第12話 冬の終わりに
休み時間の教室は、いつものざわつきとは違っていた。
今朝のホームルームで飛び出した“御珠の家族宣言”の余韻がまだ床に沈んでいて、ひそひそ声だけが煙のように揺れている。
「ねぇ、家族って本当にあれ……?」
「やっぱりちぎ……」
そんな小声が断片的に耳へ飛んでくるたび、咲良の心臓は条件反射のように跳ねた。
そのとき。
クラスでも控えめで、人の後ろにいることが多い莉子が、いつもより一歩だけ強気な足取りで咲良の机に寄ってきた。
「ねぇねぇ咲良ちゃん。家族って何なの?」
あまりにも直球で来られて、咲良はノートの端を小さく折り曲げてしまった。
「な……仲のいい友達って意味だよ。
この前さ、私たちなんか家族みたいだねって話をしたの。
そしたら御珠ちゃんが『なら今日から家族じゃ』って言い出して……ほんとかわいいよね」
なるべく“いつも通り”のトーンで言う。
莉子は目をぱちぱちさせてから、ふわっと笑った。
「えー、なんかエモい」
「そ……そうだね」
咲良は笑っているが、机の下で揃えた指が小さく震えていた。
(……よし、今ので誤魔化せた……はず。
昨日のことそのまま説明したら絶対終わる……)
少し安堵した瞬間、莉子が小さく首をかしげて、とんでもない言葉を落としてくる。
「じゃあ契ったの?」
咲良の背筋がビクッと跳ねた。
心臓が一拍抜け落ち、次の瞬間どくんと騒ぐ。
(もう!
“契った”って何なのよ!!
雪杜くんのせいで契る=キスになってるんだけど!?)
「契ってないよ!握手しただけ!ふつーのやつ!」
両手をぶんぶん振ると、莉子はあっさり納得した顔で頷いた。
「へぇー。そうなんだ」
その拍子抜けするほどの無邪気さに、咲良は胸の奥でそっと息を吐いた。
(……助かった……。
莉子がお母さんみたいに察しが良くなくて……ほんと助かった……)
「じゃぁ“天野くんの隣に立つことを許す”ってどういうこと?」
(……助かってない!ひー、一番触れられたくないやつ!)
「そ……それはね。御珠ちゃんって雪杜くんラブじゃん。
私、実は二人の仲を取り持ったの。
だから私だけは特別にそばにいてもいいよって」
「え!なにそれ!?聞きたい!」
(しまった!興味ひいちゃった!)
「だめだよ~。三人だけの秘密なんだから」
「えー、おもしろそうなのにー」
(ふぅ。……あながち嘘でもないし、いいよね)
このときの自分の発言が、のちに“咲良キューピット伝説”として語られるとは夢にも思わない咲良であった。
────
昼休みの教室は、給食の匂いよりも“家族宣言”の残り火の方が濃かった。
配膳の金属音が響くたびに、ひそひそ声が端から端へ飛び移っていく。
「家族って何?」「契ったって本当に?」
そんな曖昧な噂の熱がまだ机と机の間に残っている。
雪杜はパンをちぎりながら、できるだけ普通の顔をしようとしていた。
……けれど隣から、颯太の口いっぱいの声がいきなり飛んでくる。
「なぁなぁ、家族って何なんだ?」
パンをもぐもぐしながら言うから、妙に明るくて悪意がない。
その無邪気さに救われたような、逃げ場がないような気持ちになる。
「な……仲のいい友達って意味だよ」
雪杜は俯きかけた視線を上げ、なんとか答える。
「へー。じゃぁ俺でも天野ファミリー入れんの?」
「天野……ファミリー……?」
噛みしめるように呟くと、胸の中に“なんか変な名前ついてる……”という困惑が広がった。
颯太は得意げに腕を組む。
「なんかかっけーじゃん。マフィアっぽくてよくね?」
(物騒な例えやめて……先生に絶対目をつけられるやつ)
心の中で頭を抱えた瞬間、向かいから真っ直ぐな声が割り込んでくる。
「む?ぬしも家族になりたいのか?
ぬしは雪杜の味方じゃろ?
なら今日から家族じゃ」
御珠は完全に“公認者”の顔で堂々と宣言した。
颯太は椅子をガタンと鳴らして立ち上がる。
「えっ!?マジ!?やったーーー!!」
教室の空気がびくんと揺れた。
雪杜は箸を落としそうになりながら叫ぶ。
「えっ!?軽!!」
反対の隣から咲良が机に突っ伏しそうな勢いで声を上げる。
「えっ!?そんなに軽いの!?
