第1話 神様と一緒に帰る日
夜明け前の山道は、静かに白みはじめていた。
空の端に薄い光が滲み、雪の斜面がほんのりと青白く輝いて見える。
まるで世界の方が先に目を覚まし、二人を迎え入れてくれているみたいだった。
雪杜は白くなる息を吐きながら隣を見る。
御珠の身体を包む藍の光は、薄明の白にやわらかく溶けて、夜の神から“日常へ降りてくる存在”へと変わっていくようだった。
「……寒くない?」
御珠は袖をつまみながら、ぷいと横を向いた。
「妾は神だからな。平気じゃ。
……そなたこそ、寒くはないか?」
強がりと優しさが混ざったその言い方に、雪杜は思わず目を細めた。
空はゆっくりと白さを増し、霜のついた木々がきらきらと光を返しはじめていた。
坂を下りきった先で、祖父の家の屋根が見えてくる。
夜の暗さに包まれていた窓は、朝の光と混じりあいながらあたたかく灯っている。
御珠がぽつりと呟く。
「……帰るのじゃな。そなたの家へ」
「うん。……ただいま、って言えばいいんだよね」
御珠はこくりと頷き、雪杜の袖をそっとつまんだ。
その手は冷たいのに、不思議と震えていなかった。
夜の終わりと朝の始まりが入り混じる中、二人は玄関へ歩み寄る。
そして──
玄関の引き戸が勢いよく開いた。
冬の空気を押しのけるように、晴臣が飛び出してくる。
眉間にしわを寄せ、声だけはびっくりするほど大きい。
「どこに行っとった!大晦日の夜中にわざわざ山へ行くやつがあるか!」
その怒鳴り方が、雪杜の胸の奥に1年前と同じ風景を呼び起こす。
あの夜と違うのは、隣に小さな光が立っていること――御珠がいるということだった。
雪杜は肩をすくめて、しかしどこか安堵したように言った。
「ごめんなさいおじいちゃん……。御珠が山で呼んでたんだ……」
御珠は軽く歩み出て、晴臣を正面から見つめる。
月の残り香みたいな光をまとったまま、堂々と頭を下げた。
「すまぬな晴臣よ。妾が雪杜を呼んだのじゃ」
晴臣の表情が固まる。視線が御珠と雪杜の間をふらふら揺れた。
「か……神様……。
また顕現なされたのか」
御珠は、当然のように胸を張る。
「時々は人間の顔を見に来いと言ったのはぬしではないか」
晴臣は「あ、ああ……」と言葉を失いかけ、顎に手を当てて固まった。
その反応に、御珠はさらに追い打ちをかける。
「雪杜は妾の伴侶となったのじゃ。
これからはずーっと共に暮らす。
世話になるの」
雪杜は一歩下がりながら、顔を真っ赤にしてつぶやいた。
「……そ……そういうことになりました……」
晴臣の返事は、もはや悲鳴にも近かった。
「…………あぁ」
“情報量が多すぎて消化が追いつかない”という顔は、人類共通のそれだ。
しばらく固まったあと、晴臣は深く息を吐き、ゆっくりと肩を落とした。
「また神様と共に暮らすのも悪くなかろう……
よろしくな……神様」
御珠は嬉しそうに頷く。
「うむ!よろしくなのじゃ!」
───
家に入り、暖気が身体を包んだ瞬間、緊張がふっと緩んだ。
ストーブの前に置かれた座布団が赤々と照らされている。
「さ、まずはストーブの前であったまれ。神様も寒いじゃろ」
晴臣の声はさっきより柔らかい。
御珠は目をぱちぱちさせて、慌てて腕を抱え込む。
「そ、そうであるな。神でも寒いものは寒いのじゃ……!」
ついさっきは“平気”と言い張っていたのに。
その必死な変わり身が可愛くて、雪杜は思わず苦笑しながら座布団をぽんぽんと叩いた。
「じゃあ、こっち座って」
そわそわと落ち着きなく歩いたあと、御珠は座布団にちょこんと座る。
その姿が妙に人間くさくて、晴臣は思わず感想を漏らした。
「……神様、何か随分かわいらしくなったの」
「っ!? か、かわ……!?
……雪杜! 妾はかわいいのじゃろうか!」
視線を向けられた雪杜は、急に降ってきた無茶ぶりに両手をぶんぶん振る。
「えぇぇ!?なんで僕に振るの!?」
晴臣は目尻をやわらかくして笑った。
「若い者は仲が良くてええの」
その一言に、二人は同時に跳ね上がる。
「ち、違うから!!」
声のそろい具合が、逆に仲の良さを証明していた。
ひとしきり騒いだあと、空気がすっと落ち着く。
「朝飯でも作るか。神様も一緒に食うじゃろ?」
晴臣が台所へ向かいながら問うと、御珠は雪杜をちらっと見た。
“一緒に食べる”というただの言葉が、思った以上に胸へ響いたのか、ほんの少しだけ頬を染めた。
「そ、そりゃ……雪杜と一緒に食べ……たいが……」
雪杜は頬を赤くしながら、小さく頭を下げた。
「おじいちゃん、なんか……ありがと」
晴臣はその姿を見て、ふっと目を細めた。
「おう、おかえり。二人とも」
その言葉には、抱きしめるような温かさがあった。
――白む空の下で、家は静かに息を吹き返していく。
―――
部屋の明かりが弱く揺れ、冬の夜気が窓越しにしんと張りつめていた。
布団を広げたばかりの部屋に、どこか落ち着かない沈黙が漂う。
雪杜がそろりと視線を横へ向けた。
隣には、今日から“人の生活”に本格的に足を踏み入れた小さな神が座っている。
「御珠、その……夜は……どうする?」
声は普段よりワンテンポ遅く、迷いを含んでいる。
「ど、どうするとは……妾はそなたと共に眠るのじゃろ……?」
その“当然のこと”みたいな言い方に、雪杜は逆に動揺する。
「いや、今まではあの葉っぱに戻ってたから……」
御珠は勢いよく首を振った。
「もうあれには戻らぬ!妾はそなたの伴侶じゃからな!」
真っ赤になった顔のまま胸を張る姿が、神様というより思春期の少女に近い。
「は、はんりょ……!?そ……そうだよね……」
雪杜は耳まで熱くなり、視線を落とした。
御珠は、ぱちりと瞬きをすると、袖をつまんで小さく呟いた。
「……その前に……着替えてもよいかの?」
「え? 着替え……?」
御珠の指先に、ほそい藍の光がふわりと集まる。
次の瞬間、巫女服の紅がほどけるように消え、
かわりに白い小袖がそっと身体を包んだ。
「巫女の装束では……落ち着かぬ。
夜は……こっちのほうが、眠りやすいのじゃ……」
一瞬、裸が見えたような気がした。
けれど御珠に言えば、もう目の前で着替えてくれなくなる気がして、雪杜は黙っておくことにした。
「そ……その、御珠……
とっても似合ってるけど……
その……僕の前以外では着替えないでね。
みんな、びっくりするだろうし……」
「?
