第27話 ままならぬ夜
御珠が深く頭を垂れたまま、客間に重い静寂が落ちた。
畳に触れる額は揺れもせず、まるで祈りの姿そのもののようだった。
蝉の声だけが遠くで響き、室内の時間だけが止まったように感じられる。
廊下で様子を伺っていた咲良の父が、息を呑む気配がした。
「……頭を上げて」
澪の声は低く、けれど震えていた。
御珠は動かない。
「お願いだから。
あなたがそんな形を取ると……
私が“悪い”みたいになるじゃない」
その言葉を聞いてようやく、御珠はゆっくりと顔を上げた。
目に宿っていたのは神の光ではなく、痛みと誠意という、人に寄った温度だった。
澪は静かに言う。
「御珠ちゃん。
あなたがあの子を大切にしてるのは……分かったわ」
「では――」
御珠が言いかけるのを、澪は首を横に振って制した。
「でも、“娘を預ける”とは別の話よ」
御珠は沈黙した。
その沈黙には、受け入れたい気持ちと飲み込めない現実が入り混じっている。
澪は息を整え、母の立場として譲れないものを言葉にする。
「私は母。
あなたの愛も事情も理解してあげられる。
でも――あの子の未来だけは譲れない。
例え神様でも」
「……未来」
御珠が呟くと、澪は頷いた。
「ええ。未来よ」
澪は続ける。
「あの子はまだ十二。
恋に揺れる年頃。
一生を誰と歩むかなんて、今決めちゃいけない」
御珠は唇を噛み、息を吐く。
“永遠”を生きる存在には、理解しながらも痛烈に刺さる意見だった。
「だから――条件を出すわ」
御珠は顔を上げる。
澪の瞳はまっすぐで、逃げ道を与えない強さがあった。
澪は静かに、しかしはっきりと言葉を刻んだ。
「まず一つ目。十八になったとき。
あの子が大人として、自分の人生を見つめられる年齢になったら――
そのとき改めて、あなたと雪杜くんと、どう関わるかを“本人が選ぶ”」
御珠は目を細め、遠い時を思うように呟く。
「十八……
人の世では大人と見なされる年じゃな。
元よりそのつもりじゃ」
「そう。それなら話が早いわ」
澪の声にわずかな安堵が混じった。
「それまではあの子に、未来の選択肢を残してあげたいの」
御珠は静かに頷いた。
「……咲良が選ぶ。
妾ではなく」
「そう。
あなたでも、私でもない。
咲良の人生は咲良が決める」
御珠は目を閉じ、ゆっくり呼吸を整えた。
その胸の奥で、永遠がわずかに軋む。
澪は続ける。
「二つ目。それまでは……あなた達が一緒にいることには目を瞑るわ。
恋でも友情でも、その間の何かでもいい。
あの子が笑っていられるなら、私は干渉しない」
御珠の瞳が揺れた。
「……澪、そなたは……寛大じゃ」
「勘違いしないで。寛大なんかじゃない。
ただ……咲良があなた達といる時、本当に楽しそうだから……」
その言葉に、御珠の胸の奥がじんと温かくなる。
“許される”という感覚より、“認められた”という響きに近かった。
澪の瞳が鋭く光り、空気が張り詰めた。
「ただし、次が絶対の条件」
御珠は正面からその目を受け止めた。
「咲良が泣いたら。
傷ついたら。
あなたが原因で涙を流すようなことがあったら――
その瞬間、二度と会わせない」
御珠の胸が一瞬だけ強く波打つ。
言葉が喉でひっかかる。
「……妾が……咲良を泣かせると?」
「泣かせる“つもり”がなくても、泣かせてしまう未来がある。
あなたも、雪杜くんも……優しい子だからこそ」
御珠は胸のあたりを押さえた。
痛みというより、恐れに近い感覚。
「……それは……妾にとっても……地獄じゃ」
深く息を吸い、御珠は小さく震える声で言う。
「……誓おう。
咲良を泣かせぬ。
泣かせるくらいなら、妾が消える」
澪の眉がぴくりと動く。
「消えるなんて簡単に言わないの。
あの子も雪杜くんも悲しむわよ」
御珠ははっとして視線を落とした。
「……すまぬ」
「約束して。
あなたの誇りでも、神としての立場でもなく……
“御珠ちゃん自身”として」
御珠は胸に手を当て、深く息を吸い込んだ。
その瞳は迷いなく澪を見据える。
「……誓う。
咲良の涙は、妾の死より重い」
その瞬間、空気がわずかに震えた気がした。
“神”が自分の死を口にする――
澪の胸に、説明できない冷たさが走る。
(……この子、本気で言っている……
神が、娘のために死を選ぶと……?
