第2話 初詣と、新しい距離
白い息が風にほどける午後だった。
春原神社の鳥居は薄い雪をまとい、初詣の参拝客の足音が絶え間なく続いている。
そのざわめきの中で、雪杜と御珠は並んで石畳を歩いていた。
「咲良の神社……久しぶりに来たな」
雪杜は境内を見渡し、懐かしさに胸をなでられたような表情を浮かべる。
「あぁ……冬は空気が澄んでおって気持ちよいのぅ」
御珠は鼻先で冷たい空気を吸いこみ、袖をつまんで嬉しそうにしていた。
その様子が少し幼くて、雪杜は思わず苦笑する。
「御珠……手、握ってて……人多いから」
「そ、そうじゃの」
御珠は照れながらもぎゅっと雪杜の手を握る。
「いつかの夏祭りみたいにいなくならないでね……」
御珠はその時のことを思い出しカッと熱くなる。
「あ……あれはそなたがずかずかと先に進んだからであって、妾のせいでは──!?」
大声を出す御珠に、すれ違う参拝客が横目で見て、ひそひそと声を落とす。
「あの二人、お似合いね。
小学生カップルとか、かわいい……」
それを聞いた雪杜と御珠は、顔を赤くして縮こまる。
そして雪杜の手に、さらに力を込めた。
「お……お似合い……だそうじゃ」
「う……うん……」
雪杜と御珠は、互いの体温にあてられたように頬を熱くしながら奥へと向かう。
しかし、そのこそばゆいやりとりを断ち切るように、社務所側からゆっくりと引き戸が開いた。
―――
境内のざわめきが遠のき、社務所の引き戸だけが世界とつながる境界のように立っていた。
その戸が──きしむほどゆっくりと、横に滑る。
冷えた冬の空気よりも静かな気配が漏れ出し、雪杜の背筋が自然と伸びた。
引き戸の向こうに立っていたのは、雪杜を見据える澪だった。
「…………来たのね、雪杜くん」
澪の声は小さい。
小さいのに、逃げ場のない強さだけははっきり届く。
雪杜は息を呑み、喉がひりつくような声で応じた。
「……春原さん……その……」
「まず、話す前にひとつだけ言わせて」
澪は歩き出した。
怒鳴り散らすような早さじゃない。
足音のひとつひとつが“覚悟”の間隔で、雪杜の前まで刻まれていく。
「──咲良が倒れた日のこと、覚えているわね?」
その問いは刃物ではなく、真っ直ぐ差し出された針のようだった。
逃げる隙間のない、細くて鋭い針。
「っ……はい……」
御珠がしゅんと肩をすぼめ、胸の前で手を握る。
「澪よ……その節は……」
しかし澪は御珠に視線を向けず、静かに続けた。
「……神様。あなたを責めるつもりはありません。
原因がどこにあったにせよ──
娘が泣き崩れて、息ができなくなるほど苦しんだのは事実です」
雪杜は、澪の目を正面から見られなかった。
まぶたの裏に、泣き叫びながら崩れる咲良の姿が蘇る。
「……本当に、ごめんなさい」
澪は一度だけ、静かに息を吐いた。
怒りをぶつけるためではなく、いま自分が持っている怒りの温度を確かめるような呼吸だった。
「雪杜くん。
咲良は強い子よ。でもね……強い子ほど、折れるときは静かに折れるの」
返事はできなかった。
雪杜の胸が、ゆっくり沈んでいく。
そして澪は、ほんのわずか声を低くした。
「あなたが戻ってきてくれたのは嬉しいの。
でも──
また娘を泣かせるつもりなら、もう近づかないでちょうだい」
空気が、ひと呼吸ぶん止まった。
雪杜は目を見開き、唇だけが震えたが言葉は出てこない。
その沈黙を破ったのは、御珠だった。
袖をきゅっとつまみ、雪杜の前に出る。
「……雪杜はもう、咲良を泣かせぬ。妾が呪いを引き受けたゆえ」
澪はようやく御珠の方へ視線を向けた。
その目は怒りではなく、冷静な母親のそれ。
「そう。
だからといって咲良が泣かない保証はないわ。
見た限り、あなた達……付き合い始めたみたいだし。
今日のあなた達を見たら、咲良は余計に悲しむわ」
言葉は鋭いが、声は震えていない。
“母として”言わなければならない最低限の強さ。
