第28話 形が変わる日
「あおーげばーとおーとしー……」
卒業式の歌声が、体育館いっぱいに広がっている。
どこか遠くで揺れているようで、現実感が薄い。
ここまで来たんだな、とぼんやり思った。
いろんなことがあった。
運動会。
文化祭での合唱。
誕生日を祝ったり祝われたり。
クリスマスと、お正月。
どれも、その時は当たり前のように過ぎていったのに、今になって思い返すと、ひとつひとつが確かに残っている。
歌に引かれるように、その中でもひときわ鮮明な記憶が浮かび上がった。
(……そういえば)
二月。
教室に、妙に甘い匂いが漂っていた日。
理由は誰も説明しないのに、女子は落ち着きなく席を立って、男子は全員なぜかそわそわしていた。
颯太は、その日もいつも通りだった。
うるさくて、調子がよくて、何も考えてなさそうで。
「なぁ雪杜!
チョコってさ、義理でも十個もらえたら勝ち組だよな!?」
そう言って、いつものように笑っていた。
その時だった。
「……颯太」
莉子の声。
声がかすかに震えていた。
「ちょっと来てくれる……?」
颯太は眉を寄せて、「おう、行ってくる」と軽く言い残し、莉子の後を追った。
戻ってきた颯太は、さっきまでと同じはずなのに、どこか違って見えた。
背筋がわずかに伸びていて、口を開きかけては飲み込む――そんな様子だった。
(……ああ)
莉子、ついに伝えたんだな、って。
すぐに分かった。
冷やかしてやろうかとも思ったけど、颯太の目を見て、それは違うな、と思ってやめておいた。
その日から、颯太は少し変わった。
莉子と目が合うと、一瞬だけ黙って、言葉を探すようになった。
冗談で、全部を誤魔化さなくなった。
(今なら、分かる)
あれは、颯太が“誰かの気持ちを背負わされた日”だった。
子どもでいられなくなった、最初の日。
歌声が、またはっきり耳に戻ってくる。
(……もう, 戻れないんだな)
でも、不思議と怖くはなかった。
(ちゃんと進んでる)
そう思えた。
―――
莉子の一件を境に、何かが音を立てて変わったわけじゃない。
ただ――
戻らなくなった。
颯太は、相変わらずうるさかった。
教室でも、廊下でも、前と同じ調子で笑っていた。
でも、時々。
急に、黙るようになった。
ふざけたあとで、
「……あ、いや、なんでもない」
そう言って、話を切り上げることが増えた。
冗談で押し切らなくなった、という方が近い。
駆は、前から落ち着いていたけど、冬に入ってからは、みんなの写真をやけに丁寧に撮るようになった。
撮っている時間より、あとで画面を眺めている時間の方が長かった。
御珠は、いちばん変わった。
隣には、ずっといた。
声も、表情も、優しかった。
でも、前のように前へ出なくなった。
騒がない。
仕切らない。
「妾がやる」と言わない。
気づいたら、言葉の端から「のじゃ」が消えていた。
最初は聞き間違いかと思った。
でも、それは一度きりじゃなかった。
「大丈夫?」
「無理しなくていい」
「行こう。もうすぐ始まるよ」
どれも、ありふれた言葉。
神様めいた言い方をしなくなっていた。
……昔、
『そなたらが変わり、妾だけ変わらぬ』
そんなことを言っていたのを、ふと思い出した。
じゃあ、今のこれは何なんだろう、と。
理由は聞かなかった。
聞けば、きっと真っすぐ答えてくれるんだろう。
だから、今は聞かないことを選んだ。
咲良は……
前より、御珠を振り返らなくなった。
前なら、何かあるたびに御珠の様子をうかがって、僕の反応を確かめるようなことをしていた。
でも、それをしなくなった。
友達として話しかけてくるし、いつも通り触れてもくる。
ただ、そこに色恋を滲ませることはなくなった。
(……ああ)
たぶん、咲良は御珠が変わったことに一番早く気づいていた。
