【閑話】第11.5話 苦くても好きでいたい
※この話には、成長にともなう身体の変化を描いた表現が少しだけ含まれます。
苦手な方はご注意ください。
家に帰って玄関の戸を閉めると、外の冷たい空気がようやく離れていった。
夕飯の匂いがふわっと漂ってきて、その温度が胸の奥まで溶け込む。
「咲良、おかえり。……で?チョコレート、ちゃんと渡せた?」
……いきなりそこ。
靴を脱ぎながら、私は思わず視線をそらした。
「……う、うん。渡せたよ……その……ちゃんと気持ちも言えたし」
「そう……でどうなったの?」
お母さんの声はいつもみたいに優しいけど、その奥にある“何かを察してる感じ”が隠しきれていなかった。
「……なんか御珠ちゃんに気に入られて、雪杜くんの隣にいることを認めてもらえた……」
言った瞬間、お母さんの顔が固まった。
「……認めてもらえた?
え……え、ちょっと待って。
……それって……御珠ちゃんが正妻であなたは側室ってこと!?」
「ち……」
言いかけた言葉が、胸の奥でふっと止まった。
“違うよ!雪杜くんを一緒に守るの!”
そう続けるはずだったのに、喉がすうっと塞がった。
(……これ、御珠ちゃんの力……?
“守る”なんて言葉を出したら、お母さんなら絶対に真相までたどり着いちゃう……
だから……言えなくなってるんだ……)
「ち?」
お母さんが怪訝そうに首をかしげる。
「え……と……違うの」
「何が?」
(まずい……誤魔化せない……
でも“側室”って……傍から見たら、そう見えちゃうのかな……
もし皆に知られたらまた仲間外れにされるかもしれない……
御珠ちゃんは守ってくれるかな……
でも――
でも私は、決めたんだ……
雪杜を守るって。
こんなことくらいじゃ負けない……!)
私はぎゅっと指先を握りしめて、小さく息を吸った。
「え……と……違わない……かも……」
その言葉は想像以上に重く響いて、お母さんは絶句したまま私を見つめた。
「神様……何を考えてるの……?
咲良が側室……
あなたはそれでいいの?」
「うん。……私、決めたの。
雪杜くんの隣に……いたい」
お母さんは顔を手で覆い、長く深い息を吐いた。
「……咲良。
母親としてはね、こういうの……不安になるのよ。
普通じゃないし……
あなたの将来も心配だし……」
「……うん……分かってる」
沈黙が落ちる。
その間、お母さんはゆっくりと息を整えて、私の方に向き直った。
「でも……
あなたが決めたことなら無理に否定はしない。
“今は”ね。
ただ……いびつな関係であることは覚えておいて」
「……うん……」
胸の奥が、じわっと重くなる。
それは安心でも肯定でもなく……
“これから先、お母さんとぶつかる未来がどこかにある”そんな重さだった。
(……お母さん。いつも心配かけてごめんなさい。
でも――
咲良は神様の眷属になってしまいました。
きっと、普通の道には……もう戻れないんだ……)
思っていた以上に現実が重たく感じて、息が一瞬だけ苦しくなる。
誰にも言えない秘密を、今日から抱えて生きていくんだと実感した。
────
部屋の灯りを消すと、冬の静けさがそのまま布団の中に入ってくるみたいで、肌に触れる空気まで冷たく感じた。
私は布団を鼻先まで引き上げ、目を閉じる。
その瞬間、今日のことが――どっと胸の奥へ逆流してきた。
(……わたし……今日……)
布団の中で、指先が小さく震える。
好きって言った。
御珠ちゃんに正論をぶつけられて、膝から崩れるほど泣いた。
それだけじゃない。
御珠ちゃんを叩いた。
怒鳴った。
全部ぶつけた。
あんな自分、はじめてだった。
そのあと――
眷属になるって……仮だけど、誓っちゃった。
さらに、御珠ちゃんの“弱点”の話まで聞いて……
お母さんとも、ちゃんとは分かり合えなかった。
心配させちゃったし、うまく言えないことばっかりで……
胸の奥がじんわり痛くなる。
あまりにもたくさんのことが押し寄せた一日に、呼吸の仕方さえ分からなくなる。
