#37「粛清の闇、恐怖に揺らぐ」
その後バルドの屋敷を離れ、しばらく大通りを歩いた。
先ほど交わした言葉が、まだ胸の奥に残っている。
あの重苦しい響きは、頭を振っても簡単には振り払えなない。
街灯が絶えず並ぶ邸宅街を抜けると、次第に明かりは減り、建物の影が濃くなっていく。
やがて、街路はすっかり闇に沈んでいた。
頭上の月光だけが足元を照らす。
人の気配も掻き消え、不自然なほどあたり一面暗闇に沈んでいる。
「……妙に暗いな……魔道都市ってこんなに暗いのか?」
思わずつぶやくと、隣を歩くチャピが首を横に振った。
「いいえ。――灯りが消されているわね…」
チャピの声はいつもより低く、硬い。
次の瞬間、背筋を撫でるような不気味な気配に思わず振り返る。
暗闇の奥から足音が、かすかに響く。
「待っていました、清掃員殿」
姿を現したのは、黒い外套を羽織った男だった。
月光に照らされたその目は、氷のように冷えきっていた。
「私の名はノクト。ヴァルセロ・ファミリーの――バルドに敵対する派閥に属している…と、言えば分かってもらえるでしょうか?」
男はまるで品定めでもするかのように、じろりと視線を這わせた。
「……清掃員殿、お噂はかねがね耳にしております。床を磨くだけでなく、街を動かすほどの働きを見せたとか」
「…いや、俺はただ掃除を――」
否定しようとする俺を遮るように、男は右手を上げた。
「謙遜は不要です。……その力を、この街の新たな支配者のために振るう気はありませんか?」
男の口元に、冷たく歪んだ笑みが浮かんだ。
「それと――昼間、あなたに迷惑をかけた連中がいたでしょう?そのお詫びに、こうして連れてきました」
指先で闇を示すと、縄で縛られた人影が転げだす。
呻き声とともに地面に叩きつけられたのは、昼間リーナを脅していたごろつき二人だった。
ごろつき二人は猿ぐつわを噛まされ、必死に身をよじっている。
縄で擦れた手首から血がにじみ、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、くぐもった悲鳴を漏らしていた。
「んぐぅっ……! むぐっ、んんんっ……!」
「むぐああん……! むぐああんん……!」
地面に這い蹲り、必死に足をばたつかせて逃げようとしている。
男はその様子を一瞥しただけで、冷たく鼻で笑った。
「よくない、よくないですねぇ…。清掃員殿に迷惑をかけただけでなく、自分の役目すら果たせないなんて…」
男の顔から笑みが消え、瞳から光が消える。
「――こんな愚物は、我らファミリーには必要ない」
「お、おい!…やめろ…!」
俺は思わず一歩踏み出す。
だがチャピが横から腕をつかみ、俺の動きを制止した。
思わず顔を見ると、目の前の男を鋭く睨んでいる。
男が片手をひらりと振ると、その合図に応じるかのように、ごろつき達が闇へと連れ込まれる。
ごろつき達はいっそう大きく呻き、必死に暴れだす。
だが拘束され動けない男たちは、闇の奥へとずるずると引きずられていき――やがて音ごと掻き消えた。
……冷たい空気が肌を刺す。
静寂の中、男はゆっくりとこちらを振り返る。
「……再度お聞きします、清掃員殿。われらの仲間になりませんか?……どうか、賢明なご判断を」
男――ノクトは氷のような笑みを浮かべ、外套の裾を翻した。
「今回はここまで……。次に会うときは――その答えを聞かせてもらいましょう」
その声を最後に、男は闇へと消えた。
残されたのは、冷たい夜風と重苦しい沈黙だけだった。
……どれほど立ち尽くしていただろうか。
結局、俺たちは何も言葉を交わさぬまま歩き出した。
路地を抜けると、通りには暖かな光が滲んでいる。
大きな建物を見上げると、掲げられた木製の看板には、箒と星を組み合わせた紋章。
チャピは迷いなくその建物へ進んで行った。――どうやら今夜の宿らしい。
扉を押し開けると、暖炉の火と酒の匂いが広がった。
酔った男たちの笑い声が響く。さっきまでの静寂が嘘のようだ。
チャピはカウンターに金を置き、短く言葉を交わすと、鍵を受け取った。
そのまま俺に手渡すと、無言で階段を上がっていく。
部屋の前まで来て、鍵を差し込む。
がちゃりと開けて中へ入ろうとすると――背後から足音。
振り返れば、チャピが部屋の中まで付いてきていた。
「……おい。なんで付いてきてるんだよ」
声をかけると、チャピが一瞬ぴくりと肩を揺らした。
振り返ったその顔は、いつも通り澄ました表情……のはずが、耳の先まで一気に赤くなる。
「へっ、部屋が一つしか空いてなかったから、しょうがなく同じ部屋にしたの!か、勘違いしないでよね!」
妙に早口でそう言い返すと、顔を真っ赤に染めたチャピは、目線を逸らした。
「べっ、別にキョーくんの顔が……。…心配だからとかじゃないんだから…!」
その言葉に返す声も出せず、俺はふと窓に目をやった。
そこに映っていたのは――見知らぬ顔――。
血の気が引き切り、瞳は虚ろに揺れ、焦点すら合っていない。
乾いた唇は固く結ばれ、今にも叫びだしそうに見えた。
そこにあったのは、恐怖に蝕まれた、別人のような俺の顔だった。




