第10話 ビターな恋の作り方 ― 材料編 ―
夜の部屋は、カーテンの隙間から入る街灯の白だけが薄く漂い、布団の中にいる咲良の顔をスマホの光が淡く照らしていた。
画面には、今日クラスの誰かが撮った雪杜と御珠のツーショットが映っている。
二人の距離は近く、自然で、絵になりすぎている。
胸の奥に冷たいものが落ちる。
咲良は布団をたぐり寄せるように身を縮め、天井を見つめたまま小さく息を吐いた。
「……私って最近……影が薄いよね」
つぶやきは静かに沈んで、布団の中へ吸い込まれた。
御珠はまっすぐだ。
雪杜の隣にいる理由も、誰より鮮やかで、当たり前のようにそこにある。
その眩しさの中で、自分だけが輪郭をなくしていくような、不安に似た寂しさが胸を押した。
「このままじゃ……私、本当に“ただの友達A”になっちゃう」
布団の中で膝を抱え込む。
けれど次の瞬間、胸のどこかでぱちんと音がした気がした。
「……もうすぐバレンタインだな……」
小さな声なのに、決意の火だけははっきりと灯る。
お正月の告白は勢いだった。
涙と衝動と、痛くてどうしようもない心のまま。
でも――今回は違う。
自分で決めて“言葉として”差し出したい。
「“私はここにいるよ”って……ちゃんと」
咲良はぎゅっと手を握りしめた。
誰に聞かせるでもない小さな気合いが、布団の中でぽっと熱を持つ。
「……よし。決めた。バレンタインに改めて告白しよう」
その先の明日を思うと、胸が少しだけ苦しくなり、でも同じくらい温かかった。
彼女はスマホを置き、まぶたを静かに閉じた。
眠りに落ちる直前まで“自分で選んだ明日”のことを考えていた。
――――
翌朝の通学路には、雪を踏むコツコツという乾いた音が続いていた。
御珠はいつも通り、堂々とした歩調で雪を割って進む。
咲良はその姿を見つけた瞬間、小走りで駆け寄った。
「御珠ちゃーん!雪杜くーん!」
呼ばれた御珠が振り返り、驚くでもなく当然のように声を返す。
「おお、咲良。朝から元気じゃな。霜焼けが治ったのか?」
「違うよ!ちょっと話したいことがあって!」
咲良の勢いに押される形で、御珠の足が止まり、雪杜も立ち止まる。
「なんじゃ?」
咲良は息を整え、慎重に切り出した。
「ねぇ……御珠ちゃん、バレンタインって知ってる?」
御珠はふっと口元を緩め、どこか自慢げに頷いた。
「ふふ……知っておるぞ。
“好き”の印を甘い菓子に込めて渡す日じゃな。
妾は雪杜に渡すつもりじゃが?」
「う、うん。
それは……わかってるよ」
咲良の頬にほんのり赤みが差し、でも視線はそらさず続ける。
「だからね……御珠ちゃん。
一緒にチョコ作ろうよ」
御珠は目を瞬き、雪の白さを背に咲良をじっと見つめた。
「妾と咲良が……?」
「うん。私も作りたいし、御珠ちゃんともちゃんと向き合いたいの。
……逃げたくないから」
その言葉に宿る迷いのなさが伝わったのか、御珠の瞳がほんの少しだけ柔らかく揺れた。
「咲良よ。ぬし、本当に変わったの」
「変わったっていうか……決めただけだよ」
御珠は満足そうに、そしてどこか誇らしそうに頷く。
「よい。妾も逃げぬ。
ならば共に作ろう。
……だが、どこで作るつもりかえ?」
「うん……雪杜くんの家で作らせてもらおうかと思って」
「雪杜の家……?」
「えっ、僕の家……?」
雪杜は思わず素っ頓狂な声を出し、咲良はほんの少し照れながらも真剣に言葉を続けた。
「うん。
雪杜くんにバレバレになっちゃうけど……いまさら隠しても意味ないし」
その言葉に、御珠がふっと口角を上げる。
「良いではないか。
妾も雪杜の家の台所は気に入っておる」
「じゃあ放課後、雪杜くん家にいくね!」
「う……うん……」
心の中では(咲良……大胆すぎる)と叫んでいたが、声にはならなかった。
「うむ。妾も楽しみじゃ」
「決まりだね!」
三人の歩幅が自然とそろっていく。
朝の冷たい空気はまだ肌に痛いはずなのに、胸の奥だけほんのり温度が上がっていた。
――――
放課後の冷たい空気が靴底に残る雪をきしりと鳴らした。
咲良は両手に材料の袋を抱え、緊張と覚悟の入り混じった息を整えて雪杜の家の玄関へ立つ。
インターホンの音が短く響き、しばらくして引き戸が開いた。
雪杜が顔を出す。
その表情は“覚悟”というより“覚悟していない側の戸惑い”に近い。
「ま……待ってたよ。あがって」
当然のように御珠が背後から歩み寄る。
「台所を借りるぞ、雪杜。妾も作る」
雪杜は戸を開いたまま固まった。
「うん、いいよ……っていうか、二人して僕の家でチョコ作るって本気なの?