(……なんか……本当に……すごいことになっちゃったな……)
涙がにじみそうで、でもこぼれるほどじゃなくて。
胸の奥がじんわり熱くて、落ち着かない。
胸に置いた手の少し下――
おへその奥あたりが、ふわっと重たくなる感覚に気づいた。
(……これって……
泣きすぎたせい……じゃないよね……
雪杜のこと考えると、なんか……変になる……)
理由のよくわからないざわつきが、息に合わせて小さく揺れる。
私は少し怖くなって胸に手を戻し、そっと息をついた。
(あんなに怒ったの、初めて……)
喉がカラカラになって、息を飲むたびに胸がひりつく。
叩いたときの感触も、自分の震えも、全部残ってる。
(それでも……好きって言えてよかったって、思ってる……)
ゆっくり息を吐くと、胸の痛みが少しだけ丸くなる。
(“好き”って……こんなに苦しいんだ……
……なのに……雪杜を好きだからこそ、あんなに怒りが湧いた……
好きって、すごいんだね……)
暗い部屋で、無意識にふっと笑ってしまう。
誰にも見えないから、余計に素直になれる。
(……わたし……強くなれたのかな……
それとも、弱いままなのかな……
……わかんないけど……)
布団の端をぎゅっと握りこむ。
(雪杜の隣にいたい。
苦しくても、泣いても、それでも……隣にいたい。
私が守らなくちゃ……)
その言葉を胸の奥で抱きしめながら、そっと目を閉じた。
胸はまだチクチク痛むけど――
それは、確かに前に進んだ日の“静かな痛み”だった。
────
冬の朝の教室は、いつも通りのざわざわで満ちていた。
私は席に座って、胸の奥の緊張を押し込むように深呼吸する。
(……昨日のこと、ちゃんと隠せてる……?
いつも通りにできてるよね……大丈夫、大丈夫……
でも……側室バレは絶対いや……)
石田先生が教卓に立って、いつもの調子で言った。
「えー……じゃあ今日のホームルーム始めるぞ」
雑談が静まりかけた、その瞬間だった。
すっ。
前の方で、御珠ちゃんが堂々と手を挙げ、すくっと立ち上がった。
(……え、御珠ちゃん……?
ちょ、ちょっと待って……まさか……
いや、でも……いやいやいや、まさか……やめて!)
教室中の視線が、一点に吸い寄せられる。
「御珠くん、黙りなさい」
先生が雑に処理しようとして、注意したけど御珠ちゃんは無視して続けた。
「妾はここに宣言する。
──咲良は昨日より、妾の“家族”となった。
雪杜の隣に立つことを正式に許す」
……教室が一瞬で凍りついた。
そして――
「御珠あああああああああああああああ!!!!!?」
「御珠ちゃああああああああああああああああん!!?!?!?」
雪杜くんと私の叫びが、もはや反射的に響く。
颯太くんは大興奮で、
「うおおお!!家族キターーーー!!」
と叫ぶし、女子たちも大混乱。
「伴侶の次は家族!?え、春原さんも契ったの!?!?」
男子たちも叫ぶ。
「家族って何の!?どの家族!?天野の!?」
その中で、委員長の如月さんが静かにキレていた。
「このクソ巫女……
どこまで学校を混乱させれば気が済むの……!?」
真壁くんは真壁くんで、肩を落としてつぶやく。
「……うわぁ、今日も混乱指数90%は超えてるね……」
ほんと、地獄。
私は両手で顔を覆いかけ、涙目で天井を見上げる。
(ちが……いや違わないけど!!
えぇぇぇぇ……!!
もしかしてとは思った……思ったけど……
ほんとに言う!?
ほんとに言うの!?ここで!?
ホームルームで!?
先生の前で!?
クラス全員の前でぇぇぇぇ!!?)
胸が苦しくて顔が熱くて、でもどこか笑えてきて。
泣くのか笑うのか、自分の中でぜんぶごちゃ混ぜになっていく。
(……御珠ちゃん……
好きだけど……!
こういうとこほんと……!!)
石田先生がついにキレた。
「ゴルァ御珠ぁ!!貴様、次はないと言ったはずだぞ!」
御珠ちゃんは涼しい顔で返す。
「どうしても言わなければならなかったのじゃ。
伴侶も契りも言うとらんぞ?」
「そういう意味じゃない!
