第8話 難癖と、立っていただけ
朝の教室。
机を引く音と、金具が触れ合う乾いた音が、ぶつ切りに重なっていく。
ざわめきの奥に、昨日までになかったものが貼りついている。
雪杜が席に着く。
咲良も隣で鞄を置き、教科書を机の角に合わせて並べた。
「おはよう」
「おはよ」
それだけのやりとりに、周囲の顔がいくつもこちらへ向く。
すぐ別の方へ流れていくのに、視線の先だけが引っかかったままだ。
(……なんか、見られてる気がする)
咲良は気づいているのに、眉も動かさない。
ノートを出し、ペンを持ち、まっすぐ前を見た。
後ろの方で、男子の声が小さくぶつかる。
「なー、見た?」
「見た見た。今日も一緒じゃん」
「まじで何なん」
雪杜の耳に、断片だけ入る。
聞こえないふりをして、机の木目に視線を落とした。
(何か、嫌な感じ……)
咲良が、雪杜の机の上を指で軽く叩く。
小さな音なのに、背中の筋が伸びる。
雪杜は、視線を落とす。
その時、廊下側の席の男子が、椅子を引く音をわざと立てて立ち上がる。
教室のざわめきが、そこだけ一瞬途切れた。
何か言いたそうに雪杜を見る。
でも、口は動かない。
代わりに、鼻で笑うように息を吐いて席に戻る。
雪杜は見てしまって、すぐ目を逸らす。
(……あいつ、昨日も見てた気がする)
咲良が、雪杜の方へ顔だけ寄せて、小さく囁いた。
「気にしなくていいよ」
「……うん」
咲良は、ノートの端を押さえたまま続ける。
周りの声に混ざる直前の小ささだった。
「放課後、PC室行こ」
「うん。行く」
短く返しながら、胸の奥が重いままだ。
言葉にしないほうが、まだ形を保てる気がした。
(……でも、なんで)
教室の前方。
御珠が席に座っている。
姿勢は崩さないまま、視線だけが教室をなぞっていった。
(……来たか)
咲良と雪杜を見て、すぐ逸らす。
目線の角度まで計算したような切り替えだった。
(妾が前に出れば、もっと燃える)
御珠は、何も言わず、何も動かない。
ただ、机に置いた手をそのままに、教室の端から端までを見ている。
チャイムが鳴る。
担任が入ってきて、軽い調子で声を投げた。
「はい、席についてー」
教室が、いつもの形に戻る。
けれど、昨日までになかったものは、まだ剥がれない。
(何も起きないといいんだけど……)
―――
昼休み。
教室から人が出ていく足音が重なって、廊下の奥へ引いていく。
残った場所は思ったより音が少ない。
雪杜が、一人で自販機の方へ向かう。
普段より早足で、上履きの音が廊下に強く残った。
後ろから足音。
「なあ」
雪杜は一瞬、立ち止まる。
振り返らない。
「……なに?」
少し距離を取った位置で、男子が止まる。
近づかないまま立つ距離が、壁のように圧を作る。
「最近さ、調子乗ってない?」
よくある絡み。
昔の雪杜なら、言葉が喉で固まって終わっていたかもしれない。
卒業の日の御珠の言葉が、耳の奥で短く反復する。
『これからは、私は前に出ない。
騒がない。
目立たない』
(もう御珠は守ってくれない。
僕自身が頑張らないといけないんだ)
雪杜は、息を吸う。
指先が一度、制服の裾を強くつまんで、放した。
「“調子”って何。
僕、誰かに何かした?」
「っな!調子乗んなよ!?
女二人もはべらせて!」
雪杜の視線は前のままなのに、耳だけが熱くなる。
言葉を選ぶ余裕が削れていくのが分かって、そこで踏ん張った。
「咲良は彼女、御珠は彼女の親友。
何も問題ないよね?」
「うるせー!とにかく忠告したからな!!」
吐き捨てるように言って、その男は足早に去っていく。
足音が遠ざかるほど、雪杜の鼓動が遅れて追いついてきた。
(言えた。怖かったけど)
廊下の反対側から咲良が来る。
雪杜の顔を見て、目線だけで状況を拾った。
「……今の?」
「うん。もういい」
「そっか」
咲良は、理由を聞かない。
雪杜の横に並んで、同じ速度で歩き出すだけだった。
「無理してない?」
「してる……
正直、しんどかった。
でも、逃げなかった」
「うん」
咲良が、ほんの少しだけ歩幅を合わせる。
肩が触れない距離のまま、揃える。
「……しんどかったんだね」
それ以上、何も言わない。
二人は、そのまま歩いていく。
廊下の静けさだけが、背中から遅れてついてきた。
―――
放課後。
人の気配が遠い廊下は、上履きの音まで薄く吸い込んでいく。
耳に残るのは、自分の足音だけだった。
空き部室の扉が、音を立てずに開く。
御珠が入ってくる。
空いている席の中から一つ選び、椅子を引く音だけが小さく鳴った。
一人。
窓から差し込む光が、机の端を細く照らしている。
御珠は腰を下ろし、しばらく机の上に手を置いたまま動かなかった。
(……昼のこと)
廊下での光景が、途切れ途切れに浮かぶ。
雪杜が、立ち止まったこと。
振り返らずに、言葉を返したこと。
声が震えなかったこと。
相手が言葉を荒らげた瞬間。
