【幕間】ある担任の回想
七月の始め。
一年の中でも、いちばん中途半端で、暑さと冷房の境目に集中がほどけやすい時期だ。
正直に言うと――
あのクラスを任された瞬間、俺は「運が悪い」と思った。
前の担任が、途中で壊れた。
精神的に、だ。
発狂、という言葉が一番近い。
教師っていうのは、つくづく妙な仕事だと思う。
他人の人生の途中に、いきなり放り込まれる。
それまで積み上がってきたものも、壊れたものも、全部まとめて引き受けて、平然と言う。
――はい、今日から通常運転。
壊れた後の教室を引き継いで、昨日までの続きのふりをして授業を始める。
それが仕事だ。
……で、その崩壊と一緒に。
天野雪杜は、学校に来なくなった。
引きこもり、ってやつだ。
正直――
ほっとした。
問題児だって聞いていたからな。
火種が最初から教室に無い。
教師としては楽だった。
少なくとも、その時の俺はそう思っていた。
今なら分かる。
それは「解決」じゃなくて、ただ「見えなくなった」だけだった。
壊れた教師と、教室から消えた生徒。
どっちも、真正面から向き合わなきゃいけなかったのに。
……この時の俺はまだ分かってなかった。
天野が「問題」なんじゃない。
天野の周りに、問題が集まってくるんだ、ってことをな。
まあ、この時点では――
ただのよくある四年生のクラスだった。
少なくとも、俺はそう信じていた。
―――
職員室の朝は、いつも同じ匂いがする。
コピー機の熱、インク、古い紙。
始業前の職員室全体が、落ち着かないのに妙に静まり返っている。
プリントの束を整理していると、視界の端に小さな影が立った。
「……ん?どうした?」
顔を上げると、そこにいたのは見覚えのない子どもだった。
「理由あって、雪杜のところに居候しておる。
きょうから世話になるのじゃ」
……は?
一瞬、思考が止まった。
「えっと……何年、何組の子かな?」
心の中では、別の声が暴れていた。
え、のじゃ?
何だこいつ?
てかなんで巫女装束?
それ、普段着なのか?
雪杜って誰だ?
たった一言話しただけなのに、情報が多すぎる。
名簿をめくる。
指先が、勝手に動く。
……天野 雪杜。
ああ……あの子か。
今は、引きこもってる……
「……保護者の方は?」
「雪杜の祖父じゃ。
きょうは来ておらぬ」
うーん。
居候してるなら、そうなるのか?
……いや。
転校初日に、一人で職員室に堂々と来るか?
理屈としては、通らなくもない。
だから余計に、厄介だった。
改めて、その子を見る。
……おかしい。
確かに言動は変だ。
服も、髪も、喋り方も。
浮いている。明らかに。
でも――
“頭がおかしい子”の目じゃない。
「ぬしが担任か。
なら話は早い」
……なんか、そんな話を聞いていた気がする。
言葉が詰まる。
……あれ?
聞いてたっけ?
いつ?誰から?
教頭?教務?
……まぁいいか。
「名簿にも……あるな。御珠 ミタマ?
名字と名前が一緒なのか」
「うむ。
それが一番自然じゃろう」
自然って何だよ。
……いや、でも。
なんか、自然……?
頭の中で違和感が渦を巻く。
掴もうとすると、すり抜ける。
「えーっと……
じゃあ紹介するから、教室に一緒に行こうか」
「うむ。よろしくなのじゃ」
「……よろしくな」
そう言って、俺はその子と並んで職員室を出た。
今思えば――
あの辺りから、記憶が曖昧だ。
思い出そうとすると、出来事の「意味」が削れて、輪郭が残る。
……たぶん、勘違いだ。
そうやって、当時の俺は片付けた。
だが――
あいつは、とんでもない曲者だった。
―――
朝の教室には、ざわめきが始まる前の静けさがある。
ざわめきの直前、何かが起きると分かっているときの、嫌な予感が床に落ちている。
教室に入るなり、そいつは言い放った。
「妾は雪杜のところに住んでおる!
