第15話 遠い指先
駅前は、人の流れが絶えない。
背中に風が当たって、広告の旗がぱたぱた鳴っている。
雪杜は少し早めに着いて、改札の外で立ち止まった。
スマホの時刻を確認し、ポケットへ戻す。
指先は行き場を失って、ズボンの縫い目をなぞっていた。
足音が近づく。
視界の端に、咲良が入る。
雪杜は一歩だけ前へ出て、そこで止まった。
「……おはよ」
「おはよ」
声が重なって、すぐにほどける。
次の言葉が出てこなくて、二人の視線がふっと迷った。
雪杜の目が、咲良の服へ落ちた。
見慣れない色。
先週、一緒に買いに行った服だった。
「……」
口を開いて、閉じる。
もう一度だけ咲良を見る。
息を吸って、吐く。
「……可愛い」
ほんのわずか遅れて、咲良のまぶたが揺れた。
「ありがと……」
頬が一気に熱くなるのが、遠目にも分かった。
咲良は視線を逸らして、肩のストラップを指でつまむ。
「雪杜もその……似合ってるよ……」
雪杜は返事を探して口を開きかけ、うまく音にならなかった。
耳まで熱くなるのが自分でも分かって、目線が落ちる。
「い、いこっか」
「……うん」
二人は並んで歩き出す。
肩が触れそうで、まだ触れない距離。
その狭さが、落ち着かない。
咲良が歩幅を合わせる。
雪杜も無意識に速度を落として、横を気にした。
「水族館って初めて」
「私も久しぶり。
学校の遠足で行ったとき以来かな」
「遠足……」
雪杜の胸の奥が、固く締まる。
(そっか。普通は、遠足で行くんだ)
「あ……
いいなー、初めて。
きっと感動するよ」
咲良は明るい声を作って、言葉を前へ押し出した。
言い方が変じゃないかを確かめるように、雪杜の横顔を見る。
「うん……いこっか。
楽しみ」
「そうだね。楽しも」
咲良は小さくうなずいて、歩く調子を崩さない。
雪杜の過去の空白に、今日の出来事を重ねて埋める。
ここから先を最高の思い出にしてみせる、と胸の中で誓った。
歩く距離だけが、少しだけ縮まった。
―――
入館ゲートを抜ける。
館内は明るく、人の声が高い天井で跳ね返っていた。
水の匂いを含んだ気配が、外の冷たさをふっと切り替える。
「わあ……」
雪杜の声が、思ったより素直に漏れた。
正面には水槽が並び、ライトの光が水面でゆらめいている。
子ども連れやカップルが行き交い、笑い声があちこちで弾んだ。
雪杜は周囲を見回す。
目に入るものが多くて、視線の置き場に困った。
「人、多いね」
「GWだもん。
でも……こういうのも、いいでしょ?」
咲良はそう言って、水槽の前に立つ。
雪杜も隣に並ぶが、半歩ぶんだけ距離が残ったままだ。
小さな魚の群れが、一斉に向きを変える。
銀色の線がふわっと折り返して、また揃う。
「すご……そろって動くんだ」
「ほんとだ」
会話がそこで途切れた。
飲み込んだ言葉が、喉の奥に引っかかる。
少し先で、カップルが写真を撮っている。
自然に肩を寄せ合う姿が、視界に入る。
雪杜は無意識に一歩引きそうになって、そこで止まった。
咲良が、その小さな動きに気づく。
「……ね」
「なに?」
「せっかくだし、写真撮ろ?」
咲良はスマホを持ち上げる。
自撮りの距離には、まだ踏み込まない。
その遠慮が、いまの二人をそのまま映していた。
「う、うん」
二人は水槽を背に並ぶ。
画面の中、二人の間に、少しだけ隙間がある。
