第11話 ビターな恋の作り方 ― 本命編 ―
放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
窓の外からは部活動の声が風に溶け、廊下には冷たい空気だけが薄く漂っている。
日が落ちる前の、その境目の時間――誰もが帰り支度に入る頃。
そんな中で、雪杜は空き教室の前に立ち尽くしていた。
袖の中の手はきつく握られ、爪が手のひらに当たって少し痛い。
それでも離せなかった。
(……来たよ。
僕も、ちゃんと向き合わなくちゃ。
咲良の“今の気持ち”を聞くんだ……)
心臓がどくん、と大きく鳴った。その一拍だけで膝が揺れそうになる。
「そなたよ。そう緊張するでない」
隣の御珠は、いつもより静かな声だった。
胸の奥が張りつめているのは彼女も同じらしい。
ただそれを隠す術を知っているだけだ。
「う……うん。御珠は平気なの?」
「妾も少し緊張しとるがの。
咲良の並々ならぬ覚悟を感じておる」
その言葉に、雪杜は小さく息を吸った。
そして覚悟を決めるように、扉へ手を伸ばす。
「じゃあ、行くよ」
戸をゆっくり開ける。
――教室は夕日で満たされていた。
誰もいない空間の静けさが、足元から胸へと染み込んでくる。
その中心に、咲良がいた。
窓際に立ち、両手でチョコの包みを握りしめ、背中だけが少し大人びて見えた。
逆光のせいか、そのシルエットは昼よりずっと大きく見える。
咲良は気配に気づき、ふわっと振り返る。
その笑顔は無理をしていない。
逃げる影は、もうどこにもなかった。
「……来てくれたんだね、雪杜くん、御珠ちゃん」
「もちろん。約束だから」
御珠も静かに歩み出る。
「咲良。ぬしの言葉……しかと聞かせてもらうぞ」
「うん。聞いてほしい」
咲良はチョコを抱きしめたまま、静かに雪杜の前へ歩み寄った。
夕日の光が彼女の頬にかかり、その瞳の奥にある決意まで照らしている。
「雪杜くん……」
「……うん」
空き教室は、異様なほど静かだった。
その静けさが、これから起きることの前触れのように感じられた。
咲良は胸の前でチョコを握り、ゆっくり息を吸う。
そして、そっと息を整えた。
「私、雪杜くんが好き。
……お正月でも言ったけど、改めて言わせて」
言葉が落ちた瞬間、空気がわずかに震えた。
雪杜は息を詰まらせ、言い返そうとして――
「咲良……気持ちはうれしいけど、僕には御珠が――」
その言葉を、咲良は優しく遮った。
「いいの。
ただ……“私のことも忘れないでほしい”
それだけ」
静寂が雪杜の胸に刺さる。
その“願いの小ささ”が、逆に大きすぎて苦しい。
御珠が、静かに息を吸って咲良へ問う。
「……咲良よ。ぬしはどうしたいのじゃ?
奪いたいわけではないと申したが……
雪杜を困らせて、どうしたい?
妾と雪杜は一生離れぬ絆で結ばれておる。
その“好き”を……一生、抱き続けるつもりか?」
その声は威圧ではなく、本心からの問いだった。
むしろ“理解できないからこそ知りたい”という揺れが滲んでいる。
咲良は胸を押さえ、言葉を探すように息を吸った。
「……わからない。
でも……“好きでいられなくなる未来”なんて考えたくない。
いまは……好きでいたいの」
御珠は一歩だけ近づき、目線を合わせた。
「そなたらは、時と共に姿を変えてゆく。
妾だけが変わらぬままじゃ。
いずれそなたらは“別々の未来”へ進むことになる。
その時もなお“好き”でいたなら……ぬしは痛まぬか?」
咲良は少し目を伏せ、それでも前を見るように顔を上げる。
「痛むよ。
きっと、すごく。
大人になっても好きなままだったら……
何回も“もうやめたい”って思うと思う」
声は震えていない。
それは嘘じゃない証拠だった。
「でも……“好きじゃなくなる”よりは、ずっとまし」
御珠は言葉を止める。
理解できないというより、その答えが胸に重く響いたようだった。
「ぬしは、痛みよりも“好きじゃなくなること”を恐れておる……?」
「うん。
