第24話 修学旅行 ― 未来の子どもたちへ ―
男子部屋は、十二人の熱でむんとした空気が満ちていた。
カードの音、笑い声、誰かの跳ねる布団の音が渾然として溶け合い、この瞬間だけは“夜の校則”という概念が皆の頭から抜け落ちていた。
……だが、その幻想は足音で破られる。
コツ……コツ……
硬い床を叩くリズムが、少しずつ近づいてくる。
澄香が真っ先に反応した。
肩を跳ねさせながら、声が裏返る。
「ちょ、ちょちょちょ、どうするの!?先生来る!!」
莉子は両手を振りながら半泣き。
「無理無理無理無理無理!!」
部屋の端では、別の女子たちが膝を抱えて震える。
「死んだ……」
「ここで人生終わるの……?」
状況を理解した瞬間、咲良が御珠へと詰め寄った。
「御珠ちゃん!ほら、隠れ──」
しかし当の本人は胸を張り、堂々と言い放つ。
「隠れぬ。妾は堂々とする」
全員の声が揃った。
「隠れろよ!!!!!!」
雪杜はもう布団に埋まりそうな勢いで頭を抱えている。
「もう無理だ……!」
その波を押さえ込むように、透が手を上げて声を落とす。
「落ち着け!まずは静かに──」
だが足音はすぐそこ。
コツ……コツ……
そして──
バンッ。
襖が勢いよく開いた。
石田が立っていた。
眉がわずかに上がる。
目の前には男子六人と女子六人が入り混じってトランプに興じる“事故現場” と呼ぶしかない光景が広がっている。
石田は言葉を探すように一拍置いてから、重い声を落とした。
「…………………………お前ら」
十一人が反射的に叫ぶ。
「「「違うんですーーーーーー!!!」」」
咲良が必死に手を振る。
「ち、違うんです!御珠ちゃんが暴走して……!」
澄香が半泣きになりながら口を開く。
「そ、そう!私は止めようとしたの!!児童会長として!!」
莉子は手を胸に押し当てて震える。
「ただの見張りで……!」
他の女子たちも慌てて続く。
「その……なんか流れで……!」
男子のほうでも、颯太が意味不明な言い訳を叫ぶ。
「たまたま一緒にやってただけで……!遊びじゃなくて……勉強会で……!」
透が即座に切り捨てた。
「いやそれは嘘すぎる」
「うるせぇ!!」
雪杜は心底申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません……ほんと僕のせいで……」
すると石田の視線が止まった。
澄香に、まっすぐ向けられる。
「……如月、お前までここにいるのか」
名前を呼ばれ、澄香の肩がビクリと震える。
「わ、私は……その……!
児童会長として皆を見張る責任があって……!」
石田はほんの少しだけ眉を上げ、静かな声で問う。
「“見張る”のか。
じゃあ――お前が責任を持つんだな?」
部屋の空気が凍りついた。
澄香は、言葉と責任の重さを胸の中で何度も転がす。
(……どうするの、私……
でも……ここで退いたら……
みんなの楽しい修学旅行の思い出が……)
一度まぶたが震え、息を吸い込む。
そして、顔を上げた。
「……ええ。
私が責任を持って……この場を見張るわ」
石田は深く息を吐いた。
それは怒りではなく、理解と覚悟をひとまとめにした大人の息。
「……分かった。
なら――今回は見逃す」
部屋が爆発した。
「えええええええええええええ!?!?」
歓喜と衝撃の混ざった叫びがあがる。
雪杜は涙目で。
「せ、先生……!」
咲良は胸に手を当てて震える。
「ほ、ほんとに……?」
莉子は力が抜けたように笑う。
「優しい……」
颯太は両手を突き上げた。
「え!?マジ!?ラッキー!!」
石田が去ろうとしたその背中に、御珠のぽつりとした声が落ちる。
「……ほんに甘い教師よの」
全員が固まった。
(言ったぁぁぁぁぁぁ!!!!)