シャッター音が軽く鳴った。
咲良は写真を確認する。
「……ふふ」
「なに?」
「なんでも。
……ちゃんと、二人だね」
雪杜が画面をのぞく。
確かに並んでいる。
でも、並び方がまだ他人行儀で、ぎこちなさまで映っている。
「……まだ、これからだね」
「その……お手柔らかに……」
「だーめ」
咲良はそう言って歩き出す。
さっきより少し近い位置。
歩くたびに、髪が揺れて、香りが一瞬だけ流れてくる。
雪杜も、その距離を保ったまま歩く。
まだ手は出ない。
それでも、二人で来ている実感だけは、確かに積み上がっていった。
―――
通路の先に、丸い入口が見える。
ガラスでできたアーチ。
海底トンネルの入口だ。
「ここ、好き。
入ると一気に“水族館きた”ってなる」
「……これが」
二人は、そのまま入口をくぐる。
頭上も、左右も、すべて水。
青い光がゆっくり揺れて、視界の奥まで染めていく。
外の明るさが遠ざかって、別の場所に踏み込んだ感覚が残った。
雪杜は、思わず立ち止まる。
「……すご……」
それ以上、言葉が続かない。
胸の奥が、静かに持ち上がる。
大きな影が、頭の上を滑る。
エイが羽を広げるようにして、ふわりと通り過ぎた。
雪杜の目が丸くなる。
「え、でか……」
「ね。
初めて見ると、ちょっと怖いくらいだよね」
「怖いっていうか……
ほんとに、海の中だ」
雪杜は天井のガラスに手を伸ばしかけて、途中で止める。
触ったら怒られそうで、指を引っ込めた。
それを見て、咲良が小さく笑う。
「触りたい?」
「……触りたい」
「だめ」
「だよね……」
咲良はまた笑った。
声は軽いのに、目だけがやわらかい。
「……そういう顔、するんだ」
「え?」
「なんでもない。
ほら、上」
咲良が指差す。
今度は魚の群れが、頭上を流れていく。
光の粒が、帯になって動いているように見えた。
雪杜は、息を詰める。
「……感動する」
「うん。
……一緒に見れて、よかった」
「……うん」
トンネルの出口が近づく。
暗いエリアへの案内板が、前方に見え始める。
歩きながら、咲良は雪杜の袖に指をかけた。
まだ握らない。
でも、離れないようにするための位置。
雪杜も、そのまま袖を引かれた状態で歩く。
前方の案内板を見て、言葉が少しだけ減った。
―――
トンネルを抜けると、通路の明るさが一段落ちる。
照明が弱くなり、足元だけが細く照らされていた。
胸の奥まで、静けさが降りてくる。
案内板に「深海」と書かれている。
「こっち、暗いよ」
「うん……」
二人の声が小さくなる。
周りのざわめきはあるのに、耳の外側へ押しやられた。
水槽の中はさらに暗い。
青黒い水の中に、点のような光が浮いている。
夜空を水に沈めたようだった。
雪杜は立ち止まる。
「……光ってる」
「深海魚だね。
自分で光るやつ」
「へぇ……」
会話が続かない。
暗いと、周りの人の顔もよく見えない。
そのぶん、足音や衣擦れだけが近くなって、落ち着かない。
雪杜は足運びが乱れて、肩に力が入った。
呼吸まで浅くなって、喉が乾く。
咲良はそれを横目で見ている。
「……迷子になりそう?」
「ならない……けど……
暗いと、なんか……」
言い切れないまま、雪杜は口を閉じた。
「……そっか」
咲良は雪杜の袖に指をかける。
軽く引いて、隣へ寄せた。
雪杜は驚いたが、抵抗しない。