(私、昨日めっちゃ試されたんだけど……!!)」
御珠は堂々、どこまでも迷いがない。
「なに。家族は多いほうが楽しかろう」
その言い方が、まるで“日常の一環”みたいで、雪杜は笑うしかなかった。
「そ……そうだね。改めてよろしくね、颯太」
颯太は胸を張り、満面の笑みで返した。
「おう!ずっ友だぜ!!」
その一言はまっすぐで、何の裏もない。
雪杜は胸の奥がじんわり温かくなっていくのを感じた。
(……男友達って……こういう感じなんだ……)
そのささやかな実感は、誰に見せるでもなく、静かに胸の中で広がっていく。
周囲の机では、ひそひそ声が再び動き出していた。
「え、天野ファミリー増えた?」
「家族ってそういうノリなん?」
「なんか仲良しグループって意味なんだって」
騒がしいのに、どこか温かくて、悪意の気配がない。
(……よかった……誰も“側室”なんて疑ってない……)
そして――
その日の昼休みを境に“家族=仲良しグループ”というゆるい定義が、クラス中で自然に浸透していった。
御珠が引き起こした爆弾は、結果的に子どもたちの常識の中で、不思議なくらい丸く吸収されていくのだった。
────
あくる日。
教室には紙のこすれる音がゆるく広がり、どの席にも退屈と集中が半分ずつ混ざったような空気が漂っていた。
ただひとり――御珠だけは、今日も例外だった。
1限目 国語
石田がゆっくり列を歩き、ノートをのぞき込むたびに「うん」「いいね」と短く声をかけていく。
だが御珠の机の前に来た瞬間、その足がぴたりと止まった。
「御珠くん。……その字は……なんだね?」
ノートには、文字とは言い難い“線の乱舞”が並んでいる。
御珠は胸を張って答えた。
「読めぬか?これは“崩し字”じゃ」
(……ただの崩壊寸前の線にしか見えない……)
咲良は心の中でそっと倒れ込む。
石田は困ったように目を細めた。
「もう少し“読みやすく”書こうね。読めないと丸がつけられません」
御珠はむすっとして、一度ノートを見下ろす。
「理を正せば読めるはず……」
(御珠……今度筆ペン、プレゼントしてあげるね)
雪杜は、ああいう“くずした字”って、筆で書くものだよな……今度一緒に選びに行こうかな、とどうでもいいことを考えていた。
2限目 算数
チャイムが鳴り、教科書がぱらぱらとめくられる。
石田が黒板にさらりと分数を書いた。
「では、この分数を約分してみましょう。2/4は──」
その瞬間、御珠が椅子をがたんと鳴らして立ち上がった。
「待て!なぜ“2を4で割る”と“1/2”になるのじゃ!
数の姿が勝手に変わっておる!!」
教室が一瞬でざわっと波打つ。
「いや、そういうものなんじゃ……」
「姿って何……?」
御珠は教科書を指でつつきながら、本気で納得していない。
咲良は前の席から小声で説き伏せようと身を寄せた。
「御珠ちゃん!約分は“見た目が変わるだけ”で中身は同じなの!」
「同じ……?妾にはどう見ても別物じゃが……」
(御珠……今度ホールケーキ買って、一緒に切りながら教えてあげるね)
雪杜は、御珠と楽しそうにケーキを食べる未来を想像し、思わず頬がゆるんだ。
3限目 理科
理科室に移動すると、いつもより席がざわついている。
理由は明白だ。――御珠が実験器具を前に、興味で体を前後に揺らしている。
「では、静電気の実験を——」
石田が説明を始めるより早く、御珠が立ち上がった。
「なんと!電気とはこのように発生するものであったか!!」
クラスの何人かは反射的に椅子を引いた。
「お、おぉ……?」
驚きというより半分ひき気味だ。
御珠の髪がふわりと逆立ち、照明の光を受けて妙に神々しい。
「見よ雪杜!妾の髪が天へ伸びる!!」
「う、うん……すごいね……」
(御珠ちゃん……実験道具壊さないで……)
咲良は胸のあたりを押さえ、祈るように見守るしかなかった。
(御珠……”髪”が立って”神”がかってる……なんて)
きょうの雪杜は何か変である。
4限目 社会
最後の授業は社会だった。
石田が黒板に大きく「神武天皇」と書き、教科書を開く。
「日本の初代天皇は神武天皇と言って──」
その説明の途中で、御珠がすっと顔を上げる。
挙手もせず、当然のように語り始めた。
「神武天皇の東征はのぅ……最初の戦は失敗したのじゃ。
天照の子が“太陽に向かって”進むのは理に合わんからな。
そこで八咫烏が道を示し、日の背を受けて進んだ――
それでようやく勝てたのじゃ」
教室が一気にざわつく。
「やたがらす?」
「と……とうせいって何?」
「そんなこと教科書に書いてないよ!」
石田は笑顔を固めたまま、黒板の前で震えていた。
「え、えーっと……まぁ、その……そういう伝承もあります……」
「さすが神様は言うことがちげーな!」
颯太がすかさず囃し立てる。
(御珠ちゃん……サイドストーリーが濃い……)
咲良はもうツッコミきれず、机に額をつけて呻いた。
(御珠……ほんとは見てきたんだね……わかる)
雪杜は謎の支援面をして見守る。
授業が終わる頃、教室にはいつも通りなのに、どこか非日常が混ざったような空気が残っていた。
御珠がいるだけで、学校は少しだけ騒がしく、そして不思議と楽しい。
それが、天野ファミリーの“日常”だった。
────
掃除の時間。
ほうきの音と机を引く音が教室に広がるはずの時間なのに、雪杜の隣ではすでに異音がしていた。
「雪杜ー!野球やろうぜー!」
颯太が紙屑を丸めながら、悪びれもせずに笑う。
雪杜は慌てて首を振った。
「サボっちゃダメだよ……」
しかし、雪杜の声を無視して颯太は紙屑を投げた。
「ほれ。打ち返してみろ!」
紙屑が軽く舞い、雪杜の方へ飛んでくる。
雪杜は反射的にほうきを振ってしまった。
「っちょ……ダメだって──」
パスッ、と意外にいい音がして、紙屑はきれいな軌道を描いて飛んだ。
「おお!ナイス!次、俺バッターな!!」
颯太は大喜び。
掃除をする気は微塵もない。
その後……
「いくぞー!」
「かかってこい!!」
二人が完全に遊びモードへ突入したその瞬間――
教室の入り口に巨大な影が落ちた。
澄香が仁王立ちしていた。
「こらーーーッ!!男子ーー!!
