#21「掃除したら本の封印が消えた」
あの夜から、数日が過ぎた。
星空の下で歌を聞いたことが、いまだ耳に残っている。
だが現実は、容赦なく俺たちの腹を締め付けてきた。
「……城塞都市まで、あと三日の道のりか」
地図を覗き込みながら呟く。
フィーは疲れた足取りで小さくうなずいた。
「ヴァルディアまで……あと少しですね」
「少し、か……問題は金だな」
荷袋を探れば、硬貨の音が心細く響く。
宿代どころか、まともな食事も心許ない。
「……つまり」
「……つまり?」
「稼ぐしかない」
俺は肩のルミナスを担ぎ直し、目の前の木造の建物を見上げた。
石畳の広場にどっしりと構える――冒険者ギルド。
扉を押し開けると、中は相変わらずの喧騒だった。
酔っ払いの笑い声、剣や鎧のきしむ音、依頼を張り出す紙のざわめき。
「……ここなら仕事はあるだろ」
フィーは緊張したように胸の前で手を組んでいる。
俺はカウンターに近づき、無精ひげの職員に声をかけた。
「短期で稼げる仕事、何かないか」
「ん?外から来た冒険者か?」
職員は胡乱げに俺を眺め、依頼票の束をめくる。
「……討伐はどうだ」
「危ないから却下だ」
「じゃあ護衛だな。商隊について行けば三日は食える」
「日数かかりすぎだ」
「ふん……贅沢なやつだな。後は……ギルドの大掃除くらいだな」
「――それだ!」
掃除と聞いた俺は即答した。
「……は?」
呆ける職員の前で、俺はルミナスをカウンターに突き立てた。
「掃除なら俺の専門分野だ」
フィーは目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「……わ、分かった。正式に依頼として受理する……ギルドの大掃除だ」
職員は半ば呆れ顔で依頼票に判を押す。
「契約成立だな」
俺は肩に相棒を預け、静かに頷いた。
ギルドの床を見下ろし、静かにモップを構える。
汚れは溜まり、瘴気のような淀みすら漂っていた。
「……愚かだな。放置された穢れは、やがて世界そのものを蝕む」
一歩前へ。ルミナスのふさが床を叩くと、光が瞬いた。
「ならば――俺が“滅菌葬送”を発動するしかない」
ゴッ、と音を立てて拭いた瞬間、染みが黒煙のように吸い込まれ、木の板が輝きを取り戻していく。
「なっ……!? 汚れが……消えてる!?」
「まるで魔法みたいだ……」
冒険者たちがざわつく中、俺はさらに動きを加速させる。
「穢れは塵と共に虚無へ還れ――“掃滅結界”!」
ルミナスを横薙ぎに払うと、床全体に光の線が走り、残っていた埃や蜘蛛の巣までもが音もなく消えていった。
「す、すごいですキョーマさん!」
水を運んでいたフィーが、目を潤ませて叫ぶ。
「その調子だ、フィー! 供給が止まれば浄界は崩壊する!」
「はいっ!」
ルミナスがふさを大きく揺らし、光を撒き散らす。
床は輝き、柱は清められ、ギルドの空気そのものが一新されていった。
「――これでようやく、瘴気なき聖域が完成した」
最後にモップを天へ掲げ、俺は静かに宣言する。
「全ての塵芥よ――跪け」
広間が、しんと静まり返った。
誰もがただ、磨き上げられた空間と、ルミナスを掲げる俺を凝視していた。
「……終わりだ」
静寂を切り裂いたのは、俺の声だった。
ルミナスの先端から淡金の光が消えると同時に、広間の空気が一気に緩む。
「き、きれいだ……!」
「床が鏡みたいになってやがる!」
「これ、本当に掃除なのか……?」
ざわめく冒険者たちの間で、ギルドの受付嬢が慌てて駆け寄ってきた。
目を丸くし、足元を恐る恐る踏みしめる。
「……信じられません。数年分の汚れが……たった数分で……」
俺はモップを肩に預け、淡々と答えた。
「本来なら数時間かけるべき仕事だが……滅びを待つ暇はない。塵は即刻、葬られるべきだ」
俺はルミナスを担ぎながら、片手で天を指す。
ふさがぶわっと膨らみ、まるで俺の言葉に同調するように光を散らした。
「――“滅菌葬送”!」
決め台詞と共にポーズを決める俺の横で、フィーが慌てて聖書を胸に抱き、片足を後ろに引いて真似をしてくる。
「きょ、キョーマさん! わたしも……えっと……“聖なる補助”!」
どや顔で参加したフィーに、ルミナスがぶんっと揺れて光を散らす。