場を混乱させるなと言ったんだ!」
雪杜くんがポツリと、
「先生キレてる……どんどん御珠の扱いが雑になってない?」
颯太くんは大喜び。
「うはは家族!マジで家族!?」
……もうだめだ。静まる気配ゼロ。
(……はぁ……もう……
こうなるかもって、思ったけど……
思ってたけど、心がついてかないよ……)
泣き笑いで頭がぐるぐるする。
(でも……御珠ちゃんらしいや……
……はぁ……好き……でも怒る……でも嬉しい……
……もうむちゃくちゃだよ……)
私は拳をそっと握った。
胸の奥が、さっきの混乱とは違う熱さで満ちてくる。
(……こんな日常でも、隣に立つって決めたんだもん。
ちゃんと受け止めなきゃ……
でも……お願い……
“側室”なんて、誰も気づきませんように……)
けれど、その小さな願いなんて簡単にかき消すように、教室のざわめきはさらに悪化していった。
地獄の、はじまりだった。
────
チャイムが鳴り終わると同時に、石田先生が教卓に教科書を置き、これでもかってくらい長く深い溜息をついた。
「……あー……今日の授業はこれで終わりだ。
だが、御珠、天野、春原の三人は――職員室に来るように」
その声で、教室の空気がぴたりと固まった。
うん……まあ、そうなるよね……。
「……あちゃー……やっぱりか……」
思わず口から漏れた。
だってあれだけの爆弾騒ぎだもん。
逆に呼ばれない方が不自然だ。
雪杜くんは肩を落として、机に手をついたまま弱々しく振り返ってきた。
「ご、ごめんね……咲良まで巻き込んじゃって……
御珠が、あんな……家族宣言なんて……」
私はすぐに首を振った。
「謝らないで。
……私は望んで家族になったの」
声に出した瞬間、胸の奥にふっと火が灯る。
私の中の決意は、ちゃんと揺れてなかった。
その横では、御珠ちゃんが胸を張ってまぶしいくらい元気に言い放った。
「職員室!久しぶりじゃの!
さて、石田とひと勝負するかの!」
……状況理解してる?ねぇ御珠ちゃん。
「「はぁ……」」
私と雪杜くんの声がきれいに重なった。
雪杜くんは頭を抱えて、私は天井に視線を向けて遠い目になる。
(……これが……“神様と家族になる”ってことなんだよね……
静かじゃない未来は分かってたけど……
それにしても御珠ちゃん、元気すぎ……)
御珠ちゃんはもうルンルンで、スキップみたいに軽い足取りで廊下へ向かっていく。
「さぁ、雪杜!咲良!行くぞ!
妾がいるゆえ心配いらぬ!」
雪杜くんがぼそっと返す。
「それが一番心配なんだよ……御珠……」
「ほんと、それ……」
私も思わず同じ気持ちを口にしていた。
三人の声が重なって、放課後の廊下にため息と小さな笑いが混ざり合いながら流れていく。
ほんと……にぎやかだな、この家族。
────
放課後の職員室は、夕方の光が窓から差し込んでいて、先生たちの雑多な声がまるで遠くのざわめきみたいにゆるく漂っていた。
その真ん中に、私たち三人――と一柱が立っている。
石田先生は腕を組んで、ため息を深く深く吐いた。
「……始業式の日に言ったよな?
“次また同じことがあったら、保護者呼ぶからな”って」
雪杜くんは真っ白な顔で固まっていた。
あれはもう、魂が抜けかけてる。
「あ、あの、石田先生……今日は本当にすみません……!
御珠ちゃんはその……悪気があったわけじゃなくて……
本当にその……」
私は慌てて頭を下げながらフォローする。
でも、その当の御珠ちゃんが隣で堂々と首をかしげた。
「む?何が悪いのじゃ?」
「御珠、黙って……お願いだから……」
雪杜くんの声は震えていた。そりゃそうだ。
石田先生はこめかみを押さえながら、御珠ちゃんをにらみつける。
「まず確認させてもらうぞ、御珠さん。
“家族”とはどういう意味だ?」
御珠ちゃんは堂々と胸を張る。
この状況の何が誇らしいのか、本気でわからない。
「妾と雪杜と咲良は“家族”じゃ。
咲良とは共に戦う仲間となったため、雪杜の隣に立つことを許された。
ゆえに家族じゃ。疑問はあるか?」
「疑問しかないわ!!」
石田先生の声が職員室中に響き、周りの先生がびくっと振り返った。
「せ、先生!“家族”って言ってもその……
その……普通の意味じゃなくて……
なんというか……説明がむずかしいんですけど……!」
私は必死でフォローするけど、説明すればするほど泥沼に沈んでいく未来しか見えない。
雪杜くんも、情けない顔で助け船を出す。
「ごめんなさい石田先生……
御珠はその……文化の違いというか……」
石田先生は私たち二人にだけは眉をゆるめて、
「お前ら二人は巻き込まれただけなのは見れば分かる」
そのあと、御珠ちゃんに向けて表情を一変させた。
「ただ御珠くん、君は分かってやっているのか?
