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神愛 ─ 永遠の刹那 ─  作者: 神愛
第1章 小学生編
33/70

第28話 形が変わる日

「あおーげばーとおーとしー……」


卒業式の歌声が、体育館いっぱいに広がっている。

どこか遠くで揺れているようで、現実感が薄い。


ここまで来たんだな、とぼんやり思った。


いろんなことがあった。

運動会。

文化祭での合唱。

誕生日を祝ったり祝われたり。

クリスマスと、お正月。


どれも、その時は当たり前のように過ぎていったのに、今になって思い返すと、ひとつひとつが確かに残っている。


歌に引かれるように、その中でもひときわ鮮明な記憶が浮かび上がった。


(……そういえば)


二月。

教室に、妙に甘い匂いが漂っていた日。


理由は誰も説明しないのに、女子は落ち着きなく席を立って、男子は全員なぜかそわそわしていた。


颯太は、その日もいつも通りだった。

うるさくて、調子がよくて、何も考えてなさそうで。


「なぁ雪杜!

 チョコってさ、義理でも十個もらえたら勝ち組だよな!?」


そう言って、いつものように笑っていた。


その時だった。


「……颯太」


莉子の声。

声がかすかに震えていた。


「ちょっと来てくれる……?」


颯太は眉を寄せて、「おう、行ってくる」と軽く言い残し、莉子の後を追った。


戻ってきた颯太は、さっきまでと同じはずなのに、どこか違って見えた。

背筋がわずかに伸びていて、口を開きかけては飲み込む――そんな様子だった。


(……ああ)


莉子、ついに伝えたんだな、って。

すぐに分かった。


冷やかしてやろうかとも思ったけど、颯太の目を見て、それは違うな、と思ってやめておいた。


その日から、颯太は少し変わった。


莉子と目が合うと、一瞬だけ黙って、言葉を探すようになった。


冗談で、全部を誤魔化さなくなった。


(今なら、分かる)


あれは、颯太が“誰かの気持ちを背負わされた日”だった。


子どもでいられなくなった、最初の日。


歌声が、またはっきり耳に戻ってくる。


(……もう, 戻れないんだな)


でも、不思議と怖くはなかった。


(ちゃんと進んでる)


そう思えた。


―――


莉子の一件を境に、何かが音を立てて変わったわけじゃない。


ただ――

戻らなくなった。


颯太は、相変わらずうるさかった。

教室でも、廊下でも、前と同じ調子で笑っていた。


でも、時々。

急に、黙るようになった。


ふざけたあとで、

「……あ、いや、なんでもない」

そう言って、話を切り上げることが増えた。


冗談で押し切らなくなった、という方が近い。


駆は、前から落ち着いていたけど、冬に入ってからは、みんなの写真をやけに丁寧に撮るようになった。

撮っている時間より、あとで画面を眺めている時間の方が長かった。


御珠は、いちばん変わった。


隣には、ずっといた。

声も、表情も、優しかった。


でも、前のように前へ出なくなった。


騒がない。

仕切らない。

「妾がやる」と言わない。


気づいたら、言葉の端から「のじゃ」が消えていた。


最初は聞き間違いかと思った。

でも、それは一度きりじゃなかった。


「大丈夫?」

「無理しなくていい」

「行こう。もうすぐ始まるよ」


どれも、ありふれた言葉。


神様めいた言い方をしなくなっていた。


……昔、

『そなたらが変わり、妾だけ変わらぬ』

そんなことを言っていたのを、ふと思い出した。


じゃあ、今のこれは何なんだろう、と。


理由は聞かなかった。


聞けば、きっと真っすぐ答えてくれるんだろう。


だから、今は聞かないことを選んだ。


咲良は……

前より、御珠を振り返らなくなった。


前なら、何かあるたびに御珠の様子をうかがって、僕の反応を確かめるようなことをしていた。

でも、それをしなくなった。


友達として話しかけてくるし、いつも通り触れてもくる。

ただ、そこに色恋を滲ませることはなくなった。


(……ああ)


