第7話 ドンマイの味
体育館に、ボールが床を弾む乾いた音が響いた。
冬の冷たい空気に、その音だけが小さな熱を帯びているようだった。
石田の声が反響し、広い空間に明るく広がる。
「よーし、始めるぞー!
代表はセンターサークル入れ。
準備できたらボール投げるからな」
雪杜たちのチームがコートに入り、男子たちは軽くジャンプして足の感覚を整えていた。
雪杜は喉がカラリと乾くのを感じながら、そっとボールに視線を落とす。
(……大丈夫……みんなとやるだけ……
普通の体育……普通の時間……)
その“普通”という言葉は、彼にとってはずっと手の届かなかった願いのひとつだった。
コートの外では、御珠が胸の前で手を組み、まるで祈るように雪杜を見つめていた。
「天野、最初パス出すから受けて走れよ!」
「わ、わかった!」
颯太の声は大きくて、でも不思議と安心させる温度があった。
石田がボールを投げた。
試合が始まる。
颯太が弾かれたボールを掴み、そのまま勢いよくパスを出す。
「いけっ!」
「う、うん!」
雪杜は走り出し――
その瞬間、ボールが指先に少し引っかかり、
ぽとっ。
そのまま床に落ちた。
コロコロ……と、体育館の端へ転がっていく。
「あっ……!」
雪杜の胸がどくんと跳ねた。
(……ミスした……まずい……
馬鹿にされる……颯太も離れていっちゃう……)
記憶の奥にある“昔の反応”が冷たい影のようにせり上がる。
言葉、笑い声、揶揄、嫌悪。
あれらがまた自分に襲いかかる――はずだった。
ところが。
「ドンマーイ!!拾う拾う!」
「次いけ次!」
「天野、手、大丈夫か?」
まるで当たり前みたいに、自然な声が飛んだ。
「……え……?」
怒鳴る者も、呆れる者も、距離を置く者もいない。
誰も攻めない。
誰も傷つけない。
誰も遠ざけない。
ただ。
“友達がミスしたからフォローする”
その、それ以上でも以下でもない反応だった。
胸の奥に、じん……と熱が広がる。
(……なんだこれ……
ミスしても……誰も怒らない……
本当に……普通の体育なんだ……)
その“普通”が、雪杜には眩しくて、胸にしみて、息が少し震えるほど嬉しかった。
その様子を、コートの外で御珠が胸に手を当てながら静かに見守っていた。
その目には、誇らしさと、ほんのわずかな寂しさが同居している。
雪杜がボールを追うたび、まるで一緒に息をしているようだった。
(……そなた……
ようやく“人の中”で笑えるのじゃな……)
その横で女子がひそひそと囁く。
「御珠ちゃん、心配そう」
「でも、なんか優しい顔してるし……(私も伴侶欲しくなる……)」
御珠は小さく息を整えて答えた。
「妾は……雪杜が前へ進めるなら、それでよいのじゃ……」
嫉妬は確かにある。
胸の奥がひりっとする瞬間もある。
それでも――押しつけない。
それが今の御珠の恋の形だった。
そのすぐそばで、咲良は胸の前で手をぎゅっと握っていた。
(……雪杜くん……
ミスしても普通に受け入れられてる……
男子の輪に……本当に混ざれてる……
よかった……苦しくなるくらい嬉しい……)
頬がほんのり赤い。
それは恋の名残と、友達としての誇らしさが混ざり合った色だった。
雪杜が走る。
男子が声をかける。
チームが動く。
そのどれもが、咲良にとっては“誰かの幸せを見届ける幸福”だった。
───
試合はそのまま熱を増していった。
体育館の冷たい空気に、走る音とボールの弾む音が混ざって、じわじわと温度を押し上げる。
颯太がディフェンスを軽くかわしながら、ちらっと雪杜へ視線を向けた。
「天野、いくぞ!!」
「う、うん!」
さっきより速いパスが、一直線に飛んでくる。
雪杜は反射的に手を伸ばし――
ぱしっ。
指の先に気持ちよく収まった。
さっき落としたのが嘘みたいに、きれいなキャッチだった。
「ナイスキャッチ!!」
「そのままいけー!」
褒められた瞬間、胸の奥が一気に熱を帯びる。
(“普通に褒められる”って……こんなに……嬉しいんだ……)
前へ走ると、相手チームの女子が素早く前に回り込んでくる。
「天野くん、行かせないよー!」
「えっ……!」
思わず左右に揺さぶってみると、その子の足がわずかに滑った。
雪杜はその一瞬の隙をすり抜ける。
「わっ、くぅ……やられた……!」
「天野、うめぇ!!」
「そのままパス!!」
叫び声に背中を押され、雪杜はゴール下の男子へすばやくボールを返す。
「任せろ!!」
シュッ……。
軽い放物線がリングに吸い込まれた。
パシュッ。
ネットが軽く震える音が体育館に広がる──
その瞬間、手を叩く音が四方から重なった。
「っしゃあ!!天野、今のマジでよかった!!」
「動き軽くね?走んの速ぇし!」
「さっきのフェイントずるいよ~!」
雪杜は頬に手を当てるように、少し俯いて言った。
「え……あ、あの……すごいのは金田くんのパスが……」
「いやいや、受けるほうがすげーんだって!」
笑いながら颯太に肩を叩かれ、雪杜の胸に、ぽっとひとつあたたかい灯が落ちた。
(……これ……本当に……
“普通の友達”って、こんな感じなんだ……?)
