第1話 入学式の前に(挿絵あり)
春休み。
昼下がりの居間は、窓から差し込む光が少し眠たげで、時計の音だけがやけに大きく聞こえていた。
「妾も、自分用の“すまほ”が欲しいのじゃ」
唐突に落とされた言葉に、雪杜は一瞬きょとんとする。
「え、急にどうしたの?」
御珠は当たり前のような顔で続けた。
「そなたが日々眺めておる、白き布の“どうが”があるじゃろ?」
一拍。
雪杜の思考が、盛大に横滑りする。
「……服のレビュー動画かな」
苦し紛れの言い換えに、御珠は満足げにうなずいた。
「うむ。そういう解釈でもよい」
そして、少しだけ胸を張る。
「なぜ人は布一枚で、かくも心を躍らせるものなのか。
理の研究として、無視できぬ」
(ひでー研究だ)
即座に心の中でツッコミを入れつつ、雪杜はため息混じりに聞き返す。
「本当は?」
御珠は一瞬だけ視線を逸らし、次の瞬間、急に砕けた。
「すまほ欲しいのじゃー。
妾もしゅっしゅしゅっしゅと画面を撫でたいのじゃー」
さっきまでの学術的態度は、きれいさっぱり消えていた。
「はぁ……研究とか適当なこと言う前に、普通にそう言ってよ……。
分かったよ。おじいちゃんに聞いてみる」
御珠は、すかさずもっともらしい理由を重ねる。
「中学ともなれば、連絡手段も必要じゃろう?」
「まあ……それは、そうだな」
修学旅行の時のことが、ふと頭をよぎる。
あの時みたいに、またはぐれることがないとは限らない。
そう考えると、反対する理由はなかった。
祖父に話を振ると、返事は思ったよりも早かった。
「春休みのうちに用意しとくのは悪くないな」
「よかったね。御珠」
「うむ!では決まりじゃな。
妾、文明に触れる」
(言い方が大げさだなぁ……)
こうして三人は、揃って携帯ショップへ向かった。
―――
店内は明るく、見慣れない機種が整然と並んでいる。
雪杜は端末を手に取りながら聞いた。
「色、どうする?」
「白じゃ」
即答だった。
「即答だ……」
「雪杜がよく見ておる色じゃ。
ならば、きっと間違いない」
(……僕そんな白のパンツばっかり見てたかな)
余計な思考を必死に追い払いながら、説明を受けていると、横から当然のように質問が飛ぶ。
「“らいん”は使えるかえ?」
「もう、アプリの名前は知ってるんだ」
「ふふ。
妾も学習する存在なのじゃ」
(学習の方向が怖いんだけど……)
そうして手続きは無事に終わった。
箱から取り出された端末を、御珠は両手で受け取り、じっと見つめる。
言葉を失ったように、しばらく黙っていた。
「……そんなに緊張する?」
「世界が、一つ増えた気がしての」
「大げさだって」
御珠は小さく笑った。
「さて……妾なりの、研究を始めるとするかの」
(……研究の方向、軌道修正してほしいな)
雪杜はそう思いながら、画面が点灯するのを横目で見守っていた。
スマホを手にした御珠は、しばらく画面から目を離さなかった。
指先で触れるたび、世界が軽く震えるような感覚がある。
さっそく開かれたのは、かつて毎日のように通知が飛び交い、今も完全には止まっていない、元・天野ファミリーのグループチャットだった。
御珠:スマホを購入したよ
颯太:ついに御珠っちも文明人か!
莉子:おめでとう!
駆:設定とか分からなかったら言って
咲良:おめでとう!ちゃんと使えてる?
