【幕間】夏休みの三角定規
夏休みの午後。
雪杜の家の居間は、扇風機の風でノートの端が揺れるほど静かだった。
ちゃぶ台の上には宿題の山が積まれている。
三人は鉛筆を動かしながら、途切れ途切れに言葉を交わしていた。
「そういえば、赤ちゃんていつ産まれるの?」
雪杜が軽く顔を上げる。
咲良はワークのページをめくりながら答えた。
「え、赤ちゃん?
来月って言ってた」
「そっか。もうすぐだね」
ページをめくる音の隙間に、御珠の声がすべり込む。
「澪が子を産むのかえ?」
意外そうでもなく、ただ事実を拾う声音だった。
咲良は照れたように背筋を伸ばす。
「そうだよ。私お姉ちゃんになるの」
「めでたいの」
その淡々とした祝福に、雪杜が首を傾げる。
「え?
驚かないの?
咲良とだいぶ年が離れてるよ?」
御珠は机の上のワークを指でとんとんと叩いた。
「なに。人の子はいつでも産めるゆえ、ここまで増えた。良きことよ」
「御珠ちゃんて人の欲に寛容だよね」
咲良の言葉に、御珠は平然と返す。
「そなたら人の子の欲があればこそじゃ。
欲がなければ人は産まれぬ」
「ふーん。そういうもんなのかな。
あ、僕トイレ行ってくる」
雪杜は立ち上がり、軽い足取りで廊下へ消えた。
居間に残った二人の間を、扇風機の風がゆるく抜けていく。
咲良は鉛筆を置き、気になっていたことを控えめに切り出した。
「ねね。御珠ちゃんて人の欲に寛容なのに、自分には厳しいの?」
「何のことじゃ?」
「雪杜と1回しかキスしてないんでしょ?」
御珠は一瞬、目を細め、ため息ともつかない呼吸を漏らす。
「む。雪杜め。何を漏らしておるのじゃ。
……左様じゃの。妾と雪杜は一度しか口づけを交わしておらぬ」
咲良が身を乗り出す。
「なんでなんで?
一緒に住んで一緒に寝てるのにしたくならないの?」
「むー。下世話なことを申すの」
言葉とは裏腹に、御珠は視線をそっと落とした。
「妾と雪杜は呪いの制約があるゆえ、容易に触れることができぬのじゃ」
「え、なにそれ」
咲良の声が自然と落ちる。
御珠はそこで一度まぶたを伏せ、すぐに咲良をまっすぐ見た。
「妾は本来、雪杜に触れとうて仕方がない。
されど、触れれば想いが溢れる」
言いながら、胸元へそっと手を寄せる。
「想いが昂ぶれば、妾に集めておる呪いが揺れて、雪杜へ逆流する」
咲良の喉がひくりと動く。
「……逆流」
「胸を締め、息を乱し、理由も分からぬまま苦しめる。
ゆえに、易々と触れられぬ」
「……それって」
御珠の表情は変わらない。
ただ、選びとった言葉だけが静かに重くなる。
「妾が触れたいと願った分だけ、雪杜を傷つけるということじゃ」
咲良の指先が揺れる。
「……そんな」
咲良は胸の奥がざわつくのを抑えきれず、視線をノートへ落とした。
(なんか思ってたのと違ってた。ガチのやつだ)
「……我慢してるんだ」
御珠は小さく首を振る。
「我慢などという生易しいものではない。
触れたいのを、選んでやめておるのじゃ」
咲良は眉尻をほんの少し下げ、ノートへ目を戻した。
鉛筆を握り直す動きに、迷いが残っていた。
(……そっか。簡単に進まない理由、ちゃんとあったんだ)
そのとき、御珠の声が咲良の思考を軽くつついた。
「そなたも雪杜に触れたいか?」
「それは……もちろん」
ほんのり赤くなった咲良の返事に、御珠は口元を上げる。
「なら競争じゃの」
「競争?」
「うむ。妾らは呪いを克服せんと、時折みずからを鍛えておる。
こないだは、抱き合うところまで叶ったぞよ」
「え、なにそれうらやま」
「かか。
再び口づけを交わす日も近かろう」
咲良は唸るように身を揺らす。
「むー!私の方が先にするもん!
てか一回はできたの?」
「まだ呪いを集める前じゃったからの」
「なるほど。それが契ったって騒いでたあの頃だったのね」
「ま、そういうことじゃ」
廊下から雪杜の足音が戻ってくる。
雪杜は居間に入るなり、二人を交互に見た。
「何の話してるの。
……また僕抜きで勝手に決めないでね」
咲良は即座に胸を張る。
「御珠ちゃんとどっちが先に雪杜とキスするかって話!」
「え、なんで突然そんな話に」
咲良はニヤッと笑う。
「ふふ。覚悟してね」
「お……お手柔らかに……」
御珠も平然と積み重ねる。
「雪杜。今夜も鍛えるのじゃ」
「御珠まで……てか教えてよかったのそれ?」
「なに。咲良に教えぬのは不公平じゃからの。
咲良とはよきライバルでありたいのじゃ」
その言葉に咲良は目を丸くして、すぐほころぶ。
「御珠ちゃん……。
やっぱり二人とも好き」
「妾も大好きなのじゃ」
雪杜はため息をひとつ落とし、ちゃぶ台のノートを手前に引き寄せた。
「はぁ……まったく。
ほら宿題やるよ。来週から学校だよ」
「はーい」
「うむ」
三人の声が重なり、また鉛筆の音が居間に戻っていった。




