第26話 神と母
夏休みは順調に巡り、日々の小さな出来事が積み重なって季節の色を濃くしていた。
誰かの家に集まって宿題を広げたり、駆が意味のわからない自由研究を披露したり、颯太が近所の公園で新しい遊びを発明しては全員を巻き込んだり――
そんな“六年生の夏らしい時間”が続いた。
今日は海。
浜へ足を踏み入れた瞬間、去年と同じ匂いがするのに、景色はほんの少し賑やかだった。
浜の家のおじさんは、雪杜たちを見るなり目を丸くした。
「去年は三人だったのに……今年は六人!?
雪杜くん、友達増えたなぁ」
颯太が得意げに胸を張り、莉子は小さく会釈し、駆は遠慮なく「焼きそば増量でお願いします」と告げる。
おじさんは笑って鉄板に向かい、海風と油の香りが混ざった。
肉の煙に顔をしかめながらも手を伸ばしたり、女性陣の水着姿に男性陣が真っ赤になったり、波にさらわれて笑い合ったり――
そんな瞬間が次々と生まれては、夏の海へ吸い込まれていく。
太陽が傾くにつれ、波は金色の縁取りをまとい、熱気の余韻に混じってひんやりした風が頬を撫でた。
浜辺に腰を下ろした六人は、ジュースの冷たさを指に感じながら、今日の余韻を静かに共有していた。
「うおぉ……今日楽しすぎた……!」
「うん……楽しかった……」
「夕日、綺麗だなぁ……」
咲良は砂を払って立ち上がり、みんなの顔を見渡す。
「今年も来れてよかった。また来ようね、みんなで」
「もちろん!!」
雪杜がふと口元を緩めた。
「来週は夏祭りだね」
「うん、みんなで行こうね」
と返した咲良の横で、御珠が胸を張る。
「妾も楽しみにしておる。人の祈りが灯る夜を、この目で見るのじゃ」
夕焼けの色が六人の影を細長く伸ばし、波の音がその背中を押していく。
「じゃあ、来週の夏祭りも、約束だね」
六人は頷き、金色の海に背を向けて歩き出した。
夏はまだ続く――そんな気配だけを残して。
―――
夏祭り当日の朝は、どこか落ち着かない熱気をまとっていた。
窓から入り込む空気は、蝉の声と湿度をたっぷり含んでいて、夏休みの“特別な日”の匂いがした。
春原家のダイニングテーブル。
パンの香りと冷たい麦茶の匂いが漂うなか、家族三人が並んで座っている。
咲良の胸の奥は、朝なのにざわざわと波立っていた。
「今日、夏祭り……みんなと回るんでしょ?」
母の声は穏やかだった。
いつものように朝を始める声なのに、どこか底に固いものが沈んでいる気がした。
「うん……そのつもり」
咲良が小さく答える横で、父はトーストをかじりながら、家族会議に迷い込んだ一般人のように、会話を盗み聞くしかなかった。
澪はそこで、ふっと呼吸を整えた。
その静かな仕草だけで、咲良は胸の奥までひやっと冷えた。
「少し早く雪杜くんと御珠ちゃん。
二人を家に呼んでくれないかしら?」
「っ……どうして……?」
声が震えた。
理由を聞く前から、よくない方向へ転がる未来だけが浮かんでくる。
「話したいことがあるの」
その瞬間、咲良の背筋に冷たいものが落ちた。
(……絶対いい予感しない……)
澪の目が静かに咲良へ向く。
表情は柔らかいのに、瞳の奥だけが鋭く光っていて――咲良は、これは逃れられないと悟った。
「咲良。
これからのあなたに関係することよ」
握っていた指先がじわっと湿る。
胸の奥でざらざらと嫌な音がした。
「……お母さん。
あの二人に……何を言う気なの?」
澪の笑みは変わらない。
優しく、娘を思っている形をしている。
なのに、その奥にある“影”だけは隠しきれていなかった。
「あなたを守るために……
一度ちゃんと向き合っておきたいの」
(あ……これ本気だ……
止めても無駄なやつ……)
夏祭りの朝なのに、胸がきゅっとつぶれる。
「夏祭り、楽しみでしょ?
