#38「ざわめく心と、胸の奥の熱」
眠れない。
幾度まぶたを閉じても、闇の中に引きずられたごろつきの姿が浮かぶ。
あの場面を思い出すたび、喉が詰まって息が浅くなる。
ふと横を向くと隣のベッドでは、チャピが規則正しい呼吸を立てて眠っていた。
金色の髪が枕に広がり、安らかな顔をしている。
その姿を見た途端、堪えきれず膝を抱えた。
…体が震える。
昨夜の光景は、俺の中の何かを確実に揺らがせていた。
やがて夜が明ける。
窓から差し込む淡い光に目を細めながら、ふっと昨日あったリーナ母娘が頭をよぎる。
――リーナの辛そうな表情。
――苦しそうなおふくろさんの顔。
――そして掃除の後……笑顔。
「……あの母娘は、俺がいなくちゃダメなんだ」
俺は立ち上がり、身支度を整える。
靴を履こうとしたその時――
「……どこに行くの?」
振り返ると、ベッドから身を起こしたチャピが、心配そうに見つめていた。
「リーナの家だ。……掃除する約束をしたからな……」
チャピは驚いたように目を見開き、すぐにいつのも凛々しい表情に戻る。
「少し後ろを向いていて」
俺は言われるまま背を向けた。
衣擦れの音がして、ベッドから降りる気配。
「……もういいわ」
振り返ると、深緑のマントを肩に掛け、腰に小さな袋を結わえたチャピが立っていた。
「私も一緒に行く。あなた一人じゃ危なっかしいから」
俺は小さく息を吐く。
「……勝手にしろ」
宿を出ると、ひんやりとした朝の空気が流れ込んできた。
まだ人影の少ない通りに、足を踏み入れると湿り気が伝わってくる。
俺たちは並んで歩き、リーナの家へ向かった。
無言で歩みを進める。
遠くで荷車の軋む音、屋根の上から鳥の鳴き声。
通りの奥では店の戸が開き、パンを焼く匂いが漂い始めていた。
――街はゆっくりと動き始めていた。
しばらく歩くと、リーナの家が見えてくる。
戸口のそばで洗濯物を干していたリーナは、俺たちに気づいて手を止めた。
驚いたように目を丸くし、それからはにかむような笑みを浮かべる。
「おはようございます。……こんなに朝早く、どうされたんですか?」
リーナの問いかけに、思わず視線を逸らす。
一瞬心が揺れる。
「いや……昨日また掃除でもするって言ったろ?はやくしたほうがさ…おふくろさんも、喜ぶかと…思って…」
リーナの目がわずかに揺らぎ、それから柔らかく笑った。
その笑みは、俺の胸のざわめきを少しだけ静めてくれた。
リーナが戸口を開ける。
家の中へ入ると、奥のベッドにリーナのおふくろさんが横たわっていた。
昨日と同じように息苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。
それでも俺たちに気づくと、薄く目を開けてかすかに微笑んだ。
「……おはよう、ございます……」
掠れた声。息の合間にやっと絞り出した言葉だった。
リーナが慌てて枕元に駆け寄る。
「無理しないで、母さん」
俺はルミナスを手にすると、そっと息を吐いた。
「任せとけ……少しでも楽になるように、徹底的に掃除してやるよ」
ルミナスを使い床を磨くとたちまち光が広がる。
ウエスで壁を磨けば、汚れが消えさり、清浄な空気が広がっていく。
ベッドの上では、おふくろさんの呼吸がわずかに落ち着いている。
その顔も、昨日より幾分か楽そうな色が差した。
「……ありがとう……ございます」
弱々しくも、確かに感謝の言葉が聞こえた。
俺はほっと息をつき、口元が自然と緩んだ。
「……また来るよ」
そう告げて家を出る。
外の空気を吸い込みながらふと隣を見ると、チャピが悲しそうな表情をしていた。
(なんで……なんで、そんな顔するんだよ…)
理由は分からない。
……けど聞くのが怖くて、俺は前だけを見て歩いた。
しばらく道なりに俺たちは歩いた。
朝の街は少しずつ賑わいを増し、行き交う人影や荷車の音が多く聞こえてくる。
そんな中、前方に違和感があった。
道端に立ち止まり、じっとこちらを見ている影。
……昨日、バルドのもとに俺たちを案内したあの男だ。
「よっ、兄さん!昨日ぶりだな」
気安く手を上げてくるその態度に、逆に警戒心が募る。
男はすぐに声を落とし、周囲を一瞥してから近づいてきた。
「そう警戒しなさんな。今回はボスからの伝言を伝えに来たんだ」
男は顔を寄せ、さらに声を落とした。
「組織の中で派閥争いが本格化してる。街でちょこちょこ揉め事が起きてんのも、その余波だ」
眉をひそめる俺に、男はさらに言葉を重ねる。
「それと…敵対してる連中の狙いのひとつが、あの母娘。…リーナの家がある土地だ」
その一言に、感情が弾けた。気づけば男の胸倉をつかんでいた。
「ふざけるな……!あの母娘を巻き込むなんて、絶対に許さない!」
男は肩をすくめ、薄く笑う。
「言っとくが、これは俺の考えじゃねぇ。事実を伝えてるだけだ」
「――キョーくん!」
背後からチャピの声が飛んだ。
…その声に、少し冷静さを取り戻し腕を離す。
男は乱れた胸元を直しながら、肩をすくめる。
「…後ボスからの伝言がもう一つある…敵対派閥を片付けるまでの間…あの母娘を守って欲しいそうだ…」
男の言葉に、胸の奥がさらにざわついた。
落ち着きを取り戻すどころか、逆に心は乱れていく。