雪杜:あんま変なこと教えないで……
次々と並ぶ名前と短い言葉。
それを、御珠は少しだけ目を細めて眺める。
画面を見つめながら、口元がわずかに緩んだ。
文字のやり取りなのに、声が浮かぶ。
調子のいい声、遠慮がちな声、淡々とした声。
(……皆、変わらぬな)
それが、少しだけ嬉しかった。
―――
夜。
雪杜が風呂に入っている間、家の中は一時的に静まり返る。
湯の流れる音だけが、遠くでかすかに聞こえていた。
御珠は、ひとつの名前を選び、個別チャットを開く。
御珠:相談があるのじゃ
咲良:待ってた。雪杜のこと、だよね
御珠:気づいておったか
御珠:いま、雪杜は風呂に入っておる
咲良:うん
御珠:文では足りぬ。後のことは、電話で話そう
既読がつくのを確認してから、御珠は迷いなく通話ボタンを押した。
「……もしもし」
少しだけ、間を置いた声。
「急ですまぬな」
「大丈夫。
私も、話したいと思ってた」
声の温度は落ち着いている。
だが、互いに無駄な前置きはしなかった。
「ならば、手短に済まそう」
一呼吸。
「――中学で、動く」
「……うん」
迷いのない返事。
「私も、そのつもり」
「雪杜には、まだ言わぬ」
「分かってる」
言葉が短くなる。
それでも、意味は正確に届いていた。
「これは、守るためじゃ」
「奪うためではない」
「……知ってるよ」
そこで、短い沈黙が落ちる。
通話越しでも、互いの呼吸が分かる距離だった。
「御珠ちゃん」
「何じゃ」
「一人で背負わないで」
一瞬、言葉が詰まる気配。
「……善処しよう」
それ以上は、続かなかった。
―――
通話が切れ、画面が静かに暗転する。
御珠はスマホを閉じ、そのまま少しだけ動かずにいた。
(これでよい。
まだ、踏み込む時ではない)
指先に残る、微かな熱。
(さて、あやつらにも協力を頼まねばな)
そう呟くように心の中で整理してから、御珠は再び画面を開いた。
―――
新しい制服に身を包み、雪杜は鏡の前に立っていた。
紺色のブレザーは、まだ少し硬い。
肩のあたりが落ち着かなくて、無意識に背筋を伸ばしてしまう。
「……きょうから中学生か」
声に出してみると、思ったよりも実感があった。
後ろから、どこか満足げな気配がする。
「ふむ。馬子にも衣装とはこのことか。
似合っておるぞ」
「馬子って言うなよ……」
そう言い返しながらも、雪杜は少しだけ安心する。
見慣れた家の中で、見慣れない自分の姿。
それを“大丈夫”だと言ってもらえた気がした。
「制服とは良いものじゃな」
御珠が、興味深そうにブレザーを眺めている。
「御珠はどうするの?
さすがに巫女服じゃ通えないよ?」
「問題ない。
咲良に制服の写真を送ってもらっておるでの」
その言葉と同時に、空気がわずかに変わった。
藍色の光。
反射的に、雪杜は目を逸らす。
本当は凝視したいと思ってしまう。でも、反射で目を逸らす癖だけは、もうついていた。
次に目を向けた時、そこに立っていたのは――
紺色のブレザーに、チェックのスカートを身につけた御珠だった。
一瞬、言葉が出なかった。
見慣れたはずの顔。
初めてみるスカート姿。
「…………」
完全に、見惚れていた。
「なんじゃ?