“好きじゃなくなる”って、自分を裏切るみたいでこわい。
今日の私が本気で好きって言ってるのに、未来の私が『そんなのもう忘れた』って言ったら……今日の私がかわいそうだもん」
夕日が差し込み、咲良の影がゆっくり伸びる。
その影すら揺れず、まっすぐだった。
御珠が静かに返す。
「……人の心は変わるものじゃろう。
小さき頃好きであった遊びも、飽きるように」
「遊びはね。
でも“好き”は……“飽きた”で片付けたくない」
短い言葉なのに、重さがあった。
咲良は続ける。
「いつか私が結婚して、子どもができて、その子を本気で大事だって思うようになって――
ある日ふっと思い出すんだよ。
『あ、私……昔、本気で雪杜くんのことが好きだった』って。
それでいいの。
忘れるんじゃなくて“あの日の私は本気だった”って、未来の私が覚えていられたら、それでいい」
御珠の目に、揺らぎが生まれた。
それは理解というより――共振。
「……ぬしは“今日の好き”を未来のぬしへ渡したいのじゃな」
「そう。
たとえ形は変わっても“なかったこと”にはしたくない」
御珠は胸に手を当てた。
永遠の存在である彼女には“未来の自分”という概念が人ほど強くない。
変わらないということは、ある意味で未来を持たないということでもある。
「妾には、人の“先の自分”という感覚が薄い。
妾は永遠の中で変わらぬ。
変わるのは、いつも人の側じゃ」
咲良は微笑みながら頷いた。
「うん。
でもね、人間って“昨日の自分”も“十年後の自分”も、みんな一緒に生きてるんだよ。
だから……その人達に恥ずかしくないように、私は“痛くても好きでいる方”を選ぶ」
御珠は言葉を失いかけ、それでも絞り出す。
「……ぬしは、強いの」
「強くなんてない。怖いよ。
このまま大人になっても、ずっと好きなままだったらって考えると」
「ならば、やめればよい。
“好きじゃなくなる道”もあるはずじゃ。
それを選ぶなら……早ければ早いほど、ぬしは傷つかずに済むぞ。
その方が、次の未来へ進めよう?」
御珠の言葉が落ちた瞬間、空気がすっと冷えたように感じられた。
咲良の肩がわずかに震える。その震えは、御珠の正論に胸の奥を抉られた証だった。
御珠は淡々としていた。情けでも優しさでもなく、ただ事実を述べる声。
けれどその“正しさ”が、咲良の弱いところをまっすぐに刺した。
咲良の唇が震え、視界がじわっと揺れた。
「っ……ぐ……御珠ちゃん……
それはズルいよ……そんなの言われなくても分かってるよ……!」
耐えていた涙が縁いっぱいまでせり上がる。
咲良は拳を握りしめたまま、息を荒くして続けた。
「できるなら……とっくに……忘れてるよ……!
でも、できないの!!
雪杜くんが好きで……好きで……どうにもならないの……っ!」
張り詰めていた糸がそこでぷつりと切れ、咲良の膝が床に沈んでいく。
涙がぽたぽたと落ちる音が、やけに大きく響いた。
「さ、咲良……!?」
雪杜が慌てて駆け寄り、手を伸ばす。
けれど触れたら壊れてしまうようで、その指先は途中で止まった。
御珠はそんな二人の間に一歩踏み出し、静かに言う。
「咲良よ。ひとつ提案がある。
そなたの雪杜への恋心……妾が消してやろう。
その痛みから、楽になる道もあるぞ」
咲良の涙が、ふっと止まった。
代わりに、胸の奥から熱のような怒りが込み上げる。
「やめて!!」
声が震え、涙で濡れた頬が紅潮する。
咲良は涙を拭くこともせず、御珠を睨みつけた。
「そんなの……そんなの望んでない!!
誰かの“好き”を勝手に消すなんて……
そんなことをする神様だなんて思わなかった!!」
御珠は一瞬だけ瞬きをし、冷静に返す。
「今さら何を申す。
冬の初めの記憶を曖昧にしたのも妾じゃ。
そもそも妾がこの学校におるのが“普通”ではない。
人の縁なぞ……動かそうと思えば動かせる」
咲良の胸がぎゅっと縮む。
御珠の声は淡々としているのに、刺すような痛みだけは容赦なく伝わる。
「ちがう!
それは雪杜くんを守るためでしょ!?