俺は一瞬、言葉を失って視線を逸らした。
「…………」
「…………」
受付嬢も、冒険者たちも、口をぱくぱくさせるだけで声が出ない。
そんな静寂を破ったのは、フィーがぱあっと笑顔を咲かせた瞬間だった。
「さすがです! キョーマさん、まるで光の騎士みたいでした!」
「……いや、ただの清掃員だ」
肩をすくめる俺に、ルミナスがふさを揺らして「その通りだ」とでも言いたげに光を散らす。
――だがその瞬間。
床の隅、地下へと続く扉から、冷たい風が吹き上がった。
一瞬、腐敗した空気の匂いが混じる。
「……」
俺は足を止め、ゆっくりと視線を落とした。
磨き抜かれた床に不釣り合いな暗黒の影が、そこだけ滲んでいた。
「……今のは……?」
フィーが不安げに裾を握る。
俺は無言でルミナスを地下に向け、光を帯びさせた。
「……どうやら、掃除はまだ終わっていないようだな」
――次の清めの対象は、この地下か。
床の隙間から、冷たい風がかすかに吹き上がった。
ただの隙間風にしては重く、胸の奥を押し潰すような圧が混じっている。
「……瘴気、ですか……?」
フィーの声が震える。
俺は肩を竦め、あくまで淡々と答える。
「どんな淀みだろうが、溜まった穢れは放置できん。それが掃除の鉄則だ」
ルミナスのふさがぶんっと揺れ、光を漏らす。
地下へと続く扉の前は、何十年も拭われなかったかのように煤と埃で覆われていた。
そこだけが異様に黒ずみ、光を拒むように鈍く輝いている。
俺は腰の袋から一枚の古びた布切れ(ウエス)を取り出す。
「……埃まみれだな。これじゃ開く鍵も開かない」
ギルド職員が慌てて立ちはだかる。
「そ、それ以上は触るな! ここは数百年前から封印され――」
そんなことは聞いちゃいない。
しゃがみ込んでからウエスを扉に当てた。
「……やれやれ。煤と埃がこびりついてやがる。こんなんじゃカビ臭くなるだけだ」
ギルド職員が蒼白になって叫ぶ。
「や、やめろ!それは魔法障壁だ!聖堂騎士ですら触れない――!」
――ゴシッ。
ウエスが擦れる音とともに、扉に張り付いていた淡い光が、まるでガラス窓の汚れのようにじわじわと拭き取られていく。
淡い光剥がれ落ちた部分から、下に刻まれていた古い紋章があらわになった。
「……ほらな。ただの汚れだ」
俺はさらに念入りに磨き上げる。
ゴシ、ゴシ――。
バチバチと火花のような光が走り、またひとつと音を立てて消えて行く。
ギルド職員は膝をつき、絶望の声を漏らした。
「な、なんてことを……!」
最後にひと拭き。
――バリィィン!
乾いた音とともに、扉の前に積もっていた黒い煙が一気に溢れ出した。
俺はウエスをパンッと払って肩をすくめる。
「ったく、どいつもこいつも掃除をサボりすぎだ」
扉を開け、階段を下るとそこには薄暗い地下室が姿を現した。
その最奥――黒石の台座に、一冊の古書が鎮座していた。
革表紙は裂け目だらけで、金属の留め具は錆び、表面には見慣れぬ文字が刻まれている。
そこから黒いもやが立ちのぼり、鼻を突く腐臭と共に空気を蝕んでいた。
「……放置しすぎだな」
俺は肩のルミナスを壁に立てかけ、ウエスを天高く掲げ、手を大きく交差する。
「“滅菌葬送”――ウエス版、始動!」
本の表紙をゴシゴシと擦るたび、「ギャッ!」「ぐぉぉっ!」と悲鳴をあげる。
金箔の文字がかすかに光を覗かせていく。
『や、やめろ……!貴様……何者だ……!』
呻く声は、本そのものから響き渡った。
「ただの清掃員だ」
俺は一切止まらず、ひび割れたページの隙間にウエスを突っ込み、念入りにふき取る。
黒いもやは次第に薄れ、もやは細い糸のようになって逃げ惑う。
『ぐ、ぐぬぬ……だめ……あっ、そこは……!』
最後のひと拭きで革表紙がピカァッと光を放ち、残っていた黒煙を一気に吐き出した。
『ぎゃひぃぃっ!?ま、待て……!せめて……呪縛の…ぐぼぁぁ……!!』
何か言いかけたところで情けない断末魔を残し、声はぷつりと掻き消えた。
俺は額の汗をぬぐい、ピカピカになった本を見下ろす。
「……浄化完了だ」
ルミナスがふさを揺らし、誇らしげに光を散らす。
横で見ていたフィーは呆然とし、手にしていた聖印をぎゅっと握りしめていた。