雪杜の喉が、ぎゅっと痛む。
「そう……で、すね……本当に、本当にごめんなさい……
僕が……咲良の優しさに甘えてしまったのが悪いんです……
もう……近づきません……」
その言葉の端に滲んだ涙は、謝罪ではなく“終わり”の色をしていた。
御珠が息を呑む。
「雪杜よ……そなた……」
しかしその瞬間。
その静かな空気を裂いた声は、別の方向から飛んできた。
「待って、お母さん!それは違うわ!」
咲良の声は、冬の空気を震わせるように鋭く響いた。
「咲良。あなたは出てこないで」
母の制止が落ちる。
けれど咲良は一度だけ唇を噛み、胸の前で小さな拳を握りしめた。
「……違うの、お母さん。お願い、話を聞いて」
涙の膜が揺れているのに、目は逸らしていなかった。
その強さに、雪杜は息を呑んで見返すしかできない。
「雪杜くん。あの時言った“好き”は本当……。
でもね──」
咲良は胸に手を当て、爪が食い込みそうなほどきゅっと握る。
言葉が震えながらも前へ進む。
「雪杜くんと御珠ちゃんを……応援したいのも、本当なの。
どっちも嘘じゃない。どっちも本当で……だから私は……」
喉の奥でひゅっと息が揺れた。
「私自身……どうしたらいいのか、わからない。
でも、何も言わずに見てるだけなんて……いや!」
その叫びは怒りでも嫉妬でもない。
“逃げたくない”という、咲良自身の足音だった。
澪はしばらく何も言わず、ただ娘を見つめていた。
怒りでも呆れでもなく、揺れる心を真正面から受け止める母の目。
「……咲良。そこまで言うのなら──
なぜ向き合おうとするのか、その理由を聞かせて」
促され、咲良はゆっくりまぶたを閉じ、そして開いた。
「……わたし……雪杜くんのこと……その……ほんとに、大事で……
倒れた時も……怖かったのに……どうしても気持ちが消えなくて……」
雪杜は息を飲む。
胸が締めつけられるのに、視線は離せなかった。
「でも……今日雪杜くんが御珠ちゃんと一緒にいるのを見て……
悔しくて、苦しくて……それでも、嬉しくて……
本当の自分の気持ちがわからなくなっちゃった……」
御珠はその告白を、逃げもせず聞いていた。
その瞳は、敵意ではない。
“同じ人を想った者”として、咲良を静かに受け止めていた。
「咲良……そなたの気持ちは、よう分かる。
それでも逃げずに向き合おうとするそなたは……強い娘じゃ」
その言葉に、咲良の肩がわずかに震えた。
「……強くなんてないよ。
でも……逃げたくはないの。
雪杜くんにも、御珠ちゃんにも……自分がどうしたいのか……
ちゃんと伝えておきたいの……」
澪はそっと咲良の背に手を添えた。
その温度は、怒りの熱ではなく“母の温度”。
「……そう。
あなたがそこまで言うなら……もう私が口を挟むことじゃないわね」
咲良の顔に、かすかな涙の影が揺れた。
だが、澪はそのままでは終わらなかった。
母として、必要な最後の一線を引く。
「ただし──」
その声は、さっきよりわずかに鋭い。
「雪杜くん。
あなたの“謝り方”は、あの子を余計に苦しめるわ。
確かに近づかないでと言ったのは私よ。
でも……だからといって“はい、そうですか”と引くのは違うの。
もっときちんと咲良に向き合って」
雪杜は唇を噛み、涙に濡れた目でうつむいた。
「……僕が間違えたんです。
その……咲良を傷つけたくないのは本当なんです……
でもどうすればいいか……わからなくて……」
咲良は小さく息を吸い、そっと雪杜に向き直る。
「“友達として”……もう一度、ちゃんと向き合ってほしい。
逃げないで……私も逃げないから」
その言葉の響きが、張りつめていた空気を静かに緩めた。
澪はゆっくりと頷き、ようやく雪杜を“個人”として見た。
「だそうよ雪杜くん。
咲良がそう言うなら、私は止めないわ。
“友達として”誠実に向き合うつもりがあるなら……それを行動で示しなさい。
次はないわ」
