表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神愛 ─ 永遠の刹那 ─  作者: 神愛
第2章 中学生編 ― 距離の再編 ―
69/74

第32話 記録の檻

※この話には、暴力・死・性的な脅威を感じる描写が含まれます。

 苦手な方は読み進める際にご注意ください。












―――


台所は蛍光灯に照らされ、床の模様が浮き上がって見えた。

湿った匂いに酒と汗が混ざり、息をするたび喉がざらつく。


父の足取りはいつもより乱れていた。

母は声を出せないでいて、私も喉の奥が固まったままだ。


父の怒鳴り声が耳を打つ。

言葉の意味は入ってこない。ただ、響きが胸の内側を叩く。


父が母へ腕を振り上げた瞬間、身体が勝手に縮こまった。


(まただ)


怒気が部屋を押してくる。

父の視線がふっとこちらへ動く。

さっきまでの怒りとは違う重さで、皮膚がひりついた。


父の目が、《《頬ではない場所》》をゆっくりなぞる。


(……やめて)


喉の奥に力が入らない。

息が肺まで落ちてこない。


父が一歩近づく。

足音の重さが、いつもの荒さとは別の意味を持っていた。


母は何か言おうとして、結局言えずに無言になる。

その無言が、逆に輪郭を持って迫ってきた。

母は私を見ない。


父は笑っていた。

笑っているのに、笑みの奥が暗くて、笑っているようには見えない。


床に小さな瓶が転がっている。

いつからあったのか分からない空き瓶で、ラベルの色ばかりが目を引いた。


父の足がその方向へ動く。

酔っていて、足元を見ていない。

視線は、確かに私を捕らえていた。


(逃げたい)


背中が冷蔵庫の扉に触れていて、逃げ道はもうなかった。


父がもう一歩、踏み込む。


(踏めば……止まる?)


胸の奥で何かが切れた。

声が勝手にこぼれていく。


「いや……こないで……

 いなくなって!」


自分の声が、自分のものではないように響いた。


父の足が小瓶を踏む。


カツン。


軽い、乾いた音。

予想より軽く、その軽さが逆に嫌な予感を運んでくる。


次の瞬間、足が空を切る音がした。


「……っ」


短い声のあと、身体が後ろに崩れていく。

まっすぐ、台所のテーブルへ向かって倒れた。


角。


ドン、ではなく、ゴツ――

硬くて鈍い音が耳の内側を震わせた。


少し遅れて、身体が床に落ちた音。


ガタン。


台所が、一気に静かになる。


父は倒れたまま、動かない。

頭はテーブルの下の影に隠れ、あるはずの位置からずれていた。


(……当たった)


胃の底が冷える。

重さが沈んでいく。


(やばい)


(今の音……)


父は動かない。

呼吸があるのかどうかも分からない。


(……え)


(人って……)


(こんな……)


さっき自分が吐き出した声が、耳の奥で何度も再生された。


“いなくなって”


重なりすぎる。

偶然が偶然に見えなくなる。


(私が……)


(私が、言ったから……)


喉が詰まり、胸が上下しなくなる。


母が父に近づこうとして、足が止まる。

膝が抜けそうなほど硬い止まり方だった。


「……救急車……」


私は動けない。

テーブルの角が視界の端で光っていて、そこへ目を向けるのを必死で避けた。


見たら終わる。

そう思えて仕方なかった。


小瓶がころころと転がり、私の足元へ近づいてくる。

その動きが気持ち悪くて、呼吸が乱れる。


(言葉って、怖い)


(願いって、怖い)


私はそこに立っているのに、身体だけが遠くに置き去りにされていくようだった。


(あれは偶然)


(偶然に決まってる)


何度言い聞かせても、胸の奥の冷たさが抜けなかった。


―――


自室は、音が抜け落ちたように静かだった。

静かすぎて、逆に耳が痛い。

時計の秒針がひとつ進むたび、台所で聞いたあの音が蘇る。


(あれは偶然)


(偶然に決まってる)


何度繰り返しても、胸の奥の冷たさは薄くならない。


私は机に座った。

座ると、息が少ししやすくなる。

何かをしないと、呼吸が途切れると思った。


学校で使っていたノートを開く。

新品じゃないから、宿題の延長のように見える。

それで、少し救われる。


鉛筆を握る。

手は震えているのに、書く動きだけは止まらなかった。


書く。


『今日、私は願った』


文字を見た瞬間、心臓が跳ねた。


(だめだ)


この一文は、残したらいけない。

“原因”としてそこに居座り続ける。

それは避けなきゃいけない。


私は消しゴムを強く押しつけて、文字を消した。

紙が少し毛羽立ち、黒いカスが広がる。


(消しても、残る)


私はその上に横線を引いた。

まるで最初から何もなかったように。


(偶然だった)


(偶然だったって、証明できればいい)


感情は信用できない。

放っておけば、全部「私のせい」に変えてしまう。

だから、事実を並べる。時間を並べる。


私はページを整えて、記録し始める。


〔記録〕


21:06 父 帰宅

匂い(酒) 強

足音 乱


21:09 台所

栄養ドリンクの空き瓶(床)


21:10頃 私 声(内容は書かない)

21:10 カツン

21:10 転倒

21:10 ゴツ(硬い音)


21:11 父 反応なし(確認できず)

母 声が震えていた


21:12 母「救急車」


21:18 サイレン

21:23 到着


22:05 搬送

―――


数字を並べ終えると、胸のつかえが少し薄れた。


(時間がある)


(順番がある)


順番があるなら、偶然のはずだ。

そう言い聞かせようとした。

だけど――


(順番があるだけだ)


(因果の証明じゃない)


また冷たさが戻る。


私は次の行を書いた。


〔検証項目〕


・父の酔い方(いつもと違った?)