咲良……どれほど深く、この神に愛されてしまったの……)
澪は一拍、呼吸を忘れた。
恐れとも衝撃ともつかない感情が喉に刺さる。
「……わかったわ。
十八まで。
その間……あなた達を止めはしない。
でも“見てる”から」
言葉は落ち着いているのに、声だけがほんの少し震えた。
御珠は姿勢を正し、澪に向き合う。
「それで良い。
妾も……咲良の未来を、守りたいのじゃ」
二人は互いに深く頭を下げた。
味方ではない。
敵でもない。
ただ、
“娘を想う母”と
“一人の少年を愛する神”が――
初めて同じ高さに立った瞬間だった。
―――
客間の襖がゆっくりと開き、外の空気がふわりと流れ込んだ。
緊張の余韻がまだ漂っている部屋に、雪杜と咲良が戻ってくる。
廊下の端には、気まずそうに身を縮めている咲良の父。
さっきから場の重さに耐えきれず、所在なさげに立ち尽くしていた。
室内では、御珠が畳に正座したまま、静かな余韻をまとっている。
向かいには澪も正座し、その表情は整えられていながらも、どこか深い決断の跡を残していた。
空気は、つい先ほどとはまるで違っていた。
見えない何かが、確かに形を変えた後の静けさ。
「御珠……大丈夫だった?」
雪杜の声には不安が滲む。
普段なら軽く受け流す御珠の表情が、どこか淡く揺れて見えたからだ。
御珠は、いつもの調子を装って小さく微笑む。
「うむ。何でもないのじゃ。
ただ……澪と少し約束をしただけじゃ」
「約束……?」
その言葉に、雪杜の胸がちくりと痛む。
御珠は変わらないと言いながら、その瞳の奥にはふと影が差した。
「心配するな、雪杜。
そなたへの想いは、何も変わらぬ」
その笑みは優しいのに――どこか、無理をしている。
(……嘘だ。何かあったに決まってる)
雪杜の喉がひりつく。
「お母さん……何を話したの?」
咲良も勇気を振り絞って尋ねる。
声が震えないよう、必死に押さえ込んで。
澪は穏やかに、静かに微笑んだ。
「そうね……。
御珠ちゃんと“約束”をしただけよ」
「……約束?」
「もう大丈夫だから。
咲良は気にしなくていいの」
“気にしなくていい”。
その言葉の裏に境界線があって、咲良はそれ以上踏み込めなかった。
胸がぎゅっと沈む。
(……絶対に“大丈夫”じゃない……
でも……聞けない……言えない……)
廊下で固まっていた咲良父が、空気に耐えきれず声を上げる。
「あー……じゃ、じゃあ……準備して夏祭り、行ったらどうかな……?
……浴衣、着る?」
咲良は小さく頷き、目元を上げた。
「うん……行こ……」
「御珠、行ける?」
雪杜がそっと尋ねる。
御珠は小さく息をのみ、平静を取り繕う。
「もちろんじゃ。
……祭りというもの、妾は嫌いではない」
その声には小さな揺れが混じっていたが、誰もその理由を問わなかった。
三人は立ち上がり、玄関へと向かう。
御珠が澪の脇を通るとき――ほんのわずかに会釈した。
澪も、それに応じるように微かに首を下げた。
そのやり取りは短く、言葉も交わしていない。
だがそこには
“戦った者同士の敬意”
“譲れなかったものを互いに理解した者の距離”
が確かにあった。
雪杜も咲良も、その意味に気づけなかった。
背中に、澪の視線が静かに寄り添う。
扉の前で、澪はただ一言だけ告げた。
「……いってらっしゃい」
その短い言葉の裏に宿る“約束”を知っているのは、御珠と澪――
そして廊下で固まっていた父だけだった。
―――
夏の夕暮れは、祭りの匂いをまとっていた。
石畳に揺れる提灯の光が、ほんのり赤く道を染め、遠くから漂う甘い焦げの匂いが、夏の夜特有の期待を運んでくる。
三人は並んで歩き出した。
けれどその足取りには、どこかぎこちない影が差していた。
「……じゃあ、行こっか。
みんな、もう先に集まってると思うし」
気まずさを払うように、雪杜は少し明るめの声を出した。
その明るさが、逆に無理を感じさせる。
「う、うん……」
咲良も声を整えながら返事をする。
横目で御珠を見るが、胸の奥がざわつくだけで、言葉にならない。
御珠は無言のまま。
堂々とした歩き方のはずが、いつもより歩幅が小さい。
わずかな違和感が、そのまま胸を締めつける。
(……御珠ちゃん……表情が……硬い……
お母さん、何言ったの……?