その雪杜の姿を、コートの外で御珠が胸の前で手をそっと組み、静かに見つめていた。
(……そなた……
本当に……笑っておる……
妾以外の誰かに向けて……
嬉しそうに……)
胸の奥に小さな痛みが走る。
嫉妬の色は隠しきれない。
でも、そのすぐ後ろに“誇らしさ”が同じ大きさで広がる。
(……よい……
妾はそなたが幸せなら、それでよい……
そなたの笑顔は……妾の願いそのものじゃ……)
その横顔は不思議なくらい大人びていて、恋を知った神の優しさがふわりと滲んでいた。
女子たちが囁く声もどこか楽しそうだ。
「御珠ちゃん、ほんと天野くんが好きなのね……」
「く~、やける~(やっぱ伴侶欲しい)」
御珠は小さく息を吐いた。
(……妾の役目は、そなたを縛ることではなく
そなたが進む道を見届けること……)
その横で、咲良は思わず口元を手で押さえていた。
(……やば……雪杜くん……
すごく……かっこいい……)
胸がズキッと痛む。
けれどその後すぐに、あたたかい色が胸の奥いっぱいに広がる。
(……男子の中に混ざって……
ちゃんと褒められて……
楽しそうに動いてて……
本当に……よかった……)
目が潤みそうになり、慌てて何度か瞬きをした。
「よーし、次もいくぞ天野!」
「天野パス回せ!」
「今度は抜かせないよー!」
「う、うん!!」
体育館の冬の冷たい空気が、汗と笑い声でどんどん温まっていく。
雪杜は走る。
チームの声が飛ぶ。
誰も壊れない。
誰も歪まない。
笑い声も、悔しさも、全部が“健全な熱”。
それらすべてが――
雪杜にとっては、ずっと夢見ていた“奇跡の日常”だった。
───
試合が中盤へ差し掛かるころ、体育館の空気は完全に温まっていた。
ボールの弾む音と子どもたちの声が、寒さを押し返すように明るく響いている。
「天野、行けぇ!!」
颯太の声に、雪杜は息を吸い込んで走りだした。
その進路に、相手チームの男子が勢いよく飛び込む。
「あっ!」
「わ──!」
足が絡んだ。
身体が前へ傾き、視界が床いっぱいに広がる。
(……まず──)
咄嗟に目をつむった瞬間だった。
体育館の端で、御珠の胸がきゅっと縮んだ。
「雪杜──!」
声が漏れ、足が半歩前へ出る。
身体が、勝手に走り出しそうになる。
その奥で──
ほんの一瞬、神意が揺らぎかけた。
(……そなたが傷つくのは……見とうない……)
その衝動は、恋よりも本能に近かった。
けれど御珠は、その本能をぎゅっと握りつぶすように指を強く組んだ。
(いますぐ駆け寄りたい……
助けに飛び込みたい……
じゃが……それは妾のためであって、雪杜のためではない……)
彼女は、雪杜の“普通の毎日”を守ると決めた。
助けたくても、走ってはいけない。
ましてや──神意を解き放ってはならない。
ほんの数秒の攻防。
けれど御珠にとっては永遠のような時間だった。
その間に――
雪杜が咄嗟に手をつき、受け身のように転がって衝撃を逃がした。
床で軽い音が跳ね、そのまま身体を起こす。
「大丈夫か!?」
「うわ危ねー!顔からいってたら終わってたわ」
「だ、大丈夫……ちょっとびっくりしただけ……」
颯太が駆け寄り、まじまじと見つめる。
「お前、受け身うまっ!武術やってんのか?」
「へっ!?そんなわけ……!」
石田も遠くから声をかける。
「おーい。天野、大丈夫かー?」
男子たちの反応はすべて“普通”。
責める声は一つもない。
雪杜は、御珠が飛び出しかけたことに気づかないまま、また仲間の輪の中へ戻っていった。
御珠はその場に立ち尽くし、胸にかかった手をそっと押さえる。
(……危なかった……
妾、もう少しで……
雪杜へ干渉するところじゃった……)
痛みのような、焦りのような、でも確かな“恋”。
それを抱きしめるように、御珠は息を吐いた。
(……そなたが楽しんでおるなら……
妾はただ見守ればよい……
本当は抱きしめて守りたいが……
それでは雪杜のためにならぬ……)
彼女は雪杜を愛している。
だからこそ“踏み込まない”という選択ができる。
隣で咲良がそっと声を落とした。
「御珠ちゃん……顔、少し怖かったよ……?」
「……雪杜が倒れそうになったからな。
妾は……心が騒いだだけじゃ」
咲良は御珠の足元を見て、小さく息を呑む。
「……御珠ちゃん、今……雪杜くんのほうに走りかけてたよね。
止まったけど……」
御珠はわずかに目を伏せた。
隠しきれない揺れが瞳に浮かぶ。
「御珠ちゃん、雪杜くんに力、使わないようにしてるんでしょ?