・瓶が床にあった理由(誰が置いた?いつ?)

・テーブルの位置(普段と同じ?)

・私の声の大きさ(聞こえ方)

・父の足の運び(ふらつき)

・私の位置(冷蔵庫前)

―――


(……考えすぎ)


(でも、考えないと)


記録を書いているのに、私は父のことを“見ていなかった”ことに気づいた。

音だけで分かったようなつもりになっていた。

その自覚が、余計に怖かった。


ページの端に、私は小さく書く。


〔書き方のルール〕


※推測と事実を分ける

※感情は書かない

※“言葉”は書かない

―――


鉛筆の先が止まる。


(“言葉”を検証したいのに……“言葉”が書けない)


私は一度、ほんの一瞬、書こうとしてしまう。


『いなくなって』


鉛筆が紙に触れる前に指が止まった。

書いたら、また起きると思った。

書いた瞬間、何かが確定してしまうと思った。


だから私は、紙には書かず、頭の中だけで言った。


(禁止)


その夜、私はルールを作り始めた。

ルールがあれば、偶然を証明できると思った。

ルールがあれば、次は防げると思った。


(意味がある)


(今は、意味がある)


私はそう言い聞かせながら、ノートの次のページをゆっくりめくった。


―――


翌朝、学校へ行く支度をしているのに、頭の中はあの台所に置き去りだった。


衣服に袖を通す。

ボタンを留める。

動作は流れるのに、心のどこも追いつかない。


(偶然だった)


(証明する)


家を出る前に、机へ向かった。

昨日開いたノートの角が、手を置く前に視界へ入る。

ページ端の「※推測と事実を分ける」は、自分の字なのに、知らない誰かの手書きに見えた。


私は新しいページを開き、静かに書き始める。


〔タイトル〕


『記録』

―――


一行では足りない気がして、続けた。


〔目的〕


① 偶然を証明する

② 同じことを繰り返さない

―――


鉛筆が止まる。


(同じことを繰り返さないって、何を?)


答えはもう分かっている。

だけど、その言葉だけは紙の上に置けなかった。


だから私は、書く内容ではなく“書き方”を決めることにする。

迷わないように、形式を作る。


〔ルール〕


・日付を書く

・時刻を書く

・事実と推測を分ける

・感情は書かない

・人名は必要な時だけ

・“言葉”は書かない

―――


最後の一行を見た瞬間、喉が詰まった。


(言葉を検証したいのに……言葉が怖い)


そこで、伏字を使うことを思い付く。

直接書けないものを、書ける形に変えるために。


〔禁止(伏字)〕


■■■(父)

■■■(いなくなって)

■■■(死)

■■■(願う)

―――


書いた瞬間、胸の奥がひやりとした。

書いただけで、何かが一歩こちらへ寄った気がして、指先が冷える。


(書いただけで、近づいた気がする)


(怖い)


だから、形式に押し込める。

枠に入れれば、私はそれを「扱える」。


私は今日の欄を作った。


〔テンプレート〕


[日付]

[場所]

[事実]

[推測]

[備考]

―――


枠を作ると、心が少し落ち着く。

形があると、溢れない。


(これでいい)


(これで、証明できる)


私はあの時の出来事を“事実”と“推測”に分けて書き直した。


〔事実〕


・21:06 ■■■ 帰宅(酩酊)

・21:10 栄養ドリンクの空き瓶を踏む音

・21:10 転倒

・21:10 硬い音(テーブル角)

・21:12 母が救急車を呼ぶ

―――


〔推測〕


・足元を見ていなかった

・瓶の位置は偶然

・私の声と出来事の関連は不明

―――


書き進めるうちに、胸の奥で別の声が動き始める。


(関連は不明)


(不明なら、偶然だ)


でも“偶然だ”と言うたび、あの音が頭の中に戻ってくる。


カツン。

ゴツ。


私は鉛筆を握り直した。


(証明が終わるまで)


(やめない)


そう決めた瞬間、胸の奥が冷たく揺れる。


(証明が終わる日なんて、来る?)