人の大事な気持ちを勝手にいじるのとは、全然ちがう!!」
言いながら、咲良の表情がふっと固まった。
ひとつの可能性が頭をよぎったからだ。
「……もしかして……
雪杜の心も……そうやって……“いじった”の……?」
御珠は、静かに目を細めた。
「だとしたら、どうする?」
「あっ……」
雪杜の喉から声が漏れる。
その顔は真っ青で、今にも泣きそうなほど揺れている。
「えっ……!?そ、そうなの!?……僕……!?」
その動揺の最中――
パァンッ!
乾いた音が室内に響き渡った。
咲良の掌が、御珠の頬を捉えていた。
「さ、咲良ッ!?」
雪杜が声を上げた時、咲良の目は涙でにじみながらも、まっすぐに御珠を射抜いていた。
「返して!
返してよ……!
雪杜の心を……元に戻してよ!!」
御珠は頬に手をそっと当てた。
痛みを感じているのかどうか分からない、静かな表情。
――そして。
にやり、と口元に笑みを浮かべた。
「……その胆力。
神をはたくとは……ますます気に入ったわ」
咲良も雪杜も、その余裕ある声に息を呑む。
御珠はゆっくりと咲良へ向き直り、告げる。
「咲良よ。妾の“眷属”にならぬか?」
「……は?」
「……へ?」
咲良と雪杜の声がそろう。
その場の空気が凍り、時間が一瞬だけ止まったようだった。
御珠は打たれた頬を軽く撫で、静かに息を吐いた。
「雪杜の心を曲げるような真似……あれは嘘じゃ。
すまぬ。そなたの覚悟、試させてもらった。
前々から考えておったのじゃ……
今の雪杜は……そなたらが思うより危うい状態にある」
咲良の胸が大きく上下した。
涙がまだ乾かないまま、それでも目だけは御珠をまっすぐとらえている。
「それって……
前に少しだけ言ってた “いまはまだ話せない”ってやつ……?」
「うむ。
そなたが妾の眷属となるのであれば……話そう」
咲良は震える手で涙を拭い、深く、深く息を吸った。
「……眷属って、何をするの?
私に何をさせようとしてるの?」
御珠はまるで契約の儀式を前にした神のように、静かに告げる。
「難しいことではない。
今まで通り、雪杜のそばで……雪杜を見守るだけじゃ。
ただし“妾の加護”のもとで、な」
その言葉に、咲良の心の揺れが一瞬止まる。
「……雪杜くんの隣にいていい、ってこと?」
「そうじゃ。
そなた“だけ”は雪杜の隣を許す。
……嫉妬で……胸が焼けそうになる……が……雪杜のことを思えばこそ……
妾は……耐える……!」
御珠の頬はうっすら紅く、震える声の奥に本音が滲んでいた。
ここで一度、静かな間が落ちた。
そして御珠はまっすぐ咲良を見つめ、言葉の刃をひとつ置く。
「ただし……雪杜の一番は妾じゃ。
眷属になるとは雪杜の一番にはなれないことでもある。
よいか?」
咲良はぎゅっと唇を結び、震える声を押し出す。
「……そんなの、もう分かってる。
勝てないことくらい……とっくに……」
御珠は目を細め、咲良の心を見透かすように言う。
「よく考えるのじゃ。
そなたはまだ幼い。
妾の眷属になればその一生を棒に振ることになるやもしれぬ」
「一番にはなれないけど……“隣にいる”ことはできる。
だったら……私はそれでいい」
咲良の声は震えていたが、その芯は折れていなかった。
雪杜の心が大きく揺れる。
胸の奥に、張り裂けるような痛みが走った。
「ま、待って咲良!
僕なんかのために……そんなの……!!
