#20「虫まみれ野宿と、聖歌の夜」
陽が沈みきり、森の影がすっかり濃くなった。
空には星が瞬き始め、夜の冷気が肌にじわじわと染み込んでくる。
「……結局、村には辿り着けなかったな」
肩にルミナスを預け、俺は立ち止まる。
フィーは、驚いたように目を瞬かせた。
「えっ……じゃあ、今夜は?」
「野宿だ」
短く答えると、彼女は小さく口を開け、しばらく固まったまま俺を見上げていた。
聖書を抱える手が、ほんの少し震えている。
「……初めて、です。外で眠るなんて」
「俺だって歓迎はしないさ」
木々を抜けて吹き抜ける夜風に、ルミナスのふさが小さく揺れる。
暗闇は深く、虫の音だけがやけに耳についた。
「……どうやら、大変な夜になりそうだ」
つぶやく俺の横で、フィーは小さく笑みを浮かべた。
「でも……キョーマさんと一緒なら、少しは安心です」
無根拠なその言葉に、思わず息を吐き、肩を落とす。
――結局、この少女の調子に振り回される夜になるのだろう。
「ここなら……柔らかそうですし、寝られるんじゃないですか?」
フィーが草むらを指差し、裾を整えて腰を下ろそうとした。
「やめとけ。そんな場所で寝たら――」
「きゃっ!?」
言い終わるより早く、彼女は飛び上がった。裾から小さな虫がわらわらと這い出し、光に集まって蠢いている。
「む、虫……いっぱい……!」
必死に裾を払うフィーに、俺は肩を落とし、ルミナスを一閃する。
光が走り、草むらから虫たちが散っていった。
「……まあ、俺も野宿の経験なんてろくにないが」
焚き火を組みながら、ちらと横を見る。
「お前はそれ以上に慣れてないのが丸わかりだ」
「うぅ……」
裾を直しながらしょんぼりとうなだれるフィー。
ルミナスがふさをふわっと膨らませ、慰めるように光を揺らした。
焚き火の火がぱちぱちと弾ける。
俺は荷袋から乾ききった携帯食を取り出し、ひと欠片を口に放り込む。固く、味気ない――だが腹を満たすには十分だ。
「……あの」
隣からじっとした視線が突き刺さる。
「なんだ」
「きょ、キョーマさん……ごはん、もう終わりですか?」
「いや、これは一人分しか……」
言いかけて視線を戻すと、彼女は胸の上で両手を組み、まるで祈るように見上げていた。
瞳は潤み、焚き火の光を反射してキラキラと揺れている。
「……おい」
「わたし……お腹が、すごくすいて……」
ぐぅ、と可愛らしくも致命的な音が響いた。
俺は深いため息をつき、手にしていた携帯食を半分に割る。
無言で差し出すと、彼女は一瞬驚き、それから花が咲いたように笑った。
「ありがとうございますっ!」
「礼はいい。ただ……少しは我慢を覚えろ」
「……はむっ」
夢中で頬張る姿に、ルミナスがふさを揺らして「しょうがないな」というように光を散らした。
フィーはまだ裾を気にしながら、小さく肩をすくめた。
「……だって、こういうの初めてなんです。宿に泊まれないなんて思いませんでしたし」
「俺だって同じだ。ビルで掃除してたときは、せいぜい床に段ボールを敷いて仮眠するくらいだったからな」
乾いた枝を組みながら、ため息をつく。
「けど、虫まみれよりはマシだろ」
「……そうかもしれませんけど」
フィーのお腹が、ぐぅと鳴った。
思わず顔を上げると、彼女が真っ赤になって口を押さえている。
「……き、気にしないでください!」
「隠しても無駄だろ」
俺は肩の荷袋を探り、干し肉を数切れ取り出した。
「分けるから少し食え。ただし、俺の分も残しておけよ」
「……!」
ぱっと顔を明るくしたフィーは、両手で受け取って大事そうにかじりついた。
「……おいしい……!」
「ただの塩漬けだ。期待するもんじゃない」
そう言いつつも、妙に嬉しそうに頬張る姿に、胸の奥が少しだけ和らいでいくのを感じた。
火は小さく揺れ、森の影をぼんやりと照らしていた。
夜風は冷たく、吐いた息が白く溶ける。肩をすくめた瞬間、ルミナスのふさがふわりと光りを帯びた。
「……あったかい」
フィーが両手を差し出し、ほっと息をこぼす。
ルミナスは得意げにふさを膨らませ、焚き火に溶け合うような淡い光を漂わせた。
不思議と周囲の冷気も和らぎ、まるで結界の中にいるかのようだ。
「便利な相棒だな」
思わず呟くと、ルミナスはぶんっと柄を揺らして応える。
だが、森の奥は暗く、虫や獣の気配がまだ残っている。
フィーは膝を抱き、少し不安そうに空を見上げた。
「……わたし、お祈りのとき、歌うのが好きなんです」
そう言うと、小さく息を整え、静かな旋律を紡ぎ始めた。
澄んだ声が夜気に溶け、ルミナスの光がそれに合わせてゆらゆらと揺れる。
低く唸る風が一瞬遠のき、森のざわめきさえ静まったように感じた。
ただ焚き火のはぜる音と、澄んだ少女の声が、夜の森に溶けていく。
その調べに呼応するように、ルミナスのふさが淡く灯り、淡金色の光がゆるやかに広がった。
虫の声が遠のき、ざわめいていた木々すら静まり返る。
まるで、世界そのものが歌に耳を澄ましているかのようだった。
恭真は口をつぐみ、ただその光景に目を奪われる。
声と光が重なり合い、焚き火の赤に聖域めいた輝きが加わる――。
荘厳で、儚く、それでいて不思議にあたたかい夜が訪れていた。
「……いい歌だな」
思わず口をついて出た独り言に、フィーは少し驚いたように瞬きをした。
「……ありがとうございます」
小さな笑みを浮かべると、彼女は焚き火の揺らめきをじっと見つめた。
沈黙ののち、フィーがぽつりと呟く。
「ヴァルディアに行かなくちゃいけない理由……いつか話します」
視線を上げれば、その水色の瞳は火に映えてどこか影を帯びていた。
「今はまだ……うまく言えないんですけど」
俺は追及せず、ただ肩に揺れるモップに手を置いた。
ルミナスがふさをふわりと膨らませ、まるで「今は眠れ」とでも言うように光を柔らげる。
焚き火と歌声の残響に包まれながら、夜は静かに更けていった。




