第30話 その胸に還る
夏祭りの初日。
居間の窓から、祭りの日らしい明るさが差し込んでいた。
遠くで支度の音が、小さく続いている。
御珠は机の前で帯を整えながら、声を弾ませた。
「夏祭り、楽しみじゃの」
その横顔に、雪杜は素直にうなずく。
「うん。浴衣着る?」
「着ぬ。きょうは祭じゃから正装じゃ」
巫女装束の白が光を受ける。
雪杜は目を瞬いた。
「え!?巫女服で行くの!?」
「うむ!嫌かの?」
唐突な提案に胸がざわつき、雪杜は視線を落とした。
(巫女とデート……クラスメイトに目撃されたら面倒なことにならないかな)
御珠は微笑を浮かべ、顎をわずかに上げた。
「心配無用じゃ。そなた、妾が神なの忘れておらんかの?」
「え!?見えないようにできるとか?」
「ちと違うの。人の目は、理よりも“流れ”に従う。
音が鳴れば音へ、視線が走ればそちらへ寄る。
つまり皆、見たいものしか見ておらぬ。
……そなたとデートしておる時、誰も絡んでこんのが、その証じゃ」
言われてみれば、思い当たる節が多すぎた。
雪杜は息を飲み、頬に手をあてる。
「そんなことしてたんだ……
じゃあ学校でもそうすれば?」
御珠の目がわずかに細くなる。
喉奥で息を押し込めるような仕草だった。
「それは無理じゃ。学校は“見ておる者”が多い。
ああいう場で流れをいじれば、綻びが出る。
神の理を露呈させるような真似はせぬ」
「じゃあ大丈夫なのかな。
そんなに巫女服着たかったの?」
問いかけに、御珠は帯を整える手を止めた。
そこには“可愛さ”ではなく、別種の凛とした響きがある。
「あれは妾の正装じゃ。
特別な日に特別な服を着る。
何もおかしいことはなかろう?」
その言い方には、どこか覚悟のようなものが滲んでいた。
雪杜は深く探らず、受け取る。
「そっか。僕も甚平とか着たほうがいいのかな。
持ってないけど」
「よい。そなたはそなたの好きな服を。
妾は妾の着たい服を着るのじゃ」
「わかった。普通の恰好でいく」
それを聞いた御珠の頬が、ほんのわずかに緩んだ。
「うむ。
さて、では今日も待ち合わせごっこをするのじゃ」
「また?」
「儀式じゃ。儀式は大事じゃ」
御珠の言う“儀式”に、もう反論する余地がない。
雪杜は笑いながら肩を落とした。
「はいはい。
じゃあ神社の近くの公園に集合でいい?」
「うむ。そうするかの。じゃが今日は、妾が先に行く」
「え?」
御珠はくるりと振り返り、巫女装束の袖が軽く揺れた。
「先に出て、散歩したいのじゃ。なので少し早めに出る」
「……早めに?」
「うむ」
その自然さが、逆に不自然だった。
胸の奥で、去年の夏の出来事がひりつく。
(……変だ。正装もだし、御珠、何か隠してる?)
雪杜はゆっくり息を吸い、視線を合わせた。
「御珠。ほんとに散歩?」
「散歩じゃ」
目が泳がない。
だからこそ怪しい。
雪杜は一歩詰めた。
「一年前のこと。忘れてないよ。何をする気?」
「……」
返事が落ちない。
御珠は伏せたまま、指先を握りしめた。
「黙らないで」
「……澪と……少し話がしたいのじゃ……」
言葉が落ちた瞬間、雪杜の胸に熱が走る。
「やっぱり……
それ、僕も立ち会う」
御珠はゆっくり首を振った。
その仕草は優しく、しかし拒む意志だけが強い。
「だめじゃ」
「もう仲間外れはいやだ」
「わがままを申すでない……
これは澪と妾の約束。
そなたに話すわけにはいかぬのじゃ。
妾の愛し子は妾を困らせるのが好きか?」
言葉の選び方がずるい。
雪杜は唇を噛み、視線を落とした。
「っぐ……ずるいよ御珠……」
「妾はずるい神なのじゃ」
誇らしげでもなく、あきらめでもない。
ただ、自分の弱さを受け入れている声だった。
雪杜は息を震わせながら、最後の確認を置いた。
「約束して。危ないことはしないって」
御珠は短くうなずく。
「案ずることはない。報告をするだけじゃ。
絶対に来てはならぬぞ?