足だけが、咲良の歩幅に合わせていく。
「ここ、段差あるから」
咲良は言い訳を作る。
本当は段差なんて大したことない。
でも、その一言があるだけで、触れる理由が成立する。
「うん……」
二人はゆっくり歩く。
袖の先の指が、離れない。
水槽の前で止まる。
ガラスの向こうに、細い魚が漂っている。
目だけが妙に大きくて、こちらを見返してくる。
「……ちょっと怖い」
「うん。わかる」
咲良は袖をつまんでいた指を、少しずつ滑らせる。
袖口から、雪杜の手首に触れた。
雪杜は息を止める。
触れられたところだけ、冷えがほどけていく。
「……冷えてる」
「え……」
「手。冷たい」
咲良は言いながら、指先を重ねる。
手首から、指へ。
そして、手のひらへ。
雪杜は固まったまま、視線だけが泳いだ。
咲良の顔は暗くてよく見えない。
だから、声と指先の動きだけがやけに鮮明だった。
「……いい?」
「……うん」
咲良の手が、雪杜の手を握る。
強くはない。
でも、離さない握り方。
雪杜も遅れて握り返す。
指が絡むところで、迷いが消えた。
「……あったかい」
「……でしょ」
二人は暗い水槽を見上げる。
言葉は少ない。
でも、手の熱だけは確かにそこにあった。
雪杜は、さっきより落ち着いている。
咲良も、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
「次、クラゲ行こ」
「……うん」
―――
深海エリアを抜けると、少し明るい通路に出る。
角を曲がった先に、柔らかい光が見えた。
水の中に灯りが沈んでいるように、ふわっと滲んでいる。
クラゲの水槽だ。
水槽の中で、白い傘がゆっくり浮き沈みしている。
照明が淡く変わり、青や紫が混ざって、壁まで色を塗り替える。
足音も人の声も、ここだけ少し丸くなる。
「……ここ、好き」
「うん……落ち着く」
二人は水槽の前に並ぶ。
さっきから手はつないだまま。
指の絡み方が、もう“偶然”ではなくなっていた。
咲良はクラゲを見ている。
でも、目線が少し泳いでいる。
息を吸って、吐いて、そのたびに肩がわずかに揺れた。
「……どうしたの」
「んー……」
咲良は言い出せずに口を閉じる。
クラゲが上下に揺れて、その間に視線が沈んでいく。
静かな光が、咲良の横顔を薄く照らした。
「……ねぇ」
「うん」
「御珠ちゃんのこと……さ」
雪杜の指先が少し硬くなる。
握っている手に、ほんのわずか力が入った。
「嫌いじゃないよ。
むしろ大好き」
「……うん。
知ってる……」
「すごいって思う。
雪杜のこと、ずっと守ってきたんだなって」
「……うん」
咲良は息を吸って、吐く。
吐いた息が、言葉の前で一度止まる。
「でも……」
そこで途切れる。
咲良の視線がクラゲへ戻る。
泳いでいるのはクラゲなのに、揺れているのは咲良のほうだった。
「……私、彼女だから」
雪杜は何も言えない。
喉の奥が詰まって、音にならない。
「二人の時間、ほしい」
言い切ったあと、咲良は少し顔を伏せる。
髪が頬に落ちて、表情を隠す。
「欲しいって思うの、ずるい気もする。
御珠ちゃんが引いてくれてるの、分かってるのに」
雪杜は、答えを探して目を動かす。
否定も肯定も、どちらも尖ってしまいそうで、言葉が出ない。
「……怖いんだ。
私が欲張ったら、全部壊れそうで」
