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神愛 ─ 永遠の刹那 ─  作者: 神愛
第3章 中学生編 ― その瞬間を抱きしめて ―
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第4話 守りのいない朝

朝の食卓には、味噌汁の湯気がゆるく立ちのぼっていた。

雪杜と御珠、そして晴臣が並んで朝食をとっていると、テーブルの上でスマホが軽く震えた。


雪杜は箸を止め、画面をのぞき込む。


咲良:今日休む

雪杜:どした?風邪?


短い文に続いて、すぐに新しい通知が重なる。


咲良:赤ちゃん

咲良:きょう産まれるんだって

咲良:お父さんと一緒に病院で立ち会うの


雪杜:そっか

雪杜:無事に産まれるといいね


送信して少しすると、明るいスタンプのように返事が届く。


咲良:ありがと!


雪杜はスマホを静かに置いた。


「咲良のところ。きょう産まれるんだって」


御珠がふわりと視線を上げる。


「そうか。めでたいの」


その声に、晴臣もほほ笑む。


「おー。春原さんのところ、きょう産まれるのか。めでたいのう」


雪杜は頷きながら、ふと御珠を見る。


「咲良、きょう休むってさ」


「……うむ。わかったのじゃ」


返す声は普段と変わらない。けれど、御珠の横顔はわずかに曇った。

膝の上で指先が一度、袖をつまむ。


(咲良がおらんと、これ幸いと雪杜に近づく者が現れるかもしれん。

 ちと心配じゃの)


雪杜が小首を傾げる。


「御珠?」


御珠は一瞬言葉を飲み込み、すぐに表情を整えた。


「……なんでもないのじゃ」


―――


朝の光はやわらかいのに、肌には夏の名残がじんわり残っていた。

並んで歩く二人の影は少し長く伸び、袖口をなでる風が季節の切り替わりを告げていた。


雪杜は横を歩く御珠に目を向ける。


「今日は二人だね」


「うむ」


返事は短いが、声の調子はいつもの落ち着いたものだった。


しばらく歩いてから、雪杜は声を落とす。


「何か心配ごと?」


御珠のまつげが、わずかに揺れた。


「うむ……咲良がおらんと、そなたの守りが薄くなるのが心配じゃの」


雪杜はきょとんとする。


「え?守り?」


御珠は肩をすくめ、わざと呆れたように言う。


「そなた……何も気づいておらんのか……

 咲良が聞いたら泣くぞ」


歩きながら、御珠の声は小さくなる。


「妾が学校でそなたを守れぬのを、咲良が察しておるのじゃ。

 そなたに近づく輩を、言葉ひとつでそっと退けての……

 目立たず守る、という芸当は妾にはできぬゆえな」


雪杜の表情が変わる。


「……そんなこと、してたんだ」


御珠は細く息を吐いた。


「妾は学校ではそなたに近づけん。

 何も起こらなければよいがの……

 きょうは気をつけるのじゃぞ?」


(そっか……しっかり眷属してたのか)


胸の奥でつぶやくように雪杜は思う。


「……うん。気をつけるよ」


その返事を受けて、御珠はほんのわずか表情を緩めた。


校舎の屋根が見えてくると、御珠の歩幅が自然と速まった。

数歩ぶん、距離がすっと開いていく。


御珠は一度だけ振り返る。

そこにはもう学校用の“よそゆきの表情”があった。


「じゃあ、先に行くね」


「え?あ、うん」


御珠は軽い足取りで前へ出ていき、すぐに通学路の人混みに紛れていく。


雪杜はその背中を見送りながら、胸の奥がひやりと重くなった。


(咲良……何か不安になってきた)


吐く息が熱を帯びて揺れ、静かな不安がひとつ、心に落ちた。


―――


朝の教室には、残暑の熱気がうっすらこもっていた。

椅子の音とざわめきが混じる中、雪杜は席に座り、鞄を足元へ置く。


離れた席では、御珠が本を開いている。

雪杜の方を見ない。その徹底した距離の取り方はいつもどおりだった。


そのとき、足音がひとつ近づいた。


「おはよう、天野くん」


軽い調子の声。

教室の波に紛れる、聞き慣れた女子の声だった。


「あ、おはよう」


「春原さん、きょういないんだ?」


「なんか休みみたい」


「へぇ……そっか」


その返事のあとも、女子はなぜか立ち去らなかった。

机の端に指を置き、体の向きを雪杜へ寄せる。


踏み込みは浅いのに、距離だけが妙に近い。


雪杜は困ったように口を開いた。


「えっと……何か用かな……」


「別に?

