第2話 入学式の前に、すでに
夏祭りの日。
澪と向き合ったあの時のことを、妾は忘れぬ。
「咲良を泣かせぬ」
そう口にした時、それは誓いだった。
神としての義務でも、世界の理でもない。
ただ一つ――咲良の涙は、妾自身の命よりも重いと、そう定めた。
だが、先を見れば見るほど、分かってしまう。
このまま進めば、咲良は泣く。
妾が雪杜を愛し続ける限り、咲良の恋は必ず傷つく。
三人全員が生き残る配置を、幾度も見渡した。
だが、どの道も、どこかで誰かが壊れる。
唯一、完全な破滅を避けられる形――
それが「表に咲良、裏に妾」という、歪な構造だった。
正しいとは思っておらぬ。
幸福だとも、思っておらぬ。
ただ、それ以外の道が、見えなかった。
妾は戸籍を持たぬ。
人として学校に通えるのも、中学までと思っておる。
いずれ雪杜の人生から、静かに外れる存在になる。
それは最初から、覚悟していたことだ。
「家で待つ側」になる未来も、想定の内だった。
だからこそ、咲良を“表”に立たせねばならなかった。
妾が前に出続ければ、いずれ咲良は耐えきれぬ。
嫉妬が、消えたわけではない。
咲良が雪杜の隣に立つ姿を思い浮かべるたび、胸は軋む。
それでも――
その痛みを、選んだ。
咲良は、もはや守るだけの存在ではない。
雪杜と同じ高さに立つ、対等な存在だと認めておる。
一度、身を引く。
その後も、妾は目立たぬよう振る舞う。
言葉も、態度も、雪杜への感情も、意識して抑える。
それだけのことだ。
では、いつ引くか。
小学校で別れるのは、不自然がすぎる。
春休みが、一番静かだ。
次に、咲良をいつ前に出すか。
雪杜は人の目を集めやすい。
時間をかければ、他の女子が動くやもしれぬ。
妾はもう、前に出て止めることはできぬ。
咲良には、速やかに“立場”を与える必要があった。
すべてを、一度に動かすしかない。
この話を雪杜にすれば、必ず拒まれる。
「御珠が一番」と言うであろう。
それを聞いた上で突き進めるほど、妾は強くはなれぬ。
だから、内密に進めることを選んだ。
卑怯だと、自覚しておる。
咲良が素直に想いを伝えても、雪杜は受け入れぬ。
咲良を悲しませたくないという、あやつの優しさを――
結果として、利用する。
それでも、断られる可能性はある。
その時は、その選択を受け入れる覚悟もある。
ただ、何もしなければ、必ず誰かが泣く。
咲良と、言葉を交わす必要があった。
そのための口実として、妾はスマホを欲した。
手に入れたその日、最初に言葉を向けたのは、咲良だ。
その場の空気だけでは、足りぬかもしれぬ。
颯太、莉子、駆にも協力を頼むことにした。
伝えることは、最小限。
妾は外国の人間で、中学いっぱいで帰る予定だということ。
もう前に出て、雪杜を引き留められぬということ。
咲良は雪杜を想っておるが、静かに想いを告げても、受け入れられぬであろうこと。
だから――
少しだけ、背中を押してほしい。
雪杜が前を向くきっかけを、作ってほしい。
それが、「雪杜に幸せになってほしい」という、妾の願いだと伝えた。
すべては話していない。
なぜ、そこまでせねばならぬのかも。
妾が、何を引き受けようとしているのかも。
それでも。
彼らなら、動いてしまうだろうと分かっていた。
それは、優しさゆえではない。
「それくらいなら、やってもいい」
そう思える理由だけを、渡すからだ。
雪杜は、きっと怒る。
それでも構わぬ。
これは、誰かを守るために、妾が嫌われる選択だ。
――許してほしいとは、言えぬな。
ただ、これで三人が生き延びられるなら。
妾は、悪役で構わぬ。
―――
あの日。
お母さんと向き合ってから、御珠ちゃんは明らかに変わった。
前みたいに、前へ出なくなった。
雪杜の隣に、立たなくなった。
理由は、聞かなくても分かる。
御珠ちゃんは、約束を破らない。
きっと、「私を泣かせない」と決めたんだ。
御珠ちゃんは、私だけじゃなく、私の恋そのものを、守ろうとしている気がした。
それが、少し怖くて。
少し、嬉しかった。
……でも。
それで、私はどうするの?
このまま、守られるだけでいいの?