惚れ直したか?」
からかうような声。
雪杜は、否定する間もなく、思わずうなずいてしまった。
「……な……!」
御珠の肩が、ぴくりと揺れる。
「そ、そなた……
朝から照れさせるでない……」
視線を逸らし、頬をわずかに赤らめる。
その反応が、制服姿と妙に噛み合っていて、余計に胸がざわついた。
「……似合ってるよ」
ぽつりと、遅れて出た本音。
御珠はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、少しだけ歩調を早める。
そうして二人は、並んで玄関へ向かう。
扉を開けると、朝の空気が流れ込んできた。
まだ冷たさの残る春の風。
これから始まる新生活。
その入口に立っている、という実感が、ようやく胸に落ちてくる。
雪杜は靴を履きながら、ふと横を見る。
制服姿の御珠が、そこにいる。
――大丈夫だ。
そう思えた。
二人は並んで、玄関を出た。
―――
学校へ向かう道は、小学校の頃とほとんど同じはずなのに、今日はやけに広く感じた。
制服姿の生徒が、あちこちから流れ込んでくる。
見覚えのある顔もあれば、まったく知らない顔もある。
話し方の違う声。
知らない笑い方。
ランドセルではなく、揃いの鞄。
(……こんなに、いたっけ)
雪杜は、無意識に周囲を見渡していた。
隣を歩くのは、知らない誰かだった。
視線が合いそうになって、どちらからともなく逸らした。
「校舎も、でかいね」
思わず漏れた声に、御珠が視線を向ける。
「人も多いね。
クラスも、増えるんだろうね」
その言い方に、雪杜は一瞬だけドキっとする。
――でも、すぐに思い直した。
最近の御珠は、場に合わせて、ちゃんと声を選ぶ。
校舎は、新しくも古くもない。
ただ、数だけが増えた世界。
玄関前には、お互い背丈が揃わない、制服に着られているような姿が並び、どこかよそよそしい空気が漂っていた。
その中に、自分たちも混ざっている。
「……行こうか」
雪杜がそう言うと、御珠は小さくうなずいた。
人の流れに押されるように、二人は校舎へ入っていく。
知らない場所。
知らない人間関係。
まだ何も起きていないのに、胸の奥が少しだけ重くなる。
(ここから、始まるんだ)
そう思った瞬間、入学式の案内放送が、校内に響いた。
―――
校舎に入ると、案内に従って教室へ向かう。
廊下を歩く足取りは揃わず、視線だけがきょろきょろと忙しい。
教室には、もう何人か集まっていた。
知らない顔。
どこか落ち着かない立ち方。
席は仮決めらしく、空いているところに適当に腰を下ろす。
雪杜も、周囲を見渡しながら座った。
(……本当に、知らない人が増えたな)
そんなことを思っていると、教室の入口から、はっきりした足音が近づいてきた。
「はい、おはようございます」
担任らしい女性が顔を出す。
まだ詳しい自己紹介もないまま、手短に告げた。
「すぐ入学式が始まるので、体育館に移動します。
案内するから、静かについてきてね」
ざわっとした空気が、一気に動き出す。
立ち上がる音。
椅子の擦れる音。
列になって歩きながら、雪杜は前の方に見える背中に目を留めた。
澄香だった。
背筋を伸ばし、迷いのない歩き方。
周囲を自然に気遣いながら、列の流れを整えている。
(……ああ)
中学生になっても、きっとこうやって前に立つんだろう。
体育館に入ると、空気が変わった。
広くて、静かで、少しだけ冷たい。
やがて始まった式の中で、新入生代表の名前が呼ばれる。
澄香が、迷いなく壇上に立った。
張りのある声。
淀みのない言葉。
小学校の時と変わらない――
いや、少しだけ、大人びた姿。
(委員長ぶり、健在だな)
そう思わされる、見事な挨拶だった。
式が終わり、生徒たちは再び教室へ戻っていく。
ぞろぞろとした人の流れ。
少し緩んだ空気。
そして――
見慣れない机。
見慣れない椅子。
床に反射する春の光。
まだ落ち着かない教室の空気が、そのまま、そこに広がっていた。
―――
「はい。じゃあ改めて自己紹介するわね」