僕、見守る係?」
困惑が声に丸出しだった。
咲良は少しだけ眉を下げ、でも気後れしない。
「迷惑だったかな……
うちだとお母さんや巫女さんとかもいっぱいいて、何か居心地悪いから……
私一人ならいいんだけど、御珠ちゃんと一緒だと雪杜くんの家しかないかな~って」
「そ、それは別に構わないけど……
これ……僕……どんな顔で見てればいいの……?」
咲良は軽く笑う。
「普通の顔でいてくれたらいいよ」
御珠は即答だった。
「うむ。雪杜はそこに座っておれ」
「え~……」
自分の家なのに、すでに居場所がない気配をまとったまま、雪杜は渋々座布団へ腰を下ろした。
「何やら楽しそうじゃのぅ」
晴臣は平常運転である。
――――
キッチンに二つのエプロン姿が並ぶ。
雪杜はその様子を、やや遠い席から“観測するしかない立場”として見守っていた。
咲良が袖をまくり、落ち着いた声で作業を指示する。
「……御珠ちゃん、この鍋に水入れて湯煎の準備してほしいの。
半分ちょいくらいでいいから」
「うむ、任せよ」
御珠が水道をひねった瞬間――
勢いが強すぎて、水が鍋から跳ねて床にまで飛んだ。
「ちょ、ちょっと待って!強い強い!そんなに出さなくていいってば!」
「む……水というのは加減が難しいの。火のほうがやりやすいぞ」
(あれで美味しい料理ができるのが奇跡なんだよなぁ)
雪杜は心の中で全力で突っ込むが、口には出せない。
咲良はタオルを手に取りながら、苦笑しつつ鍋の位置を直した。
「御珠ちゃん、優しくでいいの。ほら……こう」
キッチンの空気は徐々に女子二人の空気に変わっていた。
咲良は落ち着いて包丁を手に取り、チョコを刻み始める。
トントン、とリズムよく響く音が、彼女の慣れた手つきを物語っていた。
「咲良。ぬし、手際が良いの」
「小さい頃、お母さんと作ってたから」
「……そうか」
御珠の声がほんのわずかに寂しそうに揺れた。
人間の“思い出”というものに、触れられない距離から手を伸ばすような色があった。
(御珠……人間の“思い出”にちょっと憧れてる……?)
雪杜はその表情に気づき、胸の奥がそっと温かくなるのを感じた。
チョコを湯煎したボウルから甘い香りが立ち上る。
御珠が真剣な表情でスプーンを持ち、咲良の指示に従ってゆっくり混ぜ始める。
「……こうか?」
「うん、上手上手」
「ふふん。混ぜるだけなら得意じゃ」
(はぁ……これがてぇてぇってやつか……)
雪杜は胸の奥の何かがじわじわと満たされていく感覚に、どうにも居心地が悪くて正座し始めていた。
――――
咲良は包丁を置き、刻み終えたチョコを湯煎用のボウルへそっと移した。
火にかけられた鍋から、しゅん、と白い湯気が立ちのぼる。
その湯気越しに、咲良の手がふっと止まった。
溶け始めたチョコの向こう側で、咲良の視線が御珠をまっすぐ捉えていた。
「ねぇ御珠ちゃん……昨日、言ったよね?逃げないって」
御珠は視線を受け止め、頷く。
「うむ。妾は逃げぬ。
ぬしと並んで勝負する」
「……私もだよ」
御珠は横目でそっと咲良を見つめた。
その目に宿るのは、軽い挑発ではなく、咲良の覚悟を静かに認める光だった。
「咲良、ぬし……本当に強い子じゃ」
「御珠ちゃんの方が強いよ。
でもね……今回は負けたくない」
「なら真っ向から勝負じゃな」
視線がまっすぐ重なった瞬間、空気がピンと張る。
敵意ではなく、同じものを好きになった者同士の“正面からの強さ”がそこにあった。
雪杜はますます縮こまり、とうとう正座を深める。
(な、なんで僕の家なのに、僕が端っこで正座してるの……?)