「……はい。
ちゃんと向き合います……」
雪杜の声は小さいけれど、逃げてはいなかった。
澪は三人を見渡し、ふっと疲れたように肩の力を抜いた。
「……はぁ。本当はこんな役目したくないの。
ごめんね雪杜くん。でもどうしても言っておかなくちゃならなかった」
社務所の暖気が、四人の間をかすかに揺らした。
澪の顔に浮かんだ影は、怒りよりも“母として背負いすぎた重み”に近い。
咲良を守りたい気持ちと、三人の関係を壊したくない気持ち──
その両方に引っ張られて、澪の胸は静かに痛んでいるように見えた。
ほんのひと息だけ、澪は空を仰ぐように目を伏せる。
それから、優しさを思い出すように口元をゆるめた。
「咲良、少し外を歩いて気持ちを整えてきなさい。
雪杜くんも御珠ちゃんも……ついて行ってあげて」
咲良は涙をぬぐい、小さく頷く。
「……うん……外の空気吸いたい……」
澪は微笑んだ。
母の優しさが、ようやく声に滲んでいた。
「境内、人は多いけど……
初詣に行ってらっしゃい。
顔をあげるいい機会よ」
雪杜と御珠が顔を見合わせる。
「……行くのじゃな?」
「……うん。咲良と、一緒に」
咲良も照れたように笑う。
「……三人で、行こっか」
そのまま三人は並んで社務所を出た。
外の空気は冷たいのに、さっきよりずっとやわらかかった。
境内を渡る冬の風が、張りつめていた空気をゆっくりと溶かしていった。
―――
社務所の戸をくぐると、境内の空気がゆっくりと肌に触れた。
人混みのざわめきが確かにあるのに、雪が音を吸いこむせいか、その気配はやわらかく、ひどく落ち着いていた。
咲良が袖をつまみながら、小さくつぶやく。
「……外、冷たいね……」
雪杜も肩をすくめて息を吐いた。
「うん……でも、ちょっと落ち着く」
御珠は二人より半歩前に出て、境内の空気をひと呼吸ぶん胸に満たすように目を閉じた。
まるで神が気配を読むような静けさだった。
「参道の気が澄んでおる……
……よい社じゃな」
咲良はその横顔を見つめ、少しだけ表情を緩める。
「御珠ちゃん……なんか、いつもより……神様っぽいね」
「っぽいとは失敬な。我、本物の神ぞ……!」
御珠は胸を張って言い返したが、言い終えた瞬間に照れたように目をそらす。
そしてすぐ咲良へ向き直り、淡い声で告げた。
「咲良。
妾は……そなたらの願いを縛る気はない。
それぞれが望む未来へ進めばよい」
咲良は胸の奥がそっと触れられたように息を吸った。
「……うん。ありがとう」
三人はゆっくりと本殿の前に並んだ。
鈴の紐を引くと、乾いた冬の空気を揺らしながら澄んだ音が弧を描くように広がっていく。
その音が消える頃、三人は静かに手を合わせた。
雪杜は、冷たい手のひらを合わせたまま小さく目を閉じる。
(……今年は……
大切な人を、支えられる自分でありますように……)
祈りというより、願いよりも柔らかい──
ひとつの“決心”のような響きだった。
続いて咲良がそっと目を伏せる。
胸に手を添え、息の震えを整えるように祈った。
(逃げないように……
ちゃんと、自分の足で前に進めますように……)
目の奥の赤みは完全には消えていなかったが、その祈りには迷いよりも“静かな勇気”が宿っていた。
そして御珠は、ほんのわずか二人より前へ進む。
神が祈るという矛盾した行為なのに、その姿は誰よりも自然で美しかった。
「……妾の願いはただひとつ。
雪杜が穏やかでいられるよう、道を照らしてやってくれ」
その声は神の宣告でも命令でもなく、
愛した者にそっと触れるような、柔らかい響きだった。
三人が手を下ろす頃には、本殿の前の空気がゆっくりと動き出していた。
御珠は振り返り、二人の顔を順に見つめる。
「……行こう、そなたら。
祈りは済んだ。あとは……歩むだけじゃ」
その言葉に雪杜は小さく頷き、咲良は目元を拭いながら微笑んだ。
「……今年は、いい年になるといいね」