ゲームとかアニメであるじゃん。
神様がひとりに肩入れしすぎると世界がバグるとか……そういうやつ」
御珠は小さく視線をそらす。
「……そなたに見抜かれるとは思わなんだ……
半分正解じゃ。雪杜に力は使わぬ。
じゃが、妾が雪杜を助けたところで、世界が壊れるわけではない。
……これ以上はそなたにも語れぬ。すまぬな……」
咲良は責めず、ただやわらかくうなずいた。
「……ううん。
いつか話してね……御珠ちゃん」
「……その時がくればの……」
雪杜は知らないまま進む。
「天野!次のセットいくぞ!」
「走れ走れー!」
「うん!」
雪杜は再び笑いながら駆けだした。
体育館の冬の光が、その背中をまっすぐ照らす。
御珠はそっと胸へ手を置き、遠くなる雪杜の背中に静かに祈る。
(……行け。
そなたが“普通”に笑う世界が……
妾の幸せなのじゃ……)
その瞳は、恋する神の、誰よりも深く優しいものだった。
───
試合終了の笛が、体育館の天井に澄んだ音を響かせた。
ピィィィッ!!
その直後、ひゅうっと冬の冷気が隙間から流れ込み、走り回った子どもたちの身体を包む。
全員が一斉に息を吐き、汗で湿った髪をかき上げた。
「いやーーー!天野!マジでよかったって!!」
颯太が笑いながら雪杜の肩を叩く。
その勢いは強いのに、どこか優しかった。
「そ、そんな……僕なんて……!」
「またそれ!“僕なんて”禁止な!
できてたんだって。みんなも見てたし!」
男子たちも次々と声を重ねてくる。
「天野がパス受けるとなんか流れよかったぞ」
「次も同じチームならいいなー!」
雪杜の胸の奥に、ふっと灯が落ちる。
あたたかくて、じん……と沁みこんでいく灯。
(……こんなふうに……
“普通に褒められる”なんて……
いつ以来だろ……)
嬉しすぎて涙がにじみそうで──
でも泣いたら全部こぼれてしまいそうで、ぎゅっと唇を噛んだ。
颯太が気づかぬまま、ひょいっと肩を叩く。
「また一緒にやろーぜ!」
「……っ、うん……!!」
ほんの少し震えた声を“運動後の息”だと勘違いして、颯太は笑ってくれた。
試合が終わった体育館には、まだ子どもたちの笑い声の余韻が漂っていた。
冬の光が高い窓から差し込み、床に冷たく反射する。
その上で、雪杜はひときわ柔らかい息を吐いた。
「……ふぅ……なんか、夢みたいだ……」
誰も壊れない。
誰もおかしくならない。
ミスしても笑ってくれる。
褒められると胸が温かくなる。
その全部が“初めて”すぎて、胸がじんわり痛い。
静かな影が近づく。
御珠だった。
汗のきらめきをまとって笑う雪杜を見つめ、御珠はそっと胸に手を当てる。
(……そなたの笑顔を……
今日、こんなにたくさん見られるとは……)
誇らしさが胸いっぱいに広がる。
けれど、その底にふっと冷たい寂しさが沈む。
(……もう妾だけのそなたでは、ないのじゃな……
……だが……それでよい……
そなたが幸せなら、妾は……)
そこへ雪杜が駆け寄ってきた。
「御珠!見てた……?僕、ちょっとだけ……できたよ……!」
御珠はすぐ返せず、わずかに目を伏せて息を整える。
「……うむ。
そなたは……とても……よかった……」
「えっ?」
「妾は……そなたが笑っておるのを見られて……
……それが……一番、うれしかったのじゃ……」
その声は小さく震えていた。
雪杜は首をかしげる。
「御珠……?大丈夫……?」
「う、うむ……妾は平気じゃ……」
咲良はその二人を少し離れたところから見つめ、ふわりと笑う。
(……御珠ちゃん……
“雪杜くんの幸せ”をちゃんと願ってるんだ……
神様、ほんとに……雪杜くんが大事なんだね……)
咲良は二人へ歩み寄り、ぱっと花が咲くように笑った。
「雪杜くん、ほんとに上手だったよ!
私もなんかちょっと嬉しくなっちゃった!」
「咲良……ありがとう……!」
「うんっ!」
その優しい空気の裏側で――
体育館の隅の方から“ギリッ”と床を踏みしめるような音が小さく響いた。
雪杜も御珠も咲良も気づかない。
けれど、その小さな軋みだけは空気を震わせる。
次の瞬間、視線の影がひとつ、じっと三人を射抜くように揺れた。
如月 澄香だった。
口元は結ばれ、指先は強く、強く握られている。
“楽しそうな三人”を見つめるその瞳だけが、静かに冷たかった。