――――
チョコの準備が整い、型を並べる。
咲良が選んだ型を見せるように置くと、御珠が迷わず指を伸ばした。
「妾は……ハートじゃ」
「やっぱりね」
「咲良は?」
「私は……丸。ハートは御珠ちゃんの領域って感じがして」
御珠が少し目を見開いた。
「咲良よ……そこまで考えておるのか?」
「うん。だって私の“好き”は……形じゃなくて“覚悟”だもん」
御珠の表情にゆるやかな感動が走る。
「……良い言葉じゃ」
そのやり取りだけで、雪杜の心臓は限界値に近かった。
(ちょ……僕の前で“好きの覚悟”とかやめて……心の処理が追いつかない……)
――――
仕上げのラッピングに移る。
広げられたリボンの色は鮮やかで、二人の指先の動きは丁寧だった。
「御珠ちゃん、赤が似合うね」
「咲良は……水色が似合うと妾は思うぞ」
「本当?うれしい」
(恋のライバルなのに、なんでこんなに自然なんだよ……二人とも“大人”みたいだ……)
雪杜はつい視線を反らした。
完成したラッピングが机に二つ並ぶ。
どちらも丁寧で、どちらにも“好き”の温度がこもっていた。
「できた……」
「妾もじゃ」
手についたチョコを見て、咲良がふっと微笑む。
「ねぇ御珠ちゃん。ありがとう。一緒に作れて、よかった」
「妾もじゃ。
咲良と共に作ったこと……妾はきっと忘れぬ」
その会話の隣で、雪杜は胸の奥をぎゅっとつかまれたような気持ちになる。
(……すごい。二人の“好き”が、僕の前でちゃんと形になってる……
普通なら嬉しい状況なんだろうけど、僕……どうすれば……)
甘い香りに胸の痛みが混じる。
でもその痛みは、三人の関係が、ゆっくりと変わり始めている証のようだった。
――――
朝の空気は刺すように冷たく、吐く息が白く揺れたまま空に溶けていく。
雪は夜のあいだにまた薄く積もり、足跡はその上に新しく刻まれていた。
冬の朝らしい静けさと、遠くで響く生徒たちの声だけが、登校路の白い景色ににじんでいく。
その中で、咲良は手袋を胸の前でぎゅっと握りしめ、小走りで雪杜の隣へ並んだ。
「雪杜くん、おはよう!」
雪杜は足を止めかけて、咲良の顔を見た。
「あ、咲良……おはよう」
言葉には出さないが、胸の奥では“今日、何かが動く”予感がひどく静かに疼いていた。
咲良は何かを切り出そうとして口を開きかけ、でも一度だけ視線を落として躊躇する。
ほんの一拍。
その後に、小さく息を吸って前を向いた。
「あのね――」
彼女の声は震えてはいない。
昨日の決意が、まだしっかり背中を押していた。
「今日の放課後、空き教室に来てほしいの。
チョコ渡すから」
雪杜は瞬きをし、喉がひゅっと鳴った。
「っ……あ、うん……」
咲良は、胸の奥にある迷いを押し出すように、強く微笑む。
「うん。
私……ちゃんと渡したいの。
“今の気持ち”として渡したいから」
雪杜は真剣さをその顔のまま受け止めた。
「……分かった。
行くよ、絶対」
「ありがと」
その直後、後ろから落ち着いた声が響いた。
「妾もついてゆくぞ。
ぬしの言葉、妾も聞きたい」
御珠は当然のように二人の横に並び、咲良の返事を待つ顔をしていた。
咲良はその提案を拒まず、むしろ頷いた。
「いいよ。御珠ちゃんにも……ちゃんと聞いてほしいから」
(なんで僕の告白シーンに神が同伴するの……?)