雪杜は、つないだ手に力を込める。
握り返す。
離さない。
「……壊したくない」
「……ほんと?」
「……うん。
その……咲良も大事だから……」
咲良は少しだけ笑った。
泣きそうな笑い方で、唇の端が震える。
「……じゃあ、もうちょっとだけ。
今日は……もうちょっとだけ、彼女として、わがまま言っていい?」
「……うん」
二人はクラゲを見上げる。
光が水の中で揺れて、顔の影を薄くする。
言葉の代わりに、手の熱が返事をし続けた。
咲良は手をぎゅっと握り直す。
「次、イルカショー見よ。
かわいいし、すごいよ」
「……うん。行こ」
―――
ショー会場へ向かう通路は、人の流れが早い。
案内の声が反響して、観客がどんどん吸い込まれていく。
さっきのクラゲの静けさが、背中のほうへ遠ざかっていった。
「間に合いそう」
「うん……」
会場に入ると、客席が段々になっている。
前の方には「水しぶき注意」の札。
水面の青が近くて、胸の奥がそわそわする。
「前、行く?」
「濡れるやつ?」
「濡れるやつ」
「……じゃあ、真ん中」
「現実的」
二人は真ん中あたりの席に座る。
隣同士。
肩が触れそうで触れない距離が、座ると急に現実になる。
さっきまでつないでいた手は、座った拍子にいったんほどけた。
理由も言えないほど自然にほどけて、だからこそ手の置き場が落ち着かない。
咲良は何も言わずに手を膝の上に置く。
雪杜も同じように手を膝の上に置く。
二人の膝が近くて、指先がすぐそばだった。
指が触れて、すぐ離れて。
もう一度触れて、今度はそのまま重なる。
つないだ、というより、置いた手が重なっただけ。
でも、二人とも離さない。
わざとじゃないふりをしたまま、確かめ合うように残す。
会場の照明が落ちる。
音楽が鳴って、歓声が上がる。
スタッフがマイクで呼びかけた。
「それじゃあ、イルカたちのショー、はじまりまーす!」
水面が弾けて、イルカが顔を出す。
艶のある背中がライトを拾って、すっと水を割った。
「……かわいい」
「かわいい……」
イルカが尾びれで水を叩く。
しぶきが上がって、前の方の客が悲鳴と笑い声を同時に出した。
拍手が波のように広がる。
咲良は肩をすくめて笑う。
「ね、濡れるやつ」
「真ん中で正解」
「正解」
イルカが加速して、ジャンプする。
高い。
思っていたよりずっと高い。
空中で体が弧を描いて、一瞬だけ止まったように見えた。
「うわ……!」
「でしょ!」
着水の音が響いて、また歓声。
拍手が続く。
雪杜の目が、さっきよりずっと明るい。
咲良はその横顔を見て、胸の奥がほどける。
暗い水槽の前で固くなっていたものが、呼吸と一緒に流れていく。
次の演目で、イルカが客席に向かって首を振るような動きをする。
挨拶の形をわざと作っているのが分かる。
咲良が雪杜の横顔を見て、口元をゆるめた。
「見た?今の」
「見た。絶対わざと」
「ね。かわいい」
「……かわいい」
雪杜がつい笑う。
咲良もつられて笑う。
二人の肩が軽く揺れて、重なっている手も同じリズムで揺れた。
ショーが終わる。
照明が戻って、客席がざわつく。
立ち上がる人の波が、通路へ流れていく。
雪杜が小さく息を吐いた。
「……元気出た」
「うん。出た」
咲良は重なった手を名残惜しそうにほどいて、でも指先だけは一瞬残す。
「次、カフェ寄る?