一生を……無駄にしないで……!」
咲良は涙の跡を残したまま、静かに雪杜へ顔を向ける。
「私の好きになった人に『僕なんか』なんて言ってほしくないな……」
その声音だけで、雪杜は言葉を詰まらせた。
咲良は御珠へ向き直り、歩を一つ踏み出す。
「神様。
……私の一生、どう使うかは……私が決める。
私は……雪杜くんのそばにいたい。
それが“私の選んだ道”だよ」
その宣言は、涙に濡れた少女が放つにはあまりにも強く、美しかった。
御珠の瞳が静かに揺れ、そして優しく凝る。
「……よく言った。
そなたの覚悟、妾が預かろう」
御珠はひと息置き、言葉を結ぶ。
「ただし今は“心の契り”だけじゃ。
そなたはまだ幼い。
心変わりもあるやもしれぬ。
大人になり、自らの意志で人生を選べる年になった時……改めて問おう」
御珠がそっと咲良へ手を伸ばす。
その指先は、祝福と警告を同時に与えるような、澄んだ静けさをまとっていた。
「ただ……これから話すことは雪杜と妾に関わる“機密”じゃ。
そなたが軽々しく漏らせば、雪杜の身に危険が及ぶ。
ゆえに──少しばかり“制約”をかけさせてもらう。
よいな?」
咲良は、その静けさに飲まれそうになりながらも、小さく頷いた。
「……うん。大丈夫。私、覚悟して聞く」
額へ近づく御珠の指。
触れられる直前、彼女はふと問いを落とした。
「妾がここで“騙して”そなたの恋心を奪うとは……思わぬのか?」
空気がきゅっと締まるようだった。
咲良は一瞬だけ目を閉じ、覚悟を吸い込むように息を整え、まっすぐに御珠を見返す。
「……洗脳の嘘はほんとに許せなかったけど……
でも、いまの御珠ちゃんは……信じてる」
その言葉に、御珠の肩がほんの僅かに緩む。
「……ほんに……強い娘じゃ」
指先に淡い神気が灯り、そのまま咲良の額へ触れた。
触れた瞬間、咲良の体がびくりと強張る。
「……っ……!」
胸の奥が、ほんの一瞬だけ締め付けられたように痛み、咲良は歯を食いしばって耐える。
「大丈夫じゃ。
これは人格を書き換えるようなものではない。
ただ、これから話すことを外へ出さぬよう、そなたの“心”へ印を刻むだけのものじゃ」
手が離れ、空気が解けた。
「これで……そなたは妾の“眷属”じゃ。
まだ仮のものじゃがな」
後ろから慌てた声が伸びる。
「咲良……!大丈夫……?」
咲良は額に手を当てながら、かすかに笑った。
「……うん……ちょっと、びっくりしただけ……」
御珠はそんな二人をひとつ視線に収め、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「咲良よ。
そなたであれば、薄々気づいておろう?
雪杜の……“特異性”にな」
咲良は目線を落とし、言葉を探す。
「……モテすぎること?
御珠ちゃんが封印したんじゃないの?」
「封印とはちと違う。
妾は呪いの向きをすべて妾に向け、外側に出ぬようにしておるだけじゃ。
根は消えておらぬ。
そして──」
御珠の視線が、ふわりと雪杜へ触れた。
恋慕にも近い光が潜む。
「妾は、雪杜の願いなら……何でも聞いてしまう。
例え『世界を滅ぼせ』と言われてもな」
その言葉に、雪杜の顔が青ざめる。
「なっ……!?
そんなの……僕、絶対言わない!!
御珠を、そんな……“兵器”みたいに……!!」
御珠は静かに頷いた。
「分かっておる。
妾の愛し子がそのようなことを言うわけがない。
じゃが──“可能である”という事実が、問題なのじゃ」
咲良の胸に、冷たい理解が滑り込んだ。
「……つまり……
雪杜くんが……御珠ちゃんの“弱点になる”ってこと……?」
「──さすがじゃ。
今のやり取りだけでそこまで辿りつくとは……
咲良、そなたの勘は鋭い。
神である妾にとって、“雪杜”は唯一の弱点となりうる」
雪杜の膝が折れかけ、声が震えた。
「僕が……御珠の……弱点……」
御珠は首を振りながら、穏やかに続ける。
「雪杜よ。
そなたが自分を責めることは分かっておった。
本当は……知られぬままでおりたかった。
じゃが、それでは……咲良の覚悟に応えることができぬ」
少しだけ目を閉じ、彼女は言った。
「妾は……雪杜のためであれば、後先を考えん。
もし妾の神性を察する者が現れ、雪杜を攫い、脅しの材料にでもされたなら──
妾は……逆らえぬ……」
その一文で、部屋の空気がひやりと凍る。
「なぜ神が人と暮らすのが禁忌とされるのか。
最大の理由は、これじゃ。
妾ほどの神が、人に“弱点”を作ってしまえば……
世界の均衡が崩れるやもしれぬ」
そして最後に、御珠はそっと視線を落とした。
「それでも……妾は雪杜を選んだ。
そなたが……どれほど妾の心を動かしたか……
気づいておるか?」
甘い気配が二人の間に満ち、思わず空気が近づく。
「御珠……」
咲良が慌てて咳払いした。
「ん、んんーっ。
話……続けてくれる?」
御珠は軽く肩を揺らす。
「……おっと。脱線してしもうたな」
そして咲良の前に向き直る。
「つまり、咲良よ。
妾の神性を隠しつつ、“雪杜に近づく悪意”を察し、日常の中で監視できるのは……そなたしかおらぬ。
妾は常識に疎い。
澄香や石田との衝突を覚えておろう?