御珠の変化に何か思うところがあって、それに合わせたんだと思う。
僕は……何か変わっただろうか。
誰かの視線に怯えることは減ったけど、ただ流されるままの性格は変わっていない。
僕にも変化が必要なんだろうか。
澄香は、いつの間にか「児童会長」として呼ばれることの方が増えていた。
前のように感情で突っ走ることは減って、その分、言葉を選ぶようになっていた。
透は、その少し後ろにいることが多かった。
口数は変わらないけど、澄香が立ち止まると自然に隣にいる。
二人とも、それぞれ自分の場所に立っているように見えた。
いつの間にか僕たち全員が、同じ場所にいながら、少しずつ違う方向へ歩き始めていた。
体育館の歌声が、はっきりと耳に戻ってくる。
「いまーこそーわかーれめー……
いざーさーらばー」
天野ファミリーとして集まるのも、たぶんこれが最後。
そんな予感が胸の奥にあった。
(……でも)
終わりじゃない、ってことだけは、なぜか分かっていた。
―――
卒業式が終わって教室に戻ると、みんなで卒業アルバムを広げた。
名前を書いて、一言だけ、冗談みたいなことを書いて、それを順番に回していく。
「またゲームしような」
「中学でも同じクラスになれたらいいな」
「宿題、見せ合おうぜ」
どれも、“別れ”って言葉をわざと避けたような文章ばかりだった。
全員、同じ中学に進学することが決まっている。
だから本当の意味での別れじゃない。
明日から急に会えなくなるわけでもないし、電車に乗って遠くへ行く人もいない。
そのせいか、教室の笑い声は思っていたより軽かった。
……ただ一人を除いて。
石田先生だけが、完全に駄目だった。
教卓に肘をついたまま、顔をぐしゃぐしゃにして、声を殺すこともできずに泣いていた。
「お前ら……っ
中学行っても……ちゃんと……」
言葉にならない声で、何かを伝えようとしている。
それを見て、誰かが笑って、でも次の瞬間、その笑った子が泣いた。
あっという間だった。
「先生、泣きすぎ!」
「もらい泣きするって!」
そう言いながら、みんな慌てて目をこすっていた。
……ずるいと思った。
最後に一番泣くのが、先生だなんて。
『お前らにあの時の修学旅行、最高だったって未来で思ってほしいだけだ』
あんなかっこいいことを言える大人になりたいと思った。
ひと通り騒いで、ようやく落ち着いてきた頃。
もう帰ろうか、と誰かが言った。
胸の奥に、言葉にしにくい重さが残ったまま。
楽しかった。
区切りはついた。
でも、もう同じ形では集まらない。
そんな、一抹の寂しさを飲み込もうとした、その時だった。
御珠が静かに言った。
「……少し、時間をもらってもいい?」
声は大きくなかった。
でも、不思議と全員が聞いた。
「空き教室で話したい。
みんな、来てくれる?」
理由は言わなかった。
それでも、誰も断らなかった。
顔を見合わせて、なんとなく頷いて、ランドセルを背負い直す。
廊下を歩く足音がやけに揃っている。
(……ああ)
この揃った足音。
たぶん――
最後だ。
空き教室の扉の前で、御珠が一度だけ振り返った。
口元の笑みが消えていて、目がまっすぐだった。
―――
誰も使っていない教室に入ると、机は端に寄せられていて、窓から午後の光が差し込んでいた。
さっきまでの賑やかさは、廊下の向こうに置いてきたようだった。
御珠は全員を見渡し、息を一つ整えた。
「……皆、よう集まってくれた」
のじゃモードの声だった。
落ち着いている。
けれど、指先がわずかに強張っているのを、雪杜だけが見ていた。
「天野ファミリーは――
本日をもって、解散とする」
言い切り。
逃げ場のない言葉だった。
「……は?」
颯太の声は、笑いで流そうとして、途中で折れた。
「え……?
