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神愛 ─ 永遠の刹那 ─  作者: 神愛
第2章 中学生編 ― 距離の再編 ―
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第19話 記録が武器になる日

昼休みの終わり際。

給食を食べ終えて、雪杜は机に肘をつき、スマホの画面をぼんやり眺めていた。

教室のあちこちで笑い声が跳ね、椅子が鳴る。


そこへ、颯太が近づいてくる。

妙に静かな足取りで、目がもう諦めの色をしていた。


「雪杜……」


「颯太。どした?」


「中間どうだった?」


「まぁ、そこそこ」


「マジか……俺、これ」


颯太が、折り目のついた成績表を机の端へそっと差し出す。

紙の上には、点数と順位が並んでいた。


合計:310

順位:83/120


颯太の視線が、その数字をもう一回なぞっている。


(御珠ほどじゃないけど、そこそこやばいな)


雪杜は一瞬だけ言葉を探して、喉の奥で止めた。


「……うん。これは……」


「やっぱ中学のテスト、別物だわ……」


颯太は笑いに寄せようとして、寄せきれない。

指先が成績表の端をいじり、紙がかすかに擦れる。


「中間、何もやらなかったの?」


「まぁな。授業受けてるだけでなんとかなると思った」


雪杜は目を細めて、短く息を吐く。

言葉が舌の先まで来て、飲み込む。


「なぁ……俺さ……このままだと、やばい?」


「うん」


「高校、行ける?」


「まぁ高望みさえしなければ」


「だよな……でも莉子と同じ高校いきてーんだよ」


雪杜は、颯太の視線の先にいる莉子を思い浮かべてしまい、余計に納得してしまった。


「なるほど。

 莉子はどのくらいだったの?」


「18位」


「絶望的だね」


「だよな……」


颯太がうなずく。

うなずき方が、情けないのに本気だった。


「なぁ、助けてくれよ」


雪杜は息を吐く。

断る理由がない。

引き受けた瞬間、自分の放課後が全部塗り替えられる予感もある。


「……御珠もやばかったんだ。

 一緒に勉強する?」


颯太の目が、ぱっと開く。

沈みかけた表情に、急に光が戻った。


「マジ!?

 仲間がいた!やる!」


「じゃぁ放課後」


「おう!放課後な!」


「部活はいいの?」


「それな……

 週1くらいならなんとか……」


「週1でもやらないより全然マシだと思うよ。

 あと3年あるし、ちょっとづつ順位上げていこう」


「雪杜……マジ神……」


その言葉に、雪杜は苦笑いだけ返す。

ちょうどそのとき、机の向こうから声が入った。


「ねぇ。それって私も参加していい?」


雪杜は顔を上げる。

咲良がこちらを見ていた。

表情は落ち着いているのに、指先がノートの端を押さえていて、力の入れ方が真面目だ。


「咲良も?」


「うん……雪杜と同じ高校行きたい……」


言い終えた瞬間、咲良は視線を落とす。

雪杜の方は、言葉を受け止めたせいで顔が熱くなる。

昼休みのざわめきが、急に近くへ押し寄せた。


「う……うん。一緒に頑張ろう」


「相変わらずっすなぁ」


颯太が、いつもの調子に戻ろうとして肩を揺らす。


「人のこと言えないでしょ」


咲良がすぐ返す。

その声は軽くても、芯がある。


「まぁな。

 天野塾結成だな!

 どうせなら、莉子も駆も誘ってみんなでやろうぜ」


「期末は範囲も広いしね。

 皆で教えあうのは悪くないかも」


「じゃぁとりあえず放課後集合で」


「おう!」


「うん!」


そのタイミングで、チャイムが鳴った。

昼休みが終わる合図。

教室の声がすっと細くなり、椅子が引かれる音が重なる。


颯太は慌てて自分の席へ戻っていく。

背中がさっきより軽い。


雪杜は机に手を置いたまま、小さく息を吐いた。


「ふぅ……なんか大変なことになってきたな」


(……忙しくなりそう)


―――


放課後。

教室のあちこちで鞄が閉まり、椅子が引かれる音が続く。

廊下へ向かう足音が流れ、誰かの笑い声が遠ざかっていった。


颯太が雪杜の机の横に立ち、落ち着かない足を小刻みに揺らしている。

昼休みの表情のまま、逃げ道を探すように視線が泳いだ。


「なぁ。とりあえず放課後なったけどどうすんだ?

