第4話 保留という名の約束
朝の教室は、落ち着かないざわめきに満ちていた。
チャイム直前の時間帯特有の、目的のない音の重なり。
雪杜は自分の席に腰を下ろす。
鞄を机の横に掛けようとして、ほんの一瞬、動きが遅れた。
そのわずかな躊躇を、誰も気に留めない。
「なあ」
背後から、気安い声がかかる。
「……なに?」
振り返ると、昨日の出来事をもう“話題”として扱う視線が向けられていた。
「昨日さ、すごかったな。いきなり告白だろ」
教室の空気が、少しだけそちらに寄る。
「……うん」
短く答える。
それ以上の言葉は、喉の奥で止まった。
「おめでと。彼女できたじゃん」
祝福の形をした軽さ。
雪杜は返事をしない。
言葉が出ないまま、視線を机に落とす。
木目の一本一本が、やけにくっきり見えた。
「あ、悪い。照れてる?」
「……いや」
否定はした。
だが、それが何の否定なのか、自分でも分からない。
少し離れた席から、別の声が飛ぶ。
「春原さんだっけ?可愛いよな」
話題が、完全に“外側”に移ったことが分かる。
「……そうだね」
口をついて出た相槌に、自分で引っかかる。
(“そうだね”って何だ。
僕が、そんなこと言う資格あるんだろうか)
少し離れた席では、別の輪ができていた。
「ねえ」
声をかけられて、咲良が顔を上げる。
「なに?」
「昨日のこと、ほんとびっくりした」
「……うん」
「でもさ、よかったね。天野くん、優しそうだし」
「……ありがとう」
自然に口角を上げる。
慣れた動き。
いつも通りの反応。
「もう手とか繋いだ?」
「……まだ」
「そっか。昨日だもんね」
「……うん」
会話はそこで満足したように終わり、女子たちは楽しそうに去っていく。
咲良は席に戻り、息をひとつ、胸の奥で落とした。
ふと、視線が教室の端へ向く。
御珠がいる。
席に座り、静かに本を開いている。
(……見ないって、決めたのに)
視線が絡みそうになって、咲良は先に目を逸らした。
(まだ……話せない)
その御珠に、小さな波紋が起きていた。
「ねえ……」
声をかけられ、御珠は顔を上げる。
「天野くんと別れたって、ほんと?」
一瞬の沈黙。
御珠は感情を乗せずに答えた。
「……そうだよ」
それ以上、言葉を続けない。
視線も合わせない。
「あ……そ、そっか」
会話は、それで終わった。
場の空気が、ほんの少しだけ冷える。
御珠は再び視線を落とし、本の頁をめくる。
そこに書かれている文字は、ほとんど頭に入ってこなかった。
―――
この日は、朝から授業らしい授業がなかった。
講堂での話。
校内の案内。
生活指導の説明。
プリントが配られ、名前を書き、丸をつけ、気づけばまた別の紙が配られる。
(……全部、頭に入ってこない)
保健調査票。
緊急連絡先。
身体測定の説明。
声は聞こえている。
内容も、理解はできる。
けれど、気持ちが追いつかない。
教室は相変わらずざわついていて、どこかで笑い声も上がっている。
昨日のことは、もう“終わった話”として扱われているみたいだった。
壁の時計を見る。
針は、まだ午前中を指していた。
(……長いな)
―――
昼休みの廊下は、午前中よりも少しだけ騒がしかった。
給食の匂いと、解放された声が混じり合う。
雪杜は一人で廊下を歩いていた。
どこへ向かうというわけでもない。
ただ、教室にじっとしていられなかった。
前方から、人影が近づいてくる。
御珠だった。
一瞬、足が止まりそうになる。
身体が、反射的に距離を取ろうとする。
(……今は、ダメだ)
視線を合わせる前に、歩き続ける。
御珠も、わずかに歩調を緩めた。
声をかけるかどうか、その判断に一瞬だけ迷いが走る。
(……いまはその時ではない)
御珠は何も言わず、そのまま通り過ぎた。
すれ違いざま、二人の間にあったのは、沈黙だけだった。
―――
午後も、授業と呼べるものはほとんどなかった。
教卓の前で説明が続き、黒板には要点だけが書かれて、すぐに消される。
配られる紙に名前を書き、聞いたそばから忘れていくような注意事項に、何度も頷く。
机の上はプリントで埋まり、それを重ねて、端に寄せて、また次の紙を受け取る。
(時間だけが、前に進んでいく)
時計を見るたびに、まだ終わらないことを、確かめてしまう。
雪杜は、何度も時計を見た。
咲良は、必要なときだけ笑顔を作った。
御珠は、ただ静かに過ごしていた。
誰も、昨日の話をしない。
誰も、今日の話もしない。
それでも、同じ空間にいることだけは、はっきりと意識していた。
―――
放課後。
教室に残る生徒は、もう少ない。
椅子を引く音。
鞄を肩に掛ける音。
それらが、ひとつずつ消えていく。
雪杜は、自分の席に座ったまま動かずにいた。
(よし……)
