁寧に頭を下げた。
その仕草には、普段より強い緊張がにじんでいた。
「……お晩なのじゃ。
いつぞやは……世話になったの」
澪は短く返し、言葉を切る。
通路の音が、急に耳についた。
咲良はその変化を敏感に受け取り、慌てて話題を変えた。
「みてみて!これが陽向ちゃんだよ!」
澪から陽向を受け取った咲良が、抱っこし直して雪杜たちへ見せる。
すやすや眠る赤子の頬に、白い息がかかる。
雪杜は目を細めて見つめた。
「ち、ちっちゃい……。かわいい……」
御珠もそっと覗き込む。
「……よう、眠っておるな」
その声は優しかった。
だが澪は、咲良の腕を軽く引き、陽向を胸側へ寄せる。
御珠との間に、半歩ぶんの距離ができた。
「え?お母さん?」
澪の瞳には、静かな防衛の色があった。
御珠はそれを読み取り、同じだけ足を引く。
(……妾が触れてよい領域ではないのじゃ)
咲良が胸の奥で息を呑む。
(……お母さん、御珠ちゃんのこと認めてないんだよね……
雪杜を見る目も、どこか警戒してるし……
ほんとは仲良くしてほしいのに……)
そのとき、晴臣がゆっくりと合流した。
「おお、春原さんところの。今日は家族みんなでか?」
澪が微笑む。
「はい。日用品を少し……」
晴臣も笑みを返す。
そのやり取りを見ていた咲良は、母の視線の向きで扱いが変わるのを見てしまい、胸の奥がきゅっと痛んだ。
父がそっと澪の肩へ手を置いた。
「……そろそろ行こっか」
「ええ。咲良、戻るわよ」
咲良は明るい声で手を振った。
「じゃ、また学校でねー!」
咲良一家の四人は通路の向こうへ歩き去っていく。
御珠はその背中を静かに見送った。
澪の姿を――遠い灯りを眺めるように。
(……妾が踏み込めぬ領域。
その“端”を歩くのが、今の妾なのじゃ)
雪杜がその横顔を見て、小さく呟く。
「……咲良のお母さん、なんか緊張してたね」
御珠はゆっくり頷いた。
「うむ。あれは妾に向けたものじゃ。
母として、当然の反応よ」
晴臣が穏やかな声で言う。
「ふむ……まぁ、いろいろあるんじゃろ。
気に病むことでもないわい」
雪杜は小さく笑った。
「うん……咲良とはちゃんと仲良くできてるから」
三人が出口へ向かうと、自動ドアが開き、夜の冷気が流れ込む。
三人は静かに店を出ていった。
―――
夜がゆっくり落ち着いていく時間帯。
リビングでは三人がテレビを囲み、相撲中継の熱に包まれていた。
「いけー!そこなのじゃ!!」
御珠が前のめりになって叫ぶ。
画面の中、力士の身体がぶつかり合い、勝負が決まる。
「大の山!寄り切りったー!
大の山!初優勝です!!」
「やったのじゃー!大の山優勝なのじゃー!」
御珠が満面の笑みで跳ねると、晴臣も穏やかに目を細めた。
「よい力士が出てきたのぅ」
「うむ。相撲は面白いのじゃ」
雪杜はその二人を見ながら、あたたかい声で言う。
「御珠がいつも見てるから、一緒に見始めたけど面白いね」
「さて、相撲も終わったし風呂にでも入るかの」
晴臣はタオルを肩にかけ、ゆっくり立ち上がった。
立つだけの動きに、年齢の重みがわずかに出る。
「晩御飯の支度しとくよ」
雪杜の声に頷きながら、晴臣は廊下へ消えていく。
家の音が続く。
タオルの擦れる布音、スリッパのパタッという軽い響き。
「……寒うなってきたのう。もうすぐ雪が降る頃合いか」
脱衣所に満ちる冷気が、晴臣の肌をかすめる。
さっきまでテレビの前にいた温もりが、すっと引いていく。
「脱衣所にもストーブ置いたほうがええかの……」
自分に言い聞かせるような苦笑が漏れる。
衣服を脱ぐたび、肌にふれる空気がいっそう冷えていった。
「早う湯に浸からんと、冷えてしまうわい」
がらん、と風呂蓋を開ける音。
その瞬間だけ、湯気がふわりと逃げ、冷気と混ざり合う。
「ふ〜……生き返るのぅ」
湯気の中に落ちたその声は、静かに溶けて消えた。
―――
こたつに入った二人は、表彰式をBGMにのんびりしていた。
部屋の暖かさが、肩の力を抜かせる。
「……もうすぐ、御珠と会って三年だね」
雪杜がなんとなく言うと、御珠は目を細めた。
「妾も驚いておるわ。
そなたとおった時間は、すぐ過ぎてしまうのじゃ」
(御珠……今日、ちょっと興奮してて可愛い……
……あの契りから二年か……)
(雪杜……横顔がよい……
……口づけ、したいのじゃ……)
二人とも、完全に色ボケである。
こたつに沈みながら、二人はまだ相撲の優勝インタビューを眺めていた。
部屋はあたたかく、外の冷え込みとは無縁のように思えた。
雪杜と御珠がぼんやりテレビを見ているその横で、棚の上には、修学旅行で買った“金ピカ木彫りクマ”が湯飲みを掲げて鎮座している。
どこか場違いなほど眩しくて、そして、妙に誇らしげだった。
御珠はちらりとそれを見て、小さく笑う。
(……雪杜の身の回りは、こうして少しずつ増えていくのじゃな)
雪杜はその変化に気づかず、のんきにこたつへ潜り込む。
夜は静かで、こたつは温かい。
その差が、この家の未来に訪れる“冬”の気配をまだ隠していた。