掃除しなさーい!!」
声の迫力に、颯太が条件反射で叫ぶ。
「やべ!逃げろ!!」
「えっ、ちょっ──!」
雪杜は腕を掴まれ、半ば引きずられるように廊下へ走り出す。
逃げる二人を見つけた御珠が、当然のように加わる。
「雪杜よ!どこへ行くのじゃー!!
妾も参る!!」
ほとんど戦場さながらの勢いで、三人は連なって廊下へ駆けていった。
その後ろで、咲良が慌てて声を上げる。
「えっ!?ま、待って私も!!」
咲良も慌てて走り出し、気づけば四人全員が廊下へ消えていく。
取り残された澄香は、机の間に立ち尽くしたまま震えた。
「……っっっこの天野ファミリー!!
先生に言いつけてやるんだから!!!」
彼女の怒気が、机の脚を揺らすほどの勢いで渦を巻いていた。
────
終業式が終わったばかりの教室には、春の手前のような、ゆるい空気が漂っていた。
石田は通知表の束を抱え、気の抜けた声を上げる。
「はい通知表渡すぞ。自分の名前呼ばれたら取りに来いよー」
名前を呼ばれた子から順々に前へ出て、紙の重さに一喜一憂しながら席へ戻っていく。
颯太は受け取るなり、扉を開けるみたいに通知表をパッと広げた。
「体育“よくできる”よし!」
その横で咲良も、ほっとしたようにページをめくっていた。
「国語“よくできる”だって。ひとつでもあってよかった~」
そんな二人の間に、御珠は堂々と通知表を開き――
眉をひそめた。
「生活態度……“もう少し”?」
雪杜はその一瞬で、胸の奥がざわりと揺れた。
(……あ……絶対めんどくさくなるやつ……)
予感は的中する。
御珠は通知表を指さし、まるで納得できないという顔で言い放った。
「妾の生活態度のどこが“もう少し”なのじゃ?
この世で誰より“よくできる”であろう?」
颯太が即答した。
「いやいや職員室の常連なら“もう少し”で正解だろ!」
咲良は苦笑しながら肩をすくめる。
「御珠ちゃん、ちょっと独特だから……
みんな慣れるまで時間かかるだけだよ、きっと」
御珠は「むむむ……?」と納得しない様子で唸っていた。
前を見ると、石田が透に通知表を渡しながらため息をついている。
「……“もう少し”より下の評価がないのが残念だ」
透は、ためらいながらも、そっと声をかけた。
「先生、顔……怖いですよ……?」
石田は返事もせず、次の通知表を渡す準備をしている。
御珠のせいで疲労が蓄積していく一方だった。
そんな中、雪杜は自分の通知表をそっと開いた。
手のひらの上の紙に「できる」「よくできる」が並んでいる。
胸の中が、じわっと熱くなる。
(……褒められるの……昔は怖かった……
でも……今は……)
気づけば、天野ファミリーが自然に覗きこんでいた。
「雪杜くん“よくできる”いっぱいあるじゃん!すごいよ!」
咲良が軽やかに言い、颯太がさらに声を弾ませる。
「おっ!算数も“よくできる”じゃん!すげぇ!」
その後ろで御珠は誇らしげに胸を張った。
「雪杜は頭がよいのじゃ。妾が保証するぞ」
その言葉がやけにまっすぐに届いて、雪杜は目元を指で押さえながら、小さな声をこぼした。
「……普通に褒められるの……うれしい……」
その涙は、悔しさではなく、ほんの少し、勇気の味がした。