雪杜を、“譲られる側”になっていいの?
御珠ちゃんは、きっと考えている。
私を表に立たせて、自分は裏に回って、家で待って、甘やかす側になる。
それは、優しさだ。
分かっている。
でも――それで、私は納得できるの?
胸の奥に、言葉にならない違和感が浮かんだ。
最初は、それが何なのか分からなかった。
「おさがり」みたいで、嫌だ。
――そう思ってしまったことに、少し遅れて、胸が痛んだ。
御珠ちゃんが、どんな覚悟で身を引こうとしているか、分かっているつもりだったから。
でも。
それでも。
正直な気持ちだった。
眷属になった時点で、私はもう、普通の恋から外れている。
それでも。
だからこそ。
ちゃんと“選ばれる側”に、立ちたかった。
表向きだけでもいい。
誰がどう見ても、私が雪杜の“彼女”だと分かる場所に立つ。
それを、誰かに与えられるんじゃなくて、自分で選ぼうと決めた。
御珠ちゃんから、連絡が来るのは分かっていた。
待っていたわけじゃない。
でも、心のどこかで、準備はしていた。
――ほら。
やっぱり来た。
話さなくても、考えていることは同じだった。
驚くほど、同じ方向を向いていた。
皆の前で、告白する。
静かな場所じゃ駄目。
曖昧な形じゃ、意味がない。
この一瞬で、クラスの空気を決めてしまう。
「天野雪杜は、春原咲良の彼氏」
そう認識させる。
それが、御珠ちゃんに身を引かせる、唯一の方法だった。
……でも。
このやり方で、一番傷つくのは、たぶん、雪杜だ。
私は、雪杜の気持ちを、ちゃんと聞いたことがあっただろうか。
優しいから。
断れないから。
だから、受け入れてくれるだろうと――
どこかで、思っていた。
それは、恋じゃない。
甘えだ。
分かっている。
分かっているけど、それでも、進むしかなかった。
雪杜……。
騙すみたいな形になって、ごめんね。
でも。
この場所に立つ覚悟だけは、本物だと、信じてほしい。
―――
バレンタインデーに、私は颯太に告白した。
正直、勢いだったと思う。
ずっと好きだったし、タイミングも逃したくなかった。
でも、返事はすぐにもらえなかった。
「時間をくれ」って言われて、分かってるつもりでも、ちょっとだけ不安になった。
卒業式の日。
天野ファミリーが解散した。
なんだか胸が、きゅっとした。
あの六人、ずっと一緒にいる気がしてたから。
このまま、中学になっても同じだと思ってた。
御珠ちゃんの理由は最もだった。
少しだけ、泣いちゃった。
でも。
その日の帰り道で、颯太に呼び止められた。
告白された。
付き合うことになった。
一気に、世界が明るくなった。
教科書を一緒に買いに行って、帰りに手をつないだ。
手汗とか、気になってどうしていいか分からなかったけど、それでも、すごく楽しかった。
全部が、順番通りだった。
全部が、普通だった。
だから、幸せだった。
咲良には、本当に感謝している。
咲良がいなかったら、私は颯太と繋がれてなかった。
私たちの、キューピット。
ずっと、そう思ってる。
そんな中で、御珠ちゃんがスマホを買ったって聞いた。
へぇ、って思った。
新しいおもちゃかな、くらいの気持ちだった。
……そこに、電話が来た。
最初は、軽い話だと思った。
アプリの使い方かな、とか。
でも。
聞かされた言葉で、全部止まった。
御珠ちゃんが、雪杜くんと、別れるって。
びっくりした。
だって、あんなに仲良かったのに。
でも、少しだけ。
「ああ、やっぱり」
とも思った。
咲良は、ずっと雪杜のことが好きだった。
「私が二人を繋いだんだよ」
って前に言ってた時、ちょっとだけ寂しそうだった。
御珠ちゃんは外国の人で、中学いっぱいで帰っちゃうらしい。
だから、早めに別れるんだって。
……そうなんだ。
それなら、仕方ないよね。
恋って、終わることもある。
早い方が、後を引かないこともある。
私は、そうやって割り切った。
咲良には、颯太と繋いでもらった恩がある。
今度は、私が応援する番だ。
皆が幸せになれるなら、それが一番いい。
私は。
この選択が、誰かを傷つけるなんて――
考えもしなかった。
―――
バレンタインデーに、莉子から告白された。
正直、いきなりで頭が追いつかなかった。
嫌とかじゃなくて、ただ突然すぎた。
だから、「時間をくれ」って言った。
逃げたつもりはなかった。
でも今思えば、あれは一番楽な選択だったと思う。
それから、莉子のことを前より見るようになった。
あっ……目が合った。
あれ?