小さく、心の中で区切りをつける。
視線を上げると、咲良がまだ席に残っていた。
雪杜は立ち上がり、迷いなく声をかける。
「……咲良」
呼ばれて、咲良が顔を上げる。
「なに?」
問い返す声は落ち着いている。
だが、どこか構えているのも分かる。
雪杜は、短く息を吸った。
「一緒に帰ろう」
それだけでは終わらせない。
「……御珠と、三人で」
一瞬、咲良の目がわずかに見開かれる。
だが、すぐに表情を整えた。
「……うん」
間を置かずに、続ける。
「分かった」
理由は聞かない。
条件も出さない。
ここで話すことじゃない、とお互いに分かっていた。
昇降口。
三人が、並んで靴を履き替える。
距離は近い。
だが、誰も触れない。
足音が、微妙にずれている。
今は、誰も言葉にしない。
三人で、話す。
御珠が、ふと雪杜の方を見る。
「……雪杜」
呼びかけるが、続く言葉は見つからない。
雪杜は振り返らずに答えた。
「……帰ろう」
短く、それだけ。
三人は、同じ方向へ歩き出す。
言葉はない。
けれど、足取りだけは揃っていた。
―――
畳の匂いが、少しだけ湿っている。
低い卓を囲んで、湯呑みが三つ。
湯気はもう、ほとんど立っていなかった。
雪杜は一度、視線を落としてから口を開いた。
「一度、状況を整理したい」
言葉にした瞬間、その“状況”がすでに整理できないほど絡まっていることを、自分でも分かってしまう。
「……うむ」
「……うん」
逃げ場のない円が、畳の上にできていた。
「……御珠の話は昨日聞いた。
修学旅行で、咲良に抱きしめられて眠ったことが忘れられないって。
咲良を失いたくないって」
言葉を並べながら、雪杜は自分の声が少し乾いているのを感じる。
「それが、なんで僕が咲良と付き合うことに繋がるのかは分からないけど……
いまは、そこは置いておく」
雪杜は、咲良の方を向いた。
「咲良の考えが知りたい」
咲良はすぐには答えなかった。
代わりに、隣に座る御珠を見る。
「……御珠ちゃん」
呼ばれた御珠は、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。
「咲良よ。
そなたは、妾の愛し子じゃ」
照れたように言う御珠に、咲良もまた、頬を赤らめて視線を落とす。
そのやり取りを見ながら、雪杜はこめかみを押さえた。
「ん、んー……
僕は、何を見せられてるんだ?」
「ごめんなさい」
咲良が、ようやくこちらを見る。
「私の考えだよね。
私も、御珠ちゃんと同じ」
一度、息を吸って。
「御珠ちゃんが好き。
雪杜くんも、好き」
あまりにまっすぐな言葉に、雪杜は思わず目を瞬かせた。
胸の奥が、熱を持つ。
照れていると自覚する前に、口が動いた。
「えーっと……
なんで、それが僕と付き合うことに繋がるの?」
「好きだから、じゃダメだった?」
即答だった。
「いや、そうじゃなくて。
僕と付き合ったら、御珠を裏切ることになるんじゃないの?」
「ならぬ」
御珠が瞬時に声を上げる。
「え!?」
「むしろ、喜ばしいことじゃ。
妾は……それを拒まぬ」
少しだけ言葉を選ぶように、御珠は続ける。
「昨日も申したではないか。
もはや、咲良に嫉妬の心は抱かぬ。
そなたと共に添い遂げる、仲間だと」
「だ……だとしても、もっと順序とか、タイミングとか……
いままでと同じじゃ、ダメだったの?」
その問いに、咲良は首を傾げた。
「……いままで、って?」
「だから……」
雪杜は言葉を探す。
「御珠と一緒にいて、
たまに三人で話して、
それで……」
途中で、声が途切れた。
言葉にしようとした瞬間、自分がどれだけ都合のいい期待をしていたかに気づく。
――いつか、咲良が諦めてくれる。
――何も選ばなくても、時間が解決してくれる。
そんな未来を、勝手に想像していた。
「……そっか」
雪杜は、苦笑する。
「結局、僕が逃げてたのか……
咲良が、いつかどこかで諦めてくれるんだろうなって、思ってた」
「絶対ない」
間髪入れず、咲良が言った。
「!!」
「うむ。それでこそ、咲良じゃ」
御珠が、誇らしげに頷く。
「私の覚悟は、雪杜くんも聞いてたはずだよ。
御珠ちゃんと決めたの。
いっぱい相談した」
言葉を重ねながら、咲良の目は逸れない。
「どうすれば、三人で幸せになれるかって」
「だったら、僕も入れ――—」
「それはできない」
きっぱりと、遮られた。
「なんで!?」
「雪杜くんは、優しすぎるから」
咲良の声は、静かだった。
「私のことを考えて、絶対、私を受け入れてくれないって分かってたから」
「だから、あんなやり方で?」
「そう……
雪杜くんを騙す形になっちゃったけど、これしか方法がなかったの……」
「御珠は、それでいいの?