雪杜は約束を守るよい子じゃと信じておる」
「もう子ども扱いしないで。
わかった……じゃあ公園に18時に集合しよう。
僕は18時ちょうどに着くくらいに出るから、御珠は先に行くといいよ」
「うむ。よい子は好きじゃぞ」
その言い方に、胸の奥が少し軽くなる。
だからこそ、不安も残った。
「……いつか話してね」
御珠は扉の前で立ち止まり、視線だけを寄越した。
その目は強く、そしてどこか痛い。
「……いつか、の」
巫女装束の裾が揺れ、御珠はそっと家を出ていった。
―――
夕刻前の境内は、提灯の色がまだ淡く、準備の音が静かに積み重なっていた。
屋台の骨組みが組まれ、縄の結び目を確かめる人影がある。
男は一つ一つを丁寧に締め直し、風の向きを読むように空を仰いだ。
(……結び目、これでいいか。
風が強くなるかもしれん)
その背後に、ふっと圧が落ちる。
肌に触れるものではなく、“注意”がほんの一瞬そちらへ寄らなかった隙。
御珠は、そのわずかな裂け目から歩み出た。
「……久しいな」
男の手が止まる。
驚くよりも先に、納得するような静けさが表情に広がった。
「……君か。
……いや。来るとは思っていた」
御珠は余計な気配をまとわず、ただ正面から言葉を投げる。
「澪に会いたい」
男は縄から手を離し、御珠へ体を向けた。
「咲良は?」
「関わらせぬ」
短い返答が落ちる。
男は目を細め、唇を閉じた。
「……それは、君の判断か?」
「澪の判断でもある」
その答えに、男は深く息を吐いた。
反論するでもなく、驚くでもなく、“そうなる”という受け止め方だ。
「……分かった。
ついて来い」
男が歩き出す。
御珠は半歩分、距離を置いて続いた。
御珠の足取りは静かだが、視線は周囲の流れを測るように動く。
(人が多い。祭りの日は、やりにくい。
だが、今日でよい。今日でなければ、ずっと先延ばしになる。
……妾は、逃げぬ)
男は境内の裏手へ回り、建物の影に隠れた小さな扉を開けた。
人目の届かない、古い木の匂いがする部屋。
「ここで待て」
御珠はうなずき、部屋の中央に立つ。
正装の白と赤が、薄暗がりにゆるく浮かんだ。
「澪を呼んでくる」
それを言い残して、男は扉を閉めて去った。
音が消え、御珠だけが静けさの中に残される。
―――
扉が静かに開き、澪が影を落とすように部屋へ入ってきた。
薄暗い小部屋に、彼女の腹の丸みがはっきりと浮かぶ。
「来ると思ってた。待っていたわ」
御珠は息をわずかに止めた。
「そなた。
その腹は……」
澪は軽く首を振る。
座布団に腰を下ろし、身じろぎして姿勢を定めた。
「気にしないで」
御珠も向かいに座る。
間に置かれた湯呑は二つ。
だが、双方とも触れようとはしなかった。
「さて。
一年ぶりね」
御珠は姿勢を崩さずに問う。
「咲良は」
「心配いらないわ。
あの子は今、手が離せない」
「そうか」
間にある静けさは少し重い。
御珠は、その静けさへ自ら踏み出すように告げた。
「きょうは報告に参った」
澪は手を膝に置き、わずかに前へ傾く。
「聞かせて」
御珠の声は淡々としているのに、奥底だけが揺れていた。
「そなたと約束したあの日より、妾は学校では踏み込まぬようにした。
雪杜の隣に立たぬようにした。
咲良が“彼女”として見えるようにした」
「それで?」
「……それで胸が削れる日もあった。
じゃが、咲良が笑っておる限り、妾は干渉せぬ。
……そう決めた」
その言葉には、柔らかくない痛みが滲んでいた。
澪は、その痛みごと測るように細い視線を落とす。
「いいこと言ってるって顔ね」
御珠は一瞬だけ目を伏せた。
「正しいことを言っておる自覚はない。
正しくなくとも、必要な形がある」
澪の声が鋭さを帯びる。
「その形を守るために、咲良に何を背負わせる気?」
「背負わせぬ」
「“背負わせてない”って言い切れる?
