陸大受験と安藤先輩
陸大受験と安藤先輩
昭和9(1934)年、伊坂は第一師団歩兵第3連隊の連隊本部付として連隊の運営に関わる事務仕事をこなす日々を送っていた。
栄えある第一師団へ配属され、見習い士官を終え、少尉、中尉と人並みに昇進はしているが、他の士官のような勢いや熱意は伊坂には少なく大隊長からは小隊長には不向きと評価され連隊本部にて事務仕事をすることになった。「伊坂中尉、今度我々の中隊で習志野へ行きたいのだが手続きを頼めるか?」「伊坂中尉、連隊長が出張されるので計画を立ててくれ。」「伊坂中尉、あれはどこですか?」と日々各中隊から引っ切りなしに仕事が飛んでくる。しかし性が合っているのかそれらを淡々と捌く。その仕事捌きに連隊長始め隷下中隊の士官からも頼られ一目を置かれることとなった。今日もまた執務室で各中隊を始めあらゆる問い合わせが殺到しているが伊坂は淡々と業務をこなしていく。
「今日もここは慌ただしいな伊坂、歩兵ではなく、輜重の方が合っているんじゃないか。」笑いながら一人の士官が入ってきた。
「あまり笑い事じゃないですよ、最近各中隊どんどん我がままになってきてるんですから、第6中隊はお願いしますよ安藤先輩。」
先輩と呼ばれたのは安藤輝三大尉、歩兵第6中隊長であった。伊坂は当初第一師団歩兵第3連隊第6中隊に配属され、この安藤が指導担当についた。「おいおい、誰のおかけでまだ歩3(歩兵第3連隊)に居れてると思ってるんだ?私がお前の才能を見抜いたからだろ?」安藤の言うとおり、伊坂は小隊長に不向きと判断された際、連隊はおろか師団から出すべきかと懸念されたが、指導担当だった安藤が連隊本部の今の職への配属換えを、推挙し今に至る。
「まぁ、それを言われると」伊坂は何も言えなかった。「ところで、お前は陸大の受験準備はしてるのか?」唐突に問われ、伊坂は戸惑う。「準備も何も僕なんかじゃとても・・・。」陸大(陸軍大学校)は陸軍軍人なら誰もが目指すエリートコースだそこに入れば将来の大佐への昇進はほぼ確定であり、さらにその先の将官への道も見えるものだ。しかし、その試験も並大抵ではなく、また受験制限も厳しく、現役の将官でも過去に2~3度落第した者も少なくはない。しかし、安藤という男はそんな試験を無闇に人へ進めたりはしない。「お前なら出来るさ、よし、これから週末は私の所へ来い。勉強を手伝ってやる。」安藤は強く言った。「先輩、もう指導役と見習士官の期間は終わりましたよ。」そんな伊坂の反応にも構わず「いいから来いっ。」伊坂は動揺したが、実は面倒くさいという気持ちはない。この安藤という男はとても面倒見が良いと師団でも評判だった。そんな安藤を見習士官、指導役の頃から伊坂は慕っていた。
それから、伊坂はほぼ毎週安藤の下宿へ通い試験勉強に励んだ。そこまで面倒を見てくれる安藤に申し訳ないという気持ちも重なり、平日などは自主的に勉強をし、試験日を迎え、無事受験を果たした。
昭和10年夏、今年の陸大試験も無事に終わり、結果を待つだけとなったが、正直伊坂には結果などどうでもよかった。勉強の日々から一時的とはいえ解放されたことと、安藤の負担を減らせたことに今は安堵していた。しかし、ふと気づくと連隊の士官達からやけに距離を取られていたことに気づく。(これは、安藤先輩を独占し過ぎたせいかな)伊坂はふと思った。以前までは集会や飲み会などにも声をかけられたものだが、試験が近づくにつれ、自らも足が遠のき、他の士官とも距離が空いてしまったようだと伊坂は思った。
暫くして、伊坂は連隊長より呼び出しを受け、連隊長室へ赴いた。「伊坂中尉入ります」扉へのノックと軽い申告をし、部屋に入る。連隊長の机の前に立ち、敬礼をする。
「伊坂中尉は中尉になってどれくらいになる?」連隊長は唐突な質問をする。こういう時は何か面倒な仕事を押し付けられるか転属かのどちらかだと伊坂は警戒する。「まだ2年が経ったばかりです。」「そうか」と言って連隊長は机から紙を取り出した。「歩兵中尉 伊坂 栄司 陸軍大学校第51期への入学を命ず。おめでとう」そう言って連隊長はその紙を差し出した。その紙を改めて見た伊坂は動揺した「私が、ですか。」「そうだ、よくやった、今後もしっかり励めよ。」連隊長は凄くうれしそうな表情をして伊坂を見送った。
連隊長室を出て伊坂はすぐに安藤の元へ向かった。安藤は年明け早々に第6中隊長へ親補されていた。中隊長室に入り安藤に報告をすると安藤もとても喜んでくれた。「そうか、良かった、良かった。」