 図書室でもいくのか?」


雪杜は鞄の肩紐に指をかけたまま、言葉を止める。


「図書室は……」


咲良が先に視線を横へ滑らせる。

教室の外へ向かう人の流れを見て、眉がわずかに寄った。


「人、結構いるよね」


颯太は何かを察したようにうなずく。


「あー。御珠もいるなら目立つな……」


「うん……」


雪杜は短くうなずいて、机の上のプリントを揃え直す。

揃えたところで変わらないのに、指先だけが動いた。


「他に、静かな場所……」


咲良が小さく手を挙げるようにして言う。

声は控えめでも、言い切りに迷いがない。


「ねぇ。あそこは?

 空き部室」


「なるほど。あそこか。

 御珠も入り浸ってるみたいだった。

 行ってみよっか」


「うん」


「おう」


三人で教室を出る。

校舎の奥へ進むにつれて、人影が減っていく。

部活へ向かう流れとは逆を歩き、足音も自然と控えめになった。


最奥の一角。

扉の前で雪杜は一度だけ呼吸を整え、声を落とす。


「お邪魔しまーす……」


小声で言いながら、扉を押す。


部屋の中。

窓からの光が床に四角く落ち、そこに埃がゆっくり舞っていた。

使われていないはずなのに、机の上には紙と筆記具がきちんと置かれている。


中には史と御珠がいた。

史は紙に向かってペンを走らせ、御珠は机の端で何かを眺めている。

別々のことをしているのに、同じ部屋にいることだけは当たり前のようだった。


「雪杜!」


御珠が顔を上げる。

その瞬間だけ、目が分かりやすく明るくなる。


「めずらしいですね。

 どうかしましたか?」


史の声は落ち着いていて、顔を上げる動きも必要最小限だった。

それでも視線はきっちり雪杜を捉えている。


「あの……ここで勉強会をさせてもらえないかと……」


言いながら、雪杜は扉の取っ手から手を離す。

断られたら引く、その姿勢が肩に残っていた。


「元々勝手に使ってるだけで誰のものでもありません。

 好きに使っていいと思いますよ」


「ありがとうございます!」


声が少しだけ大きくなって、雪杜は自分で気づいて口をすぼめた。


「やりぃ。場所ゲット!」


颯太が拳を握り、勝ち誇るように笑う。

静けさが崩れかけて、咲良がすぐ横から肘で軽くつついた。


「御珠ちゃんも一緒に勉強しよ?」


咲良の誘いは軽い。

押しつけず、置いていくような言い方だった。


「わら……私も?」


御珠が口を滑らせた瞬間、史の眉がわずかに動く。


「わら?」


「な、なんでもないのじゃ」


「じゃ?」


「……もういっか」


御珠は何かを諦めたようだった。


「皆の前だと“おせいそ”が崩れるのじゃ。

 史ならかまわんであろ」


史は一度だけ目を瞬かせたあと、淡々と返す。


「そっちが素なんですね。

 私は気にしませんよ」


「御珠はこうだよなー。

 “おせいそ”モードはいまいち慣れねーぜ」


史が颯太へ視線を移す。

鋭さではなく、相手を測る目だった。


「そちらは?」


「あ。俺、金田 颯太っていいます。

 よろしくお願いします!」


「2年の宮下 ふみです。

 よろしくお願いします」


短い挨拶が交わされて、部屋の緊張が一段だけほどける。

人が増えたのに、音が増えただけで秩序は崩れなかった。


史がふと口を開く。

言葉は丁寧なのに、ためらいが先に出る。


「あの、私、邪魔でしょうか?」


御珠が即座に顔を向ける。

答える速さが、迷いの無さを表していた。


「史よ。そなたもおると良い。

 妾たちは気にせぬ」


「そうですよ先輩。

 なんなら勉強教えてください。

 1年の勉強なんて楽勝っしょ」


史は口元だけで小さく笑い、ペンを持ったまま肩をすくめる。


「まぁ気が向いたら。

 私は私の作業をしますのでおかまいなく」


「よし!天野塾!開校!」


颯太が勢いよく宣言して、咲良が即座に釘を刺す。


「声、大きい」


「すまん!」


史のペン先が止まる。

ほんの少しだけ、耳を澄ますように顔が上がった。


(……騒がしいけど……悪くない)