ちょっと座ろ」
「うん」
―――
ショー会場を出ると、人の流れがそのまま売店の方へ引っ張られていく。
軽食コーナーも併設されていて、甘い匂いと揚げ物の匂いが混ざっていた。
さっきまでの歓声が、少しずつ生活音に戻っていく。
「喉かわいたね。
なんか飲も」
「うん」
二人は売店の列に並ぶ。
頭上のメニュー表を見上げながら、咲良が小さく聞いた。
「何にする?」
「うーん……コーラ」
咲良が、ふふっと笑う。
「コーラ好きだよね」
雪杜は少し照れて、視線を逸らす。
「私はアイスコーヒーにしよっと」
そのときだった。
飲み物を買い終えた客が、前方からこちらへ歩いてくる。
見覚えのある顔が、視界に入る。
「……え」
「……あ」
ほぼ同時に声が漏れた。
「……え」
「……えっ」
一瞬で状況が理解できる。
颯太と莉子。
しかも二人で来ている。
向こうも、どう見てもデート中だ。
颯太が反射的に口を開く。
「……そっちも?」
「……そっちも?」
同じ言葉が重なって、さらに落ち着かなくなる。
咲良の頬が一気に熱くなる。
雪杜の視線も、落ち着きなく泳いだ。
莉子が一歩前に出て、落ち着いた声で言う。
「こんにちは。偶然だね。
御珠ちゃんはいないの?」
莉子はきょろきょろと辺りを見渡す。
「御珠は……お留守番……」
「あ……」
莉子は、すぐに何かを察した顔になる。
「そ……そうなんだ……
ほら、邪魔しないように早く行こ」
ぼんやりしている颯太を、肘で軽く突く。
「お、おう。
じゃな」
「う……うん……」
莉子は咲良に向かって、さりげなく手を振る。
応援するような、小さな仕草。
二人が人波に紛れていくのを見送ってから、雪杜が息を吐いた。
「はー……びっくりした」
「だね。びっくりした。
颯太と莉子、仲よさそうだったね」
「うん。
順調そうだった。
もうキスとかしたのかな」
言ってから、雪杜ははっとして口を押さえる。
しまった、という顔。
咲良は一瞬きょとんとして、それから顔が赤くなる。
「キ……キスって……
そういうの考えちゃうんだ……
雪杜って、わりとエッチだよね」
雪杜の顔が、耳まで真っ赤になる。
「ち、ちがっ……
ちょっと気になっただけっていうか……!」
思わず声が上ずる。
「いいと思うよ……
男の子なんだし……」
咲良は視線を逸らしながら、そう言った。
その声も、少しだけ小さい。
雪杜は縮こまって、それ以上何も言えなくなる。
「いらっしゃいませー。
何にしますかー」
店員の声に、二人は同時に顔を上げる。
そのあと。
二人は顔を赤くしたまま、飲み物を口に運んだが、味はよく分からなかった。
―――
売店を出ると、館内の音が少し遠くなる。
通路の人波も、さっきより薄い。
天井の反響が減って、足音が素直に返ってくる。
二人とも、まだ顔が赤い。
そのまま何も言わずに歩くのが、かえって落ち着かない。
「……さっきの、僕……
変なこと言った」
「……うん。言った」
すぐ返されて、雪杜の肩が落ちる。
「……ごめん」
「謝らなくていいよ……」
咲良は前を見たまま言う。
声は小さいけれど、拒む様子はない。
「でも……ちょっとびっくりした。
雪杜でも、そういうこと考えるんだって」
「考えたくて考えたんじゃなくて……
口が勝手に……」
「ふふ。悪い口だね」
咲良が少しだけ笑う。
雪杜も、つられて苦笑いになる。
さっきまでの赤さが、ようやく熱から照れに変わっていく。
咲良が歩き出して、振り返った。
「さぁ、続きも見よう」
そのあと。
海獣館を覗いて、アザラシの赤ちゃんに胸がほどける。
ペンギンがよちよち歩くのを見て、咲良が小さく息を漏らした。
見上げた咲良が、ときどき悪戯を仕掛ける目をする。
そのたびに雪杜は一瞬だけ動きを止めて、視線の置き場に困った。
ヒトデを触れるコーナーでは、咲良が先に指先を入れて、雪杜の手を促した。
淡水魚のエリアにはアロワナがいて、悠然とした姿に二人そろって「かっこいい」と声をあげる。
不細工な魚の水槽の前では、言い方に困って、結局また笑ってしまった。
出口が近づく。
ガラス越しに、外の光が見えた。
「今日さ……楽しかったね」
「うん。楽しい」
「よかった」
咲良はそう言ってから、少しだけ言葉を溜める。
「……御珠ちゃん、いないのにって思った?」
雪杜の足が一瞬止まりそうになって、踏みとどまる。
歩調を崩さないように、前を見る。
「……ちょっとだけ」
「……そっか」
咲良は立ち止まらない。
そのまま歩きながら、続ける。
「でも、今日はいま。
今日の分は、今日の思い出にしよ」
「……うん」
咲良は照れたように、ゆっくり手を差し出す。
ためらいが、指先にだけ残っている。
雪杜は少し迷ってから、そっと手を取る。
強くは握れない。
でも、離すつもりもなかった。
咲良が、指を絡める。
「……ほら。いこ」
「……うん」
二人は並んで歩く。
さっきより、肩が近い。
その距離が、もう不安を生まない。
館を出ると、外気が頬に当たる。
まだ明るくて、空は高い。
「次、どこ寄る?