こんな顔してたっけ。
笑う時、ちょっと恥ずかしそうで。
なんか、めちゃくちゃ可愛い。
……やば。
なんで今まで気づかなかったんだろ。
修学旅行のことを思い出した。
あの時、もっとちゃんと見てたら、違ったかなって思った。
でも。
あれはあれで最高だった。
後悔じゃない。
そう自分に言い聞かせた。
卒業式で、天野ファミリーが解散した。
少し寂しかったけど、「さすが御珠だな」って思った。
あいつは、いつも一番先を見てる気がする。
俺には分からないことを、分かってる感じがして。
卒業式の帰り道。
莉子に告白した。
付き合うことになった。
初デートは、教科書を一緒に買いに行った。
教科書持って歩いてるだけなのに、めちゃくちゃデート感あってビビった。
これが彼女か……やば。
帰りに、手をつないだ。
手、あったかくて。
めちゃくちゃドキドキした。
雪杜よー。
お前、毎日こんな感じだったのか。
ちょっとだけ、羨ましくなった。
雪杜と友達になれて、ほんと良かったと思ってる。
あいつは優しい。
俺より、ずっと。
あと、あの神様。
ハチャメチャで、面白くて。
でも、全部分かってる感じがして。
そんな中で、御珠がスマホを買ったって聞いた。
へー、って思ってたら、電話がかかってきた。
外国人なんだって。
中学いっぱいで帰るらしい。
……そっか。
じゃあ、別れるのも仕方ないよな。
中学の間も付き合うの、アリなんじゃね?
って言ったら、
「別れる時に、悲しくなるから」
って言われた。
まぁ、そういうもんか。
大人っぽいな、って思った。
それから、「雪杜と咲良の幸せな姿を、見ておきたい」って言われた。
なんか、いじらしいじゃねーか。
あいつ、ほんとに雪杜のこと大事なんだなって思った。
雪杜は優しい。
咲良が普通に告白しても、御珠を優先するに決まってる。
だから。
ちょっと背中を押すくらい、いいだろって思った。
莉子と繋いでもらった縁もある。
恩返し、ってやつだ。
俺は、誰かを追い込んでるつもりなんて、これっぽっちもなかった。
ただ。
皆が丸く収まるなら、それが一番だと思っただけだ。
―――
俺は、いわゆる陰キャだと思う。
自分から輪に入るタイプじゃない。
ある日、突然、颯太に声をかけられた。
「うちの班に入らないか」って。
軽い感じだったけど、正直びっくりした。
こんな俺にも声をかけるんだな、って。
陽キャ、すげぇと思った。
まあ、断る理由もなかった。
入ってみたら、意外と居心地がよかった。
颯太には感謝している。
あのノリで引っ張ってくれなかったら、この時間はなかったと思う。
このグループ、見てて面白かった。
森川は、颯太しか見てない。
春原は……分かりやすすぎるくらい、天野が好きだった。
天野は、気づいてるのか、気づいてないのか分からない顔で。
御珠さんは、全部分かってる顔をしてた。
修学旅行の夜。
正直、暴露大会で天野に春原のことを聞いてみたかった。
でも、やめた。
聞いたら、たぶん、戻れなくなる気がした。
だから、黙って見てた。
それが一番、安全だと思った。
修学旅行では、写真をたくさん撮った。
笑ってる顔ばっかりだった。
青春だな、って思った。
俺には縁がないと思ってたやつ。
それでも。
俺も、この中に入ってるんだって思うと、この時間が、やけに大事に感じられた。
卒業式で、天野ファミリーは解散した。
そんな予感はひしひしとあった。
元の場所に戻るんだろうな、と思った。
少しだけ、寂しかった。
この一年は、たぶん、奇跡だったんだと思うことにした。
……そんなところに、御珠さんから、電話がかかってきた。
俺に?
って思った。
外国人で、中学いっぱいで帰る予定だって。
正直、めちゃくちゃ嘘くさいと思った。
でも、それ以上、聞かなかった。
理由を聞いたら、答えを受け取ってしまう気がしたから。
分からないままの方が、いいこともある。
中学でも、また、面白いものが見られるかもしれない。
俺は、そういう距離で、関わることにした。