ちょ、ちょっと待って……」
莉子の声が続く。
「理由は、簡単じゃ」
御珠は深く息を吸った。
「ぬしらは、これから変わる」
視線が一人ずつをなぞる。
「背丈が伸びるとか、
呼び名が変わるとか、
そういう話ではない」
誰も口を挟まない。
「目の向け方が変わる。
距離の取り方が変わる。
想いが、重さを持ちはじめる」
「……変わったら、ダメなの?」
駆の問いに、御珠は即座に首を振った。
「違う。
変わるのは、悪いことではない」
少しだけ、声が低くなる。
「じゃが――
同じ形のまま、進むことはできぬ」
「ぬしら、このまま家族を続けたらどうなるか、想像できるかの?」
答える者はいなかった。
「男女の仲良しは、子どもの特権じゃ。
じゃが……やがて必ず、好奇の目に晒されるようになる」
莉子の肩が、わずかに揺れる。
颯太は床を見たまま、動かない。
「すでに……
その兆しは、見えはじめておる」
二人が、気まずそうに視線を逸らした。
「そういうことじゃ。
今までのままでは……
誰かが必ず苦しくなる。
なので、ちょうど良い機会じゃ。
ここで一度……ほどく」
「……家族じゃ、なくなるの?」
咲良の問いは細かった。
御珠はすぐには答えずに、咲良の目を見た。
「家族だった時間は、消えぬ」
声がわずかに揺れる。
「笑ったことも、
喧嘩したことも、
一緒に泣いたことも……
全部、本物じゃ」
咲良の目に涙が溜まった。
「じゃが、これからは――
それぞれが、自分の場所を選ぶ時間じゃ」
御珠は一歩、前に出た。
「……そして」
言葉が詰まる。
一度、唇を噛む。
「妾は……変わる」
小さく、首を振る。
「……いや。私は、変わる」
その瞬間、“神様”が一歩、後ろへ下がったように見えた。
「誰かを導くためでも、
守るためでもない」
御珠の視線が雪杜を捉える。
「雪杜の隣に立つ者として、
ふさわしい存在になるために」
声は、もう震えていなかった。
覚悟の音だった。
「これからは、
私は前に出ない。
騒がない。
目立たない」
「ただ、そばにいる。
それだけを選ぶ」
「……以上です」
そう言って、深く頭を下げた。
「今まで、ありがとう。
一緒にいた時間は……
私の誇りです」
しばらく、誰も動けなかった。
「……ずりーよ」
最初に声を出したのは、颯太だった。
掠れた声。
「そんな言い方されたらさ……
文句、言えねーじゃん」
莉子が、ぽろっと涙を落とす。
「……でも……
嫌じゃない……」
「……終わるわけじゃないしな」
駆が、ぽつりと言った。
咲良は目元を拭って小さく笑う。
「……形が変わるだけ、だよね」
御珠はゆっくり頷いた。
「うん。
形が、変わるだけだよ」
窓から差す光が少しだけ傾いていた。
―――
家に帰ると昼間の音が嘘のように、世界は静かだった。
玄関で靴を揃えて、
ランドセルを置いて、
いつも通り風呂に入って、
いつも通りご飯を食べる。
全部、同じはずなのに。
今日だけは、一つ一つが「最後のあと」に見えた。
夜。
布団に入ると、天井がやけに遠い。
電気を消してしばらく。
暗闇に目が慣れた頃、隣で布団がわずかに動いた。
「……雪杜」
声は小さい。
昼間より、ずっと。
「……なに?」
雪杜が息をつく。
「今日は……どうだった?」
その聞き方は、神様が人に問いかける声じゃなかった。
ただ、隣にいる誰かの声だった。
「……卒業したな、って思った」
「うん」
「みんな、泣いたり笑ったりしてさ。
先生が一番泣いてて」
小さく息を吐く。
「……でも、不思議と不安はなかった」
「……そう」
少し考えてから、続ける。
「天野ファミリーが解散するって聞いた時は、正直……寂しかった」
御珠の布団が、わずかに軋む。
「でもさ。
御珠がああ言ったから……」
言葉を探す。
「終わった、って区切りじゃなかった」
言葉が途切れる。
「……怒ってない?」
「怒ってない」
即答だった。
「御珠が、ちゃんと迷って選んだなら……怒るわけないよ」
御珠は、しばらく何も言わなかった。
それから、とても静かな声で。
「……雪杜の時間を、
奪わないための選択じ……、だよ」
「うん」
短い返事。
「……ありがとう」
その一言に、御珠の呼吸が一瞬乱れた。
「……眠ろうか」
「うん」
布団の中で、二人の距離は変わらない。
触れない。
でも、離れない。
闇の中で、御珠が小さく付け加えた。
「妾、雪杜の前だけでは、普通にしゃべってよいかの?」
「っちょ!
やっぱ無理してたのかよ!!」
「……えへへ。
ちょっとずつ、慣れていくね」
「どっちなんだよ!」
御珠は、やっぱり御珠だった。
お茶目で、おかしくて、かわいくて。
中学生。
どんな生活が待っているんだろう。
穏やかな夜が、卒業の日を、そっと包み込んでいく。




