【閑話】第31.1話 観測の花 ― キスはまた明日 ―
咲良と雪杜は、屋台の明かりが一度だけ薄く途切れるあたりに立っていた。
さっきまでの賑やかな声が遠のき、代わりに花火の予告アナウンスが風に乗って流れてくる。
「……よし。次は花火だね」
咲良はそっと視線を上げた。
雪杜の横顔が、提灯の赤に少し染まっている。
「う、うん。花火あるって言ってたし……人すごそうだけど」
「大丈夫!こういうのはね、“流れ”だから!」
勢いよく言い切る声に、雪杜が瞬きする。
「流れ……?」
咲良は胸の奥で息を整えた。
(御珠ちゃんに負けてられないんだから)
「ほら、行こ!ちょっとだけ、空いてるとこ探そ!」
前へ一歩踏み出す咲良の袖が揺れ、雪杜が慌てて並ぶ。
「……はぐれないようにね」
「雪杜もね」
返した直後、ざぶん、と人波が二人を押し寄せるように呑み込んだ。
体がふらつき、足元の砂利がざりっと鳴る。
(人、多っ!!でも、こういう時、ドラマなら手を引いて路地に――)
「雪杜、こっち!」
咲良は反射で手を伸ばし、人の隙間へ身体をすべり込ませる。
「え、あ、うん!」
雪杜が遅れてついてきて、二人の影が屋台の明かりを抜ける。
そのまま細い通りへ吸い込まれた。
―――
屋台通りを外れると、神社の裏手へ続く細道が口を開けていた。
木々が灯りを遮り、肌にひやりとしたものが落ちる。
(神社の裏!暗い!静か!キス!……のはず!)
「こっち、ちょっと落ち着くかも!」
振り返った咲良の頬には、期待が露骨に乗っていた。
雪杜も周囲を見回し、小さくうなずく。
「……あ、ほんとだ。屋台の音、少し遠い」
二人で一歩足を踏み入れた、その瞬間だった。
同じ方向から、ざざぁっと足音が押し寄せる。
カップル、家族連れ、小学生の集団まで、一斉に雪崩れ込んできた。
「……」
「……」
「うぇーい!写真撮ろー!」
「ここ穴場じゃん!」
「うわ、めっちゃ人いる!」
子どもたちの笑い声とスマホのシャッター音が、木立に跳ね返って広がる。
(穴場が穴場じゃない現象!!)
雪杜が気まずそうに口を開く。
「戻ろっか……?」
「う、うん!戻ろ戻ろ!ここ、なんか……こう……気配が濃い!」
「気配……?」
「そう!気配!」
言い切った勢いの割に説得力はゼロで、咲良の耳の先だけが赤くなっていた。
二人は再び屋台通りへ向かって引き返していった。
―――
屋台の列はずるずると伸び、左右から人の肩が押し寄せる。
熱気と焼きそばの匂いが混ざり合い、咲良は手を胸の前でまとめながら雪杜を振り返った。
「……あ、飲み物買お!喉乾いた!」
「僕も」
ふたりは列の端で飲み物を受け取り、紙コップの冷たさに指先を落ち着かせた。
咲良は自分のストローを見つめ、そっと気合いを入れる。
(よし。ここで一口飲んで雪杜に渡すの)
ストローで軽く一口含んでから、自然っぽく装って雪杜へ向き直る。
「はい雪杜!交換しよ」
「え」
雪杜が受け取りかけた瞬間、後ろから人の波がぐっと押してくる。
咲良の肩に誰かの腕が当たり、バランスが崩れた。
「あ!」
手がぶれ、カップが傾く。
液体がぶしゃりと地面に散った。
「だ、大丈夫……?」
紙コップの底から、ぽたぽたと滴が落ちる。
咲良は唇を噛んで、地面をにらむ。
(っく……誰だ!)
「えっと……だいじょぶ。
こぼしちゃったから雪杜の飲み物ちょうだい?」
「え?飲みかけだけどいいの?」
「うん。むしろそれがいい」
言い切ってから、雪杜がまじまじと咲良を見る。
「咲良、なんか性格変わってない?」
その一言に、咲良の胸がわずかにちくりとした。
(焦ってた。……雪杜はぐいぐい来る女にトラウマがあるのに)
「な……なんでもないよ~」
言葉を濁した声が、祭りの喧騒に溶けて流れていった。
―――
遠くの空に白い閃きが走り、続けて夜の底から腹に響くような音が遅れて届いた。
花火の始まりに呼ばれるように、人の流れが一段強くなる。
「あ……始まっちゃった」
咲良は空を見上げ、雪杜の横顔へそっと視線を寄せた。
次の音がまた遅れてきて、雪杜が小さく笑う。
「音、ちょっと遅れてくるの面白いね」
(いい。すごくいい。ここで横顔を見て――)
咲良は一度息を飲み込んで、体の向きを雪杜へ寄せる。
「ね、雪杜」
「なに?」
(言え!言うんだ!自然に!自然に!)