その前に、ね?」
淡々としたその言い方が、かえって逃げ道を塞いでいた。
咲良は俯き、声を搾り出す。
「……わかった。
……連絡、してみる」
声は弱く、震えていた。
澪は満足げにほほ笑む。だがその微笑の裏にある意図は、咲良にはもう読めていた。
「ありがとう、咲良」
父は重たい空気に置いていかれ、「……」とトーストを噛み続けるほかになかった。
席を立った咲良は、部屋へ戻る途中でそっと胸に手を当てた。
鼓動が早く、落ち着かない。
(……やだ……
今日、楽しい日になるはずなのに……
いつかこんな日が来ると思ってたけど……こんなに早く……)
スマホを開く。
“雪杜”の名前が光る。
指先が震えた。
(……ごめん……二人とも……)
夏祭りの朝に漂う幸福の匂いとはまったく別の温度が、咲良の胸に広がっていった。
―――
夏の朝は、どこか遠くで熱を孕ませながら始まっていた。
まだ陽は高くないのに、蝉の声だけはもう全力で、空気をゆっくり押し広げていく。
その喧騒さの中で、雪杜のスマホが微かに震えた。
小さな気配なのに、胸の奥がざわりと揺れる。
「……咲良からだ」
机に広げた夏祭りのパンフレットの横で、御珠はスイカバーを豪快にかじりつつ画面を覗いた。
冷たいお菓子の赤と、御珠の瞳の揺れが対照的だ。
「ふむ。祭りの集合場所か?」
軽い予想で放たれた声。
けれど雪杜は画面を読んだ途端、呼吸が止まった。
「……違う。
“お母さんが呼んでる”って……
僕と……御珠を」
スイカバーの甘い匂いが一瞬だけ遠のく。
御珠は短く「ふむ」と呟くだけだった。
「澪が、か」
その淡々さが、逆に怖かった。
まるで“そう来たか”と確認したような響き。
雪杜は眉を寄せ、胸の奥に冷たいものを覚える。
「“咲良のお母さんが話したいことがある”って……」
その言葉を聞いた瞬間、御珠の表情からふっと色が抜けた。
驚きではなく――
“ついに来たか”という諦観に近い静けさ。
「……思ったより早かったの。
妾の見立てでは、そなたらが十五になった頃かと思うておったが……」
「え……?なにそれ……?」
御珠はスイカバーを見つめながら、溶ける氷が垂れていく様子を静かに追った。
その視線には、雪杜の知らない“遠い時”の重さがにじむ。
「子を守る親というものは、いつの世も尊いものじゃ……」
「????」
雪杜の頭は完全に置いていかれていた。
御珠は、最後のひとかじりを終えたスイカバーの棒を静かにゴミ箱へ落とす。
その仕草は妙に丁寧で、まるで気持ちを切り替える儀式のようだった。
「雪杜。
そなたは……行きたいか?」
真正面から問われ、胸がぎゅっと縮む。
「行きたくないよ。
本音を言えば……すごく。
でも……逃げたらもっと悪くなる」
言いながら、自分の声が弱く聞こえる。
御珠は、優しさとも哀しさともつかぬ表情のまま告げた。
「……正直に申せば、妾はそなたを立ち会わせとうない」
「どういう意味……?」
静かな空気がひりつき始める。
御珠は視線をそらさず、あくまで落ち着いた声音で続けた。
「おそらく――
そなたの“人生”に関わる大きな選択を迫られるであろうからじゃ」
“人生”
その言葉の重さが、そのまま胸に沈む。
「御珠……何が見えているの……?」
問いかけても、御珠は答えなかった。
ただ、瞳の奥に鋭い決意だけを灯した。
「行くぞ、雪杜。
これは“戦”じゃ」
「戦……?」
「そなたが選んだ縁なら、妾も受けて立つ。
それが妾の務めじゃ」
胸の奥で、何かが静かに震えた。
夏祭りの朝に似つかわしくない、冷たい鼓動。
雪杜は息を詰め、ゆっくりと吐き出して頷いた。
「……行こう。
一緒に」
御珠の表情が、ほんの一瞬だけ柔らかくなる。
「うむ」
ふたりの影が、夏の光の中で寄り添うように揺れた。
(……何が始まるんだ……本当に)
その不安は、風に消えてはくれなかった。
―――
客間には、夏の午後の光が一筋だけ差し込んでいた。
庭の木々を通った光は柔らかいはずなのに、この場では妙に冷たく感じられる。
障子越しの蝉の声だけが、現実の世界とこの密度の高い空間をつなぎ止めていた。
澪の前に、雪杜と御珠が正座する。
咲良は母の横へ控え、その手は膝の上でぎゅっと握られている。
指先の震えが隠しきれていなかった。
澪は穏やかな口調で口を開く。
「来てくれてありがとう。
お正月以来ね」
その笑みには柔らかさがあったが、視線はまっすぐで、逃げ場を与えない。