うらやましかろう!」
一瞬で、教室がひっくり返った。
悲鳴。
歓声。
嫉妬。
理解より先に、感情が爆発する音だった。
「……おい、お前ら、落ち着けって……」
自分の声が、やけに薄く聞こえたのを覚えている。
給食の時間になると、教室が妙に張りつめた。
嵐の前、というやつだ。
「“いただきます”は命と命の縁結び。
ここにおる者たちの命は、互いに循環する」
スプーンを持つ手が止まる。
咀嚼の音が、消える。
「石田よ。ぬしは、何を見ておる?」
教室が、完全に静まり返った。
何なんだ、こいつは。
とにかく、全部が突拍子もない。
理屈が通らない。
子どもとして扱えば危険で、大人として扱うには、何かが決定的に足りない。
視線が天野に向く。
逃げ場のない中心。
燃えやすいくせに、自分が燃えていることに気づいていない。
次に、御珠を見る。
その隣に張り付くやつ。
近すぎる。
強すぎる。
……しかも、本人に悪意がない。
ただでさえ、天野という火種を抱えているのに。
問題児同士がくっついた。
この組み合わせは、危険すぎる。
俺は――
五年になっても、こいつらの担任を受け持つのか……。
―――
……それからもクソ生意気な態度は続いた。
口調も、行動も、相変わらずだ。
だが、不思議と。
天野のそばに置いておけば、大人しかった。
理由は分からない。
距離を離すと危うく、隣にいれば妙に落ち着いていた。
そして二学期に入ると――
あいつは、いなくなった。
転校だったか。
療養だったか。
理由は……覚えていない。
本当に、曖昧だ。
思い出そうとすると、
霧がかかったようになる。
出来事そのものより、「終わった」という感触が先に立つ。
「ああ、そうだったな」
そんな気持ちが、胸の底に残っている。
……二学期の終わり。
事件が起きた。
……はずだ。
記憶が、はっきりしない。
目を向けたときには、春原が倒れていて、教室中のみんながぼうっとしていた。
まるで、長い夢から一斉に覚めたようだった。
他の教室の先生が異変を察知して駆けつけてきた。
いろいろ取りなしてくれた。
俺は校長直々に叱られた。
結論はこうだ。
集団催眠にでもかかったのだろう、ってことにされた。
……そんなことありえるのか?
今でもそう思う。
―――
三学期、戻ってきたと思ったら――
いきなりだった。
「妾は雪杜の伴侶じゃ!」
教室はてんやわんやになった。
……正直に言う。
頭が追いつかなかった。
小学生だぞ。
しかも、よりにもよって――あの二人だ。
ざわめき。
笑い。
怒号になりかけた声。
委員長の赤面。
全部覚えている。
収拾がつかなくなると思った。
いや「壊れる」と思った。
クラスってのはそういうもんだ。
一個の爆弾で簡単に崩れる。
……だが。
壊れなかった。
むしろ――
まとまっていった。
笑い話に変えようとする者もいれば、真正面から怒る者もいる。
距離を取る者、黙って様子を見る者――全員が自分のやり方で受け止め始めた。
一ヶ月後。
「咲良は妾の家族となった」
二発目が来た。
もう、驚きはしなかった。
呆れもしなかった。
……覚悟の種類が違う、と分かったからだ。
伴侶。
家族。
どちらも軽くない言葉だ。
子どもが使うにはあまりに重い。
御珠は逃げなかった。
天野も、春原も、巻き込まれたように見えたが、視線は逸らさなかった。
だから教室も前を向いた。
騒ぎはあった。
衝突もあった。
甘い話では済まない場面も、確かにあった。
それでも、誰も投げ出さなかった。
……不思議な話だ。
子どもってのは、大人が思っているよりずっとしぶとい。
覚悟を見せられると、「自分の立ち位置」を探し始める。
壊れなかった理由はそこだ。
誰かが「全部決めた」わけじゃない。
それぞれが選んだ。
だから教室は続いた。
教師としては……
まあ、胃は痛かったがな。
思わず小さく笑う。
でも――
この三学期を「間違いだった」とは思わない。
むしろ。
大事なものを見せてもらった。
形が変わっても関係は続く。
その一例をこの教室はやってのけた。
黒板を見る。
もう消された文字の跡が、うっすら残っている。
……卒業まで、最後まで見届けるか。
面倒で、やっかいで――
悪くないクラスだ。
―――
修学旅行の日、天野と春原が乗り遅れた。
引率の教師としては最悪だ。
時間、人数、安全――全部が一気に崩れる。
なのに――
妙に胸の奥が静かだった。
北斗駅であいつと二人きりになった。
ベンチには座らない。
ホームに立ちっぱなし。
落ち着け、と言っても聞く耳を持たない。
……なんなんだ、この子どもは。
思わず口をついて出た。
「お前はいったい、何者なんだ?」
次の瞬間、「黙れ」とものすごい形相で睨まれた。
正直、ビビった。
小学生だぞ?