 春原さんいないし、寂しいかなって思っただけ」


言いながら、女子は机の端へ軽く腰を預けた。

ふいに距離が詰まり、影が雪杜の方へ落ちる。


「あ……いや……」


(近い……

 ……ちょっと近いな)


わずかな変化に、周囲の視線がちらりと集まる。


(あ、これ……

 見られてる……)


雪杜は呼吸を整え、丁寧に言った。


「平気だよ。気を遣わなくていいから」


女子はそれに小さく肩をすくめ、名残を残しつつも離れていった。


(ふう……

 きょう一日、こういうの続くのかな……)


ページをめくる音が、遠くで乾いたように響く。

御珠は相変わらず雪杜を見ない。


(……触れぬ。

 学校では、妾は動かぬと決めておる)


その内心だけが、静かに熱を帯びて揺れていた。


―――


昼休みの教室は、食器の触れ合う音と話し声がざわざわと混ざり合っていた。

雪杜は給食を受け取ると、いつもの席に視線を落とす。

隣の席に咲良がいない。そこがぽつんと空白に見えた。


(給食。いつもは咲良と席をくっつけて食べてるけど……きょうはどうしよう。

 颯太……は莉子と一緒か。駆)


雪杜は静かに歩き、近くの机で食べていた駆に声をかけた。


「駆、給食一緒に……」


駆はすぐに箸を止めて顔を上げる。


「いいぞ。お前も大変だな」


「ありがと」


(さすが駆。察しがよくて助かる)


ふたりで黙々と食べながら、駆がぽつりと聞いた。


「咲良はどうしたんだ?」


「なんか弟か妹が生まれるらしいよ。

 病院で立ち会うんだってさ」


「え!!?マジか!!?何歳離れてるんだよ!!」


「そうそうこれこれ。普通はこの反応だよね」


雪杜は苦笑しながら、ふと思い出したように聞く。


「ところで宮下先輩とのデートはどうだったの?」


「んー……」


(あっ、失敗したのかな)


「別に失敗してないぞ」


「そ、そうなの?

 どうなったの?」


「なんというか……一緒に花火見て帰った」


「そっか。一応成功なんだね。よかったね」


「まあな。これからって感じだな」


食べ終わると、駆は伸びをしながら席を立った。


「じゃ俺昼寝するから」


「うん。僕も大人しく本でも読んでおくよ」


駆が寝に行ってしまい、雪杜が本を開こうとした瞬間、影がすっと近づいた。


「ねぇ天野くん」


「ん?」


一人の女子がノートを胸に抱えて立っていた。

よくいるクラスメイトだが、距離の取り方がどこか浅い。


「あのさ、次数学の授業だよね。宿題わかんなくて……教えてくれない?」


(いいのか?裏がありそうだけど……)


「えっと……」


女子はそのまま雪杜の隣に腰を下ろし、ノートを開いて机に置いた。

体の向きが自然と雪杜側へ寄り、距離がふっと縮まる。


「ちょっとだけでいいからさ。ね?」


(近い……。

 朝と同じだ)


「……どの辺?」


「ここ。これ」


広げられたノート。

その直後、周囲からわずかに視線が飛ぶ。


(……まただ。

 きょうは視線がやけに集まる)


雪杜が説明を始めると、女子が妙に大きな声をあげた。


「あー!なるほど!さすが天野くん!」


(やめて……)


声が弾むたび、視線の数も増えていく。

雪杜は居心地の悪さを隠しきれなかった。


「ねえ、放課後も教えてくれない?

 今日だけ!」


「……」


(断ったら冷たいかな。

 でも……)


「……ごめん。今日は用事あるから」


女子は一瞬だけ口を開きかけ、結局、力を抜いた声で言った。


「えー。そっか……

 ……また今度ね」


歩き去る背に、ほんの少しの未練が揺れていた。


(咲良は、こういうのを全部、僕が気づく前に終わらせてたんだ。

 ……疲れた)


少し離れた席で、昼食を終えた御珠が静かに本を閉じた。


(……これが、人の欲か。

 そして、これを日常に戻しておったのが、咲良という娘か)


そこへ、華蓮が手をひょいと上げて声をかける。


「なぁなぁ。連れション行こうぜ」


御珠は顔も上げずに一言。


「うるさい。行くわけないでしょ」


華蓮は舌打ちを飲み込みながらも、どこか嬉しそうに鼻を鳴らした。

その光景が妙に噛み合ってしまうあたり、御珠もまた――

気づけば華蓮に懐かれているのだった。


教室が再びざわつき始めたころ、雪杜のスマホが震えた。


咲良からのLINEだった。


咲良:大丈夫?浮気してない?

雪杜:なぜそうなる

咲良:むっつりスケベだから

雪杜:それやめて


雪杜:赤ちゃん生まれた?

咲良:まだ

咲良:もうちょっと時間かかるみたい

雪杜:そっか。がんばれ

咲良:頑張るのはお母さんだけどね


既読がつき、画面の光が落ちていく。


雪杜はスマホをそっと置いた。


(咲良……病院にいるのに気を回してくれてるんだ)


スマホの光が落ち、指先に残るぬくもりが余韻のように残った。


(咲良との会話。楽しいって……感じてる)


胸のあたりが、ふっと軽くなる。

けれどその軽さが逆に痛みとして返ってくる。


(……僕、思ってたよりずっと、咲良に頼ってたんだな)


思い至った瞬間、昼休みのざわめきが妙に遠く聞こえた。

机の上の影が、さっきよりも長く見える。


―――


放課後の教室は、人が減ったぶん、椅子を引く音も会話も薄くなっていた。

帰宅準備の気配が廊下の方へ流れていき、掃除当番だけが教室に残る。


(きょうは早く帰りたいのに掃除当番か)