それでも、雪杜が一歩も詰めなかったこと。
御珠は、静かに息を吐く。
(妾は……出る理由がなかった)
目を閉じる。
(助けを待ってはおらなんだ)
指先が、机の上で止まる。
(己で線を引いた)
窓の外に、校庭が見える。
誰かの声が遠く跳ねて、ボールの音が転がる。
(……それでよい)
少しだけ、口元が緩む。
けれど、頬は上がりきらない。
(もう、背中を押す時でもないの)
椅子の背にもたれず、背筋を伸ばしたまま、前を見る。
(……今日は、ちゃんと立っておった)
扉の外で、足音が止まる。
「……入っていいですか」
「どうぞ」
史が入ってくる。
ノートを抱えたまま、目線を揺らさずに近くの椅子へ向かった。
「今日は、静かですね」
「騒がしい日もあるよ」
史は椅子に腰掛け、ノートを開く。
紙の端を揃える指が、そこで一度止まった。
「昼、廊下で」
一瞬、言葉を選ぶ。
「何か、ありました?」
御珠は、史を見ない。
窓の外を見たまま答える。
「少し、ね」
「……そうですか」
それ以上、踏み込まない。
ノートにペンが落ちて、紙を擦る音だけが部屋に残る。
(ぬしは、よく線を引く)
御珠は立ち上がる。
椅子の脚が床をかすって、小さく鳴った。
「今日は、ここまでにしよっかな」
「もう帰るんですか」
「少し……雪杜の様子を見に行く」
史は頷く。
「お気をつけて」
御珠は扉の前で立ち止まる。
手をかける前に、視線だけを少し落とした。
「……宮下さん」
「はい」
「記録というのは」
言葉を探すように、指先が扉の縁をなぞる。
「起きたことだけで、十分な日もあるよ」
史は、一瞬だけ手を止める。
ペン先が紙から浮いて、止まった。
「……そうですね」
御珠は、満足そうに頷いた。
「じゃあ、またね」
「はい」
扉が閉まる。
廊下。
御珠は歩きながら、内心で呟く。
(妾が手を出さぬ世界でも)
足音は一定で、迷いがない。
(そなたは、生きていける)
少しだけ、息を吐く。
(……それで、よい)
歩みを止めず、御珠は廊下の奥へ消えていった。
―――
校門を出る。
夕方の空はまだ明るいのに、二人の周りだけ音が少なかった。
人はそれなりにいるのに、話し声は遠い方へ散っていく。
雪杜と咲良が並んで歩く。
肩が触れない距離のまま、足音だけが揃っていく。
しばらく、無言。
雪杜が、息を吐く。
「……長い一日だった」
「そう?」
「うん」
少し歩いてから、雪杜は視線を前に固定したまま続ける。
「昼のことさ。
言い返したのに、全然スッキリしなかった」
「うん」
咲良は否定しない。
足元のペースだけを変えない。
「終わった感じはしたけど……
勝った感じは、なかった」
歩道橋の影に入る。
視界が一段落ちて、足音が硬く響く。
「勝つ話じゃなかったんだと思う」
「……そうかも」
雪杜は少し考える。
指先が鞄の肩紐をずらして、また戻した。
「僕、ああいうの、初めてだった」
「うん」
「昔ならきっと逃げてたと思う」
言葉を探して、喉の奥で一度止まる。
「……正直、怖かった」
咲良は、少しだけ歩調を緩める。
前にも後ろにも出ない。
雪杜の隣の位置を外さない。
「見てたよ」
「……え」
「ちゃんと、立ってた」
雪杜は前を見る。
歩道橋の影の先が、少しだけ明るくなっていく。
「……立ってただけだよ」
「それで十分な時もあるよ」
歩道橋を抜ける。
夕焼けが視界に戻って、空の色が一段だけ濃い。
雪杜は、咲良の方を見ないまま言った。
「今日さ。
御珠、何も言わなかった」
「うん」
「見てたと思う?」
「見てたと思う」
即答だった。
「……それで、動かなかった」
「信じてたからじゃない?」
「信じるほど、強くないよ」
「強さじゃないと思う」
「……?」
「雪杜が、自分で終わらせるって思ったから」
雪杜は一瞬だけ歩みを緩める。
でも、止まらない。
足音が遅れて揃い直す。
「……小学生の頃はさ――
守られてたんだなって、今日思った」
「うん」
「今日は、守られなかった」
「うん」
咲良は否定しない。
そこで終わらせずに、歩幅を雪杜に揃えたまま声を落とした。
「でも、一人でもなかった」
雪杜の口が開きかけて、閉じる。
代わりに、息が一つだけ出た。
角を曲がる。
夕焼けが真正面に広がって、影が道に長く伸びる。
雪杜が、前を見たまま言う。
「明日も、学校あるよね」
咲良は迷いなく頷く。
「あるよ」
雪杜の指先が、鞄の肩紐をずらして戻す。
「……行く?」
「行く。一緒に」
「そっか」
肩の力が、少しだけ抜ける。
歩く速度が揃いやすくなる。
咲良が、夕焼けの方へ顎を向けた。
「放課後、PC室寄る?」
「うん」
雪杜が短く返して、足音を揃える。
「行こう」
二人の影が、夕方の道に伸びる。
(嫌なことは、消えてない。
でも、今日は終わらせられた)
歩き続ける。
夕焼けの下で、明日の形だけが残っていった。