まっすぐ帰る?」
「……少しだけ、歩きたい」
「うん。浜辺を散歩しよ」
二人は歩幅を合わせて進む。
手はつないだまま。
今日という一日を、ちゃんと持ち帰るために。
―――
玄関の鍵を回す音。
靴を脱いで、家に入る。
外の匂いが背中に残ったまま、室内の静けさが迎えに来る。
「……おかえりじゃ」
奥から声がする。
御珠が廊下から出てくる。
家の顔だ。
学校のときより、少しだけ声が柔らかい。
「ただいま」
御珠は雪杜の顔をじっと見る。
視線が逃げない。
そのまま、何かを確かめるように。
「……よい顔をしておる」
「え……」
「楽しかったのじゃろ?」
言い逃れできない。
雪杜は小さく息を吸ってから、正直に言った。
「……うん。楽しかった」
「うむ」
御珠は短く頷く。
その一言が、妙に優しい。
雪杜は靴を揃えようとして、ふと手が止まる。
ポケットからレシートと半券が少しだけ覗いている。
反射で、さっと隠すように押し込んだ。
「隠さずともよい」
「……え」
「その程度のことは気にせん」
「……そうなの?」
「気にしておったら留守番などせぬ」
言い切る。
でも声は穏やかで、怒りはどこにもない。
むしろ、雪杜の小さな罪悪感をほどくための言い方だった。
「ただ……」
御珠が雪杜に一歩近づく。
距離が縮まったぶん、呼吸の音が近くなる。
「帰ってきた雪杜は、妾のものじゃ」
雪杜はどきっとして目を逸らす。
耳まで熱くなるのが自分でも分かる。
「ふふ。まあ良い」
御珠は雪杜の袖をつまむ。
引き寄せるほど強くない。
でも、逃がさない。
「水族館はどうであった?」
「……イルカ。すごかった」
「ほう」
「海底トンネルも……
……僕、初めてで、感動した」
「そうか」
御珠が少しだけ嬉しそうに目を細める。
嫉妬ではなく、雪杜の“初めて”が増えたことを一緒に喜ぶ顔。
「その話、もっと聞かせよ」
「……うん」
「それと」
御珠は言葉を区切る。
言葉を止めても、わざとらしさがない。
「明日、映画に行くのじゃろ?」
「そうだ……ね?」
雪杜は目を瞬かせる。
心臓が、さっきより一段だけ速くなる。
「妾は留守番が得意になったが、置いていかれるのが好きになったわけではない」
雪杜は黙る。
反論が出ない。
それを否定すると、御珠の努力まで嘘になる。
「……次は妾の番じゃな」
「……うん」
御珠は雪杜の額に指を当てる。
軽く押して、距離を詰める。
雪杜は反射的に動きを止めた。
「手を出すのじゃ」
「え……」
「手」
雪杜はおそるおそる手を出す。
御珠が指を絡めとる。
学校では見せない顔。
家だけの仕草。
「……ただいまの続きじゃ」
「ただいまは、もう言ったけど……」
「なら、もう一度言うのじゃ」
「……ただいま」
「うむ」
御珠は満足そうに頷く。
そのまま指を絡めた手を、ほどかない。
雪杜は息を吐く。
外で張っていたものが、少しだけほどけていく。
今日は今日の思い出。
そして、家には家の時間があった。