教壇に立った担任が、にこやかに名乗った。
「担任の高橋 美咲です。三年間……になるかは分からないけど、よろしくね」
その瞬間、どこからともなく軽い声が飛ぶ。
「はーい!先生は彼氏いますかー!」
中学特有の、試し撃ちみたいな悪ノリ。
教室がざわっと揺れる。
「はい。います。残念でした」
間髪入れず、担任は切り返した。
「先生をおちょくると、怖い彼氏が飛んできますので覚悟してください」
一瞬の静寂。
次の瞬間、笑いとどよめきが広がった。
「ではせっかくなので、皆さんに自己紹介してもらいましょうか。
変に気負わなくていいからね。名簿順でいいかしら。じゃあ赤沢君からお願い」
そこからは、流れるように名前が続いていく。
「天野 雪杜です」
「金田 颯太だ」
「如月 澄香です」
「佐藤 駆」
「春原 咲良です」
「真壁 透です」
「御珠 ミタマです」
「森川 莉子です」
奇跡的、と言っていい。
小学生時代の主要メンバーが、ほぼそのまま同じクラスに揃っていた。
雪杜はすぐに、御珠の“何か”が働いたのだと気づいた。
だが、その理由を知らない者たちも、どこか出来すぎた配置だとは感じていた。
「じゃあ今日はここまでね」
担任は手早くまとめる。
「明日は普通に登校するけどほぼ授業はないから。
いろんな説明や書いてもらうものが沢山あるけど頑張ってください」
そう言い残して、教室を出ていった。
途端に、空気が緩む。
椅子が鳴り、鞄が開き、あちこちで小さな会話が生まれる。
その直後だった。
「天野くん!!」
張りのある声が、教室を貫いた。
一斉に視線が集まる。
「……え?」
雪杜は、間の抜けた声しか出せなかった。
咲良が一歩前に出る。
背筋を伸ばし、深呼吸。
その動作だけで、空気が変わる。
「付き合ってください!!」
教室が、完全に凍りついた。
(え?
え??
入学式って、こういう日だっけ???)
頭の中が追いつかない。
「さ、さくら……?
え、ちょ、ま――」
言い終わる前に、横から声が飛ぶ。
「おぉー!!」
颯太だった。
迷いのない、完全に煽る声。
「がんばれ咲良ちゃん!」
莉子も続く。
声は小さいのに、妙に的確だ。
「……逃げ場、なくなったな」
駆が、事実だけを静かに突き刺す。
「え!?
ちょ、なんでみんなそんなノリなの!?」
雪杜の叫びは、教室のざわめきに飲み込まれる。
「え、天野って御珠ちゃんと――」
「伴侶とか言ってなかった?」
「別れたの?」
「え!?
別れてないけど!?」
その瞬間。
「別れた」
御珠の声が落ちた。
真顔。
説明なし。
ただの断定。
「え!?!?
いつの間に!?」
答えは返ってこない。
(あ、これ……
なんかやられてる)
遅れて理解が追いつく。
「……私じゃ、ダメかな……」
咲良の声が、わずかに震える。
視線が落ちる。
(うわぁ……
ここで断ったら、咲良が三年間笑い者に……)
「雪杜~、男だろ~」
颯太が肩を叩くような声を出す。
「泣かせるなよー」
駆が追撃する。
「咲良、頑張って」
莉子が、最後の一押しを置く。
「……あ、あの……
少し考える時間――」
言いかけた瞬間、視線を感じた。
顔を上げると、御珠と目が合う。
何も言わない。
止めもしない。
ただ、静かに見ている。
(……ああ)
そこで、ようやく分かった。
(これ……御珠も、分かっててやってるのか)
教室の空気。
咲良の表情。
周囲の視線。
逃げ道は、もうない。
雪杜は、わずかに視線を動かす。
問いかけるように。
(……いいんだね?)
御珠は、ほんの小さくうなずいた。
それだけで、十分だった。
雪杜は一度だけ息を吸い、覚悟を決める。
「……はい……
よろしく、お願いします……」
一瞬、教室が静まり返る。
「……っ!」
咲良が息を詰める。
次の瞬間。
「「やったー!!」」
颯太と莉子が同時に跳ねた。
拍手が起き、祝福の声が飛ぶ。
雪杜は、立ったまま。
魂が半分、抜けたような感覚だった。
(中学……
始まったばっかりだよな……?)
こうして、波乱の中学生活が幕を開けた。