聞きたい、でも……聞けない……)
咲良の胸の奥に、鈍い痛みが広がる。
雪杜は意を決して振り返った。
「御珠……ほんとに大丈夫?
なんか……いつもと違うよ?」
御珠は一瞬だけ目を伏せ、それから微笑もうとした。
けれど、うまく笑えない。
「大丈夫じゃ。
ただ……少し考えることが増えただけじゃ」
「考えること……?」
「気にせず、楽しむのじゃ雪杜。
祭りの夜は短いゆえな」
軽く言ったつもりの言葉なのに、語尾がかすかに震えていた。
(……やっぱり、なにかあったんだ)
雪杜の胸がざわつく。
けれど、どう踏み込めばいいのか分からない。
沈黙が落ちた頃、咲良が意を決して口を開く。
「ねぇ……
お母さんと、どんな話したの……?」
御珠は一瞬ピタリと立ち止まり、動揺を隠しきれなかった。
「……咲良には、関わりのない話じゃ。
そなたの母と妾の話よ」
「関わり、ない……?」
咲良は胸がぎゅっとつぶれる感覚に襲われる。
(……嘘だ。
私のために話したって、分かってるのに……
聞いちゃいけないんだ……)
御珠は、咲良の視線から逃げずに言った。
「安心せよ。
妾は咲良を嫌ったりはせぬ。
……むしろ、その逆じゃ」
その言葉は優しいのに、どこか微かに滲んでいた。
“距離を置く覚悟”の余韻のように。
(……やっぱり私の話なんだ……
きっとあのこと……
御珠ちゃんが、私の未来の話を……)
言葉にしない考えが胸の内で絡まり、咲良の喉の奥が熱くなる。
参道が開け、賑やかな祭りの声が押し寄せてきた。
屋台の赤い灯りが三人の影を長く伸ばす。
「おーい雪杜ーーー!!」
颯太の声が明るく響く。
「こっち!」
「はやく……!」
駆や莉子の声も混ざり、祭りの熱気が一気に距離を縮める。
その眩しさが、かえって胸に刺さった。
「ほら、みんな待ってる。行こう!」
雪杜の言葉で、咲良も必死に笑顔を作る。
「うん……!」
御珠だけが、一歩踏み出す前にふと空を見上げた。
夕闇が落ちていく光の中で、御珠は胸にそっと手を当てる。
(……十八まであと六年。
そなたらが最も輝ける尊き刻。
妾にとっては一瞬。
それでも――
咲良の未来は……妾が奪うものではない)
夏祭りの喧騒とは異なる静かな痛みが、この瞬間だけ御珠の胸を満たす。
(……痛い……
これが、人の理か……
これが……愛か……)
「御珠?どうかした?」
雪杜の声が近づく。
御珠はゆっくり微笑んだ。
「……なんでもない。
行こう、雪杜。
咲良も」
御珠は二人のあとを追う。
その背中には、誰にも気づかれない影が、薄く長く落ちていた。
―――
夏祭りの熱がゆっくり消えていく頃、網戸の向こうでは、夜風が草を揺らし、虫の声が静かに重なっていく。
ついさっきまで胸を満たしていた賑わいが、嘘のように遠かった。
弱く回る扇風機が「うぅ……」と低く唸り、敷かれた二つの布団を、ゆるく波のように揺らしている。
御珠は寝巻のまま、布団の端に小さく腰を下ろしていた。
背筋はいつもより少しだけ丸く、肩のあたりにふわりと疲れと静かな影が落ちている。
「……今日は、疲れたね。
みんな心配してたよ?