「あ、あの……きょうは……その……」
雪杜は息を呑み、言葉を探す。
澪はその揺れをひとつも見逃さず、静かに続けた。
「そんなに怯えなくていいわ。
主に神様と話がしたいの」
“神様”。
その呼び方に、御珠はわずかに眉をかすめただけだった。
「雪杜、咲良よ。
席をはずしてはもらえないじゃろうか。
澪は妾に話があるようじゃ」
御珠の声は静かで淀みない。
しかしその裏に、どこか“覚悟の影”が滲んでいる。
雪杜は咲良と目を合わせた。
咲良の瞳が揺れる。
二人とも、これから起きることを完全には理解していないのに――本能だけが警鐘を鳴らす。
「うん……わかった……」
「お母さん……」
咲良の声はかすれ、縋るように澪を見る。
澪は優しく頷き――それでも退かない。
「咲良。
ここは母として退くわけにはいかないの。分かって」
胸に落ちるその言葉は、優しさの形をしながら重かった。
咲良は小さく息を呑み、「うん……」と返すしかなかった。
二人が部屋を出ていくと、障子がそっと閉まり――
客間の空気が、ぴんと張り詰めた。
御珠と澪。
神と母。
初めて“真正面から”向き合う瞬間だった。
「さて。こうやって二人で話をするのは初めてね。神様」
御珠は姿勢を崩さず、静かに返す。
「神などと呼ばなくともよい。
そなた、妾を神だとは微塵も思っておるまい」
その一言で、澪の目が細められる。
「お見通しってわけね。
じゃあこれから話すことも分かってるのかしら?」
「まぁ察しはつく。
咲良のことであろう」
その冷静さに、澪の表情がほんのわずか揺れた。
だがすぐに本題へ踏み込む。
「そう。じゃあ単刀直入に聞くわね。
咲良をどうするつもり?」
客間の空気が、一段重く沈んだ。
御珠は一切怯まず、逆に深く澪を見つめ返した。
「“どうする”とは奇妙な問いじゃな。
咲良は咲良の人生を歩む。
妾はそれを否定したことは一度もない」
澪の唇がかすかに震える。
「否定してない?
“家族”なんて簡単に言っておいて?」
御珠は首を横に振る。
「簡単ではない。
そなたの娘は……雪杜にとって特別。
妾はその覚悟を問うた。
咲良もその覚悟に応えた。
それゆえ“家族”じゃ」
「それよ」
澪の声が少しだけ尖り、胸の奥で積もっていた何かが滲み出る。
「あなたの“家族”という言葉には、
あの子の人生が巻き込まれていく匂いがするの」
御珠の瞳が僅かに揺れた。
「巻き込む気などない。
妾は咲良を害したことも――」
「“害”の話じゃないのよ」
澪の言葉は強く、切り込むようだった。
御珠はぴたりと言葉を止める。
「あなたは……雪杜くんを愛してる。
それは見ていて痛いほど分かる。
でもね――」
澪の目は鋭く、真っ直ぐ御珠の胸元へ刺さる。
「雪杜くんの“そばにいる人間”まで
あなたの“愛の枠”に組み込む気なの?」
沈黙。
御珠の肩がわずかに沈む。
“神の顔”が崩れた瞬間だった。
澪はさらに一歩踏み込む。
「咲良は、“側室”じゃないのよ」
障子の外の蝉の声すら遠のく。
御珠はゆっくりと目を閉じた。
「……その言葉の意味は知っておる。
じゃが妾は、咲良をそんな風に扱った覚えはない」
「あなたがどう思ってても、周りからはそう見えるの」
御珠の瞳に、怒りとも悲しみともつかない影が走る。
「分かっておる……
分かっておるとも!」
その声は震えていた。
薄く神気がにじみ、空気がぴりっと緊張する。
「咲良が望もうが望むまいが、妾のそばにいるだけで、いずれそう呼ばれるであろうことも……
その理もすべて理解しておる」
御珠は拳を握りしめ、膝の上で小さく震わせた。
「それでも……それでもじゃ。
そなたの娘は……妾が思っていた以上に……
大切になってしもうたのじゃ……」
そして――
御珠は静かに、迷いなく膝をついた。
畳に額が触れるほど深く――神が、ひとりの母へ頭を垂れた。
「……っ、神様が……なにを――」
澪の声が震える。
それは恐れか、驚きか、痛みに近い感情か。
御珠はただ、深く深く頭を下げたまま言う。
「澪よ。
親の心、痛いほど分かる。
咲良を思うその気持ち……
親として当然と理解しておる」
声は震え、しかし揺らぎのない決意があった。
「妾には……こうして頭を下げることしかできぬ。
どうか――
どうか咲良を妾に預けさせてくれぬか」
その願いは、神の命令ではなく――
ただ、愛する者の人生を守りたいと願うひとりの存在の叫びだった。