分からずにやっているのか?どっちだ?」
御珠ちゃんは迷わず答えた。
「分かっておるぞ。
妾は雪杜の“伴侶”であって“家族”であり、そして咲良も“家族”じゃ」
……余計なワードを足した。
「伴侶を足すな!!」
石田先生の怒号が炸裂した。
「ごめんなさい先生っ!ほんとごめんなさい!!
わ、私もつい……御珠ちゃんの言うことを止めきれなくて……!」
私が泣きそうになりながら言うと、御珠ちゃんは逆に不満げだった。
「妾のどこが悪いと言うのじゃ。
咲良は妾が認めた娘じゃぞ?」
……その“認めた”が問題なのよ、御珠ちゃん。
石田先生は大きく息を吐いて、額に手を当てながら力尽きたように言った。
「つまり仲良しの家族ごっこってことでいいな?」
雪杜くんも私も、こくこくとうなずくしかない。
「……今日は春原のその“なんとも言えない反省してます顔”に免じて許す」
「っ!ありがとうございます……!」
私が頭を下げると、横から御珠ちゃんが元気いっぱいに爆弾を投げた。
「ぬしは甘い教師じゃの!」
「黙っとけ御珠くん!!!
次、教室であんな発言したら――
本当に保護者呼ぶからな。ガチで!」
「「はい……!」」
雪杜くんと私は完全に萎縮して返事したけど、御珠ちゃんだけはひとりだけ別方向に沈んでいた。
「うむぅ……それを出されると弱いのぅ……
晴臣には……頭が上がらん……」
いつも強気な御珠ちゃんが、珍しく小さくなっている。
(……はぁ……
ほんと、神様と家族になるって……大変すぎる……
でも……もう、引き返さないって決めちゃったんだよね……)
────
放課後の道を歩いているときはまだ胸の奥がざわついていたけど、家に帰ってランドセルを机に置いた瞬間、力がふっと抜けてしまった。
そのまま布団にぽすん、と倒れ込む。
天井は白くて静かで、カーテンのすき間から夕焼けの色が少しだけ差し込んでいる。
その光がゆっくり部屋に伸びてきて、布団の端を薄く染めていた。
目を閉じると、今日のことがぽつりぽつりと胸の中へ戻ってくる。
あの混沌だらけのホームルームも、職員室の騒ぎも、今になるとどこか遠くの出来事みたいに薄まっていく。
(……眷属、かぁ……)
そっと胸に手を当てる。
(ほんとに……なっちゃったんだよね、私……
神様の……御珠ちゃんの……“家族”ってやつに……)
じんわりと胸が温かくなる。
同時に、きゅっと痛みも走る。
(雪杜の隣にいることを……
ちゃんと“認められた”のは……すごく嬉しいのに……)
まぶたが少し震えた。
(でも……雪杜の“一番”にはなれないんだよね。
最初から分かってたのに……
言葉にして考えると……やっぱり痛い……)
布団が静かすぎて、自分の呼吸だけが小さく聞こえる。
(御珠ちゃんは……ほんとにすごい。
怖いくらいで……でもやっぱり大好きで……尊敬もしてる……
……だから余計に、勝てないって分かってる)
胸に置いた手が少し震える。
でも、深呼吸するとその震えがすっとおさまった。
(でもね……
“隣に立っていい”って言われたんだもん。
それが……すごく幸せで……
今日の私には、それで十分なんだ……)
息を吸って、ゆっくり吐く。
胸の奥にあったざわつきが、じわっと落ち着いていく。
(……こんな未来、ほんと想像もしてなかった。
だって、神様と人間と……三人でなんて……
物語みたいで……変で……
でも、後悔はしてない)
布団の中で、口元が自然にわずかに笑った。
(雪杜のそばにいたいって……
ちゃんと言えた自分のこと……
今日は少し、好きになれたから)
瞼の裏がゆっくりあたたかくなる。
胸の奥に残った余韻は、静かで、やわらかい。
そのまま私は、冬の夕方の光の中で目を閉じて――
今日を生きた自分を、そっと抱きしめるように眠りへ落ちていった。