“御珠、元気ないね”って」
雪杜の声は優しいのに、どこか探るようだった。
御珠は視線を布団へ落としたまま、かすかに微笑む。
「せっかくの祭りを……
妾が気分を害してしまったな」
「御珠……
ほんとにどうしたの?
何があったの?」
問いかけられても、御珠はすぐには返事をしない。
指先が布団の縁をそっと押し、払うように滑る。
普段の彼女にはない、不器用な仕草。
雪杜の胸にざわりと波紋が広がる。
「御珠……?」
御珠はしばらく黙ったまま視線を落とし、言葉を出すまでに、ひとつ呼吸を挟んだ。
「……雪杜。
そなたは……咲良の母に嫌われておると思うか」
「えっ……?
な、なんで急に……」
「妾は……人の親というものの“怖さ”を知った。
己の子のためなら、神すら睨む……
まこと、強きことよ」
雪杜の喉がひりつく。
「……咲良のお母さん、何を言ったの?」
「何も。
ただ……妾と約束をしただけじゃ」
「約束……?」
御珠のまつ毛が揺れる。
「……雪杜には関係のないことじゃ。
そなたの未来を縛る話ではない」
「……御珠。
なんで僕に言わないの?」
沈黙が落ちる。
扇風機の回転音だけが一定のリズムを刻む。
やがて御珠は、小さな声でぽつりとこぼした。
「言えば……そなたが悲しむ。
だから言わぬ」
その言い方は、とても丁寧で、とても苦しかった。
「僕は……そんな弱くないよ」
「弱いからではない。
優しいからじゃ」
雪杜は息を呑み、胸の奥が締まる。
御珠は、そんな雪杜をまっすぐ見られずに続けた。
「妾は、“そなたを悲しませたくない”というただそれだけの理由で――
真実を胸にしまうことを選んだ」
雪杜はそっと布団の上で御珠の手を握った。
その手は、いつもより冷たく、そして頼りなく震えていた。
「……言わないと苦しいでしょ。御珠だって」
御珠はかすかに微笑んだ。
けれどその微笑みは、どこか遠い世界に立っているようだった。
「苦しみとは……悪いものではないのじゃな。
今日、初めて知った」
「……御珠……?」
「そなたら人が抱く“愛の痛み”……
妾にも、やっと分かりかけてきた」
雪杜は御珠の横に寝転び、天井の薄い影を見つめる。
二人の距離は近いのに、それぞれの胸にある思いは違っていた。
「御珠がそばにいてくれたら……僕はそれでいいよ」
「……雪杜。
その言葉が、一瞬で妾を救い……
そして妾を縛る」
その“縛り”が、逃げ道を断つものだと、御珠はすでに悟っていた。
「縛る……?」
御珠は揺れる声を抑えながら、そっと雪杜の額に手を当てた。
ひんやりとした温度が、雪杜のまぶたを静かに落とす。
「のう雪杜よ……そなた……」
喉の奥まで上がってきた言葉が、そこで止まる。
それは、ひとつ答えを聞けば、この関係の形を決定づけてしまう問いだった。
今はまだ、問うてはならぬ。
今ここで口にすれば、戻れぬ場所へ踏み込んでしまう。
御珠は、それを本能で悟った。
「……なんでもないのじゃ。
気にせず眠るのじゃ。
今夜は、もう考えるな」
「御珠……?」
「そなたの寝顔は……
妾の永遠より、尊い」
雪杜の胸がきゅっと熱くなる。
「……難しいこと言わないでよ……
一緒に……寝よ……?」
「うむ」
御珠は布団に入り、横にそっと寝転んだ。
触れられる距離で、触れない距離で。
その境界線に、彼女の決意が静かに横たわっている。
御珠は目を閉じながら、胸の奥で言葉を呟く。
(雪杜……
妾は今日、初めて……
“奪わぬ愛”を学んだのかもしれぬ。
気づけば、妾のわがままで、雪杜だけでなく、咲良までも縛ろうとしておる。
ままならぬものじゃな……)
外で揺れる夜風が、カーテン越しにやさしく部屋へ入り込む。
二人は違う未来を考えながら、同じ夜へ落ちていった。