たぶん、咲良は御珠が変わったことに一番早く気づいていた。

御珠の変化に何か思うところがあって、それに合わせたんだと思う。


僕は……何か変わっただろうか。

誰かの視線に怯えることは減ったけど、ただ流されるままの性格は変わっていない。

僕にも変化が必要なんだろうか。


澄香は、いつの間にか「児童会長」として呼ばれることの方が増えていた。

前のように感情で突っ走ることは減って、その分、言葉を選ぶようになっていた。


透は、その少し後ろにいることが多かった。

口数は変わらないけど、澄香が立ち止まると自然に隣にいる。


二人とも、それぞれ自分の場所に立っているように見えた。


いつの間にか僕たち全員が、同じ場所にいながら、少しずつ違う方向へ歩き始めていた。


体育館の歌声が、はっきりと耳に戻ってくる。


「いまーこそーわかーれめー……

 いざーさーらばー」


天野ファミリーとして集まるのも、たぶんこれが最後。


そんな予感が胸の奥にあった。


(……でも)


終わりじゃない、ってことだけは、なぜか分かっていた。


―――


卒業式が終わって教室に戻ると、みんなで卒業アルバムを広げた。


名前を書いて、一言だけ、冗談みたいなことを書いて、それを順番に回していく。


「またゲームしような」

「中学でも同じクラスになれたらいいな」

「宿題、見せ合おうぜ」


どれも、“別れ”って言葉をわざと避けたような文章ばかりだった。


全員、同じ中学に進学することが決まっている。

だから本当の意味での別れじゃない。


明日から急に会えなくなるわけでもないし、電車に乗って遠くへ行く人もいない。


そのせいか、教室の笑い声は思っていたより軽かった。


……ただ一人を除いて。


石田先生だけが、完全に駄目だった。


教卓に肘をついたまま、顔をぐしゃぐしゃにして、声を殺すこともできずに泣いていた。


「お前ら……っ

 中学行っても……ちゃんと……」


言葉にならない声で、何かを伝えようとしている。


それを見て、誰かが笑って、でも次の瞬間、その笑った子が泣いた。


あっという間だった。


「先生、泣きすぎ!」

「もらい泣きするって!」


そう言いながら、みんな慌てて目をこすっていた。


……ずるいと思った。

最後に一番泣くのが、先生だなんて。


『お前らにあの時の修学旅行、最高だったって未来で思ってほしいだけだ』


あんなかっこいいことを言える大人になりたいと思った。


ひと通り騒いで、ようやく落ち着いてきた頃。

もう帰ろうか、と誰かが言った。


胸の奥に、言葉にしにくい重さが残ったまま。


楽しかった。

区切りはついた。

でも、もう同じ形では集まらない。


そんな、一抹の寂しさを飲み込もうとした、その時だった。


御珠が静かに言った。


「……少し、時間をもらってもいい?」


声は大きくなかった。

でも、不思議と全員が聞いた。


「空き教室で話したい。

 みんな、来てくれる?」


理由は言わなかった。

それでも、誰も断らなかった。


顔を見合わせて、なんとなく頷いて、ランドセルを背負い直す。


廊下を歩く足音がやけに揃っている。


(……ああ)


この揃った足音。

たぶん――

最後だ。


空き教室の扉の前で、御珠が一度だけ振り返った。

口元の笑みが消えていて、目がまっすぐだった。


―――


誰も使っていない教室に入ると、机は端に寄せられていて、窓から午後の光が差し込んでいた。

さっきまでの賑やかさは、廊下の向こうに置いてきたようだった。


御珠は全員を見渡し、息を一つ整えた。


「……皆、よう集まってくれた」


のじゃモードの声だった。

落ち着いている。

けれど、指先がわずかに強張っているのを、雪杜だけが見ていた。


「天野ファミリーは――

 本日をもって、解散とする」


言い切り。

逃げ場のない言葉だった。


「……は?」


颯太の声は、笑いで流そうとして、途中で折れた。


「え……?