“泣かせない”って言葉を盾にして、咲良から選ぶ権利を奪ってない?」
御珠の呼吸が浅くなる。
視線がわずかに沈んだ。
「奪ってはおらぬ」
「じゃあ、咲良に言った?
『あなたを泣かせたら消えるから、泣かないで』って」
「言っておらぬ」
澪は即座に返した。
「……言わないのは正解」
御珠の眉がかすかに動く。
「……?」
澪の声は穏やかなのに容赦がなかった。
「それを言った瞬間、咲良はあなたを守る側になる。
自分の恋より、あなたの存続を優先する。
そんなの、当事者じゃない。
“人質”よ」
御珠は目を伏せ、握った指が畳に影を落とす。
「……」
(……言い返せぬ。
咲良に誓約を告げた瞬間、あやつは妾の存続を気にしてしまう。
恋の勝ち負けの前に“妾を守らねば”が先に立つ。
それは咲良の恋を人質にする。
だから言わぬ。言ってはならぬのじゃ)
小さく息を整え、御珠は答えた。
「……妾は、咲良に背負わせぬ」
「だったら、あなたが背負うしかない。
それが誓いでしょう」
「……うむ」
澪は姿勢を正す。
真正面から問いを置いた。
「じゃあ、確認するわ」
視線が合う。
御珠がまばたきを止める。
「あなたは今、雪杜に何をしているの?」
「……何もしておらぬ」
「嘘ね。
“何もしない”なんて、あなたが一番できないでしょう」
「嘘ではない。
学校では、何もしておらぬ。
家では……少し、甘える」
「その“少し”が、咲良を泣かせることはない?」
御珠は、即答できなかった。
「ない、とは言えぬ」
「……そこね」
湯呑を持ち上げた澪は、ひと口飲んで静かに置いた。
その動きさえ、判断を示す儀式のようだった。
「あなたは神様で、雪杜くんのことが好きで、咲良の涙があなた自身より重いと言う。
その全部を同時にやろうとしてる。
無理が出るのは当然」
御珠の肩がわずかに揺れた。
「だから、今日、来た」
澪の指先が湯呑の縁をなぞる。
「“許可”が欲しい?」
「違う。
妾が、まだ誓いを守れているか。
そなたの目で、確認して欲しかった」
澪は小さく息を吸った。
「……分かった」
澪は唇を閉じ、視線を落とす。
やがて静かに告げる。
「一年。
あなたは、咲良を泣かせてない。
少なくとも、私が知る限り、咲良は笑っている」
御珠の睫毛が震える。
「だから“継続”よ。
でも条件がある」
「申せ」
「咲良の権利を奪わないこと。
あなたの誓いは“あなたの罰”であって、咲良を縛る鎖じゃない」
御珠はゆっくりとうなずいた。
「……肝に銘じる」
「もう一つ。
雪杜くんを、子ども扱いしすぎないこと」
御珠の喉がわずかに詰まる。
「……今日は来るなと、言っておる」
「言うのはいい。
でも“何も知らない”場所に閉じ込めないで。
知らされない痛みで、あの子も壊れる」
御珠は返答を見つけられず、息が揺れた。
「最後に。
あなたは、幸せ?」
御珠は、ようやく澪を見た。
その瞳には強さと脆さが同時に滲んでいた。
「幸福と呼べるほどではない。
だが、後悔はしておらぬ」
澪は視線をそっと横に流す。
「……なら、いい」
そして、どこか優しい声音で続けた。
「行きなさい。
この後、雪杜くんとデートなんでしょ?