石田は背を向けかけたまま、一度だけ小さく息を飲む。
それは、言葉を絞り出す前に喉の奥で何かが引っかかったような、そんな微かな間だった。
そして――
静かな声で続ける。
「……お前らに“あの時の修学旅行、最高だったな”って……
未来で思ってほしいだけだよ」
その声音には“自分にはできなかった過去への悔しさ”が混ざっていた。
襖が静かに閉じられる。
しばしの沈黙。
十二人の心臓の音だけが、部屋に淡く響いていた。
「……先生、かっけぇ……」
颯太が呟き、莉子が小さく笑う。
「すてき……」
咲良は胸の奥をぎゅっと抱きしめた。
(胸が……熱い……)
澄香は項垂れる。
「私、ダシに使われただけでは……」
雪杜は深く頭を下げるように呟いた。
「先生……ありがとう……」
その横で、御珠は静かに微笑んだ。
「……あやつ、良き人間よの」
廊下の向こうから石田の声が飛ぶ。
「次の巡回までには帰れよ!」
十二人は大きな声で返事した。
「はーーーーい!!」
颯太は笑いながら頭をかいた。
「優しいな……あの人……」
莉子は胸に手を当てて。
「えへへ……なんか好き……先生……」
澄香は顔を真っ赤にして怒鳴る。
「褒めてる場合じゃないわよ!!でも……格好良かった……」
咲良はその声を聞きながら、胸の奥の温度がゆっくり広がるのを感じていた。
(先生……ありがとう……)
御珠がぽつり。
「……良き夜になったな」
修学旅行の夜は、ようやく静けさを取り戻していった。
――――
石田が去ったあと、部屋はしばらく呆然とした静けさに包まれていた。
しかし、誰かが笑い出すと堰を切ったように空気が弾け、先ほどまでの緊張は、まるでなかったかのように消えていった。
「よし、次大富豪やろうぜ!」
颯太が声を上げると、部屋全体が一気に明るさを取り戻す。
「やったー!」
「わ、私も!」
風呂上がりの熱を残した笑顔たちが、また輪になって座る。
布団の上には散らばったカードと食べかけのお菓子。
修学旅行の夜にしか生まれない、雑多さと宝物みたいな空気。
御珠はカードを握りしめ、まるで戦場の指揮官のような顔で雪杜へ迫る。
「雪杜!妾のカードを見よ!!」
「見せちゃダメなんだよ御珠……!」
雪杜が焦るほど、御珠は満足げだ。
澄香は最初こそ眉間に皺を寄せていたが、気づけばカードを指差し、声が少し弾んでいた。
「そ、それ出せばいいんじゃない?ほら……」
女子の何人かが、頭を抱えながら天井を見つめる。
「まじ青春……」
「一生忘れない……今日……」
男子も女子も、笑いながら叫びながら、夜を噛みしめるように遊び続けた。
修学旅行の夜が、ゆっくり、優しく、深く深く沈んでいく。
――――
どれだけ騒いでも、時間は確実に流れていく。
笑い声が落ち着いた頃、透が腕時計を見て顔をしかめた。
「そろそろ本当に帰らないとヤバい」
駆も淡々と言い足す。
「次の巡回に当たったら終わるよ」
その言葉に空気が一気に引き締まり、咲良が御珠の袖を軽く引いた。
「御珠ちゃん、戻ろう?」
御珠は両手を布団に突いて、必死に抵抗するような声を出した。
「……嫌じゃ。雪杜の気配がここにあるのに……」
「御珠……頼むから……」
雪杜の声は泣きが入りそうなほど切実だ。
「むぅ……」
御珠はぷいと顔をそらす。
咲良は苦笑しながらその腕をとり、やんわりと引っ張る。
「ほらほら、行くよ〜〜」
颯太が笑いながら叫ぶ。
「引きずれー!」
すると数人が一斉に御珠を囲み“ぴょこーっ”と引きずりあげるようにして廊下のほうへ動かし始めた。
御珠は足をばたつかせながら抗議する。
「こら!離せ!妾はまだ雪杜と……!」
「はいはい、行くよ御珠ちゃん〜!」
咲良が軽く笑い、莉子は頬をほんのり染めながら囁く。
「可愛い〜……」
澄香は怒りながらも頬が赤い。
「可愛いとかじゃないわよ!!校則違反よ!!」
にぎやかな声が廊下へこぼれ、まるで小さな祭りの後片付けのように、笑いながら騒ぎながら“宴会”は幕を閉じた。
そして誰もが知っていた。
この夜はきっと、一生忘れない。
――――
布団が敷き詰められた女子部屋は、さっきまでの騒がしさが嘘のように静かになっていた。
部屋着の擦れる音や、誰かが布団を整えるときに立つ柔らかな衣擦れだけが、夜気の中へゆっくりと溶けていく。
その静けさを破ったのは、御珠だった。
咲良の布団へ、ためらいもなく滑り込んでくる。
ぎゅーーーーっ。
咲良は肩を跳ねさせ、声を裏返す。
「ひゃっ!?御珠ちゃん!?また!?