「うん。そう願いたい」
御珠はその二人を交互に見て、ふっとやさしい笑みを浮かべた。
「案ずるな。妾がついておる。
今年の道は……きっと明るい」
三人は並んで歩き出す。
薄い雪を踏む足音が、境内の光に溶けていく。
冬の空の下、三つの影がゆっくり寄り添うように並んで延びていた。
―――
参拝を終えた三人が振り返ると、境内は夕方の光が雪を淡く照らし、金色の縁取りが境内全体に静かに漂っていた。
風は冷たいのに、不思議と刺すような寒さではなかった。
さっきまで胸を締めつけていた感情が、冬の空気の中へゆっくり溶けていくようだった。
咲良が、ひと呼吸ぶんだけ息を整え、雪杜の袖をそっとつまんだ。
「……雪杜くん、その……少しだけ話してもいい?」
声は小さくて、でも覚悟があった。
雪杜は驚いたように目を瞬き、しかし即座に柔らかく頷いた。
「もちろん。なんでも言って」
咲良は視線を雪の上に落とし、指先を袖の中でぎゅっと握る。
吐いた息が白く揺れた。
「……今日、ちゃんと話せてよかった。
まだ、怖い気持ちが全部なくなったわけじゃないけど……
それでも……前に進みたいって思えたの」
雪杜は胸の奥をきゅっと掴まれたように息を呑む。
「咲良……」
その声に、咲良は小さく首を振って微笑んだ。
震えているのに、まっすぐで。
「……今日ね、やっとわかったの。
わたし、やっぱり雪杜くんのことが好き。
この気持ちは誤魔化せない。
でも……御珠ちゃんも好き。
二人が一緒にいるのを見て……悔しくて、苦しくて……
それでも、どこかで嬉しい自分もいたの」
雪杜は言葉を失い、ただその想いの重さを受け止めていた。
「だからね……奪いたいわけじゃないの。
ただ“好きだった気持ち”を誤魔化したまま終わりにしたくない。
これからは……友達として、ちゃんと向き合いたい」
咲良は、とんでもないことを言ったのではと御珠をそっと見る。
御珠はその視線を逃さず、ゆっくりと神としての静けさで応じた。
「……咲良。
そなたの気持ち、しかと受け取った。
ならば妾とそなたは……『らいばる』というやつじゃな。
妾、負けはせぬぞ。
じゃが──争う気はない。
そなたが雪杜を想うように、妾も雪杜を想うだけのことじゃ」
その言葉に、咲良の肩が小さく揺れ、胸の奥の緊張がほどけていく。
「……ありがとう、御珠ちゃん。
本当に……ありがとう」
咲良は逃げずに雪杜へ向き直った。
「……三学期、また学校に行くね。
前みたいには戻れないかもしれないけど……
“友達として”……ちゃんと隣にいたい」
その言葉は、痛みと未練と優しさと覚悟がひとつの温度になっていた。
雪杜はまばたきを一度し、小さく息を吸って、ゆっくりと笑った。
「うん。僕も……そうしたい。
また一緒に歩けるなら、それが一番嬉しいよ」
その横で御珠が、ふっと穏やかに微笑む。
あたたかくて、どこか誇らしげな“神の笑み”。
「妾もそなたらの傍におるぞ。
雪杜の伴侶として、そして……そなたらの一年を見守る者としてな」
咲良はその言葉に、半ばあきれ、半ば安心したように小さく息を漏らす。
「……御珠ちゃんがいれば、毎日が静かじゃ終わらないね」
御珠は堂々と胸を張った。
「良いではないか。静かすぎる日常など、神も飽きる」
雪杜も苦笑しながら肩をすくめた。
「……それは、わかる気がするな」
三人の声は大きくない。
けれど、さっきまで凍りついていた空気が、その言葉ごとにゆっくり溶けていく。
咲良が白い息をひとつ吐き、小さく笑う。
「……楽しみだね。三学期」
雪杜はその笑みに穏やかに応えた。
「うん。……楽しみだ」
御珠が軽く背筋を伸ばし、胸を張る。
「妾もじゃ」
冬の境内に落ちる三人の影が、並ぶように、寄り添うように、ゆっくりとひとつの方向へ伸びていった。
それは和解ではなく──
“これから歩くための新しい距離”。
そんな穏やかな光だった。