「……花火、きれいだね」
「うん。……きれい」
光が二人の頬を淡く照らす。
一瞬だけ音が止み、静けさが落ちる。
少し顔を近づければ届く距離――その時だった。
「すいませーん!前、見えないんでちょっと詰めて!」
「そこ、うちの子いるんで!」
「写真撮るからどいてー!」
背後から飛び込んでくる知らない声が、容赦なく場を押しつぶす。
押される肩、すれ違う肘。
花火の匂いより、人の熱が濃い。
「……」
「……」
(世界の理が私たちのキスを邪魔してくる……!)
「移動する?」
「する!!」
咲良は雪杜の袖を軽くつまみ、人の波のすき間へ抜けようとする。
しかし行く先々で同じような混雑が立ちふさがり、花火の音が空から追いかけてきた。
移動しても移動しても人、人、人。
ようやく辿り着いた“それっぽい場所”で、ふたりは同じように立ち止まった。
「……」
「……」
「……虫いっぱいだね」
「……田舎ってこうだよね~」
雪杜の冗談が、気まずさをごまかすように軽く落ちた。
その軽さに咲良は力なくうなずく。
遠くの花火が空で大輪を描いていた。
―――
二人が境内まで戻ってきたころ、花火はもう終盤だった。
夜空の端が白くちぎれるように光り、咲良は立ち止まる。
持っていた紙コップをぎゅっと握りつぶした。
「……っ、もう!!」
「さ、咲良!?」
「どこ行っても人いる!!」
雪杜は咲良の横顔をそっとのぞき込んだ。
「祭りだからね……」
「祭りって、こういうのじゃないでしょ!?
花火って、こう……“二人の世界”になるやつでしょ!?」
「二人の世界……?」
「ドラマなんて嘘っぱちだ!!!」
叫んだ瞬間、夜空で大玉がどぉんと爆ぜる。
最悪のタイミングで、咲良の声が掻き消えた。
「……え。何か言った?」
「難聴系主人公!」
「えぇ……」
花火の残響が遠ざかる中で、咲良は両肩を落とす。
息を吐くたび、胸の奥で焦りがとぐろを巻いた。
(……無理。今日は無理。
御珠ちゃん、昨日どうやったっていうのよ。
そっか。きょうのほうが人が多いのか。
花火の日だからって私が後にしたのに。
失敗した)
「はぁ……」
「大丈夫?花火終わっちゃったよ?」
雪杜の声がやわらかく落ちる。
その優しさが、逆に踏み込ませてしまった。
「ねぇ……御珠ちゃんとはどこまで進んでるの……?」
言ってから、咲良の心臓が跳ねた。
(っは!なに聞いてるの私!?)
「え!?御珠と!!?どこまで!!?」
雪杜が素直に目を見開く。
その反応が、咲良の背を押した。
(ほら。びっくりしてるじゃない。
もうこの際聞いちゃえ)
咲良は正面から雪杜を見つめた。
花火の余韻がわずかに目の中で揺れている。
「えっと……御珠とはその……
いろいろあって、一回キスしただけで……」
拍子抜けするほど短い答えだった。
咲良の目が大きくなる。
「え!?それだけ!!?」
「うん……それだけ……」
「昨日は?」
「え?昨日?
昨日は特に何も……普通に御珠とデートしたよ?」
咲良は、思わず小さくガッツポーズをした。
「そ、そっかー。御珠ちゃん以外とお固いんだね」
「固いというかなんというか……
まぁそれでいいよ」
(そっかそっか。キスだけか。しかも1回だけって。
私が2回したら私の勝ちじゃん)
胸の奥が急に軽くなり、表情が一気に明るくなる。
「きょうは楽しかったね!」
「そう?なんか人しか見てない気がするけど」
「うん!楽しかった!
じゃぁ明日は雪杜ん家で一緒に宿題しよ」
「えぇ……また急だなぁ。いいけど」
「うん!じゃね!」
咲良は手を振りながら駆け出し、灯りの向こうに消えていった。
――帰宅後
画面が照らす暗い部屋で、咲良はベッドに倒れ込みながら親指を動かす。
咲良:キス失敗した……
咲良:人、多すぎ
咲良:ドラマなんて嘘っぱち
莉子:私も失敗
咲良:でも超重要情報ゲット
莉子:なになにー?
咲良:ひ・み・つ♪
莉子:ケチー
咲良:ふふ
(ふふ。頑張ろ)
咲良は枕に顔を埋め、満足そうにそのまま転がった。
――雪杜宅
「もう!咲良になに教えたのさ!」
「……む?何のことかの」
御珠はきょとんとして、わずかに首を傾げる。
「動画とか!着替えとか!」
御珠は悪びれもせず、思い出すように視線を上へやってから答えた。
「そのことか。
よく白き布の動画を見ておるのと、着替えは雪杜の前でしかせぬと伝えてあるぞよ」
「もう!なんで教えちゃうのさ!」
「何を怒っておるのじゃ」
御珠は淡々としたまま、むしろ不思議そうに眉を寄せる。
「バカバカバカバカ!」
「理不尽じゃの……」
御珠は小さく息をついて、肩をすくめた。




