【閑話】第17.1話 寝息の隣
※本話には、思春期の身体的成長に伴う描写を含みます。苦手な方はご注意ください。
―――
夜。
部屋の灯りは落ち、二人並んで横になっている。
窓の外から、遠くの車の音が一度だけ流れて消える。
室内には、布団が擦れる微かな音と、二人分の呼吸だけが残る。
雪杜は目を閉じたまま、眠りに落ちきれずにいた。
昨日と今日の出来事が、順番もなく浮かんでは消える。
『手、冷たい。
……いい?』
『……私、彼女だから。
二人の時間、ほしい』
『雪杜って、わりとエッチだよね』
『ふふん。どうじゃ雪杜?』
『静かなところで、語らいたい……』
『妾は、雪杜が好きじゃ。
出会った時から、ずっと』
声だけが、輪郭を失ったまま胸の奥をなぞる。
言葉が胸の内で重なり合い、離れない。
(……あのとき)
近づいた距離。
息が触れそうで、止まった短い刹那。
あと少しで――届いてしまいそうだった。
息を数えて整えようとするのに、胸が勝手に浅くなる。
吸って、吐いても、鼓動の速さだけが残る。
(……眠れない)
布団の中で、膝が無意識に立ちかける。
はっとして戻すと、布が擦れる小さな音がした。
その音が、自分の耳にだけやけに響く。
隣の体温が、近い。
触れてはいない。
それでも、距離が詰まっているのが分かる。
視線が、勝手にそちらへ向く。
御珠は眠っている。
規則正しい寝息。
頬の線が柔らかく、髪が枕に散っている。
(……かわいい)
喉の奥が乾く。
息がうまく通らなくなり、飲み込む音まで気になる。
見ているだけのはずなのに、視線が戻ってしまう。
口元に吸い寄せられて、そこで踏みとどまる。
触れたい衝動が手に降りてきて、指先がシーツをつかんで離れない。
そのとき。
御珠の瞼が、ゆっくりと開く。
寝起きの目で、雪杜の顔ではなく、胸元の上下を確かめるように視線が動く。
「なんじゃ雪杜。
さっきから息が揃わぬ」
「えっ……あ、うん。ちょっと」
「眠れぬのか?」
「……うん」
御珠は半身だけこちらを向く。
声は柔らかい。
それ以上、距離は詰めない。
枕の端に手を置いただけで、体を寄せてはこない。
「ふふ。
妾の寝顔でも見ておったか?」
「なっ……!
ち、違うよ!」
慌てて寝返りを打ち、背を向ける。
布団の中で肩が固まり、背中に自分の心臓の音が伝わる。
(……収まれ。落ち着け)
御珠は、それ以上追わない。
小さく笑う声だけを残して、目を閉じる。
「おやすみじゃ」
「……おやすみ」
それから、時間だけが進む。
雪杜は何度も息を整え直しながら、眠りの入口を探し続ける。
結局、なかなか辿り着けないまま、夜は静かに更けていった。
―――
朝。
目を覚ました瞬間、
雪杜の体が、ぴたりと止まる。
(……?)
視界が定まる前に、眉がわずかに寄る。
布団の中の違和感に、考えるより先に体が反応している。
(……これ、たぶん……)
視線を動かさないまま、そっと手探りする。
確かめたところで、動きが止まる。
そのまま、何もなかったように手を引っ込めた。
音を立てないように起き上がる。
一度だけ周囲を見回し、布団の端をつまんで畳むように整える。
それでも落ち着かず、洗濯物を腕に抱えたまま部屋を出る。
洗濯機が回り始め、低い音が一定のリズムを刻む。
雪杜はその前に立ち、洗剤のキャップを持ったまま動けずにいる。
量を量る目盛りを見ているのに、指先が定まらない。
結局、曖昧な量を流し込み、慌ててキャップを戻す。
その動きだけが、妙に忙しい。
少し離れた場所から、御珠がそれを見ている。
表情は変えない。
ただ、目だけが雪杜の手元を追っている。
「のう雪杜」
「な、なに?」
「今日は、洗濯が早いの」
「え?