お祭りを嫌な思い出にしないで」
「……うむ」
御珠が立ち上がると、膝がわずかに遅れた。
張り詰めていた緊張が、足元へ落ちたのだろう。
(……妾は、まだここに居てよい)
障子の向こうで、遠く祭囃子の太鼓が一つ響いた。
―――
夕方の風は、祭りのざわめきを運んでいた。
提灯の灯りはまだ明るさを失い切らず、公園の影がゆっくり伸びていく。
雪杜はその中で一人立ち、手元の時間を確かめた。
(遅い。……約束は守った。
行かなかった。
でも、遅いと心が勝手に悪い想像をする)
胸がざわつくたび、祭囃子がそれをなぞるように遠くで鳴る。
「だーれじゃ」
肩越しに声が落ちる。
雪杜が振り向くと、御珠が木陰から歩み出てきた。
「御珠」
「……正解」
その言い方とは裏腹に、御珠の表情は固い。
笑おうと口元を作るのに、目元がどうしても追いつかない。
「……先に出たはずなのに、遅かったね」
「うむ」
短い返事が、いつもの調子からわずかにずれた。
雪杜は胸の内側で気づきながらも、踏み込まない。
(顔色、悪いな。
でも、聞くのは違う)
御珠は風を見るように横へ顔を向け、それからぽつりと言った。
「……そなたは、何も聞かぬのじゃな」
「……聞かないよ」
「……?」
「御珠が言いたくなったら、その時でいい」
御珠のまつげが揺れた。
風のせいではなく、胸の縁が揺れた動きだ。
「……」
夜の気配が深まり始める境内の方を見ながら、御珠はかすかに声を寄せた。
「のう。
……雪杜」
「うん」
「妾は……」
そこまで言って、息が途切れた。
言葉が出ないのではない。
こらえていた何かが、もう保てなかった。
「……妾は……っ」
次の瞬間、御珠は雪杜の胸へ身を投げるように飛び込んだ。
巫女装束の袖が大きく揺れ、顔が胸元へ押しつけられる。
胸の奥で押し殺していた恐れが、ひと息で溢れた。
「……こわかった……」
自分を保とうとしていた指先が震え、雪杜の服を必死に掴んだ。
「……一人で、決めて……」
声にならない嗚咽が先に漏れ、言葉が追いつかない。
「……一人で、耐えて……」
堰が切れる音がした。
耳の奥まで届く。
胸に押しつけた額が震え、誇りを守ろうとした声がかすれる。
「……妾は……神なのに……」
指先の力が抜け、ただの少女のように雪杜へすがった。
「……弱い……」
雪杜は言葉を選ばず、ただ腕を回した。
胸の前で、御珠の息が途切れ途切れになる。
肩が震え、指先が雪杜の服をぎゅっと掴む。
泣きすぎて言葉の形を保てず、拒む気持ちが漏れた。
「……いやじゃ……」
雪杜の胸を探すように指が締まる。
「……消えとうない……」
その場所にしがみつくように体重を預け、涙声が震えた。
「……ここに、いたい……」
その願いは祈りに近かった。
神が祈るという矛盾が、涙の熱で現実になる。
雪杜の胸が、彼女をこの世界へつなぎとめていた。
雪杜は、胸に落ちる震えをひとつひとつ受け止めるように、腕に力を込めた。
「……うん」
その一言。
それが、御珠にとって最も深い肯定だった。
しばらく、二人の近くに音はなかった。
外から届く太鼓のリズムが、時間の通り道を示していた。
雪杜は御珠の髪越しに空を見た。
「……去年も、元気なかったよね。夏祭り」
御珠の返事はない。
まだ泣き声が胸に落ちている。
「今年はさ。
嫌な思い出にしないように、僕、頑張るから」
御珠は泣き続け、そのまま顔を上げずに言った。
「……ずるい……」
「なにが」
「……そんな顔で申すでない……」
涙の跡が頬を伝いながら、御珠はわずかに呼吸を整えた。
目は赤く腫れているのに、そこに宿る光は弱くなかった。
御珠は袖でそっと涙を拭き、まだ不安定な息を整えた。
「……そなた、優しいの……」
雪杜は返す言葉を探すでもなく、
ただ抱きしめていた腕の力をわずかに変えた。
「……大丈夫だよ」
御珠は胸元で、小さく息を震わせる。
雪杜は腕を離さないまま、御珠の体温を確かめるように寄り添い続けた。
風が巫女装束の袖を揺らし、祭りの灯りが二人の足元に淡く落ちる。
「……屋台、行こ」
「……団子が、食べたい……」
「知ってた」
御珠の指が雪杜の服を離す。
まだ足取りは不安定だが、隣に立とうとする気配がそこにあった。
二人は、少しずつ呼吸を取り戻しながら、祭りの灯りへ歩いていった。