雪杜は箒を手に取り、ゆっくり教室を見回した。


その時、足音がひとつ近づく。


「天野くん、ここ持ってて」


雪杜は振り向き、頷いた。


「うん」


声の主は、クラスの女子。

特徴といえるほどの印象もない。

けれど、寄ってくる位置がやけに近い。


机を動かそうとして、彼女が小さく息をもらす。


「……あれ、重いねこれ」


「持つよ」


雪杜が反対側を支え、二人で机を運ぶ。

肩が触れそうな距離まで詰まっていた。


(……近い。

 まただ)


人が少ない教室では、その寄り方が目立ってしまう。


女子は机を置くと、何でもない調子で口を開いた。


「天野くんってさ」


「ん?」


「春原さんと、仲いいよね」


「うん。まあ……」


「そっか」


女子はモップを取りに行くふりをして、足を止める。

視線だけを落としてから、もう一度、声を低くした。


「……今日、春原さん休みだよね?」


「うん。家の事情で」


「ふーん」


それきり離れるのかと思ったのに、女子はまた雪杜のそばへ戻ってくる。

引き寄せられるみたいに距離が縮む。


「天野くんって、優しいよね」


「……そう……かな」


(まただ。

 “優しい”って言われると、どう返していいか分からない)


女子はためらうように目を伏せ、ぽつりと言った。


「……今日さ、春原さんいないから、ちょっと話せてよかった」


そのとき、廊下から別の女子が名前を呼ぶ声がした。


「あ、呼ばれてる。じゃ、先行くね」


軽く手を振り、足早に去っていった。


夕暮れが窓から差し込み、教室の角が赤く染まる。


(……今日だけで、何回同じこと思ってるんだろう)


箒を握る手に、余計な力が入った。


(咲良がいたら、こんなふうに一人で受け止めなくてよかったのに)


胸の奥が、じわりと沈んでいく。


(……早く、帰ろ)


雪杜は鞄を持ち、人気の薄い教室を後にした。


―――


夕方の雪杜宅は、窓から差し込む橙色がゆっくり伸びていた。

玄関の扉が開き、靴を脱ぐ音が家の奥へ流れていく。


雪杜がリビングへ入ると、御珠がソファに腰掛けて本を閉じた。


「ただいま」


「おかえりじゃ。雪杜」


雪杜は靴下のままソファへ倒れ込むように身を預ける。


「……疲れた」


御珠も同じように息を漏らした。


「妾もじゃ」


二人分の溜息が同時に落ち、夕方の光がそれを包む。


「……きょうは、大変じゃった」


「御珠も?」


「うむ。学校では動かぬと決めておるが……

 何度も動きたくなったのじゃ」


雪杜は視線を落とし、指先をいじった。


「……ごめんね。

 僕がもっと毅然としてれば、楽だったんだろうね……」


御珠は首を横に振る。


「そなたが謝ることではない。

 それをしたら、そなたはそなたでなくなってしまう」


「……うん」


「しかし、咲良がおらんと、こうも大変なのか」


「うん……」


ふたりの会話が途切れた。

気まずさではなく、同じ先を見ている者同士の、呼吸をそろえる時間だった。


雪杜はふっと呟く。


「咲良……すごいんだね」


「うむ。妾も改めて思い知ったのじゃ」


そのとき、テーブルの上のスマホが震えた。

雪杜が画面を開くと、明るい文字が躍る。


咲良:産まれたよ!


メッセージと共に写真が添えられる。


咲良:男の子だって!


雪杜の表情がぱっと明るくなった。


「御珠、産まれたって!」


「おお!」


二人で並んで画面を覗き込む。

小さな手、小さな頬。

生命の光が、画面越しでも暖かく伝わる。


「小さいのう……」


「うん。かわいいね」


雪杜は指を動かし、ゆっくり返信した。


雪杜:おめでとう!

雪杜:お母さんは大丈夫?

咲良:うん!元気だよ!

咲良:お父さんが泣いてる


雪杜:そっか

雪杜:よかったね

咲良:ありがとう!

咲良:明日学校行くね

雪杜:うん


……そして、迷った末にもう一文打つ。


雪杜:咲良、できれば、あんまり休まないで


少しして、返事が来る。


咲良:え?

咲良:なにそれ

咲良:雪杜、寂しかったの?


雪杜:寂しかったわけじゃないけど

雪杜:咲良がいないと大変だった


咲良:ふふ

咲良:わかった

咲良:明日からまた頑張る

雪杜:うん


送信して、雪杜はスマホをゆっくり閉じた。


御珠が横目で雪杜を見て、小さく微笑む。


「……よかったのじゃ」


「うん」


御珠はそっと雪杜の肩に寄りかかった。


「明日から、また咲良が戻るのじゃな」


「うん。助かるよ」


「妾も助かるのじゃ」


二人はゆるく息を吐く。

張りつめていた一日が、そこでようやくほどけた。


「……咲良には、感謝しないとね」


「うむ」


夕日の光が二人を包み、部屋があたたかく染まった。

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