……もう……しょうがないなぁ……」
御珠は咲良の脇へ顔をうずめ、小さく囁いた。
「咲良……ぬしは温かい……
雪杜の隣に戻れるまで……耐える……」
その言葉に、咲良の胸がきゅっと縮まる。
痛むような、くすぐられるような、不思議なあたたかさが広がる。
(胸が痛いような、嬉しいような……)
「……おやすみ、御珠ちゃん」
部屋には次第に、少女たちの静かな呼吸が重なり、穏やかな夜のリズムが満ちていく。
そんな中、澄香が隣の布団からぽつりと声を落とした。
「ねぇ。御珠さん」
御珠は咲良にくっついたまま、視線だけを向ける。
「なんじゃ。
ぬしから話しかけるとは珍しいの」
薄暗い天井を見ながら、澄香は小さく息を吐く。
「ルールって何だろうね」
御珠は眉を寄せ、静かに耳を傾ける。
澄香の声は、まるで自分に問いかけているようだった。
「私、きょう初めて自分を曲げてルールを破ったの。
ルールを破ったのに皆が喜んでくれた。
ルールって何なんだろ……」
咲良はその言葉に胸がちくりとし、そっと御珠を見つめる。
(如月さん……)
畳の上で澄香のつぶやきがゆっくり吸い込まれていく。
御珠はすぐ答えようとはしなかった。
咲良の腕に寄り添ったまま、澄香の横顔をじぃっと見つめる。
ようやく口を開くとき、声は驚くほど柔らかかった。
「……ぬしは、今日の“楽しさ”を壊したくなかったのじゃろ?」
澄香はうつぶせ気味に顔を隠し、でも否定しなかった。
「……そう、だけど……
私は“正しさ”で皆を守ろうとしてきたのに……
きょうはそれと逆のことをしたの。
なのに……みんな笑ってた」
御珠は少し体を起こし、布団の境目から澄香のほうへ顔を向けた。
「それが“人の理”じゃよ」
「……人の、理……?」
御珠は言葉を選びながら、続けた。
「ルールとは“皆が困らぬため”にあるものじゃ。
だが時に“皆が喜ぶ方”が正しさを越えることもある。
ぬしは今日、それを選んだだけのことよ」
澄香は目を瞬かせる。
胸につかえていたものが、すぅっとほどけていく感覚。
その変化を自分でうまく説明できずにいた。
「……それでも……
自分が勝手にやったことに変わりはないわよ」
御珠は迷いなく首を振る。
「勝手などではない。
ぬしは“皆を思った”からそう動いた。
それは妾から見ても……誇れる行いじゃ」
澄香の息が止まる。
誰かに“誇れる”と言われる重みが、
自分が思っていたよりずっと深く心に触れた。
咲良は布団の中で、そっと拳を握る。
(……御珠ちゃん、優しい……
如月さん、ずっと抱えてたんだ……)
澄香は布団をぎゅっと握りしめ、吐息のような声で呟いた。
「……ありがとう……
なんか……ちょっとだけ楽になった」
御珠は満足げに咲良へ顔を戻しながら言った。
「ぬしも、ようやく“人らしい揺れ”を得たのじゃな。
悪くないぞ、澄香」
澄香は枕に額を押しつけ、
「……言い方がムカつくんだけど……
でも……なんか……分かる気はする……」
と、少しだけ照れた声で返す。
そのやり取りを見届けながら、咲良の心はじわりと温かくなっていく。
(すごいな……
今日一番の“距離が縮まった瞬間”かもしれない……)
薄明かりの中で、三人の距離は静かに、確かに近づいていた。
――――
朝の空気は夜の混乱が嘘みたいに澄んでいた。
食堂前の廊下には、まだ眠気の抜けきらない子どもたちが集まり、
昨夜の喧騒とは正反対の、ゆるく流れる時間が漂っている。
その静けさを切るように、教頭の低い声が響いた。
「……石田先生。
夜の見回り、もう少し徹底してくださいね?」
石田は淡々と頭を下げる。
「……はい。以後気をつけます」
周囲の空気がしんとした。
怒られているというより、“大人の世界の重さ”がそこにあった。
颯太が小声で吐息を落とす。
「やっべ……先生怒られてる……」
莉子は胸の前で手をぎゅっと握る。
「……うぅ……どっからバレたんだろ……」
駆は目を伏せ、淡々と呟く。
「……まぁ……あれだけ騒いでればね……」
咲良は胸の奥がちくりと痛む。
(……先生……
昨日あんなに優しかったのに……
怒られちゃうんだ……
ごめんなさい……)
雪杜も不安げに石田の背中を見る。
「……先生……大丈夫かな……」
その隣で御珠が小さく首をかしげる。
「人の組織は……面倒よのう……」
ふっと緊張がゆるんだ。
御珠の無垢な感想が、夜と朝の境目を柔らかくほぐしたように感じられる。
やがて、教頭から解放された石田が、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
叱られた直後とは思えない落ち着いた足取りだった。
そして――
叱られたというのに、その顔はどこか誇らしげだった。
まるで「昨夜のお前らを守れたことが嬉しい」と言っているかのような、不思議に柔らかい表情。
石田は軽く息を吐き、全員を見渡して言う。
「……情けないところを見られてしまったな。
お前らは気にするな。
さぁ、朝飯食いに行くぞ」
その声には、子どもたちの夜を抱きしめた大人の温度があった。
食堂へ歩き出す足音が、ゆっくりと流れを作り出す。
眠気も、疲れも、胸の中に残った昨夜の熱も、全部抱えたまま動き始める。
そして――
修学旅行三日目、最終日の朝が静かに幕を開ける。