 ちょ、ちょっと待って……」


莉子の声が続く。


「理由は、簡単じゃ」


御珠は深く息を吸った。


「ぬしらは、これから変わる」


視線が一人ずつをなぞる。


「背丈が伸びるとか、

 呼び名が変わるとか、

 そういう話ではない」


誰も口を挟まない。


「目の向け方が変わる。

 距離の取り方が変わる。

 想いが、重さを持ちはじめる」


「……変わったら、ダメなの?」


駆の問いに、御珠は即座に首を振った。


「違う。

 変わるのは、悪いことではない」


少しだけ、声が低くなる。


「じゃが――

 同じ形のまま、進むことはできぬ」


「ぬしら、このまま家族を続けたらどうなるか、想像できるかの?」


答える者はいなかった。


「男女の仲良しは、子どもの特権じゃ。

 じゃが……やがて必ず、好奇の目に晒されるようになる」


莉子の肩が、わずかに揺れる。

颯太は床を見たまま、動かない。


「すでに……

 その兆しは、見えはじめておる」


二人が、気まずそうに視線を逸らした。


「そういうことじゃ。

 今までのままでは……

 誰かが必ず苦しくなる。

 なので、ちょうど良い機会じゃ。

 ここで一度……ほどく」


「……家族じゃ、なくなるの?」


咲良の問いは細かった。


御珠はすぐには答えずに、咲良の目を見た。


「家族だった時間は、消えぬ」


声がわずかに揺れる。


「笑ったことも、

 喧嘩したことも、

 一緒に泣いたことも……

 全部、本物じゃ」


咲良の目に涙が溜まった。


「じゃが、これからは――

 それぞれが、自分の場所を選ぶ時間じゃ」


御珠は一歩、前に出た。


「……そして」


言葉が詰まる。

一度、唇を噛む。


「妾は……変わる」


小さく、首を振る。


「……いや。私は、変わる」


その瞬間、“神様”が一歩、後ろへ下がったように見えた。


「誰かを導くためでも、

 守るためでもない」


御珠の視線が雪杜を捉える。


「雪杜の隣に立つ者として、

 ふさわしい存在になるために」


声は、もう震えていなかった。

覚悟の音だった。


「これからは、

 私は前に出ない。

 騒がない。

 目立たない」


「ただ、そばにいる。

 それだけを選ぶ」


「……以上です」


そう言って、深く頭を下げた。


「今まで、ありがとう。

 一緒にいた時間は……

 私の誇りです」


しばらく、誰も動けなかった。


「……ずりーよ」


最初に声を出したのは、颯太だった。

掠れた声。


「そんな言い方されたらさ……

 文句、言えねーじゃん」


莉子が、ぽろっと涙を落とす。


「……でも……

 嫌じゃない……」


「……終わるわけじゃないしな」


駆が、ぽつりと言った。


咲良は目元を拭って小さく笑う。


「……形が変わるだけ、だよね」


御珠はゆっくり頷いた。


「うん。

 形が、変わるだけだよ」


窓から差す光が少しだけ傾いていた。


―――


家に帰ると昼間の音が嘘のように、世界は静かだった。


玄関で靴を揃えて、

ランドセルを置いて、

いつも通り風呂に入って、

いつも通りご飯を食べる。


全部、同じはずなのに。


今日だけは、一つ一つが「最後のあと」に見えた。


夜。

布団に入ると、天井がやけに遠い。


電気を消してしばらく。

暗闇に目が慣れた頃、隣で布団がわずかに動いた。


「……雪杜」


声は小さい。

昼間より、ずっと。


「……なに?」


雪杜が息をつく。


「今日は……どうだった?」


その聞き方は、神様が人に問いかける声じゃなかった。


ただ、隣にいる誰かの声だった。


「……卒業したな、って思った」


「うん」


「みんな、泣いたり笑ったりしてさ。

 先生が一番泣いてて」


小さく息を吐く。


「……でも、不思議と不安はなかった」


「……そう」


少し考えてから、続ける。


「天野ファミリーが解散するって聞いた時は、正直……寂しかった」


御珠の布団が、わずかに軋む。


「でもさ。

 御珠がああ言ったから……」


言葉を探す。


「終わった、って区切りじゃなかった」


言葉が途切れる。


「……怒ってない?」


「怒ってない」


即答だった。


「御珠が、ちゃんと迷って選んだなら……怒るわけないよ」


御珠は、しばらく何も言わなかった。


それから、とても静かな声で。


「……雪杜の時間を、

 奪わないための選択じ……、だよ」


「うん」


短い返事。


「……ありがとう」


その一言に、御珠の呼吸が一瞬乱れた。


「……眠ろうか」


「うん」


布団の中で、二人の距離は変わらない。


触れない。

でも、離れない。


闇の中で、御珠が小さく付け加えた。


「妾、雪杜の前だけでは、普通にしゃべってよいかの?」


「っちょ!

 やっぱ無理してたのかよ!!」


「……えへへ。

 ちょっとずつ、慣れていくね」


「どっちなんだよ!」


御珠は、やっぱり御珠だった。

お茶目で、おかしくて、かわいくて。


中学生。

どんな生活が待っているんだろう。


穏やかな夜が、卒業の日を、そっと包み込んでいく。

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