ああいう“人の間合い”を読むのが苦手なのじゃ」
咲良は、その言葉を一つずつ飲み込むようにして呟いた。
「……それで“眷属として見張れ”ってこと?」
「見張れ、などとは言わぬ。
ただ──
咲良の“目”で見て、
咲良の“心”で判断し、雪杜を守れ。
それが眷属の役目じゃ」
「……責任、大きい……?」
「大きいとも。
妾の神性と雪杜の関係が、悪意のある者に露見すれば……
今の日常は終わると思え」
雪杜は胸を押さえ、小さく震えた。
「僕の……せいで……そんな……」
御珠は静かに首を振る。
「違う。これは妾が選んだ道じゃ。
最初から言っておったであろう?
“これは妾のわがまま”だとな。
わがままを通すには……責任が伴うものじゃ」
咲良はぎゅっと拳を握り、雪杜は唇を噛み締めた。
御珠は二人のその姿を見て、小さく、誇らしげに微笑んだ。
────
御珠の言葉が途切れると、空き教室にはすとん、と静けさが落ちた。
冬の夕日が斜めから差し込み、黒板に長い影を伸ばしている。
空気の温度ごと、三人の胸の重さが沈んでいくようだった。
守るべき秘密。
これから選ぶ未来。
そして、三人で積み上げてしまった関係の重さ。
――どれも、子どもが抱えるにはあまりに大きい。
雪杜は拳を固く握りしめ、震える声を搾り出した。
「……僕……そんなに……
みんなを巻き込んでたんだ……」
その言葉は責めるためじゃなく、ただ自分の小ささを受け止めた声だった。
咲良はそっと近づき、落ちてきそうな雪杜の視線を支えるように言う。
「雪杜くんのせいじゃないって……
御珠ちゃんも言ってたでしょ」
御珠も同じように云う。その声には迷いが無い。
「うむ。これは妾が選んだ道。
雪杜、そなたは何も悪くない」
それでも、雪杜の肩はまだ沈んだまま。
胸の痛みは、簡単に消える種類ではない。
そんな空気の中、咲良がふいにハッと息をのんだ。
「あ……」
御珠が首を傾げる。
「どうした?」
咲良は胸に抱えていた赤い箱を見つめ、照れたように笑った。
「……チョコレート。
渡すつもりだったのに……
なんか、すっごい話になっちゃった……」
少しだけ張り詰めていた空気がふわっとほどける。
雪杜も顔を上げ、慌てたように言った。
「あ……そ……そうだった……
チョコ……!」
頬が僅かに赤い。
この年齢特有の、どうしようもなく素直な反応だった。
御珠が小さく頷く。
「うむ。咲良よ、それが今日の本題であろう?」
「うん……ごめんね。
でも、ちゃんと渡させて」
咲良は箱を両手で持ち直し、深い呼吸をして雪杜の前へ差し出した。
冬の夕日がその指先を静かに照らす。
「雪杜くん。
これ……今日、どうしても渡したかったの。
……私の“今の気持ち”を、ちゃんと残したくて」
雪杜は胸の奥の痛みを抱えたまま、それでも逃げずに手を伸ばす。
受け取った箱が、ほかのどんなものより重く感じられた。
「……ありがとう。
本当に……うれしい……」
その声を聞いた御珠は、少し距離を置きながら咲良へ微笑む。
敵意ではなく、認める側の笑みだった。
「咲良。
妾も妾で……ぬしの言葉には、胸を打たれたぞ。
強い娘じゃ。
雪杜のそばに立つ資格がある」
咲良の頬がほのかに赤くなる。
「……ありがとう、御珠ちゃん」
御珠は雪杜へ歩み寄り、小さくため息をこぼした。
「雪杜よ。
そなたは……本当に厄介な子じゃ。
そなたを中心に、皆が泣いて……そして笑っておる」
それは責め言葉じゃなく、呆れと愛しさが混じった声音だった。
雪杜はうつむき、細い声で返す。
「……ごめん……」
御珠はすぐにその言葉を遮る。
「謝るな。
それが“そなたの在り方”じゃ。
そなたが人を惹きつけるのは……罪ではない」
その優しさが胸に刺さり、雪杜は涙をこぼしそうになる。