史はまた手元へ戻る。

机の上の紙を一枚だけ揃え直し、作業を続けた。


―――


部室の扉が勢いよく開いた。

空き部室の乾いた静けさへ、風と足音がまとめて飛び込む。


駆が息を整える前に顔を出す。

呼ばれた理由が分からないまま、とりあえず来た──そんな目つきだった。


「いきなり呼ばれたんだが……」


駆は部屋の奥を見て、史を見つけて少しだけ動きを止める。

意外な場所で、意外な相手に出くわしたときの表情だ。


「宮下先輩。

 こんなところにいたんですね」


史はペンを置かずに答える。

机の上は整っていて、紙の束がずれない。


「はい。いつもここで作業をしてからPC室に行ってました。

 あなたも勉強会ですか?」


「いや。俺は……そこのバカにいきなり呼ばれました」


言いながら、駆は颯太へ視線を投げる。


「バカとはひでーな。

 事実だけど」


返しが妙に冷静で、史が不意に息を漏らした。

笑いを飲み込もうとして、肩が小さく揺れる。


「先輩。笑った」


咲良がすかさず拾う。

史は一瞬だけ口元を押さえ、姿勢を戻す。


「こほん。なんでもありません」


そこへ、扉の隙間から別の影が滑り込む。

音を殺して入ったのに、目を引く動きだった。


「私も~。なんかいきなり呼ばれた。

 颯太、きょう部活いいの?」


莉子がこそっと入ってくる。

颯太の表情が一段明るくなる。


「莉子!

 天野塾初日だし、たまにはいいべ」


「何それ?ファミリー再結成でもする気?」


莉子はからかい半分で言うが、目は状況を拾っていく。

部室にいる面子を一巡させて、すぐに飲み込んだ。


「まぁ似たようなもんかもな。

 俺の期末がヤバイから雪杜が塾講師を買って出てくれた。

 あと御珠もやばいからついでに全員集めてみた」


「ついでが多い……」


雪杜が小さく突っ込む。

声は細いのに、肩が少し落ちていた。


「なるほど」


駆は短く言って、部屋全体を見る。

誰が何を持っていて、どこに座るか。

席順まで頭の中で組み直すような視線だった。


(AIに問題集でも作らせれば面白いかもな)


駆が史の机を見る。

紙の束の端が揃っている。

付箋が色ごとに分けられ、ページの角から小さく顔を出していた。


(……去年の出題傾向と、教科書のデータがあれば、かなり精度の高い物が作れそうだ)


駆の視線が止まり、声が落ちる。


「宮下先輩」


「……はい」


史が顔を上げる。

返事は平静なのに、目だけが少し硬い。


「先輩、お礼がしたいって言ってましたよね?」


史は突然の言葉に目を丸くする。

言った記憶があるからこそ、視線が一度だけ逃げた。


「は、はい。言いましたが」


「一つお願いがあるのですが」


「……どうぞ」


駆は呼吸を整え、聞き方だけ丁寧にする。

お願いの形で、刃を入れる準備。


「先輩の記録って、いつから付けてます?」


史のペン先が止まる。

紙を押さえる指に、少しだけ力が入る。


(……言っていい?

 でも……)


迷いが机上に落ちる。

史はそれを拾うように口を開いた。


「小学六年の後半からです」


雪杜が何かに気づき固まる。


(まさか……)


駆は頷いて、話を繋げる。


「じゃあ、去年の期末の記録とかってあります?」


「……」


史の喉が小さく鳴る。

視線が一瞬だけ逸れて、すぐ戻る。


(こんなズルを許容していいの?

