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#29「金色の影に追われて、俺の逃げ道はもうない」

血の気が引いていくのが分かった。

体が鉛のように重くなり、その場で石像にされたみたいに動けない。

視界の端が揺らぎ、耳鳴りの中で心臓の鼓動だけがやけに響く。


雑踏の中を、その影はゆっくりと、しかし確実に近づいてきていた。


最初に見えたのは――金色にきらめく髪。

夕陽を浴び、燃えるように揺れている。


次に、深緑のマント。

風にふわりとたなびき、その裾が人波の間を切り裂くように揺れる。


さらに視線を奪ったのは、体を覆う革の鎧。

擦れた色合いと堅牢な作りで、街の冒険者によく見られる装いだった。


――そして。


金色の髪の隙間から、尖った耳がのぞいた。

その瞬間、心臓がドクンと跳ねる。

顔が光に照らされ、はっきりと見えた。


――エルフだ。


脳裏に閃いた刹那、体は勝手に動いていた。

考えるよりも早く、俺の足は大地を蹴り、雑踏をかき分けて駆け出していた。


「――うわああああっ!!」


周囲の視線なんて気にしている余裕はない。

逃げなきゃ。とにかく、逃げなきゃ。


俺はただ無我夢中で走っていた。

地面を蹴りつけ、街道を一気に駆け抜ける。

通りすがりの人間が振り返りざまに文句を叫ぶが、聞いている余裕なんてない。


「どけどけぇっ!俺は今命がけなんだ!」


角を曲がれば、そこは商業区の大通り。

露店が並び、活気あふれる人波が行き手を塞ぐ。


「うおっ!? ちょ、邪魔っ!」


俺は樽を積んだ荷車に肩をぶつけ、ガラガラと木樽が転がった。


「おい!弁償しろー!」


店主の怒鳴り声が飛ぶ。


さらに駆け抜ける途中で干してあった布を顔にかぶり、前が見えなくなる。


「ぐあっ!? 視界ゼロ!? なんで今洗濯物!?」


布を剥ぎ取った勢いで、今度は果物の籠をひっくり返してしまい、リンゴが転がった。


「わっ!? 危なっ……うわああっ!?」


足を滑らせて転びかけ、必死に体勢を立て直す。


「リンゴ返せー!代金置いてけー!」

「おじちゃん変な走り方ー!」

「魔物でも出たのか!?」


怒号と笑い声が入り混じり、通りは一瞬でカオスになった。


「違う!俺が悪いんじゃない!後ろを見ろ!恐怖が迫ってるんだってば!」


必死に叫んだが、誰も耳を貸さない。むしろ笑い声が大きくなった気がした。

周囲の混乱を置き去りにして、俺はただひたすら走り続けた。


「……はぁ、はぁ……頼む、撒けてくれ……」


振り返ると――。

人混みの向こう、相変わらず金色の髪が、悠然と揺れていた。


俺は人混みを抜け、曲がりくねった路地に飛び込んだ。

背中に貼りつく汗が冷たく、呼吸はもう限界に近い。


「……っ、はぁ……はぁ……ここまで来れば……」


暗がりの石壁に体を押しつけ、気配を殺す。

心臓の鼓動が耳に響き、息をするだけでも騒音に思えた。


そっと壁の隙間から通りを覗く。


――金色の髪は、どこにも見えない。


「……っ、ふぅ……ま、撒いた……」


全身から力が抜け、安堵の息が漏れる。


その瞬間。

頭上に影が差した。


「……え?」


恐る恐る見上げると、壁の上から、青い瞳が真っ直ぐに俺を見下ろしていた。


「……ひっ……!」


喉が縮み上がり、声にならない悲鳴が漏れた。


「いやだぁぁぁぁぁぁぁ!!」


我を忘れて飛び出す。

足はもうフラフラで、肺は焼けるように痛い。

それでも全力で裏道を駆け抜けた。


「いやだ……まだ詰みになんてさせない!」


曲がり角を必死に曲がった瞬間、視界が止まる。


――行き止まり。


石壁が無情にも、逃げ場を完全に塞いでいた。


「……っ、そんな……」


視線を右へ、左へ。

どこか……抜け道は……ない…。


膝から力が抜け、俺は地面を這い回った。

壁際の隙間を必死に探すが、冷たい石は沈黙を返すばかり。

隙間なんて、最初から望めなかった。


「……っ、クソ……なんでだよ……!」


必死のあがきもむなしく、現実は変わらない。

俺の逃げ道は、どこにもなかった。


そのとき。

背後から気配が迫った。


ぞわり、と肌を撫でるような冷気。

空気が重く沈み、路地が一瞬で異質な空間に変わった。

心臓の鼓動が喉までせり上がり、呼吸が浅くなる。


「……っ」


俺は首だけを振り向けようとして――やめた。

視線が合ったら終わりだ。そんな直感が脳裏を支配する。

だが足はすでに震え、背中は冷たい壁に押しつけられていた。


ゆっくりと、どうしようもなく、体が後ろを向いていく。


そこには――。


夕陽を浴びて、金色の髪がゆるやかに揺れていた。

一筋一筋が光を反射し、眩しすぎて直視できない。

その下にある尖った耳が、“人間ではない”ことを告げていた。


そして――微笑み。


口元がわずかに上がり、柔らかく、それでいて逃げ道を奪うような笑み。

その瞳は澄んでいて、俺の全てを見透かしているようだった。


チャピ――。


名を思い浮かべた瞬間、膝が崩れ落ちそうになった。

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