おかしいだろ。
でも――
あれは、威嚇じゃなかった。
触れるな、という線引きだった。
結局、俺たちは言葉を選んだ。
深入りしない。
邪魔をしない。
その二つを約束した。
……なんとか。
卒業まで、持ちこたえてくれ。
―――
その夜、宿で言われた。
「甘い教師よの」
……かもな。
でもな。
怒鳴って、叱って、潰すことは簡単だ。
簡単だからこそ――それをやったら、思い出まで一緒に潰れる。
皆が静まり返って注目する中、言ってやった。
「……お前らに“あの時の修学旅行、最高だったな”って……
未来で思ってほしいだけだよ」
未来で、ふと思い出してくれりゃ、それでいい。
それで十分だ。
今日の面倒も、胃痛も、全部報われる。
……あの夜からだ。
俺が「教師」じゃなくて――
「見届け役」になったのは。
―――
二学期に入ると、急に……大人しくなった。
騒がない。
前に出ない。
仕切らない。
「のじゃ」も、やめたらしい。
最初はな。
正直、ほっとした。
問題児が静かになる。
教師的には楽だ。
……でもな。
すぐに気づいた。
これは「落ち着いた」んじゃない。
「引いた」んだ。
一歩、下がって。
全部を見渡せる位置に立ってる。
出しゃばらない。
守るけど、奪わない。
……正直、少し怖かった。
子どもが選ぶ距離感じゃない。
覚悟を知ってる目をしていた。
俺は理由を聞かなかった。
もうすぐ卒業だ。
ここで踏み込むのは違うと思った。
だから俺は、黒板の前に立って、いつも通り授業をした。
それが――
俺にできる最大の協力だった。
―――
……そして、今日だ。
卒業式。
……だめだ。
なんだかんだで……可愛い。
鼻で笑いかけて、そのまま言葉が詰まる。
手のかかる子ほど可愛いってのは本当だったな。
クソ生意気で、
理屈こねて、
問題ばっかり起こして。
毎日、頭を抱えさせられた。
……でもな。
今になって思えば、振り回されるのも……悪くなかった。
俺は――
なんで教師になったかを思い出した。
力で押さえつけるだけの大人に、なりたくなかった。
正しさを盾に、子どもを黙らせる側には行きたくなかった。
無邪気で、
うるさくて、
面倒で。
それでも、前を向く子どもを……見たかったんだ。
……いつしか、
何も言わないことを「大人」だと、勘違いしてた。
踏み込まないことが、優しさだと思ってた。
でも――
このクラスは、違った。
御珠を中心に、
面倒くさくて、
騒がしくて。
でも……キラキラしてた。
俺が見たかったのは……これだ。
お前らみたいな時間だった。
……好きだよ。
お前らが。
……行け。
中学に行っても、
好き勝手、やれ。
なんだお前ら。
泣くなよ。
……なんだ……俺が一番、泣いてるのか。
卒業、おめでとう。
ここまで読んでいただき本当にありがとうございます。
御珠と雪杜の人生は、ここからが本番です。
中学校編もお楽しみください。
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