 でも……礼は……)


史は紙の束を一枚だけ押さえる。

守るように押さえて、それから、差し出す覚悟を作る。


「あります」


「お礼ってことで、記録を使わせていただけませんか?」


「駆!お前天才だな!」


颯太が即座に叫ぶと、咲良がまた横から肘で止める。

莉子は笑いを堪えるように、口元を押さえた。


史は一度だけ息を吐いてから、言葉を選ぶ。

許すだけではなく、釘を刺す。


「……分かりました。

 私でお役に立てるなら。

 ただし、今回限りです。

 これに頼って努力しなくなるのは、あなた達が最終的に困ることになります」


駆は「分かった」と軽く言わない。

短く、しかし逃げない形で返す。


「分かりました。

 使い方は俺が決めます。

 ちゃんと“練習”になる形にします」


駆が一度だけ頷いて、すぐ皆の方を見る。

視線が部屋の中央へ集まる。


「ということで、お前ら。

 勝ち確だな」


「勝ち確!」


「言い方」


莉子が即ツッコミを入れる。

その声で、笑いが広がった。


「俺に任せろ。

 教科書と去年の出方、傾向、弱点。

 最高の問題集を作ってやる」


皆がわっと一斉に声を上げた。


史の机の上の紙と付箋が、別の意味を帯びはじめる。

空き部室は、ただの場所ではなくなる。


天野塾が動き出した。


―――


空き部室の机が、それぞれ小さな島のように使われ始める。

ノートが開く音、教科書の背表紙が机に当たる音。

椅子が引かれて、座り直す。


誰がどこを見るか。

誰が誰の隣に座るか。

それだけで、勉強会の形が決まった。


雪杜は御珠の隣に座る。

ページが同じ向きになる距離。

声を落としても届く場所。


莉子は颯太の横へ、当然のように椅子を寄せた。

逃げ道のない角度で、ノートを挟む。


咲良は少し離れた机に、社会のワークを置く。

自分のペースで進める位置。

でも、分からない時に顔を上げれば声が届く距離。


駆は史の机の近くに腰を下ろし、紙と学校支給の端末を広げる。

作る側の動きだ。


方針が決まると、部屋の音が変わる。

机の上で、ペン先が走り始めた。


「ねぇ颯太。私と同じ高校に行きたいんでしょ?」


莉子の声は軽い。

でも言葉の芯が、逃げる場所を消す。


「なんだバレてたか」


「もう。こんなことしなくても言ってくれればいいのに」


「なんか恥ずかしいだろ」


(じゃぁ何で呼んだんだ)

(じゃぁ何で呼んだんだろ)

(じゃぁ何で呼んだ……)


颯太が三人の顔を見て察する。

察した勢いで開き直る。


「莉子だけ仲間外れとかできるわけねーだろ!」


莉子の頬が熱くなる。

言い返したいのに、口元だけが先に緩む。


「もうそれが言いたくて、わざとやってるよね」


「おめーは人のこと言えねーだろ」


雪杜は一瞬だけ視線を逸らす。

小学生時代、御珠との無自覚イチャコラを散々見せてきた。

反論が、喉で詰まる。


「むぐぐ」


史が思わず吹き出す。

ペンを持った手が止まり、肩が小さく揺れた。


咲良が嬉しそうに目を細める。


「先輩、また笑った」


「……気のせいです」


史は咳払いを挟んで、平静を取り戻す。

咲良の胸の奥が、ふっと軽くなる。

史との距離が、ほんの少しだけ近づいている。


駆が紙束を指先で押さえたまま、史へ顔を向ける。


「先輩。この記録ですが……」


空き部室は狭い。

机の端に寄せただけなのに、駆との距離が近い。

史はそれを意識してしまう。


(……近い)


史は目線を落としたまま、机の上の余白を一度だけ見てしまう。

何を聞かれたか、一瞬分からなくなる。


「先輩?」


「すいません。もう一度お願いします」


声は落ち着いている。

でも自分の内側へ、言い聞かせる。


(……集中)