昭和10年11月末、陸大と歩兵第3連隊は同じ東京府にあるというのに伊坂が連隊を出る時も安藤は見送りに来てくれた。「先輩、色々お世話になりました。」安藤が中隊長になっても伊坂に先輩呼びを許すのはその人柄と二人の信頼があってのことだ。「それと、すいません、大変な時期に見送りまで。」伊坂の言う大変な時期というのは、第1師団は翌年満州への派兵が決まっていた。当然その準備で師団内、特に伊坂のいた連隊本部などは忙しい日々だ。「気にするな、お前一人いないでどうにかなるほど歩3は弱くない。お前は自分のやるべきことをしっかり見つけろ。」そう言って安藤は伊坂に微笑んだ。荷物を持ち伊坂は振り返り歩き始めた。「伊坂っ」伊坂が少し歩いて安藤は唐突に伊坂を呼んだ。「ここはもうお前と関わりは無い。いいな振り返るな、前へ進め。」
伊坂は安藤に敬礼をし、安藤もそれに答えた。安藤が敬礼を降ろすと静かにその場を後にした。
昭和11年2月26日、伊坂が陸大へ無事入学してから3ヶ月ほど経ったある日の朝、伊坂も含めた学生達は環境にも慣れ、教場にて各々にまかせて授業の始まりを待っていた。そこへまだ始業時刻でもないのに教官が入ってきた。「今から読み上げる者は私と来るように」そう言って教官は複数人の学生の名を呼んだ。その中に伊坂の名前もあった。伊坂達は教官に連れられ教場を後にした。名前を呼ばれ、伊坂は気付いた(これは、皆第一師団?)
伊坂も含め、連れられたのは全員第一師団から来た者達だった。学生達は別々の部屋へ入れられた。伊坂も一人で部屋に通される。通された部屋には、別の教官が待機しており、目の前の椅子へ座るよう促された。伊坂が椅子に座って早々に教官が話し始める。「今東京で何が起こっているか知っているか?」唐突な質問の意味が伊坂には理解出来なかった。その様子を見て教官が続ける「君がいた第一師団の一部、特に若い将校達を中心に数百名に及ぶ軍人が政府要人を襲撃した。」伊坂は頭の中で第一師団で関わった人達のことを思い出す。(一体誰が、何で)「伊坂中尉、何か知っていることがあるなら話したまえ。」教官が詰め寄る。詰め寄られながら伊坂は第一師団にいた時のことを思いだしていた。
「「ここはもうお前と関わりは無い。いいな振り返るな」」ふと安藤大尉に言われた最後の言葉を思い出した。(まさか、安藤先輩・・・)頭の中が一瞬真っ白になった。しかし、一呼吸置き、冷静になって話し始める。「結論から申し上げますと、私は何も知りません。」急な否定事項に教官は驚いた。伊坂は続ける。「私は第3連隊の連隊本部にて連隊の運営に関わる仕事をしておりました。」感情を抑え、表情を崩さず、今下手なことを言うと関わりを疑われ良い方向には進まない。
「連隊本部にも数人の将校がいましたが、私はどちらかと言うと単独で忙しくしていたもので、他の方々との関わりはあまりありませんでした。」伊坂の言っていることは間違いではない。歩3の連隊本部にいた頃、特に安藤と陸大へむけての勉強を始めた頃は特に周囲との集まりなどに参加する余裕も無かった。「そうか」教官の物わかりがヤケにいいのはどこの部隊も連隊本部とは年間を通して多忙であるということを一応は理解しているからなのだろう。
教官もそれ以上追求はせずに伊坂を解放した。
数日後、政府要人を襲撃した青年将校達の行動はクーデターと判断され、後に二二六事件と呼ばれその翌日から世間、特に陸軍内を騒がしていた。伊坂のいる陸大も例外ではなく、数日経った今も教場は事件の話で大騒ぎだった。「見たか伊坂!」同期の学生は新聞を広げて伊坂に見せた。「二二六事件首謀者将校逮捕、野中四郎 大尉、栗原安秀 中尉。」その中に名を見た。「安藤輝三 大尉」
「お前も第1師団だったんだろ、流石だな、志が違う、そんな方々を逮捕とはやはりこの国はどうかしてる。」学生は興奮気味に言う。そう、事件はクーデターと判断されたが、一部国民や若い将校達には彼等は英雄視されている。
伊坂は黙って記事を読み、新聞を返した。「すいません、興味がないので。」いつも自分を気にかけてくれ、陸大へ行くことまで導いてくれた先輩。しかし、先輩の取った手段は許されることではないと解っていても尊敬する思いは捨てきれない。陸大に行かず、まだ歩3にいたら一緒に連れて行ってくれたのだろうか。(いや、むしろ邪魔になるだろうな)そんな自分を笑いながらも悔しい気持ちは消えることは無かった。
第23師団司令部へ向かう飛行機の中、自分と参謀長のいない間に戦闘が起こった。自分の関わった人達が激動の渦に巻き込まれていく気がする。
また自分の居なくなったところで。