答えは分からない。

その分からなさが、いちばん怖い。


私は、備考欄に小さく書く。


〔備考〕


『記録を止めない』

『止めたら、また言う』

『また言ったら、また起きる』

―――


書いたあと、手が震えた。


(……おかしい)


(でも、これしかない)


自分を守るためなのか、罰するためなのか。

判断できないまま、私はさらに行を足す。


〔補足〕


『私は証言しない』

『記録だけ残す』

―――


誰かに言葉で裁かれるのが怖い。

けれど、自分を放免してしまうほうが、もっと怖かった。


だから私は最後に、線よりも静かな字で書いた。


『これは検証』

『これは罰』

―――


書いた瞬間、ほんの僅かに息ができた。

それは安堵ではなく、続けるための呼吸だった。


その日から私は毎日書いた。

何が起きたか。

■■■が頭に浮かんだ回数。

口にしなかった回数。

どんな音がしたか。

どんな順番だったか。


“偶然”を証明するために。

そしていつの間にか、“偶然”じゃなくても耐えられるようにするために。


記録は増えていった。

私自身のことは書かないまま。

私の中身だけが、少しずつ薄く削れていくように。


―――


石段に夜風が通り抜けていく。

遠くで花火が開き、遅れて小さな振動が石の面まで伝わった。


史は前を向いたまま、淡々と続ける。

その声には感情の色がなく、削れた跡だけが言葉の端に残っていた。


「これはダメなことを願ってしまった私への罰。贖罪なんです。

 記録に深い意味なんてありません」


そこで初めて、史の声にかすかな綻びが混ざった。

揺れと呼ぶには足りないほどの、小さな乱れだった。


「私のこと、嫌いになったでしょうか」


言い切ったあと、史の呼吸が浅くなる。

駆の答えを待つ数秒が、石段の冷えより先に胸へ染みた。


駆はすぐに言葉を返せない。

横顔の影を見つめ、花火の光に一瞬照らされる瞳の揺らぎを見た。

握った拳に力がこもる。


「……嫌いになんか、なりません」


史は小さく瞬きをし、ほんのわずかに視線を落とした。


「……そう、ですか。

 無理しなくていいです」


言葉は穏やかだけど、受け止める支度が整っているようには見えなかった。

駆が否定してくれることを望んでいない、そんな受け止め方だった。


「普通は、引きます」


駆は強く首を振った。

その動きに引っ張られて、声も前へ出る。


「引かないです」


その一言に乗った熱が、夜風をわずかに押し返す。

史の反応をうかがう視線が、それでも揺らがなかった。


「だって、それ……史さんが一人で背負ってきたものじゃないですか」


史は、ここで初めて駆のほうを見た。

目が合った瞬間、彼女の視線が揺れる。


「でも、意味はないんです」


その言葉は自分に聞かせる独白に近かった。

結論を先に置いておかないと、足元が崩れると思っているかのように。


「父は戻らないし、私が書いても、何も変わらない」


花火が上がる。

白い光が史の頬を照らし、音が少し遅れて落ちてきた。


「それでも」


駆は一歩だけ史の方へ向きを変えた。

距離は詰めない。でも、もう逃げる体勢ではない。


「俺が全部の記録を読みます」


「……え」


史の目が一度逸れて、また戻る。

息が引っかかる音が近い距離で聞こえた。


駆は喉を鳴らし、息を一つ飲み込む。

迷いのあと、震えた声が落ちた。


「だから意味がないなんて言うな!」


声は強かったが、必死に抑えた痕跡が残っている。

それでも駆は目を逸らさない。


「それは、史さんが生き延びるために作った道標でしょう。

 罰とか贖罪とか、そんな言葉で片づけていいものじゃない」


史は言葉を失った。

喉が上下するだけで、音が出ない。


駆の声が、少し柔らかくなる。


「偶然を証明したかったんですよね。

 怖かったんですよね。

 ……それでいいじゃないですか」


史の視界がゆっくり滲んでいく。

言葉を飲み込みかけたのに、胸の奥で何かがほどけていく。


「……この話をしたのは、あなたが初めてです」


その告白のあと、史は小さく息を吸った。

涙を戻そうとしても戻らない。


「……泣くつもりは、なかったんです」


「泣いてもいいです。

 記録、俺が一緒に読みますから。

 一人で検証しなくていい」


史の目から涙が一つ落ちた。

石段に落ちる音はない。

花火の轟きが、その瞬間を飲み込んだ。


「……全部、読んだら。

 ……嫌いになるかもしれませんよ」


駆は短く息を吸い、言葉を探した。


「その時は……」


ほんの一呼吸だけ、音が遠のく。


「それでも、読むのをやめません」


花火の余韻が夜空に溶けていく。

二人はしばらく空を見上げたまま動かなかった。


やがて、どちらともなく立ち上がる。

言葉はなかった。

それでも同じ方向に歩き出すには、十分だった。





―――


第2章、中学生編 ― 距離の再編 ―

これにて一区切りとなります。


ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。


少しだけ息を整えるように、軽い閑話と幕間を挟んで

『第3章 中学生編 ― その瞬間を抱きしめて ―』へ進みます。


次の章では、笑顔の時間も、胸に残る出来事も、

いくつもの“瞬間”が物語を動かしていきます。

どうか楽しみにしていてください。


もしこの物語が、ほんの一瞬でもあなたの心に触れたなら、ブックマークやポイントで応援していただけたら嬉しいです。

そのひと押しが、この物語の“続き”を紡ぐ力になります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