その隣で、御珠がノートを押さえて雪杜を呼ぶ。


「雪杜。

 ここが分からぬ」


「どこ?」


御珠が指で式の途中を示す。

指先が近い。

雪杜は一度だけ喉を鳴らしてから、ペン先で別の場所を指す。


「ここ。

 まず括弧の中を先に計算する」


「ほう……括弧……」


「うん。

 順番があるから、勝手に崩すと迷子になる」


「迷子」


御珠が真顔でうなずく。

うなずき方がまじめすぎて、雪杜は笑いそうになるのを堪えた。


「じゃあ、先に括弧の中だけ計算して」


「うむ」


御珠がシャーペンを握る。

握り方が少しぎこちない。

それでも書く音は意外と強い。


「……雪杜。

 これでよいか」


「……惜しい。

 マイナスが逆」


「まいなす……」


「うん。ここ。

 符号がひっくり返る」


「符号……」


御珠がペン先を止める。

一瞬だけ、雪杜の顔を見る。


「雪杜は、すぐ分かるのだな」


「慣れだよ」


「妾も、慣れたい」


「うん。頑張ろう」


御珠が小さくうなずいて、また手元へ戻る。

紙の上に、少しずつ線が増えていく。


咲良はその様子をワークを解きながら伺っていた。

ページを押さえる指が、一定のリズムで動く。

でも、視線がたまに雪杜の手元へ滑る。


御珠が、雪杜のノートを覗き込む。

肩が寄る。

寄り方が自然すぎる。


(……御珠ちゃん嬉しそうだな。

 でも……ちょっと妬けるな……)


咲良はワークに戻る。

戻る指先に、少しだけ力が入った。


―――


机の端に消しゴムのカスが溜まっていく。

ノートの角は少し丸くなり、シャーペンの芯の粉が指先に薄くついていた。


颯太が背中を反らして、息を吐く。

椅子がきしんで、肩がようやく下りる。


「……疲れた。

 でも、なんか手応え感じた」


「妾も覚えたぞ。

 順番じゃ」


御珠は胸を張って言う。

その一言で、今日の成果が形になった。


「いい時間だし、きょうはここまでにしよう」


雪杜が机の上を片づけ始める。

プリントを揃える音が、終わりの合図になる。


駆が端末を閉じる前に、皆へ視線を回した。

盛り上がりをそのまま放置しない目だ。


「じゃあ今後のことだが、問題集はすぐにはできない。

 テスト直前の休みに模試として回す。

 それまでは週1で、基礎を固めよう」


「いやー駆さまさまだな。

 今度何かおごらせてくれ」


「山盛りポテトじゃな」


「お前まだそれ言うのかよ」


「気に入ったのじゃ」


笑いが起きる。

声は大きくならないのに、部屋の角が少し柔らかくなる。


史は手元を見たまま、短く息を吐いた。


(この人たち、本当に仲がいい)


駆が史へ向き直る。

言葉は短いが、線が真っすぐだ。


「先輩も、よろしくお願いします」


「あ、はい」


雪杜たちが続けて頭を下げる。


「ありがとうございます、先輩」

「ありがとうございます!」

「ありがとうございます」

「ありがとうございます」


最後に御珠が言う。

一瞬だけ迷ってから、言葉を選び直すように。


「……礼を言うのじゃ。

 史、ありがとなのじゃ」


史は目を伏せたまま、胸の奥のどこかの重さがほどけた。


(自分の記録がこんな形で役に立つなんて……)


「先輩?」


駆の声で、史ははっと顔を上げる。

余計な表情を隠すように、すぐ視線を落とした。


「あ、いいえ。今回だけですから」


「じゃあ解散しよう」


椅子が引かれ、鞄が開く。

片づけの音が重なって、今日が終わっていく。


「よし!

 天野塾、第一回、終了!」


「声、大きい」


「すまん!」


御珠が鞄を抱えて立つ。

そのまま雪杜の袖を、指先で小さく引いた。

引き方が控えめなのに、理由だけははっきりしている。


「雪杜」


「なに?」


「勉強も悪くないものじゃな」


雪杜は笑いそうになって、喉の奥で整えた。

御珠の“悪くない”は、かなり上等な評価だ。


「うん。

 御珠がやる気になってくれて嬉しいよ」


御珠が一瞬だけ目を細める。

すぐに真顔に戻る。


「……うむ」


(そなたと一緒だからこそ楽しいのじゃ)


雪杜は、袖を引かれた指先の感触をまだ意識していた。

学校の中で、理由を持って並べる時間ができたことが、胸の奥に静かに残る。


(……続く場所ができた)


扉が静かに閉まる。

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