御珠は視線を逸らしながら、ほんの少し照れて呟いた。
「……妾も……その一人なのじゃからな」
すぐ横で咲良が、くすっと微笑む。
「うん、わかってる。
だって雪杜くん、ずるいくらいやさしいんだもん」
「……二人とも……
僕、本当にどうしたら……」
御珠がそっと言う。
「どうもせぬでよい。
今日のところは……これでよいのじゃ」
咲良も、同じように頷いた。
「うん。
今日の私は……ちゃんと伝えられたよ」
教室へ差し込む夕日は、さっきよりも強い赤を帯びていた。
黒板の影が伸び、三人の姿をゆっくり包む。
そんな中、御珠が思い出したように雪杜を振り返る。
「そうじゃ……雪杜。
妾の“ちょこれーと”も受け取っておくれ」
「……うん。
御珠……あの時、すごく真剣に作ってたもんね」
御珠は胸を張り、小さな包みを袖から取り出した。
形はぐにゃっとしているのに、丁寧さだけはやたら伝わってくる。
「妾は不器用ゆえ形は悪いが……
これは妾が心を込めて作ったそなたへの贈り物じゃ」
咲良が苦笑しながら言う。
「……御珠ちゃん、昨日すごい集中してたもんね」
「当然じゃ。
妾も……今日という日を残したかったからの」
雪杜はそっと両手で包みを受け取る。
掌に落ちる温度が、胸の奥へすっと染み込んでいった。
「……ありがとう。
御珠のチョコ……嬉しいよ」
御珠はそっぽを向きながら、耳だけ赤く染めていた。
「そなたが……そう言うなら……それでよい……」
そしてふいに手を払うように締めくくる。
「では長くなってしまったが、帰るとするか」
咲良も笑顔でうなずく。
「うん。行こ、雪杜くん」
雪杜は胸の奥を押さえながら、その二人の隣に自然と並んだ。
「……うん。帰ろう」
三人は並んで教室を出る。
廊下へ伸びた夕焼けの光が、三つの影をゆっくり重ねていく。
大きさも形も違う影なのに、不思議と同じ方向へ伸びていた。
――今日の三人は、確かに同じ場所に立っていた。
────
翌日のホームルーム。
まだ始業前の空気が残る教室に、石田が入ってきた瞬間、ざわつきがさっと静まる。
「えー……じゃあ今日のホームルーム始めるぞ」
その声が終わるより早く、御珠がすっと立ち上がった。
「待て。
その前に皆へ告げておかねばならぬことがある」
教室の時間がピタリと止まる。
石田は、その手の挙がり方を見た瞬間に悟った。
そして全力で平常運転に逃げた。
「御珠くん、黙りなさい。
えー、今日の授業は──」
クラス全体が緊張で凍る。
巫女がしゃべる時は、大抵ろくでもない。
いや、100%ろくでもない。
その緊張の中で、御珠は石田の言葉を無視して、いつもの調子で言い放った。
「妾はここに宣言する。
──咲良は昨日より、妾の“家族”となった。
雪杜の隣に立つことを正式に許す」
教室が爆発するより早く、雪杜が爆発した。
「御珠あああああああああああああ!!!!!?」
咲良も跳ね上がった。
「御珠ちゃああああああああん!!!!!?」
颯太は両手を上げて謎テンション。
「うおおお!!家族キターーーー!!」
クラスのどこかでは、記号みたいな悲鳴が上がっていた。
「○△※☆!?!?!?!?!?」
「伴侶の次は家族!?え、春原さんも契ったの!?!?」
そしてただ一人、石田の魂が抜ける。
「……やめてくれ……頼むから……やめてくれ……」
澄香は机を握りしめ、怒りと諦めと羞恥が全部乗った目で巫女を睨む。
「このクソ巫女……
どこまで学校を混乱させれば気が済むの……!?」
その横で、透が淡々と観測する。
「……うわぁ、今日も混乱指数90%は超えてるね……」
こうして──
ようやく安定し始めていた日常の真ん中に、再び核爆弾が投下された。
そして、その爆風の中心には今日も変わらず、神が立っていた。