雪杜の心の中の叫びは、口からは出ない。
ただ顔がすこし青ざめただけだった。
御珠はその様子に気づきながら、むしろ優しげに言った。
「雪杜、怯えるでない。
妾はただ立ち会うだけじゃ」
「いや、その“立ち会う”が怖いんだけど……」
咲良がそのやり取りにふっと笑みをこぼした。
「大丈夫だよ。
これは私の気持ちを“ちゃんと形にする時間”だから」
御珠も静かに付け加える。
「うむ。妾も、咲良の覚悟を確かめよう」
雪杜は前を向く。
胸の奥が重く、でも逃げ道のない真っ直ぐな道だけが続いていた。
(……なんだこの状況……
けど……ふたりとも真剣なんだ……
僕もちゃんと向き合わなきゃ……)
三人は歩き出す。
朝の白い道に、三つの足跡が並び、そして自然と三角形に広がっていった。
その形はまだ不安定で、答えのない感情のバランスのように見えた。
――――
朝の教室には、登校したばかりの湿った空気と、どこか浮ついたざわざわが混じっていた。
冬の窓ガラスは白く曇り、廊下からは楽しげな声が断続的に聞こえてくる。
バレンタイン当日――という空気が、教室中の温度を半歩だけ高くしている。
雪杜が席についた瞬間、颯太が椅子を半分腰でずらしながら寄ってきた。
表情は完全に“何か知っている顔”だ。
「よー雪杜ー!
今日バレンタインじゃん?
チョコもらったかー?んん?」
雪杜の背筋がピンッと伸びた。
「な、なんでそんな探る感じなの……!?
別に、まだ……」
颯太は待ってましたと言わんばかりに大声を上げる。
「“まだ”って言った! おいみんな、“まだ”だってよ!」
「言わなくていいからッ!」
その騒ぎに、別の方向から背筋が凍るような視線が飛んできた。
「……べ、別に騒ぐことじゃないでしょ!?
バレンタインなんてただのお菓子会社の策略だし……!!
そもそも学校に変なもの持ってきちゃいけないんだから」
澄香は机の上の教科書をピシッと揃えながら、怒っているのか照れているのか分からない声を上げる。
委員長の職務と、年相応の動揺が混じって、顔が火照ったように赤い。
「委員長、固いこと言うなって」
「わ、私は委員長として当然のことを言ったまでで!」
その主張の直後、周囲の女子から「邪魔しないで」と言いたげな視線を向けられ、澄香は目をそらす。
そこへ透が、柔らかい声を差し込んだ。
「澄香、落ち着いて。
皆にとって大事なイベントなんだ。
学校も見て見ぬふりしてるし今日くらいいいじゃないか」
「ふん!知らない!」
それは実質“見逃す”という宣言だったが、本人は絶対に認めないし、周りにどこまで伝わったかも怪しかった。
颯太が再び雪杜へ向き直る。
「で、雪杜さんよ~。いつもらうんだい?」
颯太がわざとらしく口元をゆがめる。
「いや……それは……」
「御珠ちゃんから本命もらうんだろ?
“伴侶よ、受け取れ”みたいなやつ!ガハハ!」
その瞬間――澄香の肩がびくんと跳ねた。
「ッ!!
そ、その“伴侶”発言をここで持ち出すなって何度言ったら!!!」
透がすぐさま肩を押さえて制止する。
「澄香、声がデカい。深呼吸」
「む、無理よあんな破廉恥な発言……!」
(もう……朝から情報量が多いよ……
放課後のこととか絶対言えない……言ったらもっと混乱する……)
雪杜は机に視線を落としたまま、心臓だけが忙しく鳴っていた。
そんな混線の中、教室の扉が開く音がして、咲良と御珠が揃って入ってくる。
その瞬間、ざわめきが一段階大きくなった。
「あっ、咲良ちゃんだ!
お、御珠ちゃんも!
なーなー二人とも今日は――」
颯太のテンションを、咲良の柔らかな笑顔がふっと制した。
「颯太くん、うるさいよ?」
「うっ……咲良ちゃんの“うるさいよ?”破壊力やば……」
御珠がその様子を見て眉をひそめる。
「颯太、ぬしはいつも騒がしいな。
バレンタインとはもっと静かな日であろう?」
「お前が言うなぁぁぁぁぁ!!
あんたがいつも一番うるさいのよ!!」
背後で澄香が絶叫し、透がまた肩を押さえる。
「はいはい落ち着け、澄香。
……澄香が一番うるさいよ?」
雪杜は机に突っ伏したくなる衝動を必死に抑えた。
(……もうだめだ……
僕、このあと告白聞くんだよ……
胃が死ぬ……)
そんな彼の顔を見て、咲良がそっと近づき、他の誰にも聞こえない声で微笑む。
「……あとでね、雪杜くん」
胸の奥が一瞬で締めつけられ、雪杜はぎこちなく答える。
「……う、うん……」
そこへ、御珠が当然のように袖をつまんできた。
「雪杜。妾も“あとで”じゃぞ?」
(なんで二人して“あとで”って言うの……
心臓が持たないよ……!!)
教室の喧騒はいつも通りなのに、雪杜の世界だけが妙に狭く、息苦しいほど静かだった。