一番は自分だって、言ってたよね?」
「よい」
即答だった。
「咲良がそなたの伴となろうとも、妾が一番なのは変わらぬ」
「どういう意味?」
御珠は、少しだけ視線を伏せる。
「妾は、高校へはいけぬ。
いずれ、法の理に阻まれ、妾の存在は異物として扱われることになる」
言葉は淡々としているのに、内容だけが重く畳に沈む。
「妾の存在が人の目に晒されれば、そなたが危ないのじゃ」
「……つまり?」
「妾は……家で、静かに在れればよいと……
思うておる」
自嘲とも、冗談とも取れない声音。
「妾が前に出続ければ……壊れる。
じゃから、
咲良は表に立ち、
妾は……裏に在る」
その言葉が、三人の位置をはっきりと区切った。
「それが、
いま妾たちが出した答えじゃ」
雪杜は、頭を抱えた。
湯呑みの縁に視線を落とし、そこから一歩も先に進めずにいる。
「そんな……」
声が、かすれる。
「そこに、僕の意思はないの?」
問いかけは、二人に向けたものだった。
だが同時に、自分自身に突きつけているようでもあった。
咲良は、答えない。
御珠も、何も言わない。
畳の上に、重い沈黙が落ちる。
「……」
雪杜は顔を上げた。
「じゃあさ、もし僕が」
一度、言葉を切る。
「お付き合いできませんって断ったら、二人は、どうするつもりだったの?」
空気が、張り詰める。
答えを待つ時間が、やけに長く感じられた。
咲良が、ゆっくりと息を吸う。
「……私は……」
声が震えかけて、それでも目は逸らさない。
「それでも、諦めない」
言い切る。
「“絶対ない”って、言ったはずだよ」
雪杜の喉が、鳴った。
「……」
御珠が、その言葉を受け取る。
「咲良が、そのように申すなら……
妾は、それを後押しするまで」
御珠が力強く続ける。
「咲良を笑う者など、妾が“黙らせる”」
その一言が、あまりにも軽々と言われたせいで、雪杜は背筋に冷たいものを感じた。
(……断らなくて、よかった)
本心だった。
「……わかった」
雪杜は、深く息を吸う。
「……二人とも、本気なんだってことは分かった。
ひとまず、その提案を受け入れる」
「!!」
咲良と御珠の目が、同時に見開かれる。
「ただし」
雪杜は、二人を見た。
逃げ場を与えないように、自分自身にも言い聞かせるように。
「僕は、納得していない」
咲良は、唇を噛む。
「……」
「……選ばされたまま、だから」
声は低く、はっきりとしていた。
「……“保留”だ」
言葉を置く。
「三人で、ちゃんと話し続ける」
さらに、重ねる。
「僕抜きで、もう決めない」
御珠が、ゆっくりと頷いた。
「……うむ。
それが、そなたの条件か」
咲良も、少し遅れて頷く。
「分かった。
雪杜抜きで、もう決めない」
「……よし」
雪杜は、大きく息を吐いた。
肩の力が、わずかに抜ける。
「じゃあ……今日は、ここまで」
立ち上がろうとした、その時だった。
「待って!」
咲良の声が、空気を切る。
「!?」
雪杜と御珠が、同時に振り返る。
「雪杜に、どうしても聞いておきたいことがあるの」
雪杜は、動きを止めた。
「……」
咲良は、一歩踏み出す。
「私のこと……
どう思ってる?」
咲良の問いが、畳の上に落ちる。