そうじゃの。そなたの前以外では着替えぬ。
皆びっくりするゆえな」
褒められたと思ったのか、御珠は耳まで赤くしてそっぽを向いた。
……だが、その横顔はどうにも落ち着かない。
御珠は小さく息を吸いこむと、覚悟を決めたように歩み寄る。
「で……では……じゃ、じゃまするのじゃ……」
そのまま――
がばっ、と雪杜の胸へ飛び込んだ。
「雪杜……雪杜……すんすん……」
御珠が胸元に顔を埋め、息を吸いこんでくる。
あたたかくて、やわらかくて、鼻先が触れるほど近い。
「ちょ……御珠……そんなにくっつくと……」
雪杜が言い終わらないうちに――
胸の奥で、何かがぎゅっ、と急に脈打った。
「っ……あ……なんか……胸が……熱い……っ」
呼吸が乱れ、肩が跳ねる。
御珠はその変化に即座に反応した。
「!?ど、どうしたのじゃ雪杜!これからという時に!」
これから何をしようとしたのか分からないが、雪杜は胸を押さえながら、苦しげに言葉を絞り出す。
「わかん……ない……心臓が、変に……跳ねて……苦しくて……」
御珠の表情が、一瞬で青ざめた。
「……っ!!だ、だめじゃ!!それは“逆流”じゃ!!」
「ぎゃ、逆流……?」
雪杜の問いに、御珠は胸を押さえながら説明をはじめる。
「妾の中には、そなたの“呪い”と妾の“神力”が混ざったものが溜まっておる……
妾は神ゆえ、平気なのじゃが──」
御珠は自分の胸元をぎゅっと押さえ、震えを抑えるように息を整える。
「そなたに触れ、強く想いすぎると……
混ざった力が“回線”を通してそなたへ逆流するようじゃ……!」
雪杜は息を荒くしながら、
「それ……危ないや……つ……?」
御珠は涙目で叫んだ。
「危ないに決まっておる!!
神の力を帯びた“呪い”の生流しなど……今のそなたの身体では耐えきれぬ……!!」
御珠は慌てて飛びのいた。
布団がばさっと揺れる。
雪杜は荒い息を整えながら、苦笑を浮かべて言う。
「御珠……気にしないで……
知らなかったならしょうが……ない……よね……」
「気にするに決まっておろう!!
妾はそなたを愛しておるのに……触れただけで苦しませるなど……本末転倒じゃ……!」
御珠の声は怒っているようで、震えていた。
自分を責める震えだ。
肩をぎゅっと縮こまらせたまま、ぽつりと呟く。
「……妾が激情しすぎたせいじゃ……
そなたが可愛すぎるから……抱きしめたら嬉しすぎて……
胸の奥で混ざりものが暴れ出したのじゃ……」
雪杜は少しだけ顔を赤らめ、目線を逸らす。
「御珠は悪くないよ。それに、苦しいけど……嫌じゃないし……」
その言葉が御珠の胸に刺さる。
「だめじゃ!!今以上は、そなたの体が持たぬ!!
そなたの魂が揺らげば……また“呪いの形”を思い出してしまう……」
雪杜が口を閉じる。
それは困ると、小さく頷いた。
御珠は震える指先をそっと伸ばし、触れる前で止めた。
「……だが……こうして手をつなぐくらいなら……
逆流は起こらぬはずじゃ……」
雪杜はその細い手を、そっと包みこむ。
「うん、じゃあ……つなご?」
御珠はほっと息を漏らし、表情をやわらげた。
「……うむ……。これなら……そなたを傷つけずに済む……」
ふたりは布団の端どうしに横になり、手だけを繋いだ。
指と指が触れ合うたび、静かに温度が広がっていく。
「御珠……ありがとう」
雪杜がつぶやく。
御珠は視線をそらしながら、声を落とす。
「……む……妾の方こそ、すまぬ……。
そなたを狂おしいほど、抱きしめたいのに……できぬのは……少し……さみしい……」
雪杜は笑うように、でもどこか切なく言った。
「僕も寂しいよ。でも……いまは、これだけでも嬉しい」
御珠はゆっくり頷く。
「……うむ。いまは……そなたの隣で眠れるだけで……充分じゃ……」
小さく息をそろえながら、ふたりは手を繋いだまま目を閉じた。
冬の夜は静かで、布団の中だけがやわらかくあたたかかった。