あ、うん……なんか、洗濯したくなって」
言い終わる前に、視線が逸れる。
それ以上、理由は続かない。
御珠は、問いを重ねない。
雪杜の背中を、しばらく見つめる。
(……そうか。
もう、夜を独り占めしてはならぬ段階か)
御珠は、ほんのわずかに息を落とす。
胸の奥で何かがほどける前に、指先に力を入れる。
(……本当は、離れとうない。
……だが、それは妾の我儘じゃ)
御珠は一度だけ、視線を落とす。
すぐに顔を上げ、その揺れは表に残らない。
洗濯機の回る音だけが、変わらず続いている。
―――
夜。
布団に入る前。
部屋の灯りが落ち、足元だけが薄く見える。
御珠が、いつもより少しだけ背筋を伸ばす。
声を掛ける前に、呼吸を整えた。
「のう、雪杜よ」
「なに?」
言葉を選ぶ沈みが、声になる前にある。
息を吸い直してから、続ける。
「妾、たまには一人になる夜が欲しいのじゃ」
「え……?」
「榊に、戻ってもよいかと思っての」
唐突に聞こえたのか、雪杜が慌てて身を起こす。
布団がわずかに波打つ。
「ど、どうしたの御珠!?
急に……」
「案ずるでない」
御珠は、雪杜の方を見る。
視線はまっすぐだが、距離は詰めない。
立ち位置を変えずに、言葉だけを置く。
「決して、そなたが嫌いになったわけではない」
返事はない。
雪杜の喉が、小さく動く。
御珠は、雪杜の胸元を一度だけ見てから、視線を戻す。
見たことを悟らせないように、まぶたが伏せる前に戻す。
「最近、妾の隣で目が冴える日があるじゃろ」
「……」
思い当たる節があり、言葉が続かない。
布団の端を握る指先に、力が入る。
「そなたにも、
一人で過ごす夜が、必要になってきたのじゃ」
「……そ、そう……なのかな」
雪杜は握っていた指を緩める。
視線が彷徨い、最後に御珠へ戻る。
「……たまには、一人に……なるのも、いいかも」
御珠は、息を静かに落とす。
それが顔に出る前に、口元だけがわずかに緩む。
「うむ。
そういう夜も、あってよい」
一歩だけ、後ろへ下がる。
それでも言い足りないものが残っているのか、指先で布団の端を整える。
丁寧すぎるほどの動き。
「では、今夜は妾は榊に戻る」
「……うん」
言葉のあと、二人とも動かない。
視線も、手も、置いたままだ。
「……おやすみ、御珠」
「おやすみじゃ、雪杜」
御珠は一歩だけ、近づきかける。
そこで止まる。
手は伸ばさない。
笑いかけることもせず、布団の端をもう一度だけ整えた。
次の瞬間、姿が消える。
部屋には、整えられた布団と、雪杜の呼吸だけが残った。
―――
榊の中。
闇に近い静けさ。
風も音もなく、外界の存在は完全に遮られている。
御珠は、ひとり腰を下ろす。
背を伸ばしたまま、行き場のない指先を膝に置いた。
「さて……」
声は小さく、反響もしない。
「久しぶりに、一人になったの」
何も起きない。
眠気は訪れず、呼吸を整える必要もない。
鼓動を意識する理由も、ここにはない。
御珠は、視線を落とす。
「妾は元より、眠らずともよい存在じゃ。
……人の理でも、研究するかの」
懐からスマホを取り出し、指先で触れる。
画面が灯り、闇の中に小さな光が浮かぶ。
指が滑る。
知らぬ言葉や映像が、次々と流れてくる。
「ほう……」
目を細める。
「ぶいちゅーばー、とな……」
画面の中で、誰かが笑っている。
声が重なり、文字になり、数字になって流れていく。
御珠は、それを黙って眺める。
評価も拒絶も、まだ選ばない。
「……声だけで、存在する、か」
画面を消さず、座り直す。
肩から力が抜け、姿勢がわずかに緩む。
「……退屈は、悪くないの」
榊の闇に、スマホの光だけが残る。
その光は消えず、弱く揺れていた。




